第二話
魔道書の写本を作ってから、ルーチェの生活は確かに変わった。
仕事をこなす事に変わりは無かったが、散歩、兼野草採集の時間が殆ど無くなって、魔術の勉強の時間に当てられることになった。外にいる時間が少なくなった。それでも勉強は楽しくて、ルーチェは今までよりも楽しい日々を過ごすようになった。途中までは。
そう、途中まで。途中までは良かったのだ。けど途中から問題が生じた。
座学はルーチェにとって何の障害も無く進んだ。魔道書の内容はよく出来ていて、簡単な書き方をしているにも拘らず、この世界の仕組みや人間の可能性、魔界に対する考察など、とても魅力的な題材が飽きの来ないように、上手くまとめられていた。
例えば、この世界は「物理世界層」と「精神世界層」の二つからなる「多重積層構造」になっていて、物理世界層は「マテリアルレイヤー」。精神世界層は「アストラルレイヤー」と呼ばれているだとか。
例えば、人間が魔術を使えるのは「コア」と呼ばれる、魂に該当する器官から魔力を引き出す事が出来るからだ、とか。
とても興味深い事実だった。もっと知りたいと思った。だからルーチェは写本の内容を三ヶ月もしない内にほぼ理解しきったし、次の段階の訓練へと進んだ。
でも、そこからがきつかった。
それは「自覚訓練」と呼ばれるものだ。自分の中のコアの存在を自覚する、魔術師になる為の第一歩となる訓練。ルーチェはそこで躓いた。
(だって、訳が分からない。魔道書を読んでも「特殊な『魔具』を利用した開眼が一般的な方法である。稀に瞑想や先天的に自覚する者も存在する」だなんて、事しか書いていない。こんなんじゃ出来る訳ないじゃないの)
特殊な魔具。魔具とは噂に聞く、魔法の道具のことだ。魔物を倒した時に稀に残る「コアクリスタル」という物を動力源にした凄い物らしい。とにかく、そんな田舎に存在する訳がない物を利用するのが普通だとか言われても困るし。残念ながら先天的に自覚などしていないルーチェとしては、ここは原始的? に瞑想でいくしかない。
けど無理だ。集中力には自信がある方とはいえ、年頃の娘に瞑想の経験がある筈ない。何なら道行く女の子を捕まえて「貴女は瞑想経験がありますか?」なんて質問してみればいいのだ。絶対に「NO」と返事が返る筈だから。
ルーチェは半ば自棄になって訓練を続けた。けれど、いつまで経っても自覚訓練は進まなかった。
始の一ヶ月目はまだ良かった。二ヶ月目もまだ耐えられた。三ヶ月目はもう無理だった。目に見えてルーチェは苛つき始めた。四ヶ月目になると苛つきは逆に収まって、今度は自分には才能がないんじゃないかと自信を失いかけた。その途中の12月、ルーチェの13歳になる誕生日さえも、つまらなく過ぎていった。
そんな時だった。就寝前にルーチェは、クレアに呼び出された。食卓に座るよう促される。
「ルーチェ、ちょっと話があるの。ここに座って?」
「うん。いいけど、どうしたの? ご飯の時に言えばよかったのに」
「それでも良かったんだけど、何だか言う時期を逃しちゃって。はい、どうぞ」
「わー、やったぁ!」
温かなココアがコップに注がれて、ルーチェに渡された。高価な為に滅多に飲めないココアは、ルーチェの大好物だ。
クレアは自分の位置にホットミルクを置くと、椅子に座り溜め息を吐いた。そうして、美味しそうにココアを飲むルーチェを見て微笑みながら、自分もミルクを一口飲む。
「最近ルーチェ、何だか凄く疲れてるわよね。勉強のし過ぎなんじゃないかしら」
「……そんなことないよ。全然、寧ろ足りないくらいで」
「お母さんはそうは思わないなぁ」
「……何で?」
「だってルーチェは、頑張りやさんだもの」
不満そうな声を出すルーチェに、クレアは両手でミルクを飲んで、くすくすと笑った。
「ルーチェは何時だってそうだもの。要領が良いように見えて、自分で決める目標がとても厳しいの。だから一回決めたら絶対にそれを遂げようとするのよね。家の仕事だって、お母さんが頼む前から自分で『ここまではやらなくちゃ』って決めて、少し大変でも絶対にそうしようとするじゃない。覚えてるわよ。ルーチェがまだ8歳のとき、ミーテルおばさんのとこの娘さんが何度遊びに誘ってきても、午前中は絶対に遊びに出かけなかったじゃない。『まだやることがあるからって』。そういえばあれからあの子、ルーチェのこと誘わなくなったなぁ」
「うん」
「寂しいわねぇ」と呟くクレアに、ルーチェは何も言えなかった。
クレアの優しさと愛情が、ココアの湯気と共にとても伝わってきて、胸が一杯になった。
「お母さん心配しちゃったの。貴女は自分の事は自分でする子だし、言いたいことは大体言ってくるから、お母さん凄く助かってる。私達の娘はこんなに賢くて、こんなに素敵に育ってるって、お母さん毎晩寝る前にお父さんに伝えてるのよ?」
「……うん」
「だけどね、同時にすっごく寂しいの。ルーチェがお母さんに甘えてくれないのがすっごい寂しいの。だから、ね」
「うん」
「何か辛いことがあったり、悲しいことがあった時。どうしても上手くいかない時。そんな時はお母さんに話してみて? もしかしたらもう、ルーチェの方が頭がいいかもしれない。だけど私はお母さんだから、ルーチェの楽しい気持ちだけじゃなくて、辛い気持ちも受け止めてあげたいの」
