修羅場となった地獄の誕生日会
後書きに告知あり
クライネは知っていた。婚約者であるバリードが、自分以外の女性と親密な関係を持っていることを。しかも、彼女が把握しているだけでも二度にわたって不貞を疑わせる出来事があり、そのたびにバリードは何食わぬ顔で婚約者として振る舞っていた。
一度目に疑いを抱いたのは、数ヶ月前のことだった。バリードの屋敷を訪れた際、彼が外出しているはずの時間に、侍従が慌ただしく廊下を駆けていく姿を目撃した。何事かと尋ねても、侍従は視線を泳がせるばかりで、満足な説明をしようとしなかった。その数日後には、バリードの執務室で、見知らぬ女性の名前が記された手紙を偶然見つけてしまった。封筒には甘い香水の匂いが残っており、婚約者であるクライネに宛てたものではないことは明らかだった。
それでも、クライネは彼を問い詰めなかった。婚約者を疑うことへの抵抗もあったが、何より、証拠もないまま騒ぎ立てて彼の評判を傷つけることを恐れていた。バリードは社交界でも評判の良い青年であり、クライネ自身も、長年にわたって彼を誠実な人物だと信じていたのである。
二度目は、それからしばらく経った夜会での出来事だった。バリードが会場に姿を見せていたと友人から聞かされたにもかかわらず、翌朝、本人は急用が入って出席できなかったと説明した。さらに、その夜会に参加していた別の友人から、彼が若い令嬢と親しげに腕を組んでいたと知らされたのである。
「見間違いではないと思いますわ。あのお二人、とても親しげでしたもの。クライネ様には申し上げにくいことですけれど……」
友人は申し訳なさそうに言葉を濁したが、クライネには十分だった。以前から抱いていた疑念が、ようやく確信へと変わり始めたのである。もちろん、男女が腕を組んでいたという話だけで不貞を証明できるわけではない。それでも、夜会への出席を隠した理由について、バリードが納得のいく説明をできるとは思えなかった。
クライネが何より腹立たしく感じていたのは、彼が自分を欺きながら、周囲には理想的な婚約者として振る舞い続けていることだった。礼儀正しく、誰に対しても親切で、困っている者がいれば率先して手を差し伸べる。そんなバリードの評判は非常に良く、社交界の令嬢たちからも厚い信頼を寄せられていた。
以前、クライネは何人かの令嬢に遠回しに相談したことがあった。ところが、返ってきたのはバリードを擁護する言葉ばかりだった。彼ほど誠実な方はいない、きっと何かの勘違いだろうと諭され、最後には婚約者を信じてあげるべきだとまで言われてしまったのである。
以来、クライネは誰にも相談しなくなった。だからといって、裏切りを受け入れたわけではない。婚約者としての義務を果たす気のない男に、自分の将来を預けるつもりなどなかった。いずれ必ず婚約を解消する。そのためにも、誰もが認めざるを得ない証拠を手に入れる必要があった。
ところが、バリードは用心深かった。クライネの前では相変わらず優しい婚約者を演じ、女性関係について尋ねても、仕事上の付き合いや古くからの知人だと説明するばかりである。クライネは彼の言葉を信じていなかったが、疑惑を裏付ける手段も見つからず、数ヶ月もの間、悶々とした日々を過ごしていた。
そんな折、思いがけない機会が訪れた。
◇
その日、クライネは親しい令嬢たちが集まるお茶会に参加していた。庭園に面した広間には午後の柔らかな陽射しが差し込み、丸い卓の上には色とりどりの焼き菓子と、季節の花を飾った小さな花瓶が並べられている。令嬢たちは新しいドレスや近頃の社交界の話題について語り合い、穏やかな時間を楽しんでいた。
クライネも会話に加わっていたが、婚約者の話題になると、どうしても気持ちが沈んでしまう。そんな彼女に、向かい側に座っていた令嬢が何気なく声を掛けた。
「そういえば、クライネ様。もうすぐバリード様のお誕生日ではありませんこと?今年はどのようなお祝いをなさるご予定ですの?」
