3-5
そうして数分が経過した頃だ。傷だらけで駆け寄るヘイゼルの姿があった。男は武器も仮面も心を覆っていた冷たい嘘も取り払い狼狽し、倒れたクエンの傍で泣き崩れた。
「クエン……」
理人はヘイゼルに場所を譲って一歩退く。男は血に染まった姫を抱き上げ、姫は無表情に男を見つめた。
「ヘイゼル……ごめんなさい」
「何を謝る必要がある……。お前はよくやった……お前は本当によくやったよ……クエン。守ってやれなくてごめん。傍に居てやれなくてごめん。俺はいっつもお前を守れない。誰よりお前を……ただお前だけを守れればそれでよかったのに……」
抱き上げたクエンの血染めの頬に涙の雫が落ちる。クエンは暫くそれを無表情で眺めていたが、やがて顔をくしゃくしゃにして涙を流し始めた。
「こんなに……こんなに何もかも投げ打って来たのに……こんなのが最期なの? こんな惨めな敗北が人生の終わりだというの? こんな……何もない。何もない……嫌だよヘイゼル……私やっぱり……死にたくないよぉ……!」
堪えきれずに歯を食いしばり目を瞑る。悔しくてならなかった。何者にもなれぬまま、なんの証も立てられぬまま、ただ朽ちて滅びて行く事が。
あんなにも守ろうと必死になった世界も終わってしまった。この世界は滅ぶ。ゼータ1には収穫の時が訪れたのだ。僅かに滅びを免れた命も全て神に飲み干されるだろう。後には何も残らない。草木一本、思いで一つ……残らないのだ。
「いやだぁ……! いやだ、いやだ! 何もなくなってしまうだなんて嫌だぁ! やっぱり死にたくない……消えたくない……消されたくないよ、ヘイゼル!」
「俺もだ。俺も消えたくない。消されて堪るもんか……。俺とお前が生きたこの世界を消されて……黙っていられるもんか」
理人はそれを静かに見守っていた。世界を心の底から憎んでいたクエンが今更になって世界を惜しむのはなぜだろう? それは……恐らくメアリーと全く同じ理由なのだ。
クエンには何もなかったのだ。クエンは世界を守るか憎むか、その二つしかなかったのだ。人間はどんなに自分自身を嫌っても自分自身を止める事は出来ない。命はそうある限り、絶対に命そのものを犯す事は出来ない。
“それ”が命を生かしているのだとしたら、“それ”に人が出来る事はあまりにも少ない。只管に信じてみるか、只管に否定してみるか……だいたいそんな所だろう。
この世界を心の底から憎むことしか知らなかったメアリー。この世界を守る事しか知らなかったクエン。二人は互いをそのままひっくりかえした存在だ。鏡写しの二人の少女。世界を大嫌いなのも、世界を守りたいのも、それは自分にそれしかなかったからだ。
もしもありきたりな人生を歩み。普通の平穏を得て。学校に通ったり会社勤めをしたり結婚してみたりすれば、生きている理由はもっと沢山あるだろう。だが彼らはそうではなかった。そうでなかったということが何よりも悲劇的であり、喜劇的でもある。
「わたくしにはまだ、やるべきことがある……このまま終わらせるわけにはいかない」
既に死んでいるも同然の身体を起こし、クエンは立ち上がる。そして理人の前へ。
「秋月理人様……お願いです。どうかこの世界を……お救い下さい……」
「うん、いいよ」
けろっと答える理人。呆然としているクエンに微笑みかける。
「なんか君が消える、世界が消えるまでまだ時間があるみたいだから、出来るだけの事はしてあげるよ。君のお陰で僕も楽しかった。お礼がしたいんだ」
「理人様……」
クエンは涙を流しながらその前に跪いた。そうして大地に額をこすりつけるように。
「ありがとうございます。ありがとう……ございます……」
