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第百十九話 猫のかたちの空白

 僕は詰所にもどるコミューターの中で、乗り合わせた人々を見回した。通勤の時間帯ではなく、込み合ってはいなかった。リラックスした様子で体を椅子にもたせ掛ける人、幸せそうに顔を寄せる恋人たち、体を丸め、何事か思案顔で座席の一点を見つめている男。

 

 僕はどんな顔をしているのだろうか。すくなくともいま、僕は不幸ではなかった。僕は父の顔を思い出した。父も不幸ではないけれど、どこか寂しい顔をしていた。

 そうだ、小さなころは気が付かなかったけれど、そうか、父の僕を見る目は寂しかったのだと僕はきゅうに理解した。……もし僕がいま、怜の記憶を失ったら。

 怜にフラれた苦しい思いは消えるかもしれない。でも、ジーナが飛び出したとき一緒にジーナを探した思い出や、『はじめの人たち』のことを聞いたときのまっすぐな瞳の記憶を失ってしまったなら。

 

 『何を失ったか』を知らないというのはたぶん、想像以上におそろしいことだった。父が多くの恋人たちを作ったのも、たぶんその空白じたいが何かを知らなかったのだ。

 僕は、自分の中にぽっかり空いた空白が、猫の形をしていることを知っていた。そして僕の悲しみは、怜の姿をしていることを知っていた。

 

 僕はそれで……自分が珠々さんに言わなければならないことを理解した。珠々さんは今日もリングの情報を中央に持ち帰るために詰所にくるだろう。

 詰所のドアを開けたとき、はたして珠々さんはもうそこにいた。僕の顔をみるとホッとした様子で、だけどすぐにその表情を曇らせた。


「珠々さん……」


僕がそう言うと、珠々さんは覚悟を決めた顔で頷いた。珠々さんは自分のリングを外すと、池田さんに


「すぐにもどります」


と言って渡した。僕と珠々さんは詰所を出て、採掘場のエレベーターの前で話をした。


「珠々さん、僕はどのみち『センター』に消されます。そのまえに賭けに出ようと思うんです。それで……」


 珠々さんは、少しうつむいた。表情は髪に隠れて見えなかったけれど、少し髪が震えているように見えた。僕は言った。


「……どうか僕を待たないでください」


 珠々さんはうつむいたまま頷いた。


「怜さんがそんなに好きなんですね……」


 僕はそういわれて、珠々さんにも嘘はついてはいけないと思った。


「珠々さん。怜じゃないんです」


 珠々さんはそこで顔を上げたけれど、難しい考えごとをしているみたいに目をつぶっていた。珠々さんは言った。


「……怜さんの他にもいらっしゃるの……」


 僕は珠々さんの考え違いに少し笑ってしまったけれど、同じようなことと言えないことはなかった。


「怜には相手がいます。僕の入り込めないような相手です。僕はあきらめなければならないと思っています。でも、それとは別に僕には最愛の家族のような存在がいるんです。たぶん彼女がいなければ、僕は怜を好きになることも、それから、珠々さんに好きになってもらえるような人間でいることもなかった。僕はいま彼女を探すために、僕はそのために賭けに出るんです」


「それで、待たないでくれっておっしゃるんですね」


 珠々さんの声はりんとしていた。僕はちょっとたじろいだ。


「努力はします、でもお約束はできません。亘平さんは鈍感だから分からないかもしれないけれど……」


 珠々さんは大きな目で僕をまっすぐに見つめていた。やがてその目には涙がたまった。


「怜さんだって亘平さんを心配しています。分るんです。これでわたしとはお別れになるかもしれませんけど……」


 珠々さんの声は震えていた。


「亘平さん、生きて」


 僕は自分の体がわななくのがわかった。それは珠々さんを好きだから、とかいうことではなく、自分の大切な人たちみんなへの思いがあらためて体に駆け巡ったからだった。


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