「……ん、ありがと」
ルーチェは俯いた。涙が出ていた。初めてといって良いかもしれない。嬉しくて出た涙だった。
クレアは立ち上がりルーチェの頭を撫でると「毎回は無理だけど、またココアを作ってあげるわね」と言って部屋を出て行った。
ルーチェはもうしばらく食卓についていた。ココアが少し冷めたが、それでもとても優しい味がした。
それからというもの、ルーチェは大分落ち着いた。相変わらず訓練は進んでないが、それでも心にゆとりができていた。
水汲みや散歩で外に出かける時、村の人に会うと「大人っぽくなったね」と言われるようになった。少し嬉しく感じて「そんな自分はまだまだ子供だなぁ」と、ルーチェは思う。
相変わらずこの村は小さくて、この辺りでルーチェの知らない「場所」はきっともうないだろう。でも、ルーチェの知らない「事」はきっとたくさんある。
「だったら、こんな生活も悪くはないんじゃないかな」
ルーチェは自然とそう思えるようになっていた。そうなると、人間というのは不思議なものだ。肩の力が抜けたからか、理由はよく分からないが、少しづつ訓練が上手く行くようになってきた。
そうして年が明けて、訓練開始から5ヶ月余りが過ぎた日。ルーチェは初めて自分のコアを自覚した。大喜びだ。
その日の夜。ルーチェは夕食の時間にクレアに向かって微笑むと、告げた。
「お母さん、私、出来ちゃった」
「……えっ。なっ、何が出来たの?」
「魔術の初歩、ずっと訓練してたの。……遂に出来ちゃったのっ!」
「ああ、魔術ね。……魔術?」
クレアは慌てた表情を見せ、続く言葉でほっとした表情を見せる。そして何かを悩むかのような表情へと、めまぐるしくその顔を変化させた。
「うん、そうだけど、どうかしたの?」
ルーチェはそんなクレアの様子をいぶかしみ声を掛ける。だがクレアは「何でもないわ」と言い、少し困ったような微笑みを見せたあとにココアを作ってくれた。
とても暖かくて、甘いココアだった。
それからもルーチェは、村での生活を前より楽しく過ごしながら、次々と訓練課程を進めていった。
魔道書を落とした客。彼らが訪れてからもうすぐ一年が経つ。
最近では自覚訓練が殆ど完璧といえるレベルになり、自身のコアの隅々まで把握したルーチェは、その付属器官である「ゲート」の訓練に精を出していた。ゲートというのはコアの一部分であり、混沌と呼ばれる異界に繋がる扉でもある。魔術師はここから魔力や存在を引き出す事によって、魔術を行使するのだ。
またこの段階になると「パス」と呼ばれる「精神接続能力」の訓練も同時進行する。これが以上に難しかった。既に実践の領域だといえるからだろう。ルーチェの訓練生活はまたしばらく滞った。
けれどたまにクレアに愚痴を溢したり、村外れの森で見つけたお気に入りの広間で昼寝をしたり、そんな事で息抜きをしながらルーチェはゆっくりと、着実に訓練を重ねていった。
今日も静かな食卓で二人。ルーチェはスープを詰まらなそうに口に運ぶと呟く。
「お母さん、私って才能ないのかなぁ」
「ルーチェに才能がなかったら、お母さんなんてきっとみそっかすよ」
よく愚痴を溢すようになったルーチェに、クレアはからからと笑ってそう言った。
そんな風に笑えるクレアの方が凄いんじゃないかと、ルーチェは歳の割に美人なクレアを見て「お父さんは幸せ者だったんだなぁ」と思う。
他愛無い日常がそこにあった。
季節が巡って、また冬になる。12月はルーチェの誕生日だった。
これでルーチェも14歳。婚約が許される年になる。この地方では14歳で婚約が許され、16歳で結婚する者も多かった。
ルーチェにはそんな気も相手も居やしないが、ようやく大人の仲間入りという物だろう。母は誕生日祝いに、ハチミツのたっぷりと掛かったバターケーキを焼いてくれた。
「それじゃあ火をつけるわよ?」
「あっ、ちょっと待って」
ルーチェは覚えたての魔術で世界を構成する精霊の一つ「火霊」にパスを結ぶと、ケーキに立てられた蝋燭に小さな火をつけた。
目を丸くして驚いているクレアを見てくすくすと笑って、そんなルーチェを見てクレアが笑った。二人揃って訳もなく大笑いをした。
笑いが収まった所で、ようやくお待ちかねの食事の時間となった。これが、ほっぺたが落ちるかと思う位美味しい。ルーチェは何度もクレアの腕前を褒め称えた。
その日の夜、ルーチェはクレアの部屋で一緒に眠った。
いつからか、ルーチェは一人で眠るのが当たり前になっていた。いや、自分でそう決めたのだ。
けれど、こうして誰かの体温を感じて眠るというのは、とても幸せな事ではないだろうか?
「偶には、二人で寝るのもいいね」
「お母さんはいつでも歓迎よ」
「んー、偶には、ね」
「ふふふ」
ルーチェは照れて壁のほうを向いて眠った。髪をクレアに撫でられる。優しい手つきだった。
(いつか私も、こんな風に優しく誰かの頭を撫でるのかな)
いつのまにかルーチェは眠りに落ちた。その日は夢を見なかった。
夜が去ったのが残念な位、清清しい朝だった。