泣きながら礼を言った。それからクエンは早口にヘイゼルに指示を飛ばし、理人に最期の願いを伝えた。理人はそれを了承し、直ぐにゲートを潜ってデルタ4へと戻った。
「何? 異世界人の移民を認めろだと?」
「はい。人数はそれほど多くはありません。ユラサの城にかくまっている人たちだけです。クエンが言うには二千人くらいだそうです」
「二千? それよりも明らかに多いように感じたが?」
「こんな時の為に“選定”は済んでいるそうです。生き残るべき人間、優秀な人間だけを残すと。向こうの人間がこちらに入れば技術や文明を入手出来ます。悪い話ではないでしょう」
理人の言葉に考え込む桂。だがそれは所詮現場の責任者に過ぎない彼に決定出来るような案件ではない。
「二千人の人間を生かすというのはね、言う程容易くはないのだよ。食料、居住区などの基礎問題は勿論、彼らの何人が我々の世界を憎んでいるのかという事もある。自らの世界を滅ぼした世界に下るという事をトップのユラサ王が決めたとしても、彼らがそれを飲み干すとは限らない。争いの火種を抱え込むようなものだ」
「それに関しては日本政府が責任を持ちますよ」
横から割り込んだのは携帯を片手にした坂東であった。理人の横に立ち、その背中を叩く。
「クソ生意気で何を考えてるのかわからんクソガキだと思ってたが……というか今でもそれは変わらんが。お前がそういう風に言い出す事を俺は嬉しく思う」
「ば、坂東さん……急にどうしたんですか?」
「救世主なら何でもいいだなんて俺は思わん。どうせ俺達を救う存在なら、誰かの為に闘える男の方がいいに決まってるだろ」
無愛想にそういい捨てると坂東は桂と向き合う。
「政府には了承を得ました。実際彼らからは得る物も大きい。リスクに見合うだけのリターンは期待できますよ」
「…………わかった。私も本部へ確認を取ろう。救世主きっての願いだ……君は君の働きに対する報酬を得るべきだからな」
桂の言葉に舌打ちする坂東。彼らは日本政府とエスノ機関――ひいては米国の現場責任者である。そこはそれ相応の駆け引きがあったのだが……理人にはどうでもよい事だ。
「そういえばメアリーが見当たらないんですけど」
「ああ。お前らの戦いが終わった頃合に俺が拾っておいた。あの高さから落下してまだ生きてるんだから、異世界の強化人間ってのは凄まじいな」
肩を竦める坂東。メアリーは落下の衝撃を才で相殺し、そのまま気絶していたのだ。幾ら強化人間といえども死ぬ時は死ぬ。今は病院に担ぎ込まれたが、助かるかどうかは五分五分だという。そんな話を聞き、しかし理人は興味無さそうに笑った。
「最期までメアリーは生きようとした……それだけで十分じゃないですか」
「いやいや。助からねーと意味ねーだろ……」
「ゼータ1が消滅するまでどれくらい時間が残されているのかわかりません。早速彼らをこちらに移動させましょう。坂東さん、一緒に来て誘導を手伝ってください!」
「大人を顎で使うんじゃねえよ、クソガキが」
ぶつくさ言いながらもついていく坂東。桂は二人を見送り盛大に溜息を吐いた。
「本国が黙っていないだろうな、これは……」
「いいじゃない。どっちみちアメリカはゼータ1の技術を奪うつもりだったでしょ?」
「奪うのではない。“独占”するつもりだったのだ。秘密裏にな。日本政府がおおっぴらに介入してきてはそれも難しくなる。どやされるのは私なのだ、勘弁してもらいたい所だがね」
「世界が滅ぶかどうかって戦いをしているのに、本当はこの世界はそんな事どうでもいいと思ってる。本当に罪深いわね、人間は。ここまで来て同じ土俵の上で騙しあいなんて」
「そう言ってくれるなよエヴァ。だからこそお前も刑務所から出られたのだろう」
楽しげに笑うエヴァ。そうして紫煙を吐き出しながら目を細める。
