新/021/怪物VS巨獣
さあ、ここから夜月君のターン!
「雛、ナナを頼むぞ」
「承知しましたッス!」
神々しく輝く半月と満天の星空による天然の光源が窓から注がれる室内で、俺と雛は寝ているナナを起こさない様に小声で最後の確認をしていた。
今から俺は、あの巨猪と戦いに行く。
金の為に。
オークでちまちま稼いでいたら、時間がかかり過ぎるからな。
ナナが寝ている間に行くのは、俺が居ないと基本的に寝付かないからだ。今は少しでも休んで貰わねばならない。
「いいか。俺が帰ってきて万が一にもナナに毛ほどの傷でもついていたら……アスファルトの上でスープレックスかけるからな」
「全身全霊を持ってお嬢様をお守りいたします!!」
◆◆◆
身体を解すのを兼ねて、数体のオークとゾンビを狩った後、気配を消して風下からあの路へと赴く。
ゾンビが何体も何体もいる。今日も人は良く死んだようだ。
ちなみに、ゾンビの経験値はbonus込みでも5、金は3C、ドロップアイテムは無し。臭い、多い、何故かLPが高いと、ぶっちゃけ割りに合わない。
ゾンビの臭いは付かない様に遠距離から倒したし、元々臭いのつきにくい服なので、多分大丈夫。
さて、まずは観察しよう。
俺は三車線の通りに建てられているビルの中に入り、二階程度の高さから右斜め下、五十メートルほど離れた巨猪を観察する。
月光に照らされた赤い体毛は、夜だと言うのにはっきりと猛々しい赤を放って…………光ってね?強い光では無いけど、赤く蛍光灯の様に体が発光している。
どうしよう、いきなり不確定要素だ。
【Dictionary】で解析をしたいのだけれども、何度か確認したが【Dictionary】の撮影機能の射程は十五メートル程度。
俺なら近づけない距離じゃ無いが、シャッター音で完璧に気づかれる。
気づかれるのを覚悟で行くか?
撮影した後すぐに離脱すればバトルにはならないだろう。
俺の隠行レベルなら、行ける筈だ。
早速行動を開始する。
一切足音を立てずに、様々な物が散乱するフロアを走り抜け、ビルとビルの間を窓から飛んで渡る。
赤く光る巨猪の居る場所に最も近いビルに、僅か二十秒で辿り着く。
密集するビルの影響で乱れる気流が、しっかりと対象から風下である事を確認し、窓際に寄り付く。
巨猪はでかい。分かっていた事だが、でかい。並みの自動車を越えている。
その巨猪は俺に背を向け、ゆっくりと歩いている。
伝わってくる振動が、奴の体重を知らせる。
大体ニトン。
かなりヤバイ。
体型的には猪をでかくしただけで、足はあの大きさの生物にしては短い。
それなのに最低時速六十キロで走るのは、生物的にどうなのだろう?
発光していると同時に、どうも熱を発しているようで、近づく俺に熱波を届けている。
百度以上はあるのではないだろうか?原理は?とかを考えるのは、考えるだけ無駄なのだろうな。
もっとも、その程度の熱はスーツが遮断してくれる。問題ない。
気配を消してはいないが、気を張っているのは十分にわかる。
多分俺でもこれ以上の距離を近づく事はできないだろう。
気配を消さないのは意味が無いからだと思う。あの巨体じゃ気配消しても足音ですぐに気づかれるからな。
これ以上は分からんな。
さっさと【Dictionary】を使っておくとしようか。
カメラを構える。
体重を後ろに倒して、何時でも走りだせる体制にする。
──パシャッ。
GO!!
