表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凪の底  作者: セイバー
PR
1/1

凪の底

第一章:雨あがりの、錆びた味



その日の夕方、空はまるで汚れたバケツをひっくり返したような、鈍い灰色に染まっていた。 五月半ばの空気は、梅雨の前触れ特有の、じっとりと肌にまとわりつくような湿気を孕んでいる。入り組んだ路地裏と古い雑居ビルがひしめき合い、どこを向いてもコンクリートの煤けた匂いが立ち込めていた。

21歳の大学生、梶原レンは、家賃4万5千円の木造アパートの、西向きの窓を開けたままベッドに寝転んでいた。 天井の隅にできた小さな雨漏りのシミを、もう3時間も眺めている。 机の上には、提出期限を一週間過ぎた「現代社会論」のレポート用紙が、白い骨のように放置されていた。シャーペンの芯を数回カチカチと鳴らしたものの、最初の一文字も書けないまま、芯は根元からポキリと折れた。それきり、動く気力が湧かなかった。

日常に、決定的な不幸があるわけではない。 仕送りはないが、週3日の居酒屋のアルバイトで、生活費と安い酒代くらいは稼げている。大学の講義も、代返を頼める程度の薄い友人はいた。親が大病を患ったわけでもなければ、借金に追われているわけでもない。

けれど、何かが決定的に足りなかった。 大学のキャンパスで、中身のない流行りの音楽や、誰が誰と付き合っただのといった会話に愛想笑いを浮かべているとき。バイト先で、泥酔したサラリーマンの吐瀉物を無表情で片付けているとき。 レンはいつも、自分の身体の真ん中に、ぽっかりと黒い「穴」が空いているような感覚に囚われていた。 自分はただ、呼吸をして、他人のノイズを消費しているだけの肉塊なのではないか。このまま誰にも気づかれず、静かに腐っていくのではないか。 「真面目に生きろ」という世間の無言の圧力と、それにどうしても適応できない自分の不器用さの狭間で、レンは窒息しかけていた。

夕方5時を過ぎた頃、窓の外でバラバラと激しい音がし始めた。通り雨だった。 乾いたアスファルトが激しい雨に叩かれ、特有の泥臭い匂いが部屋の中にまで流れ込んでくる。レンは立ち上がり、窓を閉めた。閉め切った途端、狭い6畳一間の空気が一気に重くなり、壁が四方から自分を押し潰してくるような錯覚を覚えた。

(ここにいたら、本当におかしくなる)

レンはポケットにスマートフォンと、半分ほど中身の残った煙草の箱、それから百円のライターだけを突っ込み、鍵を掴んで部屋を飛び出した。傘を持つことすら忘れていた。

アパートの外に出ると、雨はすでに全盛期を過ぎ、小降りになり始めていたが、容赦なくレンのボサボソの髪と、色褪せたパーカーを濡らしていった。 レンはあてもなく歩いた。行く先なんてどこでもよかった。ただ、足の裏に伝わる地面の硬さだけが、自分がまだ消えていないことを証明してくれる唯一の拠り所だった。

30分ほど歩いた頃、頭上を走る高架線から、ガタガタと激しい金属音が響いた。列車が通過したのだ。 その高架下の薄暗い路地に、古びたコインランドリーがあった。 黄色いプラスチックの看板には、ひび割れた文字で『24時間営業』と書かれている。中からは、容赦のない蛍光灯の白い光が漏れ、誰もいない店内で、数台の乾燥機が静かにドラムを回転させていた。

レンは吸い寄せられるように、その軒下に滑り込んだ。 濡れた服が体温を奪い、微かに身体が震える。高架のコンクリートからは、雨水が線のように滴り落ち、目の前の水溜まりに絶え間ない波紋を作っていた。 レンはポケットから煙草を1本抜き出し、口に咥えた。ライターのホイールを親指で弾くと、小さなオレンジ色の炎が灯る。深く煙を吸い込み、吐き出した。煙は、雨上がりの湿った空気に溶けて、すぐに消えた。

鉄錆の匂いと、煙草の煙。 世界から切り離されたようなその静寂の中で、レンはただ、次の列車が通り過ぎるのを待っていた。

「……ねえ。火、貸して」

不意に、すぐ真横の暗闇から、低めの声がした。

レンはびくりと肩を揺らし、声のした方を向いた。自動販売機の青いバックライトの影に、一人の女が立っていた。 いつからそこにいたのか、全く気づかなかった。

女は、レンと同じくらいの年齢に見えた。 オーバーサイズの黒いTシャツは肩のあたりが雨で色が変わっており、膝の破れたデニムの裾は泥で汚れている。少し伸びた前髪の間から覗く目は、ひどく冷めていて、それでいて退屈という目に見えない怪物に今にも噛みつきそうな、奇妙な強さを宿していた。 彼女の細い指先には、1本のメンソールの煙草が挟まれている。

レンは無言でポケットからライターを取り出し、もう一度、親指で火を灯した。

女は躊躇うことなく一歩近づき、ボサボソとした髪を片手で耳にかけながら、レンの差し出した炎に顔を近づけた。 その瞬間、彼女の身体から、雨の湿気と、安っぽい固形石鹸の匂いが混ざったような香りが微かに漂った。それは、大学の女子学生がつけているような、洗練された香水の匂いとは程遠い、生活の生々しい匂いだった。

チ、と小さな音がして、煙草の先端が赤く爆ぜる。 女は肺の奥まで深く煙を吸い込み、それを高架線の方へ向かって、細く長く吐き出した。

「ありがと」

彼女は自動販売機の冷たい鉄板に背中を預け、レンと並ぶようにして、薄暗い路地裏を見つめた。

「ここ、電車の音がうるさくて好きなんだよね」 彼女は煙草を挟んだ手をブラブラと揺らしながら、呟くように言った。 「すべてを掻き消してくれる気がする。自分が今、何を考えてるのかも、全部さ」

レンは、手の中のライターを弄びながら、小さく息を吐いた。 「……わかるよ」

「嘘。何も考えてなさそうな顔してるのに」

女はふっと、小さく、喉の奥で笑った。 その笑い方は、冷たいようでいて、どこかレンを値踏みするような、あるいは自分と同じ「暗い穴」を相手の中に見つけて、安心しているような、不思議な響きがあった。

二人の間を、また新しい列車が通り過ぎていく。激しい金属音と地鳴りのような振動が、高架下の空気を激しく震わせた。互いの呼吸音すら聞こえなくなるほどの轟音。 音が完全に止んだあと、路地裏はさっきよりも一段と深く、静まり返ったように感じられた。

「私、アサミ。あんたは?」

「……レン」

「ふうん、レン」 アサミはまだ半分以上残っている煙草をアスファルトに落とし、スニーカーの底で、じりじりと、容赦なく押し潰した。その動作には、自分の命すらどうでもいいと思っているような、投げやりな冷酷さがあった。

「ねえ、レン。これからどっか行かない? このまま部屋に帰っても、どうせまともな夜は来ないし」

夕闇が、急速に街を紺色に染め上げていく。 レンは、自分がこの見知らぬ女のペースに、ひどく危うい形で巻き込まれているのを自覚していた。まともな人間なら、ここで「いや、帰ります」と言うべきなのだろう。大学の友人に知られたら、絶対に止められるような状況だった。

けれど、レンの足は動かなかった。 アサミの言う「まともな夜は来ない」という言葉が、呪いのようにレンの胸に突き刺さっていたからだ。あの狭い部屋に戻っても、待っているのは冷え切ったコンクリートの壁と、終わらない空虚だけだ。

「……どこに行くの」

「さあね。歩いてれば、どっかには着くでしょ」

アサミはポケットに両手を突っ込み、レンの返事を待たずに、路地裏の奥へと歩き出した。 レンは少しだけためらった後、手の中のライターをポケットに収め、彼女の少し傷んだ髪が揺れるのを追いかけるように、静かに歩調を合わせた。

雨上がりのアスファルトを、2つの不揃いな足音が叩き始める。 それは、お互いに社会の底で立ち往生しかけている2人が、夜のノイズの中に溶け込んでいく始まりの音だった。


アサミの歩く速度は、速くも遅くもなかった。 ただ、明確な目的地を持たない人間のそれ特有の、どこか投げやりな一定のテンポがあった。膝の破れたデニムの裾が、歩くたびにカサカサと擦れる音を立てている。

レンは彼女の一歩後ろを、つかず離れずの距離でついていった。 街灯が琥珀色の光をアスファルトに落とし、二人の影を長く伸ばしては、次の街灯の下でまた縮める。通りを走る車のヘッドライトが、雨上がりの濡れた路面に反射して、眩いほどにぎらついていた。

「ねえ」 前を歩くアサミが、振り返りもせずに口を開いた。 「あんた、大学生?」

「……一応」 「一応って何。真面目に学校行ってないの」 「行ってるよ。行ってるけど、何て言うか……そこにいる自分が、あんまり本物っぽい気がしなくて」

レンは自分の口から出た言葉の、まとまりのなさに少し恥ずかしくなった。普段、大学の友人たちには絶対に言わない、言っても「何それ、病んでんの?」と笑われるだけの、青臭い本音だった。

しかし、アサミは笑わなかった。 「本物ね」 彼女は小さく呟き、夜の空気を大きく吸い込んだ。 「わかるよ。周りの奴らがみんな、台本通りに上手に生きてる役者みたいに見えるんでしょ。で、自分だけがセリフを忘れて、舞台の真ん中で突っ立ってるみたいな」

その例えは、レンの胃の奥にある空虚さに、驚くほど正確にフィットした。 「……そう、かもしれない」

「私はさ」アサミは足を止めず、少しだけ声を落とした。「役者にもなれなかったから、客席から立って出ていっちゃった感じ」

彼女がどんな過去を抱え、何を諦めてその場にいるのか、レンには分からなかった。ただ、お互いの素性を深く詮索しないことが、この夜を壊さないための、名前のないルールであることだけは察していた。

二人は、大通り沿いにある24時間営業のファミリーレストランへと行き着いた。 ガラス越しに見える店内は、深夜にもかかわらず、煌々と白い光を放っている。入り口の自動ドアがシィンと間の抜けた音を立てて開くと、冷房の効いた乾いた空気と、微かな油の匂いが二人を迎えた。