「そうね。精々利用させてもらいましょう。救世主も、この世界も……」
ゼータ1の滅亡は確定した。その話は殆ど知らされる事なく、世界は終わりを向かえる。
ユラサの城に避難していた二千人だけがわけもわからずゲートを潜らされた。何が起きているのかさっぱりわかっていない一万五千の愚民はそれを見送り、クエンはぼろぼろの身体で文字通り身体を崩しながらヘイゼルと共にそれを見送った。
「姫様……選定民の避難、完了しました」
「そうですか……ありがとうミサギ。今日までご苦労様でした……」
「姫様……姫様ぁっ!!」
クエンへと抱きつくミサギ。身体の彼方此方がもげ、イデアを失ったことで崩れ始めていたクエンの身体が余計に崩れる。慌てるミサギにクエンは苦笑を浮かべた。
「本当にありがとう、ミサギ。貴女の事が大好きです。貴女のような人間こそ生き残るのに相応しい。どうか憎しみを捨て、争いを捨て、助け合い、支え合いながら生き延びて下さい」
「姫様……私……私、嫌です! 姫様と一緒にこの世界に残って死にます! だって、最期まで……最期まで姫様が独りぼっちだなんて、そんなの……そんなの……っ」
大粒の涙を零すミサギ。その涙を指先で拭ってクエンは首を横に振る。
「これで良かったのです。わたくしはやっと……自由になれる。そんな無責任な王様でも何かを残したいのです。守ろうとした事を、結果はどうあれ残したいのです。だからミサギ……貴女が生きていてくれる事こそ、わたくしがこの世界を守ろうとしたという事そのものなのです」
本当はそんな事言われなくてもわかっていた。だがあまりにもこの王様は惨めで哀れだ。あんなにも美しかった体も既に崩れ、残骸に成り果てようとしている。
「わたくしは何も知らずに滅びる一億の民と共にこの世界の終わりを見届けます。彼らの嘆きや怨嗟の声を一身に受けながら死に絶えます。それがわたくしの最期の役目……王の末路。ミサギ、良き旅を。貴女の行く先に……光のあらんことを」
涙を拭い顔を挙げ、敬礼する。そうしてミサギは少しずつ背後に進む。
「忘れません、姫様の事……姫様の想い。絶対に忘れません! 私が受け継ぎます! 必ず争いのない世界を……誰も涙を流すことのない世界を……この手で、必ずッ!!」
後退した先には才人の精鋭部隊が整列している。熟練の兵士達は抜刀し、その剣を胸の前に構える。クエンは頷き、彼らの最期の行軍を見届けた。
「さあヘイゼル。貴方も行きなさい。貴方は生き残ったゼータ1の指導者として彼らを纏めなければなりません。これまでもやっていた事です、出来ますね?」
「……ああ。何の問題もない。俺が彼らを守る。お前の分まで、必ず」
振り返りヘイゼルはクエンの身体をそっと抱き締める。そうして理人に奪われた右目を覆う瞼にそっと口付けをした。それはこの世界でいう所のプロポーズ、或いは王に対する絶対の忠誠の証。クエンは少しだけ頬を赤らめながら笑った。
「今のは……どっちですか?」
「どっちもだ。お前は俺が心の底から愛したたった一人の女にして、俺が心の底から守ると誓ったたった一人の王だ。俺の人生はお前の為にある。例えお前がいなくなったとしても……そこから先に待っているのが地獄だとしても。俺はお前だけをただ愛し続けると誓う」
「ヘイゼル……私……私も……あっ」
その時、クエンの足が崩れて落ちた。慌ててヘイゼルが抱き留める。
身体がぼろぼろと光の破片になって朽ちて行く。痛みはなかった。こんなにも罪深い命だというのに、あんまりにも終わりが安らかなものだから、思わずクエンは笑ってしまった。
「ごめんなさい、ヘイゼル。できれば貴方には……綺麗な身体でお別れしたかったな……」
「お前は美しい。この世界の誰よりもな。今だからこそ美しいんだ。傷だらけの王よ」
