第36話 カナリアの決意
荒かった呼吸が落ち着き、先刻までの危機感からやっと解放されたカナリアは悩んでいた。
キラーホーネットの大群に追われ、カナリアがこんなに走ったのは冒険者になって初めてのことである。それでも命からがら逃げ延びたのだがそこで気が抜けてしまい、転びかけたカナリアを支えたのはあのイオだった。
カナリア自身も自分がイオに好かれていないことは知っている。そう思われるに足るだけのことをやってきたのだ。
(さすがにお礼は言うべきよね……。でも気まずい……)
イオに肩を借りながら現在休憩しているこの場所にたどり着いた4人だったが、イオはカナリアを地面に座らせると礼を言う間もなく見張りを買って出てそこから離れてしまった。カナリアも体力的にそんな余裕はなかったので、助けてもらったイオにまだ礼を言えずにいる。
ルーに諭され先入観を脇に置いたカナリアは、以前のようにイオを役立たずとは思っていない。むしろ見えないところでカナリアにはできないような方法でパーティーに貢献していることになんとなく気づいていた。
イオの索敵能力も初めは全く理解できずに信じていなかったが、ここまで効率的に魔物と遭遇していることを考えると信じざるを得ない。魔物との戦闘でも倒した数は少なくても、イオがいることでカナリアとルーはかなり安全に魔物と戦うことができている。事実、今日カナリアが倒したキラーホーネットはそのほとんどがイオに与えられたダメージで動きが鈍っていた。
戦闘後も、イオが即座に剥ぎ取りをしていなければ討伐部位を得ることのできないままキラーホーネットの大群に襲われていたかもしれない。
冷静に観察していればイオのやること1つ1つにきちんとした意味があり、そのおかげで自分たちがやってこれているのは明白だった。もはやカナリアはイオを役立たずと評することなどできるはずがない。
だからこそカナリアはこれまでのことをイオに謝り、そして礼を言うべきだということは分かっている。分かってはいるのだが、これまでの言動に対する罪悪感といまだ胸の内に巣くう無属性へのわずかな抵抗感、そしてイオから発せられる全力の拒否オーラに阻まれて言えずにいるのだった。
(……今じゃなくてもいいわよね。町に帰ってからでも遅くはないはず)
話しかけられるのを拒むかのようにこちらに背を向けて座るイオを見てカナリアはそう判断した。そして後方にいるもう2人の方を見る。地面に寝かされているルーの姿を見てカナリアは胸を痛めた。
(ルー、大丈夫かな)
カナリアはルーの体力のなさを長い付き合いの中で知っている。性格的にもともと戦闘には向いていないということも知っていた。自分と一緒に冒険者になることを決めたのはルー自身だが、それでも彼女を危険にさらすような場所に連れ出したのは自分だとカナリアは思っている。
(私が助けてあげないと……あ)
カナリアがルーの下へ行こうとしたところでアルバートに先を越された。アルバートは水筒を手渡し、申し訳なさそうにしているルーに優しく微笑みかけている。
少し羨ましく思いながら、カナリアもそこに行こうと腰をあげた。そこに行って気の合う2人と一緒に話すことができれば、いつものように楽しい時間を過ごすことができる。そんな光景を想像して逸る気持ちのままに進みかけたところで、ふと反対側のイオの背中が目に入った。
フードを被って後ろを向いているため顔は見えない。けれど先ほど自分の頭の中で描いた想像とは真逆の光景がそこにはあった。静かで、寂しく、そして1人きり。ローブに包まれ、丸まった背中が余計に寂寥感を呼び起こす。
再び逆の方向を見てみると、アルバートとルーが何やら話しているのが見える。申し訳なさそうにしているルーに語り掛けるアルバート。心温まる2人の様子がイオの後ろ姿と対比されて際立って感じられた。
(なにこれ……)
今カナリアがいるのは両者を挟んだちょうど真ん中。同じパーティーでこれほどの温度差があることにカナリアは愕然とした。それは、片方が冬の寒空の下にいる一方でもう片方はよく温まった部屋の中にいるような、そんな差だった。
惹かれるような温もりと追い立てるような冷たさ。その2つに挟まれたカナリアの心は、当然温もりの方へ向こうとしている。
しかし、カナリアの足はそのまま進み出そうとはしない。このまま温もりの方へと行ってしまうことになぜか不安を感じたのだ。
(私は……)
葛藤の末、カナリアは踏み出した。
♢ ♢ ♢
イオは1人ぼんやりと風の音に耳を澄ませていた。魔力の節約のために「感覚強化」は使っていない。もともとこの魔法を知らなかったイオは魔法に頼らない見張りや警戒の方法も身に着けている。加えてイオはソロだったため疲労した状態での警戒などはいつものことだった。