「ここ、ドリンクバーだけで朝まで粘れるから」 アサミは慣れた足取りで店の奥のボックス席へと進み、ドカ、とソファに深く腰掛けた。

レンは彼女の向かい側に座った。 テーブルの上には、汚れを拭き取ったばかりのメニュー表が置かれている。窓の外を、大型の長距離トラックが地響きを立てて通り過ぎていく。その振動が、ファミリーレストランの床を伝って、レンの足の裏に微かに届いた。

「何飲む?」アサミがメニューも見ずに聞いた。 「……メロンソーダでいい」 「子供っぽいね」 アサミは初めて、少しだけ悪戯っぽく口元を緩めた。その顔は、高架下の暗闇で見たときよりも、ずっと年相応の、どこにでもいる女の子のように見えた。

二人はそれぞれのグラスを持って、ドリンクバーへと向かった。 機械から注がれる氷のカラカラという音が、深夜の店内に妙に生々しく響く。レンのグラスには鮮やかな緑色の液体が、アサミのグラスには濁った琥珀色のウーロン茶が満たされていく。

席に戻り、互いに一口すする。 沈黙が流れた。けれど、その沈黙は、レンが自分の6畳一間のアパートで味わう、あの窒息しそうな静けさとは全く違うものだった。 目の前で、同じように世界の片隅に取り残された他人が、静かにストローを噛んでいる。ただそれだけの事実が、レンの体温をほんの少しだけ引き上げている気がした。

「レン」 アサミがウーロン茶のグラスを見つめたまま、静かに言った。 「あんたさ、明日、何すんの」

「明日は……日曜日だから、たぶん、何もしない。夕方からバイトがあるくらい」 「ふうん。じゃあ、明日の朝まで、私の『退屈』に付き合ってよ。一人でいるとさ、自分の部屋の壁が、どんどん迫ってくる気がするんだよね」

彼女のその言葉は、数時間前にレンが自分の部屋で感じていた恐怖と、完全に同じものだった。

「いいよ」 レンは薄まったメロンソーダのグラスを置き、まっすぐにアサミを見た。 「朝まで、ここにいよう」

窓の外の夜空は、まだ深い濃紺のまま、眠り続けていた。 二人の、馴れ合わない、けれど確かに並走し始めた最初の夜が、ゆっくりと更けていく


第二章:午前四時のサイレン


国道沿いにあるファミリーレストランの冷房は、午前三時を過ぎた頃から、まるで店内に居座る深夜の乗客たちを緩やかに追い出すかのように、容赦なくその設定温度を下げていった。

レンが細いプラスチックのストローでつつき続けていたグラスの中の氷は、とうにすっかり溶けきっている。メロンソーダは炭酸の泡を完全に失い、グラスの底の方で薄緑色の、締まりのない甘い液体へと変わっていた。氷が溶けて水っぽくなったそれを口に含むたび、舌の奥にひどく人工的なシロップの残渣だけがへばりつく。

向かいの席に座るアサミはといえば、さっきから三杯目のウーロン茶をストローですする手を完全に止めていた。彼女はボックス席のビニールシートに深く腰掛け、横の大きなガラス窓に額をぴったりと押し付けるようにして、ただじっと外の暗闇を眺めていた。 五月の夜雨を吸い込んだ外気と、店内の過剰な冷房のせいで、ガラス窓の表面は白く結露している。アサミの額が触れている部分だけが、丸く結露を拭い去り、彼女の肌の熱をじわじわと、容赦なく奪い取っているのが見て取れた。

広い店内にはもう、二人の他に客の姿はなかった。 さっきまで離れた席で小声で喋り合っていた、終電を逃した風のサラリーマン二人組も、いつの間にか伝票を持って出ていってしまった。

厨房の奥の方から時折聞こえてくる、プラスチック製の容器やステンレスのバットがぶつかり合う、鈍くて乾いた音。そして、深夜勤務の若い店員が、気怠そうな足取りでフロアの床にモップを滑らせる、規則的な摩擦音。それだけが、客の消えた無駄に広い空間に、薄く虚しく響き渡っていた。 天井に整然と並んだ、明るすぎるほどの蛍光灯の放つ白い光が、二人の目の下に刻まれた色濃い隈を、逃げ場のない白日の下に容赦なく晒し出している。その光の中にいると、自分がまるで解剖台の上に載せられているかのような、妙に落ち着かない居心地の悪さがあった。

「……ねえ、出よ」

アサミが突然、ガラス窓から額を離して、ガサゴトと音を立てて立ち上がった。 彼女の額には、冷たいガラスに触れていた部分だけが、境界線を持って丸く赤くなっている。その赤みが、彼女の青白い肌の中で奇妙に浮き上がって見えた。

「どこ行くの」 レンは半分開いた口のまま、低く掠れた声で尋ねた。数時間まともに声を破っていなかったせいで、自分の声が喉の奥で喉を擦る感覚があった。

「わかんない。でも、ここにこれ以上いると、自分がプラスチックの椅子とか人形になっちゃいそう。この光、なんか頭がおかしくなりそうだし」

アサミはそう言うと、黒いナイロンパーカーのポケットに両手を突っ込み、レンの返事を待つこともなく、通路へと歩き出した。

レンはテーブルの端に置かれていた細長い伝票を手に取り、財布から小銭をいくつか取り出した。ドリンクバーが二ふたつ。二人の支払いを合わせても、千円に満たない。レジに向かうと、さっきまでモップをかけていた店員が、いかにも面倒くさそうな手つきで自動釣銭機を叩いた。お釣りの小銭がトレイに落ちるチャリンという音が、静かな店内に過剰なほど大きく響いた。

自動ドアが左右に開いて一歩外に出ると、昼間のじっとりとした熱気を完全に失った、五月の深夜の夜風が吹き抜けた。まだ半分濡れたままだったレンのグレーのパーカーを通して、その冷気が肌に直接触れ、彼の腕の皮膚を細かく粟立たせた。レンは思わず首をすくめ、パーカーのフードを深く被り直した。

街は、まるで死に絶えたかのように静まり返っていた。 日中はひっきりなしに大型トラックや路線バスが往来していた大通りも、走る車の数は劇的に減っている。たまに遠くの交差点から通り過ぎるタクシーだけが、雨上がりの濡れた路面を「シャー」と切り裂くような、乾いて尖った音を立てて走り去っていく。その音が遠ざかると、世界は再び、耳が痛くなるような静寂の底へと沈み込んでいく。

昼間はあれほど自己主張の激しかった、雑居ビルの看板や居酒屋のネオンも、大半がその光を消していた。ただ等間隔に配置された街灯だけが、誰も歩いていない濡れた歩道を、冷たく、虚しく照らし出していた。アスファルトのあちこちにできた水溜まりが、その街灯の光を鈍く反射して、まるで地面にいくつもの小さな穴が空いているように見える。

二人はどちらからともなく歩き始めた。行き先について会話を交わすことはなかった。ただ大通りの広すぎる空間に身を晒しているのが落ち着かないのか、自然と大通りを外れ、街灯の光が届きにくい住宅街の狭い路地へと足を踏み入れていた。

そこは、一歩入ると息が詰まるほどの暗闇が支配する世界だった。 一戸建ての門口に灯された古い門灯や、くすんだモルタル造りのアパートの共有通路にぶら下がっている電球が、ぽつり、ぽつりと闇の中にぼんやりと浮かんでいる。どの家の窓も、一様に厚手のカーテンが隙間なく閉め切られていた。その向こう側には、明日という健全で規則正しい日常を何事もなく迎えるための、「正しい生活」がぎっしりと詰まっているのだろう。温かい布団があり、静かな寝息があり、守られるべき平穏がある。

レンは、深夜の住宅街を泥泥のスニーカーで歩いている自分たちが、そのどれにも属していない、属することを許されていない異物であることを、改めて残酷に突きつけられているような気がした。

「レンはさ、なんでその大学に入ったの」

アサミが、自分のボロボロのスニーカーのつま先を見つめながら、少しだけ歩調を緩めた。彼女の履いているスニーカーの側面には、泥水が乾いた跡が白い線になって残っている。

「なんとなく、だよ」 レンはパーカーのポケットの中で、さっきから百円の使い捨てライターの角を指先で弄びながら答えた。 「親が行けって言うし、周りの高校の連中もみんな当たり前みたいに受験するから。ほかにやりたいこともなかったし、親に逆らってまでやり通したい何かを見つけるだけのエネルギーも、俺にはなかった。流される方が、ラクだしね」

「ふうん。流されて生きてるんだ」 「そうだよ。悪い?」 「ううん、悪くないよ。むしろ、流されるのって、結構体力がいるもんね」

アサミは、路地の角にある、周囲を低い鉄柵で囲まれた小さな児童公園の入り口で、ぴたりと足を止めた。 そこには、昼間の子供たちの喧騒など微塵も感じられない、色褪せた緑色のプラスチック製の滑り台と、チェーンの錆びついたブランコが2台、窮屈そうに並んでいるだけだった。アサミは迷うことなく公園の敷地へと歩み寄り、細い足を砂利にめり込ませながら、ブランコの冷え切った座面に腰を落とした。

ガシャ、とチェーンが重く鈍い音を立てて揺れる。

「私はさ、流れに逆らおうとして、勝手に溺れたタイプ」

アサミは両足で地面の砂利を軽く蹴り、ブランコを前後に揺らし始めた。 キィ、キィ、と、夜の静寂を容赦なく切り裂くような、金属の擦れ合う乾いた悲鳴が周囲の住宅街へと響き渡る。レンはその音がどこかの家の住人を起こしてしまうのではないかと一瞬身を硬くしたが、アサミはそんなことはお構いなしに、少しずつ揺れを大きくしていった。

「溺れたって、何に?」

レンが尋ねると、アサミはそれ以上ブランコを漕ぐのをぴたりと止めた。両足のスニーカーの底を地面の砂利に強く押し付け、ズザザ、と音を立てて揺れを殺す。 彼女の視線が、自分の足元にある、暗い地面の砂利へとゆっくり落とされた。