笑顔のまま涙を流すクエン。そうしてそっと崩れかけた腕を伸ばし。
「貴方の腕の中で逝けてよかった。わたくしは……一人ぼっちだったけれど。だけど最期くらいは貴方の腕の中で……まるで、人間のように……」
腕が崩れヘイゼルの頬には届かなかった。抱き留めていた身体も崩れて落ちる。呆然とするヘイゼル。最早原型を遺しているのは首から上だけ。クエンはその状態で言った。
「さようならヘイゼル。わたくしが消えれば世界も閉ざされます。貴方は早くゲートへ」
「……………………俺は」
きつく目を閉じ過去へ想いを馳せる。まだ幼い少年だったヘイゼルが出会った幼い少女。あれからどんな時も彼女を見守って来たのに。最後の瞬間だけは見届ける事が叶わない。
「さようならクエン……本当に……愛してた」
涙を流したまま背を向けて走り出した。一歩足を前に進めるごとに全身が、本能が、魂が戻れと叫んでいた。だがそれを振り切って男は前へ進む。
何一つ守れなかった愚かな男に残されたたった一つの希望。それは彼女の最期の願いを叶える事だ。他にもう何もないのなら。ここから生き残る事が地獄だとしても進もう。ただ彼女の為に心を殺し続けよう。それこそが贖罪であり――彼の救済なのだから。
「さようなら、ヘイゼル」
男の姿がゲートに消え、そのゲートさえも消えた。クエンの顔に亀裂が入り頭さえも完全に消えてなくなった時、ゼータ1全てを照らす赤い光が降り注いだ。
何も知らない人々が空を見上げて呆ける間に終わって行く。一億の命は本当に造作も無く、瞬きの間に消えてなくなった。苦しむことすら出来なかった事を哀れと思うべきか、せめてもの救いと感じるのかは人それぞれだ。
世界は等しく浄化された。全てはゼロに戻る。この世界に積み重ねられた億を超える時間はあっという間に無価値に落ちた。光の中に浮かんだクエンの自我が理解したのは、己の人生の無価値さ。己の世界の無価値さ。ただ目を瞑り、流れに身を任せて――。
「ゼータ1、消えたな」
どこでもない、いつでもなく、誰のものでもない場所。そこに二人の天使が浮かんでいた。
片方はデルタ4の天使、トレイター。もう片方はゼータ1のケルビナだ。二人は救世主の決着を見届けると、ゆっくりと立ち上がった。そもそも座ってもいなかったのだが、まあそういう風に二人は感じたのだ。
「貴方の勝ちですね、トレイター」
「だな。何か言い残す事はあるか?」
「そんな人間のようなもの……あるわけないでしょう?」
クエンの身体が光になって消えたようにケルビナの身体も消え始めていた。天使と救世主はある理由から一心同体なのだ。それを人間達は知る由もなかったのだが、ともかくこれでケルビナは消える。消えて、神の懐へと帰るのだ。
「これで貴方は何勝目ですか? トレイター」
「んー……数えるのも飽きちまったからなぁ。それに勝っても負けても俺達にとっちゃ大した意味はない。死ねば神の座に帰る、それだけだろ?」
「本当にそう思っているのですか? 常勝の死神ともあろうものが」
口元をにたりと緩めるトレイター。ケルビナは鼻を鳴らし背を向ける。
「精々踊りなさいトレイター。貴方の望むままに」
「ああ。とっとと失せなケルビナ。何度俺の前に立っても、また同じ様に殺してやるよ」
消滅したケルビナの残滓に振り返る事も無く歩むトレイター。銀色の髪を掻きあげながら軋る様に笑みを浮かべる。
「俺とお前の世界を誰にも邪魔させはしねぇ。なあ……理人。我が愛しき主様よ」
奇跡的に一命を取りとめたメアリー・ホワイトであったが、右目と右腕は完全に損失し、それ以外の場所にも深刻なダメージを負っていた。
