第111話 「嘆きの魔女」
「この場所に人間がやって来たのは過去の「勇者」たちに次いで二度目です」
「魔女」はそう語り掛ける。
穏やかな声ではあるが、目元に刻まれた涙のような黒い筋のせいで声と表情の差に違和感が感じられる。
自分がとんでもないところにいるのだと思いつつも、イオは目の前の存在にただただ圧倒されて逃げるという選択肢さえ浮かばなかった。
とはいえ逃げようと思ったところで、リュビオスに縄を握られている限り何もできないだろうが。
「リュビオスもよく見つけてきてくれました」
「まったくの偶然です……が、二度も剣を交えたとなればそうとも言えぬでしょう」
「一度は取り逃がすなんて、百戦百勝の王者でもさすがに老いには勝てませんか?」
「お戯れを。老いた身とはいえ、まだまだ正面から負けるつもりは毛頭ございませぬ。あれは、この小童の頭と悪運に足を取られただけでありますゆえ」
これまでトーマやウィスプに対して年長者としての振る舞いを通してきたリュビオスが、この20代ほどの女性には敬語を使って遜っている。
その様子はまるで、熟練の執事が仕える主に対して敬意を表しているようだった。
「それならよかった。リュビオスにはこれからも助けてもらわないといけませんから」
「この命尽きるまでお仕えします」
「ありがとう。それではほら、早くその子をこっちに連れて来て。窮屈そうな縄も外してください」
その指示にリュビオスは困惑した表情を見せた。
「奥方様。武器を持たせていないとはいえ、この者は一端の戦士にございます。自由にさせるのはどうかと思いますが……」
「問題ありません。リュビオスに、コロもいますから。それに、ほら」
そう言って「魔女」はイオを顎で指す。
顔を半分うつむけて2人の話を聞いていたイオは胡乱そうに目線だけを上げた。
「その子、もう空っぽです。いろんなことを諦めてしまっている」
「魔女」の前に、巨大な狼の魔物の前にいながらイオはすでに初めほどの恐怖を感じていなかった。
人魔に敗れ、連れ去られ。丸腰の状態で敵の首魁の前に差し出された時点でイオはすべての抵抗を放棄していたのだ。
いや、もっと言えば父親に出会い最悪の事実を聞かされた挙句、罪人紛いのことをして逃亡を決意した時点でイオはほぼすべてを諦めていた。
あれほどまでに生に執着し、どんな手を使ってでも泥臭く生き抜いてきた少年はもうどこにもいない。
自分を否定され、居場所を失い、生きる意味さえ見失ったことが、イオという人間を根元から突き崩してしまったのだ。
「その顔は何度も見てきました。頑張っても何も得られず、それどころか毎日何かを失っていくばかり。やがてはそのことを受け入れて、何もかもがどうでもよくなっていく」
その言葉にはなぜか実感がこもっていた。
事実、今のイオは何もかもがどうでもよかった。その中には自分の命すら含まれている。
抵抗する様子が一切ないと判断したリュビオスは縄をほどいてイオを解放した。
そして立ち尽くすイオに向かって、立ち上がった「魔女」が一歩ずつ近づいて来る。
――何をされる?
それは純粋な疑問だった。警戒を見せたところで今更の話だ。
前方に「魔女」。後方にリュビオス。
さらに奥には謎の巨大狼がいる。抵抗を諦めるには十分な勢力差だろう。
殴られる? 刺される?
それともリュビオスは否定していたが眠らされて何かの実験体にでもなるのだろうか。
目と鼻の先まで縮んだ彼我の距離。
はっきりと見えた「魔女」の顔は、一般的に見てとてもきれいで整っていた。涙の跡のような黒い線がそこに異質な存在感を放っている。
いや、黒いラインをなぞるようにして本当に涙が流れていた。
――いったいなぜ?