「言わない。それは私のルール違反だから」

彼女は小さく鼻で笑ったが、その声には、先ほどファミリーレストランのドリンクバーの前で見せていたような、年相応の幼さは一切混ざっていなかった。そこにあるのは、これ以上は他人に、特に同じ『底』にいる人間にすら一歩も踏み込ませないという、硬くて冷たい、透明な拒拒絶の壁だった。

レンはそれ以上、何も聞かなかった。 アサミが何から逃げ、何に溺れたのか。それを暴くことは、この奇妙な夜の均衡を壊してしまう。詮索せず、ただ同じ時間を消費する。それが、この深い夜を生き延びるための、二人の唯一の、言葉にしない約束事だったからだ。

午前四時。 それは、夜と朝の境界線が、一年の中で最も曖昧になる時間帯だった。

東の空の地平線の端が、それまでの深い濃紺から、まるでバケツの中の墨汁を水で強引に薄めたような、不気味なくすんだ灰色へと移り変わり始めている。それと同時に、街全体の空気が、一気に数度下がったかのように冷え込んでいくのが肌感覚で分かった。 夜が死に、朝が生まれる直前の、最も生命力の薄い時間。レンはパーカーのポケットに両手を深く突っ込み、寒さをこらえるように肩を丸くすくめた。

その時だった。

遠くの方、おそらく二人が歩いてきた国道か、あるいはさらにその向こうのバイパスの方から、ウーーー、という、低く地を這うような唸り声のような音が聞こえてきた。 その音は、住宅街の建物の隙間を縫うようにして、徐々に、しかし確実に近づいてきた。やがてそれが、静まり返った街の空気を引き裂く、冷酷なサイレンの音だということがはっきりと分かった。救急車か、あるいはパトカーか。どちらにせよ、それは誰かの日常が決定的に破綻したことを知らせるノイズだった。

赤色灯の、禍々しい禍々しい赤い光が、遠くに見えるビルや民家の壁面を、規則的に、そして機械的に赤く、赤く染めていく。 サイレンの音は、二人がいる児童公園のすぐ近くの大通りを、激しいスピードとエンジンの爆音を伴って通過していった。不快な高音が鼓膜を刺し、頭の芯を直接揺さぶる。

その無機質で、どこか不穏な音が街全体に響き渡っている間、アサミはブランコの座面の上で、じっと全身の筋肉を硬く硬直させていた。 彼女の小さな両手は、ブランコの錆びついたチェーンを、指の関節が白く浮き出るほどに強く、壊れそうなほど強く握りしめている。その細い身体が、微かに、しかし確実に小刻みに震えているのを、レンはすぐ横で黙って見つめていた。彼女は目をつむり、まるで世界からその音だけを消し去ろうとするかのように、耳を肩に押し付けるようにして縮こまっていた。

やがて、サイレンの音は遠ざかり、赤い光もまた、灰色の空の向こうへと消えていった。街は再び、元の重苦しい静寂へと戻っていく。

「アサミ?」

レンが静かに声をかけると、彼女はハッと息を呑み、まるで熱い鉄に触れていたかのように、握りしめていたブランコのチェーンから乱暴に手を離した。 彼女の手のひらを見ると、強く握りしめすぎたせいで、茶色い鉄錆の粉が皮膚の溝にびっしりと付着し、赤黒い筋を作っていた。

「……なんでもない。ただ、あの音がちょっと、嫌いなだけ」

アサミはブランコから立ち上がり、錆びついた両の手のひらを、穿いているデニムの太もものあたりで乱暴に擦りつけた。ゴシゴシという衣服の擦れる音が虚しく響く。彼女が手を離したあとのデニムの生地には、黒っぽい、不規則な汚れの痕がシミのように広がっていった。

「朝が来ちゃうね」

彼女は、白濁し始めた東の空を見上げて、ひどく落胆したような、すべてを諦めたような重い声を吐き出した。その横顔には、朝を迎えることへの恐怖が隠しようもなく滲み出ている。

「そうだね」 レンも同じ空を見上げた。灰色の中に、かすかに光の粒子が混ざり始めている。

「朝が来るとさ、みんな『昨日と同じ自分』に戻らなきゃいけなくなる。あの大学に行って、あのバイトに行って、まともな人間のフリをして、昨日と同じ役を演じなきゃいけなくなる。それが、たまらなく嫌」

アサミは、公園の出口の錆びた鉄柵に向かって歩き出した。その背中は小さく、足取りは先ほど高架下のコインランドリーで出会った時よりも、どこか重く、疲弊しきっているように見えた。 夜という名の魔法が解け、現実という名の冷酷な光が、二人の隠しておきたかった傷だらけの身体を、容赦なく照らし出そうとしていた。

「レン、駅まで歩こう。始発の電車が動いたら、私、帰るから」

「うん」

二人は、徐々に白濁していく街の中を、再び言葉もなく歩き始めた。 すれ違う人間はまだ誰もいない。ただ、どこかの路地裏から、新聞配達のスーパーカブのエンジン音だけが、トトトトト、と小気味よく、しかし規則正しく響いていた。それが、新しい一日が二人の都合などお構いなしに、容赦なく始まってしまうことの、何よりの決定的な合図だった。

レンはパーカーのポケットの中で、自分の指先がまだライターの硬いプラスチックに触れているのを確かめていた。 アサミと過ごしたファミレスの数時間は、まるで朝の光の中で一瞬にして蒸発してしまう、アスファルトの上の水溜まりに映った幻影のように、消え去ろうとしている。

けれど、自分のスニーカーの底に確かに残っている、アスファルトの冷たい硬さと、時折風に乗って鼻をかすめる、アサミの髪から漂っていたあの安っぽい石鹸の匂いだけは、まだレンの皮膚の裏側に、生々しく、消えない汚れのようにこびりついたままだった。


第三章:部屋に満ちる生活


あの土曜日の夜から、二週間が経っていた。

五月も終わりに近づくと、通りを抜ける風からは完全に冬の名残が消え失せ、代わりに鬱鬱とした梅雨の気配が色濃くなってきた。湿った重い空気が、アパートの古びた廊下や、大学の薄暗い大講義室の片隅に、澱みのようにじっとりと沈殿している。

レンは相変わらず、日常という名のぬるま湯の中にいた。 あの朝、白み始めた駅の改札口で、アサミと「じゃあね」と短く無機質な言葉を交わして別れて以来、彼女からは一度も連絡がなかった。そもそも、お互いの連絡先――スマートフォンの画面に並ぶ無機質な11桁の数字を交換しただけで、メッセージの一通すら送っていない。

送るべき言葉が、どうしても見つからなかったのだ。 「元気?」と画面に打ち込んでみるものの、ひどく白々しくてすぐに消した。「また会おう」と誘うのも、あの夜の乾いたルール、互いの領域に踏み込まないという約束を壊してしまうような気がして躊躇われた。

大学の講義は、退屈そのものだった。 老教授がマイク越しに喋る掠れた声は、意味を持たないただの音波としてレンの鼓膜を滑り落ち、床のコンクリートに吸い込まれていく。周囲の席では、サークルの飲み会の計画や、新しく買った服の話、迫る就職活動の不安が小声で交わされている。レンはその巨大なノイズの中にただじっと身を潜め、ノートの端に、インクが滲むほどの細い直線を何本も引き続けていた。

(やっぱり、あれは幻だったのかもしれない)

高架下のコインランドリーの自販機の影、百円のライターの細い炎、錆びついたブランコのチェーンが鳴らす悲鳴。 すべては、自分が現実の息苦しさから逃れるために脳内で作り出した、都合の良い白昼夢だったのではないか。そんな思いが、退屈な日々を重ねるごとに強くなっていった。

変化が訪れたのは、次の週の水曜日、深夜十一時を回った頃だった。

居酒屋のバイトを終え、汗と油、そして安い洗剤の匂いが染み付いた体を引きずるようにしてアパートに戻り、狭いユニットバスでシャワーを浴びていた時だった。脱衣所のプラスチック棚に置いたスマートフォンが、一度だけ、短く震えた。

濡れた身体のままタオルを巻き、画面を見ると、見覚えのないアカウント名から、短いメッセージが届いていた。

『部屋、どこ』

それだけだった。 名乗ってはいない。けれど、それが誰からのものか、レンには直感的に分かった。胃の奥が、あの夜と同じようにかすかに疼くのを感じながら、レンは自分のアパートの住所と、部屋番号の「202」という数字だけを、何も付け加えずに返信した。

それから三十分も経たないうちに、一階の共有階段の鉄製ステップを、みしり、みしりと引きずるような、きしむ足音が上ってくるのが聞こえた。足音は迷うことなく廊下を進み、レンの部屋のドアの前でピタリと止まった。

コン、コン、と控えめな、けれど確実な、どこか遠慮のないノックの音。

レンがドアの鍵を開けて引くと、そこにはあの夜とまったく同じ、少し伸びた前髪の隙間から冷たい瞳を覗かせたアサミが立っていた。 彼女は、肩に小さなキャンバス生地のトートバッグをかけ、手には大手コンビニのビニール袋をぶら下げていた。袋の中からは、缶ビールがぶつかり合うカチカチという硬い音が、静かな廊下に響いている。

「……本当に、狭いアパートだね」

アサミは挨拶もそこそこに、レンが止める間もなく靴を脱ぎ、部屋の中へと上がってきた。 六畳一間の空間は、アサミの一歩によって、一気に彼女の匂い――あの、雨の湿気と安っぽい固形石鹸が混ざったような、あの夜の匂いで満たされていった。

アサミは部屋の中央にある、天板の剥げかけた小さなローテーブルの前に躊躇なく座り込み、コンビニの袋から容赦なく中身を取り出して並べていった。 発泡酒のロング缶が2本。それから、油の浮いたイカの燻製の袋と、塩気の強そうなスナック菓子。

「いいでしょ、別に。一人の部屋にいるとさ、壁がどんどん迫ってきて死にそうだったから。場所を借りに来ただけ」

彼女はそう言うと、手慣れた手つきで缶のプルタブを引き抜いた。プシュッ、という小気味よい音が、静まり返った木造アパートの部屋に響き渡る。

レンは、自分の万年床のベッドの端に腰掛け、そんな彼女の動作を黙って眺めていた。 「連絡くらい、もっと先にしなよ」 「したじゃん。三十分前に」 アサミは缶に口をつけ、喉を大きく鳴らしてビールを半分ほど飲み干した。そして、ぷは、と短く息を吐くと、部屋の隅に乱雑に積み上げられた大学の教科書や、クローゼットから溢れ出た衣服に目を向けた。

