8話 光るクラゲが照らす世界(前半)
セッション1 指令書
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ターゲットID:DPC-G-34214
カテゴリ:DPCの生体適合に関わる遺伝子配列
レイティング:コモン
研究キーワード:『394―496―632』
場所:第52回日本バイオモニタリング学会2日目ポスターセッション
補足:該当研究とディープフォトンの関係を認識した人物が出た場合、情報秘匿および獲得のため拉致を推奨する。止むをえない場合は殺害も許可する。その場合の処理についてはDeeplayerを通じて連絡する。
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以下が『インヴィンシブル・アイ』に登録されたモデルへの案件提示です。
あなたの使命は以下の二つです。
1,ターゲットである『遺伝子配列』の特定および該当研究とニューロトリオンの関連を調査する。
2,指令を受諾して派遣された『モデル』を特定する。
以上の二つの情報をRMわたしに送信することでシナリオ達成となります。
注意:シンジケートは『Deeplayer』を通じ学会周辺のコグニトームを監視しています。不用意なネットの使用は感知されるリスクを伴います。なお上記のデータは現時点の情報であり、モデルはこれ以降に追加される情報を活用することが考えられます。
「バイオイメージングとはその言葉通り生命現象を可視化する技術を言います。具体的にはそうですね。……中学の理科実験で細胞核を観察しませんでしたか。タマネギを使うのが一般的だと思います」
「タマネギ。そういえばそんな実験をした。紫色に染まった丸い物体を顕微鏡で見た記憶がある」
喫茶店から出た俺は高峰沙耶香と並んで歩きながらレクチャーを受ける。
「広義にはあの実験も一種のバイオイメージングです。核や染色体を色素によって視覚化することで生命現象、例えば細胞分裂などを解析するのですから」
「なるほど。思ったより身近な概念なんだな。でも、これだけの頭脳が集まって玉ねぎを染めてるわけじゃないだろう」
「専門的に言えばバイオイメージングは“生きたままの生物の中でリアルタイム”に生命現象を視覚化する方法になります。それも分子生物学レベルで」
「分子生物学?」
「可能な限り簡単に言えば『遺伝子レベル』でということです。遺伝子の産物であるタンパク質の働きの視覚化です」
可能な限り簡単があんまり簡単じゃない。もっとも彼女が一応こちらに合わせて説明しようとしているのは感じる。雰囲気通り真面目な性格なのかもしれない。
「実際、実験のタマネギは染色の過程で死んでいました。細胞に穴をあけ、有害な染料を加えることで可視化していたからです」
「なるほど。生物を研究するんだから、遺伝子を生きたままの状態で調べようとするのは理解できなくもない。むしろ当たり前のことに聞こえる」
「その当たり前のことが難しかったのです。黒崎さんの言う「光るクラゲのタンパク質」が用いられるようになる前は。それについては今から直接見ていただきます」
高峰は目の前に近づいていたホールの入り口を掌で指した。そこはさっき俺が空振りした場所だった。
…………
自動ドアを入る。半分に切ったレモンのような高い天井の下、コンサートが開けそうな広さの長方形の空間が広がる。
このホールは午後一時半からの『ポスター発表』の会場だ。液晶ボードに表示された研究を、前に立つ発表者が説明する形式のようだ。ビルの口頭発表より簡易な形式だが、俺にとっては本命だからちゃんと確認したのだ。
ただし、現在は午前十一時半、ホールの奥に並ぶボードは真っ黒のまま。俺が見た時と変わらない。
「こちらです」と言って高峰が向かったのは玄関を入ってすぐの三分の一の方、きれいに区画されたスペースだ。白い壁で仕切られたブースが密集しており、各ブースには企業ロゴが掲げられている。案内図によると協賛企業の展示スペースだ。
顧客候補である学会参加者に機器や試薬を宣伝する場だろう。どう考えてもターゲットとは関係ないので先ほどは素通りした。こんなところで何をするつもりなのか。
俺の疑問をよそに、高峰は展示会場の中央通路を進む。そして、正面奥のひときわ大きなブースの前で立ち止まった。U字型のロゴは誰でも見たことがあるだろう。日本最大の製薬会社上杉だ。科学技術機器部門の子会社だが、それでも堂々たる上場企業だ。
俺が企業コードから情報を読み取る間に、高峰は中に入る。そして三十代くらいの女性スタッフに話しかけた。任せると決めた以上仕方がない、当たり前のような顔で後ろについていく。周囲にはおおよそ何に使うのかわからないピカピカの機器が並ぶ。
…………
「そろそろ何をするのか教えてもらえるかな」
「最初に説明した通りです。バイオイメージングについて実際に見てもらいます」
満面の営業スマイルに見送られて戻ってきた高峰沙耶香は、俺を一台の機械の前にいざなった。双眼鏡のような二つの接眼レンズがついた一抱えはある装置だ。本体にはいくつもの筒やコードが連なっており見た目からして厳つい。
「ずいぶん高価そうな機械だね」
「レーザー共焦点顕微鏡。バイオイメージング研究で一番使われる実験機器です。この機種なら一台三千万円程度ですね。多光子タイプなら数億の機種もありますから、そこまでではないです」
金額に絶句する俺をしり目に、彼女は装置の横の扉を開いた。網目状の棚に並ぶシャーレから一つを取り出し。レーザー何とか顕微鏡の台に置いた。
「これを見てください」
彼女と入れ替わるようにレーザー何とかに座った。美人の温かさが残っている椅子。だが、余計なことを考える余裕はない。無免許で高級車のハンドルを握らされた気分だ。