紅茶を口元へ運ぼうとしていたクライネの手が止まった。言われてみれば、確かにバリードの誕生日が近づいている。例年ならば一ヶ月ほど前から贈り物を選び、彼の好みに合わせて祝いの席を準備していたものだが、今年はその日が近づいていることさえ忘れていた。
「まだ何も決めておりませんの。そろそろ準備を始めなければいけませんわね」
「まあ、意外ですわ。クライネ様は毎年、とても素敵なお祝いをなさっていると伺っていますもの。今年もきっと、バリード様がお喜びになるのでしょうね」
令嬢たちは口々に祝いの席について語り始めた。どのような贈り物が喜ばれるか、どんな料理を用意すべきかと、まるで自分たちのことのように楽しそうに相談している。クライネは微笑みを浮かべながら、その会話に耳を傾けていた。
浮気を繰り返している男のために、時間と費用を費やして祝いの席を設ける。考えれば考えるほど腹立たしく、できることなら誕生日など忘れたままでいたかった。けれども、婚約が続いている以上、何もしなければ今度はクライネの方が不誠実だと非難されかねない。
そこで、ふと一つの考えが浮かんだ。
バリードは近頃、クライネが訪問する予定のない日には、屋敷で過ごすことが多くなっていた。以前、突然訪ねた際には侍従たちが妙に慌てていたこともある。もし、彼に知らせず屋敷を訪問したならば、普段は隠されている何かを目撃できるかもしれない。
もちろん、必ず浮気の現場に遭遇できるとは限らない。だが、誕生日のお祝いという名目があれば、不意の訪問も不自然にはならないだろう。さらに、バリードを信頼している令嬢たちに同行してもらえば、万が一の際にもクライネ一人の証言として片づけられることはない。
「皆さま、一つご相談がございますの」
令嬢たちの視線が一斉に集まった。彼女は少し考えるように間を置き、穏やかな笑みを浮かべて提案した。
「今年は趣向を変えて、サプライズパーティーを開こうと思いますの。バリード様には内緒で準備を進めて、当日、皆さまと一緒にお屋敷へ伺うのはいかがでしょう?」
「まあ、素敵ですわ!きっとバリード様も驚いてくださいますわね!」
「わたくしも賛成ですわ。あの方はいつも皆さまに親切ですもの。ぜひお祝いさせていただきたいです!」
令嬢たちはすっかり乗り気になり、誰を招待するか、どのような贈り物を用意するかと相談を始めた。クライネはその様子を眺めながら、計画を慎重に練り上げていった。祝いの準備は自分が引き受け、当日は令嬢たちと共にバリードの屋敷を訪れる。屋敷の使用人には事前に事情を説明しておくが、本人には知らせないよう念を押すつもりだった。
「それでは、準備はわたくしにお任せくださいませ。皆さまには当日、お祝いにいらしていただければ十分ですわ」
クライネの言葉に、令嬢たちは嬉しそうに頷いた。彼女たちは、婚約者を喜ばせようとする健気な令嬢の姿を微笑ましく見守っていたが、クライネが胸の内に抱いている本当の目的を知る者は一人もいなかった。
◇
そして迎えた、バリードの誕生日当日。
クライネは淡い水色のドレスに身を包み、髪を丁寧に結い上げていた。胸元には小粒の宝石をあしらった首飾りを着け、手には祝いの品を入れた小箱を持っている。誰が見ても、婚約者の誕生日を祝うために装いを整えた令嬢にしか見えないだろう。
約束の時刻になると、数台の馬車がクライネの屋敷へ集まった。招待した令嬢たちは皆、華やかな装いで姿を見せ、バリードがどれほど驚くだろうかと楽しそうに語り合っている。クライネも笑顔で応じながら馬車に乗り込み、一行は彼の屋敷へと向かった。
バリードの屋敷に到着すると、玄関に現れた侍従は、突然の来客に目を丸くした。クライネはあらかじめ家令に計画を伝えていたものの、すべての使用人に話が行き渡っているわけではなかったらしい。
「クライネ様……本日は、皆さまでお越しでございますか?」