「レンの部屋、男の子の部屋って感じがする。なんというか、生活の匂いがするね」

「そうかな。ただ散らかってるだけだよ。片付けるのが面倒なだけ」

「それがいいんじゃん」アサミは、まだ開けていない2本目のロング缶をレンの方へと無造作に差し出した。「はい、家賃の代わり。あんたも飲みなよ」

レンはそれを受け取り、同じように指先に力を込めてプルタブを引いた。 ぬるいアルコールが喉を灼き、空っぽの胃の中に落ちていく。そのかすかな熱量だけが、自分の現実の輪郭を少しだけはっきりとさせてくれるような気がした。

二人は、それ以上多くを語らなかった。 アサミは時折、イカの燻製をつまみながら、スマートフォンの画面をぼんやりとスクロールしていた。レンもまた、ベッドの上で膝を抱え、薄暗い窓の外の暗闇を見つめていた。

お互いに、相手が昼間どんな生活をしているのか、どんな汚い過去を抱えてここに辿り着いたのか、詮索しようとはしない。 大学の友達なら、「最近どう?」「何して遊ぶ?」と、絶え間なく言葉のキャッチボールを続けなければ、その関係はすぐに維持できなくなってしまう。少しでも沈黙が流れれば、気まずさが部屋を支配する。けれど、アサミとの間に流れる時間は、不思議なほど沈黙に対して寛容だった。

ただ、同じ空間に、自分と同じように「正しく生きられない人間」が確かに息をしている。 その事実だけが、レンの部屋の、あの窒息しそうだった四方の壁を、少しだけ外側へと押し広げてくれているようだった。

「ねえ、レン」 アサミが突然、スマートフォンの画面を消して、畳の上に大の字に寝転がった。薄い黒のTシャツの裾が少しだけ捲れ上がり、彼女の細い腰のラインが覗いている。

「……何」

「私さ、たぶん、もうすぐこの街を出ていくんだよね」

アサミの声は、天井の薄汚れた電球に向けて放たれ、そのまま部屋の隅の湿気に吸い込まれて消えた。 レンの心臓が、ドクンと小さく不規則な音を立てた。けれど、彼はそれを声には出さず、ただぬるくなったビールの缶を強く握りしめることしかできなかった。缶のアルミが、ペコリと軽い音を立てて凹む。

「どこに行くの」

「さあね。ここじゃない、もっとどこにも何もない場所がいいな。誰も私のことを知らない場所」

アサミは目を閉じ、それきり動かなくなった。規則正しい、静かな呼吸の音だけが、部屋の中に満ちていく。 レンはベッドから静かに降り、床に寝転ぶアサミのすぐ横に腰掛けた。 窓の外からは、遠くを走る列車の、あの地鳴りのような重低音が、微かに、けれど途切れることなく響き渡っていた。二人の日常が、少しずつ、しかし確実に歪み始めているのを、皮膚の表面で感じながら。

夜が深まるにつれて、外の雨の気配はいっそう濃厚になっていった。 窓ガラスの向こうで、遠くの街灯の光がにじみ、じわじわと世界の境界線を溶かしていく。木造アパートの薄い壁は、外の湿気をそのまま吸い上げるようにして、部屋の空気を重く湿らせていた。

床に大の字に寝転がったままのアサミは、本当に眠ってしまったわけではなかった。 長い睫毛が時折、思い出したように小さく震える。彼女の細い手首には、あの傷だらけの安物のデジタル時計が巻かれており、その液晶が規則正しく午前二時を回ったことを、無機質な数字で告げていた。

「ねえ、レン」 アサミは目を閉じ、天井を向いたまま、かすかに声を漏らした。 「あんたさ、私のこと、何者だと思ってる?」

レンは壁に背中を預け、膝を抱えたまま、彼女の平坦な横顔を見つめた。 「……何者って、別に。アサミはアサミだろ。それ以外に何があるんだよ」

「冷たいね。もっと興味持ちなよ。例えばさ、私が昼間はどこか怪しいビルの屋上で、誰にも言えない危ない裏の仕事をしてるとか、そういう映画みたいな妄想とかしないわけ?」

「しないよ。そんな大層な生活、俺たちには似合わない」

レンが淡々と答えると、アサミはついに目を開けた。畳の上で寝返りを打ち、肘をついてレンの顔を覗き込んでくる。彼女の瞳の奥に、部屋の小さな電球の光が、針の先ほど小さく、鋭く反射していた。

「正解。私ね、ただの配送倉庫の仕分けバイト。朝の6時から、冷房もない薄暗い倉庫で、どこの誰が頼んだかもわからない段ボールをひたすらレーンに流すだけ。名前じゃなくて『4番』って番号で呼ばれてさ。一言も喋らない日だってザラにあるよ」

アサミは自嘲気味に、鼻で小さく笑うと、自分の右手のひらをレンの目の前に突き出した。 そこには、あのコインランドリーの夜に見た鉄錆の汚れの代わりに、固い段ボールの擦れや、ガムテープの粘着剤で少し荒れた、生々しい皮膚が広がっていた。

「これが私の現実。台本にも載らない、エキストラ以下の日常だよ」

レンは、その差し出された手をじっと見つめた。 自分の通う大学の、きらきらとしたキャンパス。将来の就職活動の話や、インターンの実績を誇らしげに語る同世代の奴ら。彼らの手は、きっとこんな風に荒れてはいないだろう。けれど、レンにとっては、目の前にあるアサミの少しガサついた手のひらのほうが、よっぽど手触りのある「真実」に見えた。自分と同じ泥の中にいる人間の手だ。

「俺だって、大差ないよ」 レンは自分の両手を見た。手のひらには、居酒屋の重いジョッキを持ち続けたせいでできた、小さなマメがある。 「居酒屋で『はい、よろこんで』って叫んで、ビール運んで、ゲロ片付けて、時給千百円。大学に行っても、席を埋めるためのただの数合わせだ。俺がいなくたって、世界は何一つ困らない」

アサミはしばらくレンの手を見つめていたが、やがて満足したように、深く息を吐いて床に背中を戻した。

「そっか。じゃあ、お互い様だね」

彼女はそう言うと、トートバッグのポケットから、あの夜とは別の煙草の箱を取り出した。 「ここで吸ってもいい?」

「……大家に見つかったら追い出されるけど、いいよ。キッチンの換気扇の下なら」

二人は狭いキッチンの、埃の被った換気扇の下に並んで立った。 レンがポケットから百円のライターを差し出し、ホイールを弾く。オレンジ色の炎に、アサミがそこに顔を近づける。チ、と音がして煙草に火が灯ると、換気扇の古いモーターが、ブーンと不機嫌な音を立てて回り始めた。

窓の外では、ついに本格的な雨が降り始めていた。 古びたトタンの屋根を叩く無数の水滴の音が、静まり返ったアパートを完全に包み込んでいく。換気扇の吸い込み口へと吸い上げられていく、細く白い煙を眺めながら、二人はそれ以上、一言も交わさなかった。

詮索はしない。同情もしない。 ただ、お互いが「社会の底」の同じような深さに沈み、息をしていることを確認し合うだけで、胃の奥のあの黒い空虚さは、不思議なほど静かに、深く凪いでいた。

第四章:すれ違う足音


六月に入ると、街は逃げ場のない本格的な梅雨の季節を迎えた。

頭上に広がる空は連日、水分を過剰に含んだ生コンクリートをそのまま流し込んだような、不透明で重苦しい灰色に閉ざされていた。太陽の光を完全に遮断したその雲のせいで、昼も夜も世界の明るさは大差なく、容赦のない生温かい湿気がすべての建物の表面や人々の肌をじわじわと湿らせ、目に見えない速度でゆっくりと腐らせていくようだった。

大学のキャンパスは、色とりどりの雨傘から滴る水滴と、何千人もの学生が泥を引いて歩いた濡れた床が放つ、独特の生乾きのゴムの匂いに満ちていた。 レンは、冷房と湿気が混ざり合って妙に肌寒い大講義室の、一番後ろの最上段の席にいた。講義が始まってからもう一時間が経過しているが、彼はノートを開くこともせず、ただ片頬杖をついて窓の外を眺め続けていた。

ガラス窓の向こう側では、激しく叩きつける雨粒が、無数の不規則な軌跡を描きながら、網目のように絡み合って下へと流れ落ちていく。その歪んだガラスの向こうに見えるキャンパスの木々は、どれも輪郭がぼやけ、水の中に沈んでいるように見えた。

「なぁ、レン。今週末の新歓コンパ、お前どうすんの? 参加の締め切り、今日までなんだけど」

隣の席に座る、同じサークルに所属しているゼミ生の男が、スマートフォンの画面をレンの目の前に突き出しながら、軽いトーンで声をかけてきた。 バックライトに照らされた画面には、駅前の大手チェーン居酒屋の、これみよがしに豪華に盛り付けられたコースメニューの写真と、参加予定者の名前が、賑やかでカラフルな絵文字とともにずらりと並んでいる。その画面の光が、レンの網膜を不快に刺した。

「……あぁ、ごめん。その日、もうバイト入っててさ。外せないんだ」

レンは、もう何度も使い古した、いつもの嘘を口にした。 その声のトーンは、自分でも驚くほど起伏がなく平坦で、嘘をついているという罪悪感すら、今の彼の心にはこれっぽっちも湧いてこなかった。最初から、そこに自分が参加しているイメージが、一ミリも湧かないのだ。

「マジかよ、またか。お前最近、マジで付き合い悪すぎ。せっかく今回は女子大との合同のやつなのにさ。お前が来ないと、頭数が合わなくて幹事が困るんだよな」

友人はつまらなさそうに鼻で笑うと、レンの返事をそれ以上深く追及することもなく、すぐに前方の席で盛り上がっている「要領のいい奴ら」の輪の中へと戻っていった。 そこでは、すでに有名企業の内定を獲得したという優秀な先輩の話や、今週末に行く予定の渋谷のクラブのイベントの話が、弾むような、濁りのない笑い声とともに交わされている。彼らの生きる世界は、常に光が当たっていて、眩しくて、どこまでも健全だった。

