8話 光るクラゲの照らす世界(後半)
内心で警戒度を上げる俺の前で、新しいシャーレが設置された。顕微鏡の中にうごめくのは一つ目と同じ緑色の水玉模様、いや少し違うか。
「……いろんな色の核が見える。緑が一番多くて、赤がちらほら。ごくまれに黄色って感じかな」
「その認識であっています。この細胞にはGFPだけでなくRFPも組み込まれています」
「GFPはともかくRFP?」
「Red Fluorescent Protein。赤色蛍光タンパク質です。元は珊瑚で見つかった蛍光タンパクで584 nmの赤い蛍光を発します」
「そういえば、蛍光タンパクも色々あるんだったか。じゃあ黄色はYFPかな」
「YFPという蛍光タンパクも存在しますが、これは違います。GFPとRFPが同時に発現している細胞核で赤と緑の光が重なることで黄色く見えています」
「なるほど。で、このカラフルなのは何を現しているんだ」
「細胞周期です。まず細胞周期は分裂の前である『G1期』と分裂の過程である『S期、G2期、M期』の二つに分けられます」
「G1にS、G2、M……。習った気はするが……」
「細胞に分裂するつもりのないのが『G1期』、細胞が分裂の準備を始めてから終わるまでが残りで問題ありません。そして、この細胞に導入されたGFPとRFPはそのそれぞれで特異的に働く二つの遺伝子産物をマークしています。細胞周期のG1期、つまり細胞が分裂していないときに働く『Cdt1』とGFPとの融合タンパク。そして、細胞が分裂する時に働く『Geminin』とRFPの融合タンパク。これが今見ている光の正体です」
テックグラスに『Cdt1-GFP』と『Geminin-RFP』という二つの立体模型が表示された。それぞれ異なる形のタンパク質で尻尾の方に緑と、赤に塗られた蛍光タンパクがくっ付いている。
「この二つのタンパクは細胞分裂の制御機構によってタンパク質分解でコントロールされています」
「分解?」
「『Cdt1』も『Geminin』も細胞の中で常に生産され続けています。ですが、細胞が分裂するつもりのないG1期にはGemininが分解されCdt1が量的に優位になる。一方、細胞が分裂を始めようとするとCdt1が分解され始めてGemininが優位になるのです」
「んっ? 分解されるのは『Cdt1』とか『Geminin』部分だけじゃないのか?」
「タンパク質分解はタンパク質単位で行われます。融合している蛍光タンパクも一つの物と認識されて分解されるのです」
考えてみればさっきのDNAにくっつくときと一緒だ。融合タンパクといっても細胞にとっては一つのタンパク質だったな。
「つまり、要するに細胞分裂するかしないかを巡って二つの遺伝子が勢力争いをしていて、これはそのどちらの勢力が強いかをそれぞれに付けた緑と赤の蛍光タンパクで見ているということでいいか」
かなりきつくなってきた都市探索の探索パートでは謎解きはつきものとはいえ……。
「色々言いたいことはありますが、おおむねその理解でいいです。では、こちらの画面を見てください。この細胞を数時間録画したものを十秒一コマで早送りしています。真ん中のこの細胞に着目してください」
顕微鏡から目を離し、顕微鏡に備え付けの液晶ボードを見る。今まで見ていたのと同じ細胞がゆっくりと色を変えていく動画が再生される。
一番多い緑色の細胞核をもった細胞の一つが徐々に緑から黄色に色を変え始める。そしてその黄色は赤みを帯び始め、真っ赤になったところで核が分裂を始める。赤い染色体が二つに分配され、赤い細胞核を持つ二つの細胞に分裂した。やがて赤が薄まり黄色を経て緑色にもどった。
なるほど、こうして見せられるとまさに周期だな。細胞がDNAを合成して、染色体を形成して、分裂するだったか。学校で習った時には複雑で理解不可能に見えた現象だ。それを二つの遺伝子産物のバランスの変化として見ることが出来るわけだ。
「蛍光タンパク質を使うことでこのように複雑な生命現象を生きたまま、分子レベルでリアルタイムで観察することが可能になります。これがバイオイメージングの基本概要です。そして、その為にはそれ自体が遺伝子であり、かつ単独で蛍光を発する『蛍光タンパク』が重要なのです。GFPの発見がノーベル賞に相応しい業績だと理解できましたか?」
「理解できた、と思う。つまり、GFPの発見は単に光る珍しいタンパク質を見つけたっていう意味じゃない。生物研究の為の新しい技術分野を丸々一つ作りだした、そういうことだ」
「ノーベル賞に限りませんが基礎研究はそれ単独よりもたらした影響の大きさが評価されます。GFPの発見はその最たる例の一つです」
「ああ、おかげで実感できたよ」
詰め込まれた知識の量がちょっときついことになっているが、実際に目で見たことで辛うじて理解できたと言える。なるほど、彼女がここに連れてきた理由はそういうことか。