「ええ。今日はバリード様のお誕生日でしょう? 皆さまと一緒にお祝いをしようと思いまして。ご本人には内緒ですから、どうか静かに案内してくださいませ」
侍従は一瞬ためらった様子を見せたが、クライネが微笑むと、それ以上は何も尋ねなかった。婚約者が誕生日を祝うために訪れた以上、門前で追い返すわけにもいかなかったのだろう。彼は深々と頭を下げ、一行を屋敷の奥へと案内した。
磨き上げられた床には窓からの陽射しが反射し、廊下には季節の花が飾られていた。クライネは何度も訪れたことのある屋敷の様子を眺めながら、侍従の後を歩いていく。やがて、客間へ続く廊下に差しかかったところで、扉の向こうから男女の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「まあ、どなたかお客様がいらしているのかしら?」
「お誕生日ですもの。きっと親しいご友人がいらしているのでしょうね」
令嬢たちは特に気にした様子もなく、互いに顔を見合わせて微笑んでいた。クライネは扉の向こうに耳を澄ませながら、静かに歩みを進めた。聞こえてくるのは、間違いなくバリードの声だった。そして、彼に応じる女性の声も聞こえてくる。
客間の前に到着すると、侍従は困惑したように立ち止まった。クライネは彼に静かにするよう合図を送り、同行した令嬢たちへ振り返った。
「皆さま、準備はよろしくて?せっかくですから、扉を開けたら皆でお祝いの言葉を贈りましょう」
令嬢たちは嬉しそうに頷き、扉の前に集まった。クライネが合図を送ると、二人の令嬢が取っ手に手を掛け、勢いよく扉を押し開いた。
「バリード様、お誕生日おめでとうございま――」
祝いの言葉は、最後まで続かなかった。
広々とした客間の中央には、白い布地を張った大きなソファが置かれていた。その上で、バリードが若い令嬢を抱き寄せていたのである。彼の上着は無造作に脱ぎ捨てられ、令嬢の髪もひどく乱れていた。二人は突然開かれた扉に驚き、慌てて身体を離したものの、すでに手遅れだった。
「きゃあああっ!な、何をなさっているのですか!?」
最初に悲鳴を上げた令嬢が、両手で口元を覆った。ほかの令嬢たちも目の前の光景を理解するにつれ、次々と驚きの声を上げ始める。中には顔を真っ赤にしてバリードを睨みつける者もいれば、信じられないとばかりに首を横に振る者もいた。
バリードは慌てて立ち上がり、脱ぎ捨てていた上着を拾い上げた。その顔からは血の気が引いており、普段の余裕に満ちた態度は見る影もない。隣にいた侯爵令嬢も、乱れた髪を直そうとしながら俯いていた。
「ク、クライネ!?どうして君がここにいるんだ!?」
「まあ、バリード様。今日はお誕生日でしょう? 皆さまと一緒にお祝いに伺ったのですけれど、どうやらお邪魔をしてしまったようですわね」
クライネは穏やかな笑みを浮かべ、手にしていた贈り物の小箱をそっと持ち直した。その落ち着いた態度がかえって恐ろしかったのか、バリードは何度も口を開きかけながら、まともな言葉を発することができずにいた。
「ち、違うんだ、クライネ!これは君が考えているようなことではない!彼女とは少し話をしていただけで……!」
「お話をなさるのに、そこまで身なりを崩す必要がございますの?わたくしには、どうしても理解できませんわ」
「そ、それは……彼女が気分を悪くしたから、介抱していたんだ!そうだ、少し休ませていただけなんだよ!」
苦し紛れの説明に、令嬢たちの表情が険しくなった。誰もがバリードの言葉を疑っており、先ほどまで彼を祝おうとしていた空気は完全に失われていた。
「介抱なさっていたのでしたら、なぜ上着を脱いでいらしたのですか?それに、その方のドレスまで乱れているではありませんか」
「バリード様、わたくしたちはあなたを誠実な方だと信じておりましたのに……。婚約者がいらっしゃる身で、なんということをなさるのです!」