彼らが口にするそれらの言葉は、レンの耳に届く前にすべて、講義室に充満する梅雨の重い空気に吸い込まれて消えた。 彼らはみんな、あらかじめ社会に用意された正しいレールの上で、どれだけ魅力的な「持っていること(Having)」や「やっていること(Doing)」を集められるかを競い合っている。けれど、レンにはそれらの価値観が、どうしても中身のない、中をくり抜かれたプラスチックの玩具のように見えてしまうのだった。

もし自分が無理をしてその輪の中に混ざり、彼らと同じようなセリフを喋り、同じように笑ったとしたら――自分の内側にある本当の輪郭がどんどん薄くなり、ついには完全に透明になって、消えてなくなってしまうのではないか。そんな、底のない強い恐怖を、レンは常に抱えていた。

時計の針が講義の終了を告げると、レンは周囲の学生たちが一斉に傘を開く中で、一人、フードを被っただけで傘もささずに駅へと向かった。 衣服の繊維にしみ込んでいく冷たい雨の、じっとりとした不快な感触だけが、かろうじて彼をこの現実に繋ぎ止めている唯一の手応えだった。

アルバイト先の居酒屋もまた、外と同じように不快な湿気と、フライヤーから立ち上る古い油の匂いで満ちていた。 レンは制服のシャツに袖を通すと、心の中のスイッチを完全に切り、ロボットのように「いらっしゃいませ!」と大声を張り上げた。キンキンに冷えた生ビールの詰まった、ガラスの重いジョッキを両手に持ち、座敷と厨房を何十往復もする。

泥酔した会社員の、理不尽で中身のない絡みに、顔の筋肉だけを動かして無表情な愛想笑いを浮かべる。深夜を過ぎた頃には、トイレのタイルの床にぶちまけられた、誰のものかもわからない酸っぱい臭いのする吐瀉物を、モップでただ機械的に、黙々と拭き取っていく。

時給、千百円。 自分のわずかな生命力と時間を切り売りして得るその対価は、この狭い世界で生き延びるための、最低限のガソリンにはなった。けれど、彼の胃の奥にぽっかりと空いた、真っ黒な穴を埋めるものには、逆立ちしたってなり得なかった。

深夜二時、すべての片付けを終えてバイト先の勝手口から外に出ると、夜の雨は一段と激しさを増していた。 レンは高架下の、街灯の光も届かない暗闇を、泥水を吸って鉛のように重くなったスニーカーを引きずりながら、ただ自分の狭いアパートへと向かって、影のように歩き続けた。

同じ頃、アサミもまた、レンとはまったく別の種類の、しかし本質的には同じ濃さの「底」に沈んでいた。

午前三時。 街の外れにある、巨大な物流倉庫の敷地内は、ひっきりなしに出入りする大型トラックが絶え間なく吐き出す、黒い排気ガスと、濡れたアスファルトの混ざり合った、特有の嫌な匂いが立ち込めていた。

アサミは、天井に点々と並ぶ高輝度蛍光灯の、青白くて冷たい光が容赦なく降り注ぐ出荷レーンの前に立っていた。 彼女の濡れて張り付いた黒いパーカーの胸元には、安全ピンで留められたプラスチック製のラミネートカードがぶら下がっている。そこには、彼女の名前ではなく、ただ『4番』という無機質な数字だけが太いマジックで印字されていた。ここでは誰も彼女を人間としては扱わない。アサミという名前を呼ぶ者など一人もいない。彼女はただ、ベルトコンベアの一部として機能することを求められた、代替可能な肉体に過ぎなかった。

ゴトゴト、ゴトゴトと、深夜の静寂の中で不快な駆動音を立てて絶え間なく流れてくる、無数の茶色い段ボール箱。 アサミはそれを、泥で汚れた軍手の手で機械的に掴み、シールのバーコードをスキャナーで読み取り、宛先別のカゴへと放り込んでいく。その単純な動作を、さっきから何時間も、何百回も繰り返していた。段ボールの硬くて鋭い角が、薄い軍手越しに彼女の手のひらを何度も擦り、皮膚の裏側に、鈍くて重い痛みを確実に蓄積させていく。

(私、一体ここで、何やってんだろ)

ふと、思考が空白になり、ほんの一瞬だけ彼女の手の動きが止まった。その瞬間、背後から鋭く、突き刺すような声が飛んできた。

「おい、そこの4番! 手が止まってるぞ! 後ろのレーンが詰まってんだろ、チンタラすんな!」

首から社員証をぶら下げた、目の下にひどい隈を作った男が、耳元のインカムをいじりながら忌々しそうに怒鳴り散らした。アサミはその男の顔を一瞥もせず、感情の消えた声で「すみません」とだけ低く呟き、再びマシーンのように正確に手を動かし始めた。

彼女が本当に耐えられないのは、この立ちっぱなしの肉体労働のきつさではなかった。 自分の存在が、完全に「代替可能なパーツ」として、記号として処理されているという、圧倒的な無価値感だった。もし私が明日、ここで過労で倒れてそのまま消えてなくなったとしても、明後日には別の誰かが『4番』のカードを胸にピンで留め、この場所に立ち、何事もなかったかのように同じように段ボールを捌くだけだ。私の人生の価値は、時給という名の、通帳に印字される数字だけで計測されている。

バイトが終わり、午前四時を過ぎた頃。 アサミは、倉庫の裏手にある、錆びついた鉄製の非常階段の踊り場で、一人で煙草に火をつけた。 雨はまだ、世界のすべてを塗り潰すように激しく降り続いている。遠くに見える街の人工的な明かりが、階段の手すりから滴る雨粒の向こう側で歪んで、まるで血の涙のように滲んで見えた。

彼女の、デニムのポケットの中にあるスマートフォンの画面が、暗闇の中で突然、ブブブと鈍い振動を立てた。 液晶に表示されたのは、連絡先には登録されていない、けれど彼女が嫌というほど、脳の裏側に記憶している古い番号だった。過去の、彼女が一度すべてを投げ出して、身一つで逃げ出してきたあの場所からの足音が、静かに、執拗に彼女の背後を追いかけてきている。

アサミは、その光る画面をただ冷たい瞳で見つめ続けた。通話ボタンを押すことは、決してしなかった。彼女はそのままスマートフォンの側面のボタンを長押しし、電源を完全に切った。画面が暗転し、世界のノイズが一つ減る。

「……うっとうしい。みんな消えればいいのに」

彼女は、短くなった煙草の煙を、容赦なく降り注ぐ雨の中へと深く吐き出した。白い煙は一瞬で雨粒に叩き落とされ、足元の、アスファルトの濁った泥水へと混ざって消えていった。

彼女の胃の奥には、ドロドロとした、出口のない焦燥感が黒く渦巻いていた。 このまま一人で、あの狭くて冷たい自分の部屋に帰ったら、あの仕分け倉庫の四角い壁が、あるいは過去のしがらみの化け物が、自分の身体を完全に押し潰し、圧殺しに来るような、そんな狂気じみた予感があった。どこかに逃げなければならない。自分のこの「無価値さ」を、ただの記号としての肉体を、そのまま静かに受け入れてくれる場所へ。

アサミは、濡れたデニムのポケットから電源を切ったばかりのスマートフォンを再び取り出し、指先を震わせながら起動させた。 そして、液晶の光の中に、唯一、自分の歪みを詮索せずに置いておいてくれる、あの狭いアパートの住人への宛先を見つけ、短いメッセージを打ち込んだ。

『今から、行っていい』

二人の、昼間の世界では決して交わることのないすれ違う足音は、五月のあの高架下の夜を越えて、六月の深い雨のノイズの中で、再び交わろうとしていた。

レンが自分のアパートの、鍵の壊れかけたドアを開けたとき、外の雨音に混じって、すでに一階の階段を上がってくる、あの聞き覚えのある足音が聞こえていた。 みしり、みしりと、濡れた靴底が木製のステップを湿らせる音が、確実に近付いてくる。

ドアの前に現れたアサミは、フードを深く被っていたが、その下にある黒い髪は雨を完全に吸い込んで、額にぴったりと張り付いていた。キャンバス生地のトートバッグはぐっしょりと濡れ、彼女の穿いているデニムは、膝から下の色が完全に変わるほど雨水を吸って重くなっていた。

「……すごい雨だね」 レンが言うと、アサミは何も答えず、ただ小さく身震いをして部屋の中へと滑り込んできた。

彼女は、玄関の狭い三和土にスニーカーを脱ぎ捨てると、濡れた服のまま、迷うことなく畳の上に直接腰を落とした。彼女の身体から、あの配送倉庫の古い段ボールの匂いと、雨の強烈な湿気が立ち上り、六畳一間の狭い部屋の空気を一瞬で塗り替えていく。

「バスタオル、使う?」 レンがクローゼットから、何度も洗濯してゴワゴワになった灰色のタオルを差し出すと、アサミはそれを無言で受け取り、頭から乱暴に被った。タオルの下から、彼女のこもった声が聞こえる。

「電源、切ってたんだ。ずっと」

「スマホの?」

「うん。なんかさ、私を捕まえようとする奴らの声が、ずっと鳴り止まなくて。倉庫の社員の声とか、前の場所の奴らの声とか。耳の奥で、ずっとあのサイレンみたいな音が鳴ってる気がしてさ」

アサミはタオルを頭に載せたまま、膝を胸の前に強く抱え込んだ。その姿勢は、あの児童公園のブランコの上で、サイレンの音に怯えていた時の姿と、完全に重なっていた。彼女は今も、目に見えない何かに激しく追われ、溺れかけているのだ。

レンは彼女の正面には座らず、少し離れた壁に背中を預けた。 「ここなら、何も鳴らないよ。あるのは、このボロ換気扇の音と、外の雨の音だけだ」

アサミはタオルの中から、少しだけ顔を覗かせた。その濁った瞳に、レンの姿が映る。 「レンは、私のこと、何も聞かないよね。なんで私が夜中にこんな風に転がり込んできても、怒りもしないし、何があったのかも探ろうとしない」