東京の軍病院に入院したメアリーが目を覚ましたのはあの戦いから四日後。生死の境を彷徨いに彷徨った挙句目覚めた彼女に突きつけられたのはお世辞にも良い話ではなかった。
「ぶっちゃけるとね。メアリー、アンタの寿命ってかなり短いみたいなのよね」
窓を開けながら語るエヴァの声。だがメアリーはそんな事とっくにわかっていた。
強化人間の寿命は短い。デルタの人間でありながらゼータの仕様に肉体を改造したのだから、無理に無理を重ねてしまっているのは明らかだ。だが彼女の死期が迫ってきている理由はそれだけではなかった。
「理人の使ったあの力なんだけどね。そう、あの光をぶわってだす能力。あの光なんだけど、なんだかよくわからないエネルギーなのよね。それがどうも無機物に対しては無害なんだけど、生命体に対しては強烈な毒を持っていて……あの光を浴びると人体が原子レベルで分解されてしまうみたいなの。メアリーは直接あの光を浴びたわけじゃないけど、光を放ったときに傍にいたでしょ? だからアンタの身体、見た目にわからないけどそーとーボロボロになってる訳」
ベッドに横たわったままメアリーは窓の向こうの青空を見上げる。入り込んだ爽やかな初夏の風が白いカーテンを揺らす様をまるで世界の全てのように見つめていた。
「幸い人間の細胞は生まれ変わるものだから、一度に多量浴びなければいきなり身体が崩れるって事はないんだろうけど、DNAに悪影響を及ぼすっぽいのよねえ……って聞いてる?」
「……ゼータ1は、どうなったの?」
溜息を一つ。まあどうせ今はよくわかっていない理人の力だ。メアリーの身体に悪影響があるというのは間違いないが、わかっているのはただそれだけである。説明するだけ無駄である。
「消えたわよ。二千人の移民を残してね」
「移民……?」
「救世主のぼうやが決めた事なのよ。今その大人数をどこにどうやって収容するか、世間様を騒がせないで処理するかっていうのでどこもかしこもてんやわんや。救いがあるとしたら、移民連中はみんなこちらに従順で礼儀正しいって事かしらねー」
移民に選定された者達は世界を受け継ぐ資格があるとクエンが認めた者達だ。彼らは本当の意味で革命戦争を生き延びた二千人である。才能力部隊が統治している事もあり、暴動が発生する事はない。彼は良くも悪くも最後まで救世主の言いなりだった。
「メアリー、これからアンタどうするの?」
沈黙。エヴァは荷物を纏めながらもう一度問う。
「ゼータ1の生き残りには手を出さない方がいいわよ。ぼうやが怒るから」
「……もう、興味ないわ」
それは本人にも意外な事にすんなりと、本当に自然に口から出た言葉であった。
「どうでもいいの、もう」
あんなにも拘っていた事なのに。自分を支えていた唯一の願いなのに。
クエンが死んだ。世界が滅んだ。それで復讐が終わり? そもそも復讐とはなんだったのか? 何をすれば終わる? 直接の加害者であるあの科学者達はとっくに死んでいたのに。クエンに罪はなかったのに。誰のせいでもなかった悲劇に対し、誰に向かって復讐すべきだったというのか。最早全ては無意味。詮無き事。あらゆる現実を拒絶するように、今を拒絶するようにメアリーは膝を抱える。何も考えたくなかった。ただ毛布に包まれて眠りたかったのだ。
エヴァはその様子に溜息を一つ、しかし何も言わずに病室を立ち去った。メアリーは丸くなったまま時間を過ごし、しかし結局一睡も出来ず、青空が夕焼けの赤に染まるまで丸くなっていた。胸の内はがらんと穴が開いたように寂しく、最早何の感情もわいて起こらない。
「メアリー」
そこに少年の声が響いて少女はやっと毛布から顔を出した。ランチバスケットを持った秋月理人は笑顔で挨拶すると、パイプ椅子を立ててその上に腰を下ろした。
「目を覚ましたって聞いてね。よかった、生きていて」
