12話 ターゲット研究(後半)
「こほん。私達のラボの目標は脳の神経回路を従来より詳細に観察できるシステムの構築です。簡単に言えば神経細胞に電流が流れたら光る分子センサーを作りたいわけです」
「分子センサー。光るってことは蛍光タンパクを使ってってことかな。例えば細胞周期の可視化みたいに」
「細胞周期……ああFucciですね。細胞周期蛍光インディケーター。そうです。私達の研究は神経活動の蛍光インディケーター、つまりGeVIsの開発です」
女性は大きく相槌を打った。Fucciってなんだ? 専門用語を勝手に増やさないでくれるとありがたいのだが。こっちはなけなしの知識を振り絞っている状態だ。
「じゃあ続きですが、ニューロンの活動電位を可視化するGeVIsはこれまでも数多く作られています。でも脳は三次元に配置された膨大な数の神経細胞の塊です。その神経活動一つ一つを詳細にモニタリングするには感度も反応速度も十分じゃないんです。そこで我々が新しく開発したのがこの『Volt』です」
主演を紹介するような動作で、女性研究者の手のひらが一番上のポスターに向かった。手の動きに合わせて図が正面に向き直った。俺の前にVoltの全容が明らかになる。それは三つの部分からなる遺伝子だった。そこから翻訳されるのは円筒が三つつながった形のタンパク質。一つ目の円筒は緑色に塗られ『GrowGrass』と表記されている。中間の筒は灰色で、何か波状の記号に挟まれている。そして三番目の筒は赤く塗られ。『ColRose』という表記。
(よし、少なくともここまでは想定通り……。いや待て、何かおかしくないか?)
二つの蛍光タンパクが登場してくれたのはいい。だが、なぜ二つが一緒になってるんだ?
なるほど『GrowGrass』も『ColRose』も遺伝子だ。DNA配列から作られるのだから二つだろうが三つだろうが配列をくっ付ければこういうこともできるだろう。さっき見た核や細胞周期に関わる別の遺伝子と繋げるのと原理的には変わらないことだ。
だが、異なる色の蛍光タンパクを一つの遺伝子に二つ繋げる理由は何だ。蛍光タンパクは目的のタンパクXをマークするための発信機であるはずだ。一つの対象に二色を使う理由が想像できない。
『生物学ロール』失敗か。明らかに俺が知らない何かがある。
「ではVoltの機能を見てもらいましょう。こちらのポスターを見てください。Voltを導入した培養神経細胞です」
落ち着け。俺が知らない情報が出てくるなんて当たり前だ。バイオイメージングは視覚的だ。分子構造云々よりも実際にどう光るかを見た方が早い。次のポスターは黒い背景に尾の付いた星のような形の細胞がいくつも張り付いている。
特徴的な形から俺にも神経細胞だとわかる。その神経細胞はすべて周囲を緑の光で縁取りされている。この緑の光がVoltの頭にある『GrowGrass』の蛍光だろうか。俺はさっきの模式図を見る。なるほど、Voltタンパクは細胞膜の中に浮かんでいる。縁が緑に光っているのはそのために違いない。
「では動画を開始します。中央に並ぶ二つの神経細胞に注目してください。ちょうど三秒後に電流が流れますので、お見逃しなく」
言葉とともに画像が動き始めた。そしてシークバーが3に到達したとき、中央に左右に並ぶ緑の細胞が赤く光った。そしてすぐに緑の光にもどる。
「スローモーションで流すとこうなります。左のニューロンが発火した後、それが右のニューロンを発火させる流れがはっきりわかると思います」
続いて色が変わる瞬間の前後を引き延ばした動画が流れる。まず左の神経細胞が緑から赤に変わり、次に右の神経細胞が緑から赤に変わる。そして、最初に赤に変わった左が緑にもどり、続いて右も緑にもどった。
「このようにVoltによって神経細胞の活動電位を高い時間的解像度でイメージングできます。これまでのGeVIsと比較して感度は1.3倍。反応速度は……」
太田は次のグラフに進む。だが、俺の頭には説明が続くが全く頭に入ってこない。次々と失敗するロールに反応が追い付かないのだ。
「ちょっと待ってほしい。少し頭を整理したい」
ここまでの探索が綱渡りだったことが露呈した。一度踏み外したら最後、立て直す前に次の揺れが来る。こういう時は足を止める。前に進み続けないと落下する綱渡りと違って、情報収集は立ち止まることが出来る。
まず、自分が理解していること、つまり立ち止まっている足場の確認をする。
この研究は神経活動の可視化だ。つまり、神経細胞に流れる電流を蛍光タンパクで可視化している。そして、今の動画は左の神経細胞から右の神経細胞に電流が流れる様子を表している。電流が流れていない状態の細胞は緑に光っていて、電流が流れる瞬間だけその光が赤に変わる。
ここまではいい、はずだ。
それこそ何も知らなかったら「へえ、流石バイオテクノロジーは凄いことが出来るんだな」と感心しただけだろう。だが、多少なりとも『蛍光タンパク』の基本を知ったため疑問が生じる。
Voltには二種類の蛍光タンパクがくっ付いている。頭に『GrowGrass《GFP》』、尻尾に『ColRose《RFP》』だ。つまり、緑の蛍光はGrowGrass、赤の蛍光はColRoseからのはずだ。
これらをまとめると、Voltというこの複雑なたんぱく質の機能は電流が流れていないときはGrowGrassが光り、流れているときはColRoseが光る。そう推測できる。