足音を殺し気配を殺し、素早く淀み無く走る。
ビルの一室を抜けて、向かいの応接室だろう部屋を抜けて、その窓から後ろの建物へ飛び移る。
ビル側面の排水溝のパイプを伝って、六階相当の屋上に辿り着く。
身を低くして周囲の気配を感じとり、誰も俺に気づいていないのを、確かに、念入りに確認する。
案の定、巨猪には気づかれた。が、視認はされていないし、気配を完璧に殺しただけあって、音以外に気づかれた様子は無い。
大丈夫。誰も俺を見ていない。
一息吐いて、少し目を瞑り、身体に循環する気を整えてから目を開ける。
屋上特有の強い風が頬を撫でるのを感じながら、ポケットにしまったスマホを取り出す。
《現在所有している辞典には、データが記載されておりません》
「………マジ?」
◆◆◆
めっきり人の気配が無くなった道路。
たまにゾンビが彷徨く程度で、人型の生物が通る事はほぼ無くなった。
月明かりと星明かりが寂しげに照らすのみ。
赤く発光する巨猪は、その寂れた通りを悠然と歩いている。
獲物は居なくなった。
しかし巨猪は別段困ってはいない。
狩り場など他にもある。
巨猪がこの場に止まる理由は、ただ単に、気に入っているからだ。
全長三キロもある直線。強度の方も中々、幅も自分には丁度良い。
そんな全力で走る事ができるこの直線道路を、巨猪は気に入っていた。
気分良く、王者の如く歩む巨猪。
ドスン、という音を立てて闊歩していた時──正面に、人影が現れた。
足を止める。
自分の歩みを止める。その事に対して少し気分を害された。
しかしそんな事よりも、目の前の人影は一体何時の間に現れたのだろう?
巨猪は一度も気を抜いていない。それなのに、正面に現れるまで一切気づかなかった。
確かに人影は風下にいるし、距離的は五十メートル以上も離れている。そこそこ隠行の心得があれば、確かに巨猪の感覚に捉えられないかもしれない。
だがしかし、確実に視界に入っていただろう、物影から出て来たその瞬間、巨猪の記憶には無い。いきなり湧いて出た訳でも無い筈だ。
巨猪は警戒心を引き上げる。
人影に逃げる気配は無い。
つまり、自分と正面から戦う気なのだ。
それに対して不遜だと思う気は無い。
いや、普通の人間やオークならば、身の程知らずと問答無用に蹂躙しただろう。
しかし敵は強い。
気配を隠蔽しているのだろうから、実力を把握できる訳では無いが、野生の本能が疼く。
毛並みがざわつき、命の危機を感じとる。
敵は強い。
しかし正面から来るの以上、巨猪に逃げるという選択は無い。
何故か?
敵が強いというのなら、証明しようではないか、己の力を。
敵が強いというのなら、喰らってやろう、その肉を。
強者との激闘の果てに得られる勝利の味を、巨猪は知っている。
◆◆◆
夜月は現在──巨猪の正面五十メートル付近に立っている。
基本的な夜月の戦い方を知る者なら、驚愕を禁じ得ない光景だろう。が、本人は別に気が狂ったとか、少年漫画の主人公的な正々堂々病とかに犯された訳じゃ無く、いたって真面目だ。
「ブオオオオォォォォォォォォォォ!!!」
巨猪の雄叫びがビリビリと肌に伝わって来る中、夜月は冷静に決して慌てる事無く、深くゆっくり溜めた空気を吐き出す。
臨戦態勢に入ったのか、巨猪の身体は一層赤く輝いていく。
そして夜月は──反転。
全力で練り上げた気焔を脚で爆発させて、巨猪に背を向け走り出した。
そう背を向けて、真後ろに、直線道路の反対側へと全力で。
巨猪の雄叫びが止まる。
折角身構えたというのに、強者だと認めたというのに、逃亡。
それも背を見せるという愚かな様で。
巨猪にとっての戦いは、正面からの激突。
例え的が鋼の塊だろうとも、自分より遥かに大きかろうとも、決して引く事無く突撃する。
それが巨猪の戦い。
故に、自身が認めた強者が、背を見せ無様に逃げる様を、巨猪は許せなかった。
「ブオオオオオオオォォォォォォォォォォッ!!!」
自らを愚弄した者へ死を運ぶために、巨猪はその背を追って走り出す。
最初はゆっくり──なんて常識など一切無く、いきなり数十キロの速度まで加速する。
足音は歩いていた時が子守唄に感じるほどに、周囲に音というより振動を撒き散らす。
夜月にしても、速い。
元から本気で走れば時速五十キロくらい出せる怪物なのだ。
それがlevel上げによって身体能力が強化されている。
直線を障害物もなく順調に加速できる今なら、七十キロを優に越える。
しかし──
(速っ!!)