メアリーは毛布に包まったまま身体を起こした。そうして理人を見つめる。
「どうしたの? 傷、痛まない? 寒くない? 窓閉めようか?」
「私……どうして生きてるんだろう?」
心底不思議そうにメアリーが言うものだから、理人も首を捻ってしまう。
「あの時死んでいれば良かったのに、私……生き残ってしまった。その気になれば死ねたのに。落下の衝撃を才で……」
「それだけ君が生きたいと思っていたんだろうさ。自然なことだよ、それは」
「生きていた所で私にはもう何もないのに……?」
そう、本当になにもかもすっかりなくなってしまった。帰るべき故郷も、待ってくれている人もいない。折角出来た仲間も友も裏切り殺して、ただ命だけを取りとめてしまった。
「意味のない人生……それがこれから永遠に続く。私はそれが……怖くて堪らない」
「意味ならあるさ」
ポケットに手を突っ込み、そこから理人が取り出したのはクエンの眼帯であった。理人は呆けているメアリーの手を取り、その上に眼帯を乗せる。
「クエンが死んで君は生き残った。クエンの分だけ生きろ。その人生を彼女に捧げ、滅ぼしたものに捧げ、今は亡き家族や友の為に捧げろ。君は生き続ける限り罰を受け続ける。その身を焦がす苦悩に悶え続け、その痛みを頼りに生き続ければいい」
「痛みを……頼りに……」
「それで物足りないのなら、僕の為に生きればいいじゃないか。僕にとって君は必要だよ、メアリー。君の力は、あんなにも僕の役に立ったじゃないか」
ゆっくりと顔を挙げ逡巡するメアリー。そう言われても、正直理人の事はなんとも思って居なかった。そりゃ救世主なので親しくしておいたほうが便利だったし、守らなければ負けるからそばにいたけれど、ただそれだけだ。それ以上の感情なんて――。
と、そこで理人はランチバスケットからサンドイッチを取り出した。きょとんとしているメアリーの前にそれを差し出す。
「あーんして、ほら」
「え……あの……」
「あーん」
いつぞやの事を思い返しながら口を開けるメアリー。齧りついたサンドイッチはこれまた何がどうなっているのか理解出来ないほどにうまかった。
「おいしい……!?」
「僕と一緒に居ればまた作ってあげるよ。いくらでもね」
笑いながらそんな事をいう理人。メアリーは思わず釣られて笑ってしまった。
「食べ物で釣るなんて……安く見積もられたものね、私」
「理由なんてどうだっていい。この世界はクソそのものだ。何の意味も無い。だったら理由はなんだって構わない。生きて行く事に意味なんかない。生きているからこれからも生きるし、死ぬ時は死ぬ。それだけだろう? メアリー」
今はなんとなく理人の言っている事の意味がわかる。わざわざここから自殺してみたり、ゼータ1の残党狩りをしてみたりしてもそれは多分何の意味もないことなのだ。
けじめをつける意味でクエンとの戦いは必要だった。だがそれでこれまで自らを縛り付けていた鎖が解けたというのなら、後に残されたのはただ自由な自分だけ。何の意味もない人生だけ。そこに何一つ残って居ないというのなら――もう後の事はどうだっていいじゃないか。
「とりあえず生きてみなよ。僕みたいにね」
眼帯を握り締め安らかに目を閉じるメアリー。彼女がゆっくりと、しかし確かに頷いたその瞬間、何者にもなれなかったメアリー・ホワイトは何者にもならないまま、ただ自由に自らの時計の針を進め始めた。
――二ヵ月後。エスノ機関、日本支部。その支部長室に集められた理人達の姿があった。
「メアリーは退院おめでとう。直後で申し訳ないが、今後の方針について話をさせてもらおう。トレイター、あの話を」
「あいよ。さーて、そいじゃあまずは祝福の言葉から行こうか。神の祝辞だぜ、モノホンの福音だから心して受け入れ喜びな」
