第117話 無色の魔力
お待たせしました。
薄ぼんやりとした光に照らされて「魔女」は顔を持ち上げる。
背もたれにしているのは、いまだに夢うつつ状態の「孤狼」。
一番初めに「魔女」の全開の「同調」を受けたその魔物は、人魔たちと比べると体内を占める「魔女」の魔力の比率が極めて高い。そのためまだ完全には封印から解放されずにいる。
一度遠吠えをあげた切り、「孤狼」は常に沈黙し続けていた。
人魔たちが〝儀式〟と呼ぶ魔物との「同調」。
それは端的に言えば、魔物の体内の魔石から強制的に魔力を取り出し取り込むことである。
人間の体に入り込んだ魔物の魔力。
それは当然人の身体には毒でしかない。
魔力を血液に例えると、それはいわば自分の血と動物の血を体内で混ぜる合わせるようなもの。どう考えても人体にいい影響はないだろう。
しかし、自分の魔力が極めて希薄なものであれば?
元の四つの属性という特徴が消え、魔力の色が簡単に他の色に塗り潰される無色であったなら?
答えは、その色に染め上げられる、というものであった。
塗り潰されるのではない。元の魔力を形状を一部残したまま、別の魔力と調和するのである。
無属性の真の本質は局所的な強化ではなく、容易に他と混ざり合えることにあった。
無色の魔力を染め上げる。
それが無属性だけに許された力を得るための手段。下剋上の一手。
もちろんリスクがないわけではない。むしろ危険は大きいと言ってよかった。
〝儀式〟に失敗して死んだ者は数多い。生半可な覚悟で成し遂げられることではないのだ。
魔力は精神に左右される。それは他の属性とも変わらない。
ゆえに精神性で魔物に負ければ逆に魔力を奪われることもあるし、逆に取り込みすぎれば魔物の意識に引っ張られ正常な思考を失う。分別なく人に襲い掛かるようになってしまった人魔もいた。
さらにどの魔物となら〝儀式〟が可能かということも大まかに決まっている。
基準は精神の類似性。ここでも魔力が精神に左右されるという事実が影響を受けている。
無気力なトーマが、必要でない限り活動を停止する石像の魔物、ガーゴイルと「同調」しているように。
人間に対して恨みを持つウィスプが、怒りに火を燃やしていたヘルフレアタイガー変異種に共感を覚えたように。
人魔と元となる魔物には共通する点がいくらか見受けられるのだ。
「コロ……そろそろ起きる時間ですよ」
「魔女」が巨大な狼の毛並みをさらりと梳いた。
「孤狼」は身じろぎをしたものの体を起こすことはない。
この両者は〝儀式〟を行った身でありながらいまだに行動を共にしている。
〝儀式〟によって魔力を奪われた魔物は大幅に弱体化する。同時に排出される魔石も小さくなる。
いくら魔力を混ぜ合わせたからといっても元々がまったく異なる生き物である。〝儀式〟の後に魔物が人に懐くということはありえない。
この「魔女」と「孤狼」を除いて。
なぜこの一人と一匹が行動を共にしているのか、詳しいところは本人にも分かっていない。
ただ、「孤狼」は強大な魔物であるために「同調」を受けた後も力が削がれなかったのだろうということは予想されている。
かつては捕食者、被捕食者の関係。「魔女」、すなわち始まりの人魔は文字通りこの魔物の腹の中で誕生した。
それからは茨の道を歩んできたのだが――
「奥方様、よろしいでしょうか」
珍しく息を荒立ててリュビオスが駆け込んできた。
「リュビオス。何ですか?」
「奴らです。奴らがついに動き始めました」
その声に込められているのは、焦りと怒り。
「魔女」もその意味するところを即座に理解した。
「「勇者」ですね?」
「はい。街を見張らせていた者から報告を受けました」
人魔は少ない人員を使って常に皇都の監視を行っていた。
監視といっても遠くから北側の街門を見張る程度のものであり、内部の状況を事細かく知っているわけではない。
あの魔物の大氾濫以降、あちらも警戒態勢を敷いているために目立つことはできないのだ。
「分かりました。すぐに集落に連絡を。迎撃と避難を進めてください」
その指示に対する答えはリュビオスの背後から得られた。
「もう始めとる。オラの方も準備は万端だ」
入ってきたのは汚れた緑色の肌をした人魔、ブロスティー。
彼は「魔女」ティアの伴侶であり、同時に人魔の中では二番目に大きな権威をもっている。
「ありがとうございます、あなた。それと、わたしももうすぐ動けるようになりそうです」
「おおっ、本当か。そりゃみんな喜ぶべ」
「おめでとうございます、奥方様」
「魔女」は自分も参戦可能であるということを告げる。
だが二人は戦力としてよりも純粋に「魔女」が完全に復活することを喜んだ。
「じゃ、オラはもう少し仕込みをやってくる。リュビオス、集落の方は任せた」
「畏まりました」
そう言うとブロスティーは意気揚々と去っていった。
「勇者」が来るということで感じずにはいられなかった重圧からも少し解放されたように見える。
「ではリュビオス、集落の方もお願いします。それとイオのことですが……」
「奥方様。あの者についてお伝えしなければならないことがあります」
「魔女」がイオについて言及しようとしたところでリュビオスがそれを遮る。
「なんでしょう」
「どうにも夜分遅くに魔物の侵入を受けたようで、イオは現在昏睡状態に陥っております」
「それはどういうことですか? 彼には護衛がついていたはずですが」
説明を求める言葉には厳しさが込められていた。
いくらイオに同士の素質があり、心に穴を空けていたとしても無理やり連れ去ったことに変わりはない。
加えて「魔女」はイオの喪失感をよく理解していたために、できる限りの厚遇をしたいと思っていた。