──巨猪は夜月の更に上をいく。
振り向くまでもなく振動で巨猪の速度を確認し、自身の見積もりを超えている事を重々理解させられた。
夜月は別に自分の速度が巨猪より上だと自惚れていた訳では無い。
しかしどうだろう、全身に叩きつけられる殺気を混ぜた振動は、巨猪の速度がすでに百キロを越えている事を、夜月の頭に殴り付けてきた。
当初の予測の甘さを痛感する夜月だが、内心叫ばずにはいられない。
(おかしいだろう!!!)
ニトンはある巨体。短い脚。
誰がチーター並みの早さを予想しよう。
いや猪が速いという事は当然知っている。
というか、瞬発力という点に置いて、ほとんどの野性動物は人間より優れている。
だから相応の早さは予測して、見積もり的に八十キロは想定していたのだ。
だが甘過ぎた。
しかし、夜月の甘さを責める事はできない。
常識をある程度捨てたというが、所詮はまだ【NEW WORLD】開幕から、二日も経過していないのだ。
既存の常識を捨てきれないのも当然だった。
巨猪は百キロ越えてもなお加速。
すでに百二十キロに到達。
五十メートルのハンデなど、後数秒で霞の如く消え去り、巨猪の巨体によって夜月の肉体は、ただの肉塊へと変わり果てるだろう。
「ブオオオオオオオォォォォォォォォォォッ!!」
怒りを込めた断罪の雄叫びが暴力の渦となって街を震撼させる。
赤き閃光を覇道に刻みながら、愚かなる小さき者へ突撃していった。
◆◆◆
(──今っ!!)
夜月は、最高速度に達した前傾姿勢の状態から、勢いを殺す事無く前方に飛ぶ。
高さ的には地面からは五十センチと離れてはいないが、幅跳びならば十メートルを軽く越える。
その前方に勢い良く飛んでいく中、夜月は力の流れを乱す事無く、流麗に後ろを振り向く。skill-level・Ⅸの軽業を持つ夜月にとって、この程度は造作も無い。
身体が反転する事で、視界に飛び込んでくる赤く光る巨大な猪。
宙に赤い閃光を刻み、圧力と殺意の化身となって迫ってくる様は、怪獣映画が鼻で笑えるほどの迫力を見せつけていた。
しかし夜月は冷静に、特性の革靴を地面につけてブレーキを一気にかけていく。
自身の移動する力の向きとは反対側に前傾姿勢をとりながら、急ブレーキをかける事で、自身にかかる力の負荷を減らし、ブレーキを効かせ易くした。
前方に向いたまま停止しては、この後の行動にも支障が出る。
減速していく中、百二十キロに迫る巨猪が目前まで近づく。
特別製である革靴の底が急激に磨り減っていく中、当初の目論みを外して、敵とあまりに接近してしまったこの状況に歯噛みする。
──当然だが、夜月は別に逃げていた訳では無い。
距離を取り、正面から対峙し、そして背を向けての逃走にはしっかりと理由がある。
敵に最高速度を出させる為だ。
夜月の得意とする隠密行動からの奇襲は、今回使えない。正確には使っても仕留められず、あの情報不確定な巨体の獣と接近戦をするはめになるからだ。
暗殺ができない理由は、まず手持ちの刃渡り十五センチ程度のダガーでは、何処に刺さっても即死させるのは無理。それに少し観察していて分かったのだが、鋼鉄に対して勢い良く突っ込んでいっても怪我すらしない肉体を持っている。ダガーがまともに刺さるかどうか分からない。
ナイフはそもそも投擲用では無いし、切れ味と刃渡りはダガーより上だが、大差は無い。
接近戦になれば有用な武器かもしれないが、あんな巨体と接近戦など自殺行為。