令嬢たちから次々と非難の声が上がり、バリードはますます追い詰められていった。隣にいた侯爵令嬢も弁明しようとしたが、周囲から向けられる厳しい視線に耐えられず、とうとう涙を浮かべてしまった。
クライネはその様子を静かに見守っていた。数ヶ月もの間、自分だけが抱えていた疑惑を、今ではこの場にいる全員が目撃している。バリードがどれほど言葉を尽くしたところで、令嬢たちの目に焼き付いた光景を消すことはできないだろう。
「バリード様。わたくし、これまで何度もあなたを信じようとしてまいりました。けれども、今日という日を迎えて、ようやく決心がつきましたわ」
「待ってくれ、クライネ!君は誤解しているんだ!どうか僕の話を聞いてほしい!」
バリードは必死に手を伸ばしたが、クライネは一歩後ろへ下がり、その手を避けた。彼女の表情には怒りも悲しみも浮かんでおらず、長く抱えていた重荷から解放されたような穏やかさがあった。
「詳しいお話は、後日、両家の当主を交えて伺うことにいたしますわ。もちろん、本日ご一緒してくださった皆さまにも、必要があれば証言をお願いするつもりです」
そう告げると、クライネは持参した小箱を近くの卓に置いた。中には、バリードのために選んだ上等な懐中時計が収められている。婚約者として贈る最後の品になるだろうと思いながら、彼女は深々と一礼した。
「それでは、バリード様。お誕生日おめでとうございます。どうか、忘れられない一日をお過ごしください」
クライネが踵を返すと、令嬢たちも次々とその後に続いた。背後からはバリードの呼び止める声が聞こえてきたが、振り返る者は誰もいなかった。
◇
それから間もなく、バリードの醜聞は社交界中に広まった。誕生日を祝うために訪れた婚約者と大勢の令嬢たちが、別の女性と親密にしている彼を目撃したという話は、瞬く間に貴族たちの間で知られるようになったのである。
これまで誠実な紳士として評判だっただけに、彼への失望は大きかった。特に、現場に居合わせた令嬢たちは憤慨しており、茶会や夜会の席でその出来事を語ることをためらわなかった。バリードがどれほど誤解だと訴えても、複数の目撃者がいる以上、彼の説明を信じる者はほとんど現れなかった。
やがて、過去にも別の令嬢と親密にしていたという噂が持ち上がり、彼の評判はさらに悪化していった。以前は彼に好意的だった貴族たちも距離を置くようになり、招待される夜会の数は目に見えて減っていったという。
一方、クライネは両家の当主を交えた話し合いの末、正式に婚約を解消することができた。バリード側も、数多くの令嬢が目撃した出来事を否定しきれず、最終的には婚約解消を受け入れるほかなかった。
婚約を解消した日の午後、クライネは自邸の庭園で紅茶を楽しんでいた。秋の穏やかな陽射しが庭を照らし、花壇には色鮮やかな花々が咲いている。これまでは何をしていても婚約者のことが頭から離れなかったが、今では久しぶりに心から落ち着いた時間を過ごせるようになっていた。
あの日、バリードの誕生日を思い出させてくれた令嬢からは、先日、次のお茶会への招待状が届いていた。そこにはクライネの新たな門出を祝う言葉が添えられており、彼女はそれを読んで思わず笑みを浮かべた。
クライネは紅茶を一口飲むと、庭園の向こうに広がる青空を見上げた。これから先、どのような人生が待っているのかは分からない。それでも、自分を裏切り続けた男の顔色を窺いながら暮らす必要は、もうなくなったのである。
バリードに贈った最後の誕生日プレゼントは、彼にとって随分と高くついたことだろう。
クライネはそんなことを考えながら、もう一度、静かに微笑んだ。
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『婚約を失った元伯爵令嬢の、幸せな暮らしのすゝめ 』
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