「例の中学の実験の話だ。実は顕微鏡のレンズの先でカバーガラスを割ったことがある」
「セーフティーが付いているから大丈夫です」
ロールプレイを壊さないギリギリで不安を伝えるが、あっさりと躱された。恐る恐る接眼レンズ? を覗き込む。両眼で焦点を合わせるのに苦労する。
やがて、黒い視界の中にたくさんの緑色の水玉模様がみえた。そういえば隣のビルで似たようなものをいくつも見た気がする。
「何が見えますか?」
「緑色に光る水玉模様かな」
「黒崎さんが見ている緑の丸一つ一つが人間の培養細胞の核です。タマネギの実験のような染色液ではなく導入したGFP遺伝子が作り出した蛍光タンパクによって視覚化されています」
日本人が発見したGFPか。直接見ていると思うと一種の感慨があるが、今やってるのは情報収集であり理科の実験でも社会見学でもない。
「この培養細胞にはGFP遺伝子が組み込まれています。つまり、細胞核を光らせているGFPは、細胞自らが作っているのです。GFPを用いる最大の利点はセントラルドグマという生命の基本システムに組み込むことが可能である点です」
説明とともにテックグラスに表示されたアイコンに視線を合わせる。『GFP gene』と書かれた二重螺旋から『GFP mRNA』が転写され、そのmRNAに従ってアミノ酸だったか、が並んでいく。アミノ酸の数珠は、編み物のように絡み合い、灰色の立体模型が出現した。
遺伝子の転写、翻訳ってやつだよな。生命の設計図であるDNAから実際に生命活動を担うタンパク質が出来る過程だ。流石にこれくらいは分かる。
出来上がったGFPタンパク質は、レトロな編み篭のような、あるいはファンタジーのランタンのような形だ。その籠の中心にまるで燈心のように飛び出た何かがある。
「タンパク質の構造の中心にあるのが『発色団』でGFPの65,66,67番目の三つのアミノ酸が組み合わさって出来ます。395nmの紫外線を吸収して509nmの緑色光を放出する性質を持ちます。この顕微鏡はシャーレの細胞に紫外線レーザーを当てGFPを励起させ、発生した蛍光をフィルターで検出する仕組みです」
籠上のGFPの立体模型に紫色の光が当たり、GFPが緑色に光った。
「要するにGFPというのは紫外線を吸収して、緑色の光を出す性質をもったタンパク質で、この細胞はそれを自前で作っているから何もせずに光る、そういうことかな」
「はい。重要なのはGFPは単独で蛍光を発する性質を持つこと。つまり、GFP遺伝子を組み込むことで大腸菌から人間まであらゆる生物で蛍光を発生させることが出来ます」
元々はクラゲの遺伝子が人間の細胞の中で普通に光る。考えてみれば不思議だ。自前で光ってくれるんだから便利といえば便利だろう。
だが、逆に言えばこの細胞は人間に核を観察させるために作りだされたということだ。日常的に遺伝子組み換え食品を食べているが、これは不気味に感じる。まあ、それでも正気をチェックされるほどではないが。
「それだけではありません。GFPは他の遺伝子をマークすることが出来ます。これによってあらゆる生物のあらゆる遺伝子の動態を視覚化するタグとして働くことが出来きます」
「ちょっと待った。今のは意味が分からない。もう少し詳しく頼む」
「遺伝子はすべてDNAのATGC4種類の文字の配列です。ある遺伝子配列の後ろに『GFP』の遺伝子配列を繋げればその遺伝子とGFPの融合タンパク質が作られます」
「文章のコピペみたいなものか?」
「そう考えていいでしょう。この『GFP融合タンパク』は元々のタンパク質に蛍光を発するGFPが結合した形で一つの遺伝子産物、タンパク質として翻訳されます」
「光らない遺伝子に光る遺伝子をくっつけることで、その遺伝子から出来たタンパク質に光るマークがつくと」
「そうです。生物学の用語でいうとこういう用途に用いられるGFPのような遺伝子のことをレポーターと言います。今見ている細胞のGFPは核だけにありますよね。実はこの細胞に組み込まれたGFPは単体ではなく核で働くヒストンの遺伝子との融合だからです。仮にGFP単体なら光は細胞全体に広がります」
新しいアイコンがテックグラスに現れる。視線を合わせるとヒョウタンのような立体模型が表示された。よく見ると、ヒョウタンの上の方がさっきのGFPだ。ヒョウタンの下がDNAを現す二重螺旋にくっつくと、その後ろにくっついたGFPがDNAから突き出しているような配置になる。
「つまり、今見ているのはGFPの蛍光を通じてDNAにくっつくヒストンという別の遺伝子産物を見ているということか。で、同じことが他の遺伝子にもできると」
「そうです。例えば細胞のどこで働くかわからない『遺伝子X』があったとします。X-GFPという形で融合遺伝子を作り細胞に導入してやればGFPの光で遺伝子Xが細胞のどこで働くかわかります。例えばそのX-GFPがミトコンドリアに集まればX遺伝子はエネルギー生産に関わる機能を持つ可能性が高いと推測できます」
「なるほど。確かに発信機だ」
原理的にはターゲットが誰であれ、いや動物や物でも発信機は共通だ。それも生きたままのターゲットの行動を監視できる。一方、タマネギの方は死体の位置が分かるだけかな。確かに情報量がまるで違うだろう。
俺が下手なたとえで理解を伝える。高峰沙耶香は少し意外そうな顔で頷いた。
「ではもう少し複雑な例を出します。生命現象は単独のタンパク質がバラバラに働いているのではなく、多くのタンパク質により引き起こされます。GFPだけでは一種類の動向しか見ることが出来ない。ですから複数の色の蛍光タンパクを用います」
高峰は別のシャーレを取り出そうとしている。こっちは今のでギリギリなんだが。
2022年1月28日:
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