無論、拳ならダメージを通せるだろう。
暗殺を好む夜月だが、その近接戦闘能力は非常に高い。
STR・67+格闘・Ⅸ=DEXの90%=90+グローブのATT・15+ability:【剛の力】【柔の力】によって底上げされるphysical値。
使う技次第では、敵に大ダメージを入れる事も可能だ。
しかしそれでも一撃で倒しきるには、急所に当てる他は無い。
内部に直接ダメージを与える事もできるだろうが、それでも殺しきるのは難しい。
不確定要素の多い敵に、二撃三撃ではあまりにリスクが高い。それじゃ無くとも二トンを越える巨体の敵。接近しているだけで十分に危険なのだ。
故に夜月がこの敵に対して選んだのは、毒。
夜月自身が所有する六本の毒針。
夜月の持つ毒針は二種類共、速効性と少量でも十分な効果を見せる強力な毒だ。
ただし両方共に致死性は低く、持続性もあまり無い。
殺し切るには、まだ遠い。
しかし夜月はこの毒を選んだ。
この二つの毒薬は、両方を混ぜる事で致死性の非常に高い毒となるからだ。
その致死性は、ボールペンの芯程度に入っている量で、象を四体殺す事ができる。
これを刺す事で、巨猪を倒す。
それが夜月のプラン。
もしも毒に対して耐性があり、速攻で効かない場合は、離れて観察。効いて動きが止まる、または鈍れば、後は拳でしとめられる。効かずに治る様なら、悔しいが離脱する。
そういう算段だった。
しかしその為には、そもそも毒針を刺さなくてはならない。
像に人間用の注射針が刺さらない様に、巨猪にも恐らく刺さらないと予測できる。
ならばどうすれば、と考えれば、刺さる所に刺すしかない。
刺さるところ、誰でも想像がつくだろう。
眼球だ。
だが問題はどうやって眼球に刺すかだ。
身体のサイズと違って眼球のサイズは小さい。
ボールペンに偽装してある手前、投擲するにはあまりに軽く、更に不安定。正直、skill-level・Ⅷもある夜月の投擲術でも、最低三メートルに近づかなくては不可能だ。そんなのは無理。そこまで近づいて気づかれないような雑魚なら、そもそも苦労はしていない。
直接刺す必要がある。
とはいえ、奇襲できると言ったが、それは背後からの話。
眼球は当然前にある。流石に前方から近づいてバレない訳は無い。気配は消せても、物理的に消える訳では無いのだから。
ダガーに毒を塗って投擲する。という事も考えなくも無かったが、巨猪を刺すには確実に五メートル以下まで近づかなくてはならない。眼球を狙わず、背後から忍び寄ったとしても、五メートルなんて近距離では、さすがの夜月も気づかれる。もっとも、毒が強力過ぎて、専用の道具が無いと取り出して塗る事なんて出来ないが。
ならば腹を括って奇襲作戦はスッパリ諦める。
どうせバレるなら、正面から殺る。
そうして考えた作戦、最も確実に眼球に刺す方法が、最初に述べた通り、巨猪に最高速度を出させる事だった。
敵に最高速度を出させた状態で、すれ違い様に毒針を眼球に突き刺す。
これが夜月が考えた作戦だ。
一見意味が分からないだろうが、結構理に叶っている。もちろん、夜月の人外的スペックがあっての話だが。
まず正面からの接近戦を挑めば、猪である以上突進してくるだろう。
しかし、端からの観察で分かった事だが、巨猪は非常に頭が良く、何より単純な突進一つもしっかりと力をコントロールしている様に見えた。