だからこそ昏睡するほどの重傷を負わせてしまったことに対して責任を問わずにはいられなかったのだ。
「トーマが言うにはその魔物はアンデッド、それも精神体のようでした。ゆえに入り口を介することなく侵入され、発見が遅れたようです」
本人は監視のつもりだったかもしれないが、実は護衛というのはトーマだった。
彼はイオの声を聞きつけ寝床に踏み込むもすでに手遅れで、魔物は完全にイオの中に入り込んでしまっていたという。
「これがなかなかにしぶとく、頑としてイオから離れようとしないものでして……「同調」を仕掛けようにも魔力を押し返されてしまいます。今はカールに看病をさせておりますが、依然として解決法は見つかっておりません」
リュビオスの話を聞いて「魔女」は黙り込む。
「同調」は自分の魔力を相手の体内に送り込み干渉する魔法である。
だがイオがやって見せたようにタネが割れてしまえば容易に対応されてしまう類のものでもあった。
精神体の魔物であれば魔力に対する感知能力が敏感であってもおかしくはない。そして気づかれてしまえば抵抗もできる。
だからといって出力を上げてしまえば魔力が混ざることもあり得る。
結果、リュビオスはイオの身体の状態を外側からしか診ることができない状態にあった。
「……リュビオス、その魔物の種類名は分かりますか?」
「推測になりますが」
「かまいません」
「魔女」は間髪入れずに頷いて先を促す。
「トーマの話や感じる圧力から見てレイスというのが有力かと。今のところは、ですが」
「違うかもしれないと?」
「奥方様、少なくとも私はあれが通常のレイスであるとは思えません。そもそもレイスであればここに来られるはずがないのです」
人魔の集落エクリラは「孤狼」の縄張りである。
このことが天然の防災装置になっていた。
そして「嘆きの跡地」の中で「孤狼」に敵う魔物はいない。「孤狼」は生態系の頂点に君臨しているのだ。
ゆえに分類上Cランクのレイスが、推定Sランクオーバーの魔物の縄張りに踏み込むことはありえない。いや、そもそも「嘆きの跡地」に入ってきていること自体がおかしい。
一度遠吠えをあげた時にはAランクの魔物すら裸足で逃げ出しているのだから。
「考えられる可能性として、あれはおそらくファントムの卵です」
「ファントムの卵?」
「はい。私も小耳にはさんだ程度の知識しかありませんがレイスの上位種、それに至る直前の状態です。
ファントムとは影に潜み知らぬ間に命を吸いつくす亡者の極み。知能を持ち神出鬼没であるため、討伐どころか姿を見ることすら困難だと伝え聞いております」
ファントム。Aランクのアンデッド。
多くの怨念を吸い、同時に多くの生命力も蓄えたレイスが進化した魔物である。
基本はレイスの上位互換だが、その隠密性や知性など厄介さは比べようがない。
加えて人を襲えば襲うほど力が増すという特徴を持っているため、放置しすぎると本当に手の付けられないところまで成長させてしまう恐れもある。
「イオは奴にとって格好の餌場でしょう。奴はイオを糧にして上位存在に至ろうとしているのだと思われます」
「どうにかなりませんか? 二重の意味でそれは良くありません」
「先ほど申し上げた通り、外からではどうしようもありません。イオが内側から跳ね除けるしかないでしょう」
人魔とはいえ、元が無属性の人間であることに変わりはない。
そのため直接的な攻撃が効かない相手にはすこぶる相性が悪かった。リュビオスもトーマもできるのは直接的な攻撃だけ。ウィスプは例外だが、彼にイオのことを任せるのはあらゆる意味で不安が残る。
「あるいは――」
だがリュビオスが提示する答えはそれで終わりではなかった。
「――逆に取り込んでしまう、というのも一つの手ではあります」
その意味が分からぬ「魔女」ではない。
むしろ条件は整いすぎていると言ってもよかった。
「……可能な限りこちら側から救い出せるよう手を尽くしてください。「勇者」への対応と合わせて大変だとは思いますが」
にもかかわらずそう口にしたのは、やむを得ずといった理由で魔物との「同調」をしてほしくなかったからだ。
だが、もしその決断をしたならば。
(……あなたは魔力をどんな色で染め上げますか?)
怒りの赤か、悲しみの青か。
それとも、恨みつらみの黒色か。
一度染まった魔力はもう戻ることがない。
「魔女」はせめて後悔が残らないようにと願うのだった。
♢ ♢ ♢
――まず見たのは家族や友人に囲まれた幸せな光景。
やがてそこに影が差し。
色を失くしたように灰色の世界へと変わっていく。
これを見るのは三回目だ。
初めは実体験として。そして二度目は今と同じで、傍観者の目線から延々と過去を追体験させられた。
改めて自分の人生を眺めるという行為は精神的に苦しいものがあった。
あの時こうしていれば。そんな無駄な思考が溢れんばかりに湧き出してくる。
――あの時貴族の子供たちに目をつけられないよう立ち振る舞えていたなら。
――いや、そもそも助けに入ったこと自体がまちがっていたのではないか?
――それを言うならあの父親を早々に見限っておくべきだった。
過去への後悔は数え出すと終わりがない。
今この瞬間も新たな後悔を生み出しているのではないかと思うと、何とも言えない無常感に胸が締め付けられるようだった。
やがてすべてが終わった頃。
暗澹とした世界が一面に広がっていた。
その何もない空間に存在しているのはただ二人の人物のみ。
そのうちの片方であるイオは、相手に冷たく言い放つ。
「……相変わらず、悪趣味なことこの上ないな」
棘のあるその言葉を聞き流し、レイスはイオの瞳を真正面から見つめ続けていた。