桂の机の上でクラッカーを鳴らすトレイター。そうして笑顔で宣言した。
「まずは“第一回戦”の勝利おめでとう! 次も頑張ってくれよなー!」
「……えーと。ということは、つまり?」
「おう! 次は二回戦って事だ!」
トレイターの言葉はある程度予想していた事だ。理人は苦笑を浮かべ、しかしどこか嬉しそうに前を見た。桂はそこで咳払いを一つ、立ち上がって一同を見つめる。
「我々エスノ機関は引き続き救世主である秋月君をサポートし、敵異世界との戦闘を継続する。二戦目の相手についてはまだなんの情報もないが、一戦目と同じ、或いはそれ以上の激戦になるだろう。各員の奮闘に期待する」
理人の隣、隻腕隻眼となったメアリーが小さく息を吐いた。自分がなぜまだここにいるのか、それはわからない。他に生き方が見つからないのもある。だがとりあえず――今は理人の傍に居よう。そして彼女の為に後悔し続けよう。この身と魂の全てを煉獄の炎が焼き尽くすその時まで――この右目の眼帯と共に。
「それでだ。前回の対ゼータ1戦で我々はあまりにも準備不足が過ぎた。本部はこの日本支部の防衛設備の増築を急ぎ、ついでに追加戦力の配備を承認した。そしてここにエスノ機関の実働部隊、“ロンギヌス”の発足を決定する。ではその隊員を紹介しよう」
桂の合図で扉が開き、見知った顔が入ってくる。それはエスノ機関の制服を身に纏ったヘイゼルとミサギであった。
「本日からロンギヌスで才能力部隊を指揮する事になったヘイゼル・オオギだ」
「その補佐をする事になったミサギ・アカミネです。どうぞ宜しくお願いします!」
驚愕するメアリー。そこへミサギが歩み寄る。
「私、メアリーの事許したわけじゃないから。それでも……今はこの世界が私達の世界だから。だから……姫様の代わりにこの世界を守る。私たちの為に」
「……ミサギ……」
「メアリーの事は許さないよ。だけど――その力は頼りにしてる。だからこれからよろしくね。メアリー・ホワイト」
握手を求めるミサギ。メアリーはそれに応じようとしたが右腕が無い。慌ててミサギは左手を出し、メアリーは少し照れくさそうに手を取った。
「あのー、よくわかんねッスけどこっちも自己紹介していいッスかねえ?」
そんな二人の後に続いて男が一人。理人に歩み寄り声をかける。
「久しぶりだな少年。事情を聞いた時はぶったまげたが、まあこれも何かの縁だろ。これからよろしく頼むぜ」
「あなたは、えーと……自衛隊の人?」
「天城大輔だ。アメリカが送ってくれた新型兵器に合わせて編成された小隊の隊長をやる事になった。一応ロンギヌスの末席だ、宜しく頼むぜ」
がしりと肩を組んでウインクする天城。理人は苦笑を浮かべて頷いた。
「エヴァには兵器開発と異世界の研究を引き続き、坂東には日本政府との連絡役と諜報部隊の指揮を任せる。救世主はロンギヌスのトップを、そしてメアリーにはその補佐を命じる」
横一列に並んだ異世界混合部隊。立場も力もそれぞれ違う者達による、神を殺す名を与えられた防衛部隊。それが彼らの始まりであり、平穏な日常の終わりであった。
「さぁて、そいじゃ次の対戦相手の世界の名前だけ教えておこうかねぇ……」
俯いたメアリーの手を握り締める理人。トレイターの言葉にゆっくりと目を開いて。
今ここに生きている意味なんてない。世界に価値なんてない。それでも戦い続ける。いつか何者かになる為に。今はただ――裁かれ続ける為だけに……。
救世のパラノイア
~モーメント・オブ・リヴァレーション~
「生きてみるよ、クエン……もう一度、自分の為だけに」
赤い光の向こうに見える幻を追いかける。いつかその幻影に追いつけるその日まで――。