こっちから接近しての戦闘は、巨猪はその技巧を発揮し、急所への狙いを絞らせ無い。そうなれば、あの巨体とのリスクの高い近接戦を演じなくてはならない。
故に真っ直ぐに、小細工無しで突進して来る瞬間のすれ違いざまを狙う必要がある。
それも最高速に狙いを絞るのは、加減速をさせないためと、余計な動きをさせない為だ。
最高速度に達すれば、当然加速は出来ないし、減速は二トンの巨体である以上、急には不可能。
更にはMAXスピードであるために、余計な動きは出来ない。無理な挙動は、夜月並の軽業がなければ、バランスを崩してしまうからだ。
つまり、最高速度に達した直後である巨猪は、前に進むしかできない。
加減速を使い分けてタイミングも狂わす事もできないし、器用な動きで避けたり、ずらしたりする事もできない。
敵に突き刺すには、一番確実な瞬間なのだ。
チャンスはたったの一回。
タイミングは凄まじくシビア。
更には、二トンの巨体による高速移動で生じる風圧。
身に纏う熱波。
そして巨獣の怒りと殺気による、大圧力。
掠るだけで、夜月でも重症は避けられない。
直撃を受ければ、床に叩きつけたトマトの如く、赤い液体となって爆散する。
そんな馬鹿げた作戦だが、夜月は特に躊躇う事無く実行に移した。
当然死ぬ気は無い。ナナが存命な以上、死という選択肢を選ぶ権利を放棄している。
闘争心、などでも当然無い。そんな上等な感情が湧くなら、非情で冷徹な判断を実行したりしない。
ただ単に、出来る、と思ったから。
ダメージさえ無ければ、失敗しても特に問題は無い。
失敗したら、それこそ逃げればいいのだから。
自分のスペックを傲ること無く見極めて、敵の観察を済ませ、出来ると判断したから、やる。
ただ、それだけ。
予想していたよりも、敵の速度が速いが、まだ実行可能な範疇。
ならば、試してみるだけ。
ただ、それだけ──
夜月のスペック的に、確かに実行は可能だ。
それでも、夜月は少し楽観的過ぎる。
死のリスクを計算していない訳でも無いだろうに。
もっとも、楽観的と言っても、夜月は気づかないのだが。
「死」を恐れる精神など、彼には無いのだから。
──閑話休題
歯噛みしながらも、冷静に、頭を落ち着けて、二本の毒針を握る。
限界まで圧縮した思考の中で、巨猪の動き、速度、位置、視線等をしっかり把握。
自身の速度がゼロに近づくにつれ、巨猪との距離もゼロに近づいていく。
流石に完全にストップするのを待つ訳にはいかなそうだ。
こちらの停止より、向こうの突進が衝突する方が早い。
(しょうがない)
夜月は力の方向に抗い、気焔を練り上げ脚部に纏わせ前に出る。
途端、身体に相応の負荷がかかり、所々で軋む音を立てるも、問題にはならないレベルだと反射で判断。
巨猪に向かい走り出す。
──衝突まで残り0.3秒。
そこで──予想外の事態。
それに驚きながらも夜月は素早く判断して、息を止めて目を瞑る。
失念していた訳じゃ無い。
考慮はしていた。
しかし、瞬間的になら問題ないと判断していた。
だがしかし、巨猪の纏う熱波は速度同様予想を超えていた。
肺と眼球を焼かない様に、息を止め、目を瞑る他無かった。
とはいえ、速度の当てが外れた以上、自分の見積もりが正しくないと割りきっていた夜月に、動揺は特に無い。
敵の速度はわかる。
動きもわかる。
気配もわかる。
耳から、肌から、直感から、夜月には巨猪の様子が、十分なほどに伝わってくる。
──残り0.1秒。
この場面ではもう、加速も減速も出来ない。
タイミングは分かる。