「言いたくないんだろ。だったら、聞く必要がない」 レンはポケットからライターを取り出し、親指で弄んだ。 「俺だって、大学の奴らに言えないような汚いゴミみたいな部分を、アサミの前ならそのままにしておけるから。お互い、中身のない空っぽの人間同士、ただここにいればいいじゃん」

アサミはしばらくの間、レンのその言葉を咀嚼するように、じっと沈黙を守っていた。 窓の外では、雨がアパートのトタン屋根を、バラバラと激しい音を立てて叩き続けている。その暴力的なまでの雨音が、逆にこの部屋の静寂を、二人だけの安全なシェルターのように引き立てていた。

やがてアサミは、頭のタオルを畳の上に落とし、ふっと、これまでで一番、力の抜けた笑みを浮かべた。 「そっか。空っぽ同士、か」

彼女はトートバッグの手探りで煙草の箱を取り出し、一本を唇に挟んだ。 「ねえ、火、頂戴」

レンは壁から離れ、彼女の手元へと膝を進めた。 チ、と音がして、小さなライターのオレンジ色の炎が、二人の濡れた顔の隙間で静かに灯る。アサミが顔を近づけ、その炎を吸い込む。

彼女の薄い唇から吐き出された白い煙が、部屋の湿った空気の中に、ゆっくりと、けれど確かに溶けて、広がっていった。二人のすれ違う足音は、この狭い六畳の闇の中で、ようやく静かに、その行き場を見つけて静止したようだった。



第五章:逃避行の終わり


アサミがレンの部屋の、建付けの悪いドアを押し開けて滑り込んできたのは、午前五時を回る少し前のことだった。

外はすでに、夜と朝の境界線を越えて白み始めていたが、空を低く覆い尽くした分厚い雨雲のせいで、爽やかな朝の訪れなど微塵も感じられなかった。それはまるで、果てしなく続く陰鬱な夕暮れの延長線上にあるかのような、不透明でくすんだ灰色の光だった。その頼りない光が、小さな窓から六畳一間の狭い部屋へと、じわじわと満ちていく。

彼女の着ている黒いナイロン製のパーカーは、外の激しい雨を限界まで吸い込んで、本来の倍近い重さになっているように見えた。前髪は完全に濡れて額にぴったりと張り付き、そこから滴り落ちる大粒の水滴が、彼女の白青い鎖骨のあたりを容赦なく濡らし続けている。

「……鍵、開いてた」 アサミは玄関の狭いコンクリートのタタキに立ち尽くしたまま、今にも消え入りそうな、掠れた声で言った。その唇は寒さのせいで微かに紫がかって震えている。

「待ってたから。お前が来ると思って、閉めなかったんだ」 レンは万年床のベッドからゆっくりと起き上がり、棚から何度も使い古してゴワゴワになった乾いたバスタオルを引っ張り出して、アサミに差し出した。

アサミはそれを受け取ると、言葉を返す気力もないのか、乱暴に頭から被り、そのまま力を失ったように畳の上へとへたり込んだ。タオルの奥の暗闇から、彼女の小さく不規則に震える、浅い吐息だけが漏れて部屋の静寂に響く。

「レン、どこか遠くへ行こう」 タオルの隙間から、彼女の片目だけがじっとレンを見つめていた。その瞳は、いつもファミレスやコインランドリーで見せていた冷徹な拒絶の壁を完全に失い、まるで猟師に追い詰められた手負いの野良犬のように、剥き出しの恐怖で激しく怯えていた。

「今から?」 「うん。今から。どこでもいい、この雨が、あの音が届かないくらい、世界の果てみたいに遠くへ」

レンは、断るための理由を自分の頭の中で探そうとはしなかった。 机の上に放置されたままの大学のレポート用紙、講義室で中身のない会話を交わす友人の顔、今週末にギチギチに入っている居酒屋のバイトのシフト。そんなものは、今この部屋の空気を完全に支配しているアサミの、圧倒的なまでの切迫感の前では、あまりにも軽すぎて、最初から存在していなかったかのようにどうでもよくなっていた。

自分だって、このままこの狭い部屋で正しい日常のフリを続けていたら、いつか壁の薄汚れたシミになって、誰にも気づかれずに消えてしまうと思っていたのだ。アサミの狂気は、レンにとっても、この窒息しそうな現実から抜け出すための唯一の救いに見えた。

「わかった。行こう」

レンは机の引き出しから財布を取り出し、数日分のバイト代である、くしゃくしゃになった千円札と五千円札、合わせて2万円ほどをむしり取るように抜き出し、パーカーのポケットに突っ込んだ。必要な荷物なんて、最初から何一つなかった。

アサミは濡れて肌に張り付いていた上着をその場に脱ぎ捨て、レンのクローゼットのハンガーから適当に抜き出した、色褪せた大きめのグレーのトレーナーを借りて頭から被った。メンズサイズの衣服の中で、彼女の身体は驚くほど細く、まるで棒切れのように泳いでいるようだった。

二人はそれ以上一言も交わさず、泥を吸ったスニーカーを履いてアパートを飛び出し、激しい雨の降る中を最寄りの駅へと向かった。

始発電車が動き出したばかりの駅構内は、夜の間に溜まった冷たい湿気と、駅員が床に撒いた塩素系清掃洗剤のツンとした匂いが奇妙に混ざり合い、不気味なほどの静けさに包まれていた。すれ違うのは、目元をどす黒く濁らせた夜勤明けの疲れ果てた労働者か、衣服を乱して泥酔したままベンチで始発を待つ若者の集団だけだった。

誰も、お互いの服の袖を掴み合うようにして歩く、レンとアサミのことなど視界に入れていなかった。世界は彼らを無視し、彼らもまた世界を拒絶していた。

「どこに行く?」 自動券売機の黄色いバックライトの前に立ち、レンが画面を見つめたまま低い声で聞いた。

「路線の、一番端っこ。これ以上はレールがなくて、先には進めないって場所」

アサミは、路線図の画面の最も端にある、これまでの人生で一度も名前すら聞いたことのない、境界線の終着駅を細い指で指差した。レンは迷うことなく、残高の少ない財布から小銭を投入し、2枚の長距離切符を買った。二人は、機械的な音を立てる自動改札機へと吸い込まれるように滑り込んだ。

ガチャン、と背後で金属のシャッターが閉まるような硬い音が響いたとき、彼らの背後で、あの息苦しい現実への扉が完全に閉ざされたような、奇妙な全能感がレンの脳裏をかすめた。

ガタゴト、ガタゴトと、重い鉄の車輪が規則正しい振動を立てて走る電車の中で、二人は並んで色褪せた緑色のロングシートに腰掛けていた。

平日の早朝の下り電車は、不気味なほどに空っぽだった。一つの車両に数えるほどしかいない乗客たちは、全員が窓の外の灰色一色に染まった景色のことなど見ようともせず、ただシートに深く背中を預け、死んだように重い目を閉じている。誰もが、自分の生活という名の重荷に耐えるだけで精一杯のようだった。

アサミはレンのすぐ隣で、車内の古い冷房の風に細い身体を小さく縮こまらせながら、ずっと窓の外の景色を凝視していた。 電車が東京の過密なコンクリートジャングルを離れるにつれて、車窓からの景色は背の低い雑居ビルや錆びついたトタン屋根の工場から、次第に人家のない深い緑の山々や、茶色く濁った泥水を溢れんばかりに湛えた広大な川へと変わっていった。雨は速度を上げる電車に対抗するようにその激しさを増し、窓ガラスをパチパチと激しい音を立てて叩きつけている。

「ねえ、レン」 アサミが突然、窓ガラスに映る自分の青白い顔から視線を外さないまま、小さな口を開いた。 「私さ、本当はあの街に、格好つけて仕分けのバイトをしに来たわけじゃないんだよね。ただ、逃げてきただけなんだ」

レンは何も言わず、ただ彼女の真横から、その小刻みに震える薄い唇を見つめていた。 お互いの過去を詮索しない、昼間の世界を持ち込まないという、あの夜に結んだ二人の絶対的なルールを、アサミは今、自らの手で静かに破ろうとしていた。レンはそれを止める権利も、拒む理由も持っていなかった。

「地元にさ、どうしても、一秒だって耐えられない家があって。毎日毎日、朝から晩まで、誰かの理不尽な怒鳴り声と、家具や皿が粉々に壊れる音しか聞こえない場所。あそこにいたら、私の心が先に粉々になって、いつか誰かを殺すか、自分が死ぬしかないって分かったから。だから、ある夜、財布と最低限の荷物だけ持って、着の身着のままで夜行バスに飛び乗って、あの東京の街に来たの」

アサミの指先が、シートの古びた布地をきつく引きちぎるかのような強さで、ぎりぎりと掴みしめた。爪の先が白く変色している。

「ここで名札の『4番』になって、誰も私の本名を知らない場所で、誰にも名前を呼ばれなくなれば、あの忌々しい場所から、私の存在を完全に消え去らせることができると思ってた。でもさ、さっき倉庫の裏で、スマホが鳴ったの。登録してない古い番号。あいつら、まだ私を探してる。私の人生を、またあの狭い檻の中に引きずり戻そうとしてる。捕まったら、またあの地獄に逆戻りだよ」

彼女の呼吸が、過去の記憶のフラッシュバックに引きずられるように、次第に浅く、そして狂ったように速くなっていく。

「私にはさ、何もないんだよ。レンみたいに大学に行くようなまともな未来も、誇れるような真面目な仕事も、世界中どこを探したって帰る場所なんて一つもない。ただ、暗い倉庫で段ボールを運んで、安い煙草を吸って、いつ死んでもいいやって思いながら、毎日をただ必死に誤魔化して、生き延びてるフリをしてるだけ」

それは、アサミという一人の少女が、その冷徹な仮面の裏側にひた隠しにし続けてきた、生々しい「泥の底」の、血の滲むような本音だった。

レンは、自分の膝の上に置いた両の手のひらをじっと見つめた。 自分はただ、周りに合わせて流されて生きているだけだと思い込んでいた。親の用意した金で大学に通い、ぬるま湯のようなささやかな焦燥感に甘え、被害者のような顔をして居酒屋で時間を切り売りしていただけだった。アサミの抱える、骨の髄まで凍りつくような圧倒的な暗闇に比べれば、自分の感じていた孤独や退屈など、ただの恵まれた子供の我が儘のようにすら思えて、胸の奥が激しく疼いた。