そんな「いつも通り」に身を置いていたイオの耳に、後ろからこちらに近づく誰かの足音が聞こえた。アルバートとルーの声は少し遠くから聞こえてくるので該当する人間は1人しかいない。イオは特に顔を向けるなどの反応をしなかった。
そんなイオに控えめな声がかかる。
「……見張り、変わるわよ」
意外な人物の、意外な発言にイオは訝しく感じたものの、短く無難に断りの返事をした。
「俺は疲れていないからいい」
本心では、したいのなら別の方向を見張れなどと思っていたが、それを言うと突っかかられること間違いなしなので口にはしない。疲れていないというのは嘘だが、男女の体力の差を考えればカナリアの方が疲れているだろうと思ってのこの言葉だった。
しかし、ここで立ち去ると思われたカナリアは再び意外な発言をする。
「なら私も一緒に見張りをするわ」
そう言ってカナリアはイオの隣に腰を下ろした。そんなカナリアの行動にイオはむしろカナリアに対して警戒度をあげてしまう。
カナリアは自分が警戒されていることに気づかず、イオが何も言わなくなったため内心ではかなり焦っていた。
結果、警戒などそっちのけで何か言いたげな雰囲気を出し続けるカナリアと、そんなカナリアを警戒するイオという見張りをするには不適合な組み合わせができてしまう。その隙に魔物が現れるようなことがなかったのは幸いと言えるだろう。
イオの方をちらちらと見て何か言おうとしているカナリアの挙動不審さを無視できなくなったイオは、仕方なく自分から話しかけてみることにした。
「なにか言いたいことでも?」
その言葉が冷たくなってしまったのはこれまでカナリアに散々嫌味を言われ続けてきたことが念頭にあるからである。どうせ聞いて気持ちの良いことは言わないだろうとイオは思っていた。
カナリアはイオの方から話しかけてきたことに驚いたものの、これ幸いと言いたかったことを口にした。
「ええ、さっき肩を貸してくれたことのお礼を言いたくて。ありがとう」
予想と違って随分と穏やかな口調に戸惑いながら、イオはカナリアが来た理由を理解した。
「別に大したことはしていない」
「そうね。それでもお礼はしたかったの」
「そう言うのなら礼は受け取っておく」
これで話は終わり、と言外に言ってイオは口を閉じた。しかし、カナリアはまだ何かを言いたそうにしている。またしばらく沈黙が降りた後、今度はカナリアから話しかけた。
「あの、それでもう1つあるんだけど」
今度は何かとイオが横目でカナリアの方を見ると、突然カナリアは頭を下げた。
「役立たずなんて言ってごめん。私が悪かったわ」
この日一番の意外な発言についイオはまじまじとカナリアを見てしまった。何も言わないイオに不安を感じカナリアはそっと目線をあげてイオの顔を窺い見た。
カナリアにとっては気が進まないところに無理やり活を入れてまで口にした謝罪である。どこまでも冷たいイオに何度心が挫けそうになったか分からない。
だからこそカナリアのこの言葉には心からの謝罪が込められていた。
「……ああ」
しかし、そうまでして許しを請うてもイオから壁が取り払われることはない。口では謝罪を受け入れたように聞こえるが、そこに一切言葉通りの意味が含まれていないことにカナリアは少なからぬショックを受ける。
「やっぱり、許してもらえないわよね……」
呟くカナリアにイオは何も言えない。実際イオは本心からカナリアを許せていないのだから。
カナリアのようにイオが無属性のことで謝られたのはこれで初めてではない。かつて故郷でよく一緒にいた親友だった3人も、イオから距離をとったことで謝ってきた。しかし、当時のイオは心が荒んでいてまともに取り合わなかったのだ。
生活が苦しく他人はすべて敵だったあの頃のイオにとって、今更掌を返してきた彼らを許せるはずがなかった。確かに彼らは本心から許しを請うているのだろう。それは故郷を旅立つ日にわざわざ駆けつけてくれたことからも感じられる。
だが、それでも許せない。受け入れられない。
「……ねえ。どうしたら許してくれるの?」
黙り込んだイオにカナリアが問いかけてきた。あのカナリアがこんな縋るような声を出して聞いてくることからもこの謝罪が本気であるということは分かる。分かってはいる。
しかし、イオはその問いに答えない。なぜならその問いに答えはないのだから。
イオは2日前の夜に、グロックとの会話で自分の醜い本心に気づいている。すなわち、自分は被害者であり続けたい、という本心に。
この話でもそれは同じだ。もしイオが謝罪を受け入れて相手を許してしまえば、イオは相手の非を問えなくなる。優位性が失われるのだ。