目の位置も把握できる。
チャンスは刹那。
だが問題ない。
夜月は身体を捻りつつ、ついに巨猪と交差する。
荒れ狂う熱と暴風が、驚異の衝撃となって肉体に叩きつけてくる。
だがそんなモノに敗けるほど、夜月は甘くない。
瞬き程度の一瞬で、両者は交差。
巨猪はそのまま真っ直ぐ走り去る。
風圧によって夜月の身体は舞い上がるも、持ち前の身軽さを発揮し、見事に壊れた車のボンネットに着地する。
無理な動きで軋む身体を確認し、走り去る巨猪に目を向ける。
すでにかなり距離が空いている。
時速百二十キロなら一秒で三十三メートルを越えるだろう。交差から四秒以上経ったので、百五十をそろそろ越える。
「──ブモオオオオオオオオォォォォォ!!」
雄々しい雄叫び。
だがしかし、聞くものが聞けば、分かる。
それには痛みと、困惑が混じっている事に。
未だ轟音を上げて走る巨猪だが、徐々に徐々に速度が落ちていく。
地を打ちつける剛脚が、どんどん衰えていっていた。
更に巨猪が左に逸れ始めた。
自分の意思で曲がっているのでは無く、無意識に。意識は未だ道の果てに真っ直ぐと向いている。
だが巨猪の身体は左に逸れる。
大破した車の壁に巨猪は激突する。
真っ赤な閃光を撒き散らし、爆音を上げて、車を、ガードレールを突き破り、そしてその先にあるビルの壁へと、轟音と粉塵を巻き上げ激突する。
車やガードレールの鉄片が宙に巻き上げられて踊る。
粉塵と暴風と振動が、波状となってこの路を震撼させた。
大質量が高速で衝突した影響で、八階相当のビルが崩壊していく。
とはいえ、地震大国の意地なのか、建物は辛うじて倒壊を免れた。
人間の恐怖と絶望に彩られた悲鳴が、その轟音の中を切り裂いて夜月の鼓膜を震わせる。
建物の内部に、人が居たらしい。もっとも、夜月には関係ないが。
「ブモオオオオォォォォォッ!!」
今度は誰にでも分かる、悲痛の絶叫。
巨猪は突進したのでは無く、衝突したのだ。しかも衰退したとはいえ、百キロは越えたスピードで。
相当のダメージが、巨猪の身体に襲っている。
全身の骨に異常をきたし、肉は裂けて、鮮やかな赤い毛並みに、生々しい赤が浮き出ている。
特に衝突した顔は酷く、頭蓋の半分は割れていた。
「ブモオオオオォォォォォ!!」
暴れる。
痛みなど超越して、自らを追い込んだ者を必死で探しながら、巨猪は暴れる。
怒りと憎しみを撒き散らし、暴力の化身となった巨猪は、ただ暴れる。
これだけの重症を負ってなお、巨猪は暴れる。
車が吹き飛ばされ、粉塵と共に瓦礫も空へと舞う。
赤い光は強く強く発光していき、全身へと叩きつけられる衝撃波とも言うべき轟音もまた、強くなる。
ただし──
「ブモオオォォォォォッ!ブ──オオ、ォォォォ、オオ、ォォ、ッッッ…………!!?」
──数秒の事だけれども。
崩れ落ちる。
前足が突如動きを止めて、前方への力のままに地面を滑る。
正面の軽トラに衝突するも、先程の暴力的な力など無く、軽トラの側面を凹ませた程度で巨体が止まる。
立ち上がろうと、四肢にありったけの力を込める。
しかし不屈の闘志に反して、その身体は動かない。
「────────っ!!!」
雄叫びを放とうとも、既に口すら動かない。
肺も空気を受け入れようとはしない。
右だけの視界は、どんどん暗くなっていき。
巨猪はようやく悟る。
左に深々と刺さったナニカの痛みを感じながら、
──断末魔を上げる事も、許されないと。