ここまでで十分すぎるほど複雑。どうやったらそんなことが出来るのか理解不能だが、俺の疑問はもっと根本的で単純だ。問題は緑と赤の蛍光ではない。励起光の方だ。
「確認させてほしいんだが。この最初は全ての細胞が緑に光っている。この緑の光はVoltの頭にある『GrowGrass』の蛍光で間違いないですよね」
「はい、そうですが?」
「ええっと、つまりだ。ここに映った細胞は全部Voltが導入されていて、その細胞に『GrowGrass』の励起波長である395nmのレーザーが照射された状態で撮影が行われている」
「はい。その通りですよ」
女性は頷く。俺の理解は間違っていない。だが、それならばおかしなことがある。
「次に中央の二つの細胞だけが赤く光る。この赤い光はVoltの尻尾についたColRoseの蛍光ですよね」
「はい、そうですけど……」
「ColRoseの励起波長は506nmだ。照射されている396nmとは違う波長」
「ええっと…………。はい、そうですねColRoseの励起波長は506nmです」
女性は最初のポスターを確認してから言った。なんでわざわざそんな細かい数字を覚えてるんだって顔になっている。直接数字を出したのは危なかったかもしれない。
「ということは、この実験では最初から396nmだけでなく、489nmのレーザーも当てていると考えていいのだろうか」
「えっ? いえ、この実験で使っているのは395nmのレーザー一種類だけです。ええっと、VoltはFRETタンパクですから」
「フ、レット?」
「ええ、VOLTはFRETを使ったGeVIsです」
「ジェ、ジェビス……?」
「GEVIsはGenetically-eDPCoded Voltarge Indicatorの略です。そうですね【遺伝子として組み込み可能な電位センサー】ですね。ええっとFRETは日本語だと蛍光共鳴エネルギー移動、かな」
また新しい専門用語が割り込んできた。それは日本語じゃない。生粋の日本人の俺が『日本語解読』に失敗している。
「ええっと、つまり神経細胞の電流がColRoseを励起させている?」
「えっ? いえそうではなくてですね。ああ、そう言えると言えば言えるんですけど……」
向こうも混乱し始めた。典型的なわからない人間に対したわかる人間の反応だ。
俺が聞きたいのはもっと単純なことだ。ColRoseの励起波長がどうして存在しないのかということなんだ。
そう尋ねようとした時、脳に電流が流れた。もしも俺の脳にVoltが組み込まれていたら激しく赤く光っただろう。
それは二種類の情報が融合した結果だった。最初に抱えていた違和感だ。ターゲットを現すキーワードは『三組の数字』だ。そして、このキーワードが蛍光タンパクを指すなら、数字は基本的に二の倍数でなければおかしい。『GrowGrass』と『ColRose』ならキーワードは『396―496、506―632』でなければならない。
言い換えればColRoseの励起波長がキーワードには存在しない。そして、この実験にも存在しない。つまり、今俺が理解できないこのポイントこそがキーワードの謎を解くカギだ。
つまり、俺は本命を捕えている。そう思った瞬間だった。テックグラスの端に赤いシグナルが点滅した。それは警告信号だ。先ほどの索敵で【メモリー】したモデルの接近の証。
向かいのポスター列を順番に見ながら近づいてくる金色のピアスの男。間違いなくスタンドで索敵したモデルだ。なんで戻ってきた。お前はもう正解にたどり着いたはずだ。
男は俺の背後、少し離れた後場所でゆっくり振り返りこちらを見る。背後からじっと俺を見る視線を感じる。まさか、自分と同じターゲットを嗅ぎまわる俺に気が付いた?
すぐにでも逃げ出しそうになる膝を抑える。液晶ボードに映る背後の男を観察する。耳の金色のピアスの光を目印に男の視線の動きを追える。男の視線は俺から離れ、別の人間の後ろ頭に向かった。発表というよりも、発表に近づく人間の頭部に着目している。
俺はいま基本スキルしか使っていない。この方法で俺を見つけることはできないはずだ。ならこいつは誰を探している……。
ルルの説明が蘇った。可能性があるとしたら別のDPCだ。シンジケートは三派に分かれ技術覇権争いをしている。つまりあいつとは別派閥のモデルが存在している可能性があるのだ。
俺はあいつを把握していて、あいつは俺を把握できない。情報的に圧倒的に有利なのは俺だ。これはいい。だが、今の推測が正しければ周囲に俺が把握していない【モデルX】がいる可能性がある。
どちらに見つかっても俺は終わりだ。何食わぬ顔で引き揚げるか。いや、さっきまで熱心に説明を聞いていたのに、モデルが現れた途端に場を離れるのは「お前に気が付いた」と教えるようなもの。そもそも、ポスター発表が終わるまでそんなに時間の余裕はない。
「シツモンイイデスカ?」
固まっている俺の後ろから片言の声がした。ブラウンの髪の外国人らしき男性だ。
「ごめんなさい。まだこちらの方に説明中で」
「ソーリー。オワッタノカト」
「あ、ああ。……いまちょっと考えているので。お先にどうぞ」
俺は場所を譲り、二歩斜め後ろへ下がった。二人は蛍光強度とかなんとかの話を始める。後ろの男の視線が今割り込んできた男に向かった。チャンスだ、今のうちに作戦を立て直す。そう思った時、
「何が分からないのですか?」
ビジネスライクな口調の女性の声と共に、隣に黒髪の美人が立った。さっき分かれたばかりの高峰沙耶香《NPC》だ。どうして君まで戻ってきた。これ以上状況をややこしくしないでくれ。