自分は間違っていない、間違っているのは相手の方だ。そう思い続けることが今のイオを支えている根幹の1つであるということは否定できない。
だからイオは許さない。許したくない。誰かを恨んでずっと被害者面をしていたい。醜いと分かっていてもそう思っていなければ心の平衡を保っていられない。絶望してもおかしくない地獄のような環境で生きてこられたのは、この優位性があったからなのだから。
「……」
何も言わないイオをカナリアはずっと見ていた。その瞳は暗く濁り、強い執念とそれとは反対の脆さが感じられた。
そしてカナリアにはそんなイオの様子に思い当たるものがあった。
(ルーから見た私も、こんなだったのかしらね)
そう、無属性は劣ると思い込んでいたつい数日前までの自分自身と重なって見えたのだ。あの頃のカナリアは無属性のイオは役立たずな存在だと何の根拠もなく思い込んでいた。しかし予想とは違ってイオの腕が立つと分かると、カナリアは分かっていてもそれを認めることができなかった。
今のイオはあの頃のカナリアと同じ眼をしている。しかもそれはカナリアのものよりもさらに濁っていた。
(しっかりしているように見えてやっぱり年下なのよね)
そんな場面ではないと思いながらもカナリアはおかしく感じてしまった。人のことを言えた身ではないが、1つの考えに固執するさまが子供らしく感じてしまう。
そしてカナリアは自分がルーに助けられた時のことを思い出す。
(私と同じなら、たぶん理屈じゃなくて感情的に許せないってこと。ルーに言われたことを活かして……)
カナリアは言うべきことを言う決心をつけた。目の前のイオはいまだに濁った考えで前が見えていない。カナリアはそんなイオの肩をつかんで現実に引きずり戻した。突然肩をつかまれたイオは驚いて正面のカナリアを見る。
「許せないなら今は許さなくてもいいわ。でもちゃんと私を見て。アンタの偏った考えを通さず、その目で見るの。私が本当に悪かったって思っているのをちゃんと態度で示すから、アンタはそれだけを見て許すか許さないかの判断をして」
ルーに教わったこと。それは相手を色眼鏡で見ずに、きちんと自分の目で見て判断するということ。そのおかげでカナリアは自分が間違っていたことを知り、こうして苦手だったイオと面と向かって話すことができるようになった。そう考えると自分が言ったことはきっと間違っていない。
そう確信してはいるものの、自分が言ったことに気恥ずかしさを感じてしまうのはどうしようもない。カナリア自身もこんなまじめなことを言うのは柄じゃないと思っている。
そのことをごまかすためにカナリアは、いまだ驚いて目をぱちくりとしているイオに向かって早口で言った。
「そういうことだから。私は見回りに行ってくるわ」
そう言ってカナリアが立ち去ろうとした方向を見て、思考の停止していたイオは慌てて呼びかけた。
「おい、待て!」
それはいつも淡々としているイオにしては珍しく焦りを含んだ声だった。しかし、内心それどころではないカナリアはそのことに気づかなかった。
「アンタは休んでていいわよ」
イオの呼びかけをどう判断したのか、そんな声が返ってくる。そしてそのまま歩みを止めない。
止まらないことでさらに焦りを募らせたイオは立ち上がり、そして全力でカナリアの方へと駆け寄る。そして――
「きゃっ!?」
イオから離れるように去ろうとしていたカナリアの腕をつかんで、自分の方へと思いっきり引っ張った。その結果、カナリアは半分イオに抱き寄せられる形になる。
「な、なに!?」
突然のイオの強引な行動で再びイオと顔を合わせることになり、先ほどの気恥ずかしさが甦る。パニックになりながらその真意を問おうとしたところで――
がさっ、ボトッ
カナリアの背中の後ろで、木の上から何か重いものが落ちるような音がした。カナリアがおそるおそる振り向いてみると、そこには緑色の巨大な芋虫がいた。芋虫の魔物、キャタピラーは落ちた先に獲物がいないと分かるとのろのろとして動作で2人の方へと向かってきていた。
「気づいていなかっただろ」
そう言ってイオはカナリアから離れ、手にした剣でキャタピラーの頭を突き刺した。最弱ともいえるこのEランクの魔物はなすすべもなくその命を散らした。
その一部始終をカナリアは何も言えずに見ていた。もしイオが来なければカナリアは頭上からキャタピラーの奇襲を受けていただろう。
「油断しすぎだ」
普段は波音を立てないよう気を遣うイオもこう言わざるを得なかった。
そして言われた本人であるカナリアは、気恥ずかしさやら悔しさやら感謝やらと感情がごちゃごちゃに混ざり、涙目でこう叫ぶのだった。
「気づいてたんなら一番最初に言いなさいよぉ!」