けれど、手段や環境が違えど、胃の奥にぽっかりと空いた「世界のどこにも居場所がない」という空虚さの深さは、きっと、驚くほど同じなのだ。

「アサミ」 レンは生まれて初めて、隣に座る彼女の、骨が浮き出るほどに細い手首を強く掴んだ。 指先から伝わる彼女の皮膚は、驚くほど冷え切っていた。

「俺も、何もないよ。何者にもなれないし、毎日がただ空っぽで、何のために朝起きるのかも分からない。でもさ、今、俺たちは確かにここにいる。あの狭いアパートからも、薄暗い倉庫からも、お前を縛り付ける過去からも、とりあえず今は、こうして遠ざかっている。レールが続く限り、俺たちは逃げられる」

電車が、キィキィと耳を劈くような長い金属のブレーキ音を山あいに響かせながら、徐々にその速度を落とし始めた。 天井のスピーカーから、ここがこの路線の終着駅であることを告げる、無機質で冷淡な車内アナウンスが流れ出す。

「行こう。これ以上、先にはレールがない場所へ」

二人が改札口を抜けると、そこは険しい山々と、荒れ狂う海に挟まれた、ひっそりと寂れた無人の駅だった。 駅前には人影など一人もなく、塩害で赤黒く錆びついたシャッターが固く閉まった土産物屋が数軒、死んだように並んでいるだけだった。上空から容赦なく降り注ぐ激しい大雨が、ひび割れたアスファルトの地面を白く、激しく叩きつけていた。

二人は傘をさすことも忘れ、ただ前だけを向いて、大粒の雨の中をひたすら歩き続けた。 やがて遮るもののない視界が文字通り一気に開け、目の前に圧倒的な質量を持って広がったのは、灰色に濁り、烈風に煽られて激しく白波を立ててのたうつ、底の見えない広大な海だった。

「……最悪の海だね」 アサミは、海から吹き付ける激しい潮風に黒い髪をめちゃくちゃに振り乱しながら、ポツリと呟いた。 けれど、その雨に濡れた顔には、さっきの電車の中で見せていたような、何かに怯えきった表情は不思議と、完全に消え去っていた。

「ああ、言葉にできないくらい、最悪だ」 レンもまた、顔をクシャクシャにして小さく笑った。

全身の衣服が激しい雨と潮水でずぶ濡れになり、履き潰したスニーカーの中は泥水でぐしょぐしょに浸っている。けれど、その指先が凍えるほどの冷たさと、頬をビンタのように叩きつける激しい風の痛みが、かえって彼らの五感を、これまでになく強烈に刺激していた。生きているという感覚が、皮膚の表面から爆発するように伝わってくる。

二人は、白く泡立って押し寄せる波の、すぐ際どい限界の境界線まで歩み寄り、ただその圧倒的な破壊力を持った自然の巨大なノイズを、何も言わずに眺め続けていた。 そこには、大学のレポートも、居酒屋の時給も、名前を剥ぎ取られた倉庫の記号も、彼らを追いかける汚い過去も、何一つとして存在し得なかった。ただ、冷たい雨の感触と、耳を圧殺するような叩きつける波の音だけが、今この瞬間に、社会の底辺で泥水をすすりながら生きている二人の矮小な存在を、世界の何よりも強烈に肯定しているようだった。

彼らの無計画で無様な逃避行は、おそらくここで終わりを迎える。これ以上、物理的に逃げるための場所は、世界のどこにも残されてはいない。

けれど、激しい雨に打たれながら並んで立つ二人の胸の奥には、あの五月の生温かい夜に高架下で初めて出会った時とはまったく違う、小さく、しかし何があっても決して消えることのない、生々しい「生存の熱」が、確かに静かに、灯り始めていた。

第六章:一度きりの沈黙


あの灰色一色の、世界の果てのような海から戻った翌日、世界は何事もなかったかのように、元の退屈で無機質な軌道へと復帰した。

六月中旬の木曜日。レンは午後からの講義に出席するため、重い足取りで大学のキャンパスへ向かっていた。全身の筋肉が、あの激しい雨の中の強行軍と、容赦なく吹き付けた潮風のせいで、鉛でも詰め込まれたかのように鈍く、重く軋んでいる。階段を一段上るたびに、太ももの裏側に引き裂かれるような鈍痛が走った。

泥水を吸って完全にダメになったグレーのスニーカーは、今もアパートの狭いベランダの物干し竿の陰で、湿った匂いを放ちながら干されたままだ。今日代わりに履いてきた、高校時代から使い古している色褪せた古い靴の底からは、歩くたびにパサついた砂の感触があり、鼻腔の奥にまだ微かにあの最悪な海の、濁った潮の匂いが残っているような奇妙な錯覚を覚えた。

「おい梶原、お前昨日どこ行ってたんだよ。連絡もなしにバックれやがって。ゼミの発表、お前の担当のところ、俺たちが適当に埋めて飛ばしといたからな」

大講義室の前の席に着くなり、同じ班の要領の良さそうなゼミ生の男が、あからさまに不機嫌な表情を隠そうともせず、プリントの束をプラスチックの天板にバサリと叩きつけてきた。周囲の席の連中も、一瞬だけレンの方に冷ややかな視線を向け、すぐにまたスマートフォンの画面へと戻っていく。

「……すみません。ちょっと体調を崩してて、連絡できませんでした」

レンは視線を落としたまま、乾いた声で頭を下げた。お決まりの、誰の心にも響かない安っぽい謝罪の言葉。 けれど、その言葉を口にしている自分自身の声も、班員の男の尖った怒りの表情も、今のレンにとってはひどく遠い、ガラスの向こう側にある別世界の出来事のようにしか感じられなかった。

あの海で、アサミの細い手首を掴んだときの、骨の感触が直に伝わってくるような凍える冷たさ。 自分たちの矮小な存在を、言葉ごと根こそぎ押し潰し、掻き消すようにして吼え続けていた、あの圧倒的な波の轟音。 脳の裏側にそれらの強烈な手触りが、消えない焼き付け(バーンイン)のように残ってしまっている今のレンにとっては、大学の狭いコミュニティの中の微小な人間関係や、単位の有無、将来の就職がどうといった「正しい現実」のルールが、ひどく脆くて、中身のない薄っぺらな紙芝居の切り抜きのように思えてしまうのだった。

パーカーのポケットの中で、スマートフォンが冷たい金属の塊となって静かに眠っている。 アサミからの連絡は、あの朝、駅の改札前で別れてから一通も届いていなかった。そしてレンの側からも、メッセージを送信することは決してなかった。

お互いに、あの最悪な海辺で、誰にも見せたくなかった自分の最も深い部分にある「泥」を、生々しい傷口ごと晒し合ってしまったのだ。これ以上、何の理由もなく距離を縮めれば、二人が辛うじて保ってきたあのドライな境界線は完全に崩壊し、お互いの抱える底なしの暗闇に、二人まとめて共倒れしてしまう。その決定的な危うさを、二人は言葉にせずとも、本能的に、そして痛烈に察していた。

あえて、連絡を断つ。互いの領域に踏み込まない。 それが、二人があの雨の果てで結んだ、「一度きりの沈黙」という名の、声にならない唯一の約束事だった。

アルバイト先の居酒屋でも、レンはただ感情の消えたマシーンのように、黙々と手を動かし続けた。 厨房から通る「生一つ、入ります!」という声に対して、彼が返す「はい、よろこんで」という威勢のいいはずの定型句は、以前よりも少しだけトーンが低くなり、けれどその分、無駄な揺らぎが一切排除されていた。 客同士が怒鳴り合う醜い声も、新人のバイトがジョッキを落として床で木っ端微塵に割れる金属音も、今のレンにとってはすべて、自分の心を乱すことのない、ただの背景の退屈なノイズとして淡々と処理できるようになっていた。

深夜二時を過ぎ、一人でアパートの外付けの鉄製階段を、カン、カン、と寂しい音を立てて上る。 ドアの鍵を開けて引き、部屋の明かりを点けると、そこには当然のように誰もいない、静まり返った六畳一間の空間が、冷たくレンを迎え入れた。

キッチンの狭い換気扇の下には、いつだったかアサミが残していったメンソールの煙草の、緑色のラインが入った吸い殻が、埃の被った百円ショップの灰皿の中にぽつんと取り残されたままになっている。

部屋の四方の壁は、もう二度とアサミが来る前の時のように、自分を圧殺しようと内側へ迫ってくることはなかった。 けれど、代わりに圧倒的な「一人」の静寂が、部屋の隅々の湿気から染み出すようにして、レンの身体を容赦なく包み込んでいく。それは、アサミという存在に出会う前に彼が抱えていた、あの麻痺したような平坦な孤独とは、全く性質の異なるものだった。

一度、他人の剥き出しの体温に、その絶望の深さに触れてしまったあとの孤独は、より鮮明な輪郭を持ち、より鋭い痛みを伴って、レンの胸の奥を容赦なく抉り続けた。それでも彼は、ポケットの中のライターの角に指先を押し付け、その痛みにじっと耐えていた。

同じ頃、アサミもまた、完全に一人で、夜の倉庫が放つ無機質なノイズと正面から対峙していた。

あの日、海の底から引き揚げられるようにして街に戻ってきてからも、彼女は配送倉庫の仕分けバイトを辞めることはなかった。相変わらず午前三時の冷たい高輝度蛍光灯の光の下、彼女の胸元には『4番』と書かれたプラスチックのプレートが、安全ピンで歪んで留められている。

流れてくる茶色い段ボール箱を、感情の消えた瞳で見つめ、機械的に仕分けレーンへと捌き続ける毎日。けれど、彼女の手付きや、周囲の空気に漂っていた、あのいつ破綻してもおかしくなかった自暴自棄な投げやりさは、あの海を境に完全に消え失せていた。

(レンも今、あの狭くて散らかった部屋で、一人で耐えてるんだ)