生命が遺伝子産物という部品で構成されていて、科学はそれをいとも簡単に操作する。漠然と知っていた遺伝子操作という言葉の意味を初めて実感した気分だ。まいったな、俺のターゲットはこういったレベルの話か。
いや、この恐怖はいわば目的情報が存在する『文脈』を理解したというシグナルだ。そう考えるはずだ、黒崎亨なら。
「ただし、GFPの発見者である下村博士は『バイオイメージング』を作ろうとしてGFPを研究したわけではありません」
「んっ、どういうことだ?」
「先ほどGFPの価値は遺伝子であることを説明しましたよね」
「あ、ああ。遺伝子だからこそありとあらゆる生物の、ありとあらゆる遺伝子をモニターするのに使えるんだったな」
「下村博士がGFPタンパクを発見したのは1962年。まだ遺伝子を扱う技術が皆無と言っていい時代です。実際、GFP遺伝子が単離されたのは博士の発見から三十年後です」
「三十年……」
「そして、チャルフィー博士がGFP遺伝子を大腸菌や線虫に導入して光らせることに成功したのはさらにその後。そして、チェン博士がGFPを元に様々な色の蛍光タンパクを作成しました。これらの長い研究の結果、研究ツールとしての蛍光タンパク質が完成したのです。ちなみに下村博士を含めた三人がノーベル賞を受賞したのは2008年です」
「最初の発見から約五十年後……」
「下村博士はクラゲの光がGFPというタンパク質であることを発見、またGFPがタンパク質単体で紫外線により蛍光を発することも突き止めています。この二つの性質はGFPが、いえ蛍光タンパクが生物学の研究ツールとして活用されるうえで決定的に重要でした。ですが……」
「なるほど。博士の業績は本当の意味で「光るクラゲ」を調べた結果、そういうことか」
「………………そういうことなのでしょうね。純粋に面白い生命現象を解明しようとした研究、その研究を応用して生物学全体に影響を与える技術が確立した。ある意味科学の理想の姿でしょう」
高峰沙耶香の言葉は最後には独り言のようなつぶやきになった。どこか遠くを見るようなその横顔は何かに憧れるような、あるいはうらやむような、しいて言うなら年相応に見えた。『アレクサンダー・メダル』という天才の称号を持つこの子がまだ高校生の年齢だということをいまさら思い出した。
考えて見れば『突出した才能』とはキャラクターシートに最初から凄まじい技能が書き込まれているような物ではないだろうか。プレイヤーがどんなキャラになりたいかではなく、そのスキル自体が……。
「あと一時間ですね。次に移りますか」
「あ、あああ。……そうだな、そうしよう」
こちらを向いた高峰沙耶香からは一瞬の感情は消えていた。俺は頭を振った。何を考えているんだ
か、そんなことそれこそ俺に分かるわけがない。
肝心な目的を忘れてはいけない。あくまで目的となる情報が存在する『文脈』を知っただけだ。いわば準備段階だ。
300を超える演題からターゲットを絞り込む仕事が待っている。さっきの講義や演習とは比較にならないほど困難なのは間違いない。俺の密偵としての『目星』が直接試される。
実に心もとない話だな。だが、俺だってただ生物学の講義を聞いていたわけじゃない。ここまでに獲得した基本情報からヒントである『数字《394―496―632》』について一つの仮定を思いついた。
バイオイメージングというこの場の『文脈』から考えて、この数字は光の色、つまり波長を示しているのではないかという『仮定』だ。
もちろん、これは素人の仮定だ。いわば勘に近い。だが、俺に足りない専門知識についてはそれこそ専門家がいる。
俺をここに連れてきて直接実物を見せたことはもちろん、彼女は基本的に中学生レベルをベースに説明を組み立てて見せた。俺が素人であることが第一の理由だろうが、自分が高校を一年で駆け抜けた、つまり普通の人間が高校で何を習うのかを把握していないことを考慮したのではないだろうか。
最初は傲慢なエリートかと警戒したが、高峰沙耶香は極めて優秀なアドバイザーだ。探索において信頼できる情報提供者ほど重要なものはない。
「とりあえず場所を移動しよう。…………そうだな、あそこがいい」
ホール会場を取り囲む二階のスタンド席を見る。あそこからならちょうど会場が一望できる。俺が彼女にスタンドへの階段を指さした、その時だった。
「高峰君。間に合ってよかった。この前のオファーの話をしたいんだ」
こちらに向かって手を振る白いスーツの男性が現れた。
参考文献:
細胞周期インディケータFucci ―細胞周期を多角的に理解する―
阪上―沢野朝子,宮脇敦史〔生化学第84巻第1号,pp.47―52,2012〕
2022年1月29日:
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