そう思う間もなく「魔女」が動いた。
思わず目を閉じるイオ。すると小さくなった縮こまったその体が――
「…………え?」
――優しい温もりに包まれた。
鼻孔をくすぐる女性の香り。だがそれは艶めかしく興奮を誘うようなものではなく、むしろ心を落ち着かせるものだった。
例えるなら、子供が母親に慰められているような状態に近い。
イオを抱き寄せ頭部を撫でながら「魔女」は言う。
「あなたの悲しさが伝わってきます。たくさん、つらいことがありましたね。でも頑張ったことは絶対に無駄にはなりません」
月並みな言葉だ。初対面の他人に人の心が分かるはずがないし、ましてやそれを語っているのは過去に多くの人を殺した「魔女」だ。
どの口で分かったようなことを言っているのだろう、と冷めた思いでされるがままになっているイオは――
(…………なんで……)
――その双眸からいつの間にか、「魔女」と同じように涙を流していた。
「今は苦しくてもいつかはいいことがあります。自分の生きる道は自分で変えられる。だって――」
流れる涙を押さえられないイオを、「魔女」は母親のように、聖母のように自身も涙を流しながら優しい声音で言った。
「――天が誰のものでもないように、人は皆平等で何者にも束縛されないのですから」
女神のような温かい抱擁に、しばしイオは状況を忘れ慰められ続けるのだった。
♢ ♢ ♢
思えば最後に人のぬくもりを感じたのはいつだっただろうか。
誰かに助けを期待することを止め、自分だけの力で生きることを決めた頃から、イオは人との接触を避けるようになっていった。
それは過去に幼馴染たちに裏切られたことを原因とした自己防衛だったのかもしれない。
とにかく、ハルフンクでイオの味方は母親であるオリーシエだけだった。
心の寄る辺として長く彼女を慕ってきたイオだったが、それも12の歳に終わってしまう。
埋葬の折、最後に触れた母親の体は冷え切っていた。
それからイオはずっと人のぬくもりを感じていない。心は強固に鎧われ、たとえ肉体的に触れたとしてもそこから温かみを得ることは一切なかった。
にもかかわらずイオはこの時涙した。
いともたやすく纏った鎧は取り払われ、その心の奥に触れられたのだ。
――ごめんね。無属性に産んじゃって。本当にごめんなさい。
あの日最期を看取った母親の口からは謝罪しか出なかった。
ああ、そうではない。本当に欲しかった言葉はそんなものではない。
イオは、慰めてほしかった。褒めてほしかった。
つらかったね、と。よく頑張っているよ、と。
そして、何があってもイオなら大丈夫だよ、と背中を押してほしかったのだ。
「魔女」の抱擁を受け、勝手に涙がこぼれて何が何だか分からなくなったイオは、そこに一瞬だけかつて望んだ光景を垣間見た。
♢ ♢ ♢
「……離せ」
「あっ」
イオは身をひねって「魔女」の両腕から逃れた。そこに力は込められていなかったが、イオの感情を感じ取ったのか「魔女」はあっさりと離れる。
すでに涙は止まっているようだが、その名残として目元が少し赤くなっていた。
「……俺に何をした」
涙をぬぐいながらイオは低い声で問いただす。
先ほどの現象は自分で考えても異常だった。
なぜ「魔女」に慰められて涙を流したのか。なぜそこに懐かしさと居心地の良さを感じたのか。
自分にそんな心が残っていないと思っているイオはその原因を「魔女」に求めた。
「わたしは何も。あなたが涙したことを言っているのなら、それはあなたの心が本当は寂しいと、つらいと叫んでいるからです」
「魔女」はいたって真面目な表情でそう言った。
まるで本気で自分のことを心配しているかのような言い様に、枯れて乾ききったと思われていたイオの心がざわめきたつ。
「適当なことを言うな! お前が何かしたんだろう。俺が、こんな、こんな……!」
上手く言葉が出ずにイオは肩を震わせた。
感情的になるとまた涙が流れそうになるのは、まだ先ほどの懐かしさの残滓が残っているためか。
なんであれすべてを諦め置き物のようになったイオを奮い立たせることが目的であったなら、それはうまくいったと言えるだろう。
虚ろだった瞳は今や置き場のない憤りを灯し、実力で勝てるはずもない「魔女」にそれを向けているのだから。
「……とりあえず座りましょうか。リュビオスもこちらに来てください」
「わたしはティア。五〇〇年前の「嘆きの魔女」」
「魔女」、もといティアは自分をそう称する。
イオとティアは手頃な岩を椅子にして向かい合っていた。その後ろにはリュビオスが立ち、イオが不審な行動をとらないか見張っている。
「あの大きな子はコロ。ずっと寝ていますからご心配なく」
そう言って巨大な狼の紹介も手短に終える。
気になると言えばかなり気になるが、今のイオにとっては目の前の「魔女」の方が危険な存在だった。
今度は術中には嵌まるまいと警戒するイオを前に、ティアは突然謝罪をしてきた。
「今更ですが、リュビオスが迷惑をかけたみたいでごめんなさい。えっと、名前は……」
「奥方様、イオでございます」
「ああ、イオ。できるだけ待遇は良くしますから」
リュビオスにイオの名前を告げられそんなことを言われる。
当然、待遇などどうでもいいイオは短く要求した。
「そんなものはいらない。俺を帰してほしい」
「それはなりません。ここで見たことや聞いたことを伝えられたら困りますから」
「そんなことはしない」
事実イオが解放されたとしても情報が「勇者」たちにわたることはないだろう。自分の立場がどのようになっているか分からないイオは、自分の居場所を特定されそうなことを伝えるつもりがないからだ。
しかし当然そんな言葉は通用しない。
「それが嘘でないと証明するものがありません」
正論だ。逆の立場ならイオも相手をのこのこと帰すようなことはしないだろう。
「それにイオは自分で栓を外していますから」
「……どういうことだ?」
「透明な魔力を放出できる。そう言えば分かりますか?」
リュビオスも言っていたイオの特異な点。やはりそれが目的なのだと知りイオは警戒を強める。
だがティアはイオの思ってもいないことを告げてきた。
「透明な魔力。魔法という魔法が使えず、劣る属性だとされる無属性。わたしはそれが何かを知っています」
イオは自分がなぜ魔力を放出できるのかを知らない。だが「魔女」はそれを知っているという。
怪訝な表情を浮かべたイオを見て、ティアはさらに衝撃の事実を告げた。
「なぜって顔していますね。それは、わたしもリュビオスも、このエクリラにいる全員が今で言う無属性だからです」