深夜、ベルトコンベアが立てるゴトゴトという不快な重低音に耳を侵されながら、アサミはただそれだけのことを、お守りのように頭の中で静かに反芻していた。 そう思うだけで、段ボールの硬い角が薄い軍手を突き抜けて、手のひらの皮膚に鋭く食い込む痛みも、深夜勤務で苛立った社員がインカム越しに浴びせてくる理不尽な怒鳴り声も、不思議なほど、ただの通り過ぎる風のように受け流し、耐えることができた。

あいつが、あの薄暗い六畳一間の暗闇の底で、何者にもなれずに流されながらも、それでも必死に自分の足で立とうともがいている。だったら、自分だけがこの場所で、過去の恐怖に負けて泥水の中に溺れて消えるわけにはいかない。私だって、私の足で立たなきゃいけない。

バイトが終わり、東の空が不気味な灰色から、わずかに白濁し始める午前四時。 アサミは、倉庫の裏手にある誰もいない錆びついた非常階段の踊り場に腰掛け、数日ぶりにスマートフォンの電源を投入した。 液晶が眩しい光を放ち、起動する。着信履歴を開くと、そこには予想通り、あの地元からの見覚えのある11桁の番号が、執拗にいくつか並んでいた。けれど、今の彼女は、その数字の羅列を見つめても、かつてのように心臓が痛いほど激しく脈打ったり、呼吸が浅くなったりすることは、もう完全になくなっていた。

彼女は、踊り場に響く雨垂れの音を聞きながら、その番号を一つずつ、スマートフォンの画面をタップしてゴミ箱へと放り込んでいった。 そして着信拒否の項目を開き、すべての過去の、自分を檻に縛り付けようとする繋がりを、自分の指先で冷酷に、そして完全に遮断した。画面の向こう側の世界が、完全に死んだ。

「……もう、絶対に逃げないよ」

アサミは、誰もいないコンクリートの壁に向かって、小さく、けれど芯のある声で呟いた。 過去の暴力や恐怖から逃げ回るために、この見知らぬ東京の街に来たのではなかった。自分が、自分だけの人生を、誰の所有物でもない『私』をここに取り戻すために、私はここにいるのだ。 そのためには、名前を剥ぎ取られてただの記号として扱われる、この「4番」と呼ばれる薄暗い仕分け倉庫の殻から、もう一歩、自分の意志で外の世界へと足を踏み出す必要があった。新しいバイトを探そう。名前で呼ばれる場所へ行こう。そんな思いが、彼女の胸の中で静かに、けれど明確な形を結び始めていた。

彼女はポケットから煙草を一本取り出して唇に咥えたが、今回は、自分のライターの火を点けるのを、直前でピタリと止めた。 代わりに、パーカーのポケットの奥深くで、あの雨の夜、レンが彼女の煙草に火を灯してくれた、あの百円の使い捨てライターの、傷だらけのプラスチックの感触を、指先でしっかりと握りしめた。その指先から、あの小さなオレンジ色の炎の記憶が、熱となって彼女の脳裏に蘇る。

二人は、お互いの声を聴くことも、無機質な文字を交わすこともないまま、それぞれの生活の「底」で、静かに、けれど深く爪を立てていた。 安易に連絡を取り合って馴れ合わず、互いの傷口を舐め合って依存せず、ただ相手がこの世界のどこかで、自分と同じように泥水をすすりながら必死に生きているという、冷たくて固い信頼だけを唯一の命綱にして、二人は自分自身の目の前にある現実と、もう一度だけ、真っ正面から向き合おうとしていた。

長い梅雨の終わりを遠くで告げるように、湿った風が街を吹き抜け、遠くの灰色の空の端で、一瞬だけ乾いた雷の音が、ゴロゴロと重く響き渡った。

それからさらに一週間が経ち、六月の終わりが近づいたある日の深夜、街からはあの鬱陶しかった梅雨の、じっとりとした湿気が、少しずつ引いていくのが分かった。 夜空を見上げると、分厚い雲の隙間から、久しぶりに濁りのない本物の星の光が、いくつかぽつぽつと覗いている。

レンは、いつも通りの深夜のバイトを終え、汗ばんだ身体でアパートへと帰ってきた。 いつものように鉄製の階段を上り、202号室のドアの前に立ったとき、彼は自分の足元で、何かが小さく擦れる音を聞いた。

見ると、ドアの隙間の下のわずかな隙間に、一枚の、小さな四角い紙切れが挟まっていた。 レンは眉をひそめながらそれを引き抜き、部屋の中に入って電球の光の下で裏返した。

それは、どこかの配送倉庫のラミネートカードの切れ端だった。油性マジックで書かれていたはずの『4番』という文字は、ハサミで乱暴に切り落とされ、今やただの白いプラスチックの破片になっている。その裏側に、見覚えのある、少し尖った、お世辞にも綺麗とは言えない文字で、短い一言だけがボールペンで書き殴られていた。

『倉庫、辞めた。明日から、駅前の小さな本屋で働く。今度は名前で呼ばれるよ』

それだけだった。 相変わらず、名前も、連絡先も、これからの予定も、何一つ書かれてはいなかった。けれど、その紙切れを指先で挟んだ瞬間、レンの胃の奥にずっと澱のように溜まっていた、あの冷たい空虚さが、一瞬にして、温かい光の粒子となって霧散していくのを、彼は確かに感じた。

アサミは、あの暗い底から、自分の足で一歩を踏み出したのだ。記号としての自分を捨て、自分の名前を取り戻すために。

レンは、そのプラスチックの破片を、机の引き出しの、一番奥にあるあの百円のライターのすぐ横に、大切にそっと仕舞い込んだ。 そして、部屋の窓を大きく開け放った。流れ込んできた夜風は、もうあの五月のじっとりとした梅雨の重みを持っていなかった。それは、これからやってくる、どこまでも青くて、どこまでも眩しくて、けれど自分たちにとっては相変わらず泥臭くて過酷な、本物の夏の匂いを孕んでいた。

「……俺も、ちゃんとやらなきゃな」

レンは誰もいない部屋で、けれど、もう二度と迫ってこない壁に向かって、静かに、はっきりとした声でそう呟いた。 明日、大学に行ったら、あのゼミの連中に、もう一度ちゃんと頭を下げて遅れを取り戻そう。居酒屋のバイトだって、ただの数合わせとして時間を切り売りするんじゃない。自分がここで生きているという手応えを、その一分一秒の痛みを、ちゃんとこの身体に刻み込みながら、生きていくんだ。

二人の結んだ「一度きりの沈黙」は、今、お互いを縛る冷たい鎖ではなく、それぞれの場所でそれぞれの現実に立ち向かうための、何よりも強固な、目に見えない絆へと変わっていた。

遠い駅の方から、終電の通り過ぎる、あの地鳴りのような重低音が、静まり返った街に響き渡る。 レンは、その音をただ静かに聞き流しながら、明日という、相変わらず灰色で、けれどほんの少しだけ光の混ざった新しい一日を迎えるために、ゆっくりと、自分の意志で電気の紐を引っ張り、部屋の明かりを消した。

暗闇の中に、二人の、泥だらけの、けれど決して消えることのない真実の生活の足音が、静かに、確かに、重く響き始めていた。


第七章:アスファルトに爪を立てる


六月の終わり、長く街を重苦しく閉ざしていた梅雨が、まるで悪い冗談だったかのように唐突に明けた。

空は一転して、剥き出しの網膜を容赦なく刺すような、暴力的なまでの真っ青な原色に染まり上がった。頭上からは、すべてを均一に焼き尽くそうとする真夏の太陽が狂ったように照りつけ、道路を覆う黒いアスファルトの油分をじりじりと、不快な臭いとともに焼き始めていた。地面から立ち上る強烈な陽炎のせいで、目に入る遠くのビル群や道路標識の景色が、まるで水の中に落としたインクのようにぐにゃぐにゃと歪んで見える。

レンは、冷房が過剰に効いて肌寒い、大学の学生課の無機質なアクリル窓口の前に立っていた。 彼の手には、数日前からアパートの狭い机で、何度も何度もボールペンの芯を押し付けるようにして書き直した、一枚の「休学届」の用紙が固く握りしめられていた。

「本当に、これでいいんだね、梶原くん。一度この手続きを受理してしまうと、当然だけど今期の講義はすべて放棄扱いになり、これまで出席していた分の単位もすべて無効になるけれど。親御さんとの話し合いは、本当に済んでいるのかい?」

金属フレームの眼鏡をかけた、いかにも事切れたような目をした年配の男性職員が、抑揚のない冷淡な口調で、確認のための判を押す手を止めて聞いてくる。彼の背後では、天井の吹き出し口から吹き出す冷房の無機質な風が、デスクの上の書類をパタパタと軽く揺らす乾いた音だけが、不気味に響いていた。

「はい。いいです。手続きをお願いします」

レンの声は、自分でも驚くほど低く、そして驚くほど凪いで落ち着いていた。 大学という場所を、完全に辞めてしまうわけではない。ただ、周囲の「要領のいい奴ら」のノイズにただ流され、記号としての席を埋めるだけの中身のない空間に身を置き続け、「真っ当な大学生のフリ」を演じることに、彼の心は完全に限界を迎えていたのだ。一度、そのレールから完全に身を引き剥がし、自分の足の裏にダイレクトに伝わる現実の硬さと冷たさを、誰の力も借りずに、自分だけの力で確かめてみたかった。

学生課の重いガラス扉を出たレンは、汗が噴き出す炎天下の中、その足で事前に電話を入れておいた新しいアルバイトの面接へと向かった。 あの日々を誤魔化すために続けていた、あの居酒屋のバイトも昨日限りで完全に辞めていた。時給の良さや、サークル感覚のぬるい人間関係、そしてゲロを片付けるだけの無駄な時間に甘え、自分を被害者ポジションに置いておくのを、もう終わりにするためだった。

新しく選んだ仕事は、都内のビルや古い民家を更地にする、解体工事の現場作業員だった。 地名もよく知らない、埃っぽい砂利の敷地に建てられたプレハブの事務所。首に色褪せたタオルを巻き、全身をどす黒い日焼けと刺青で覆った強面の男から、「きついぞ、若いの。初日で逃げ出す奴なんかザラにいるからな」と煙草の煙混じりに凄まれたが、レンは男の目をまっすぐに見つめ返し、「大丈夫です。やらせてください」とだけ短く答えた。 受け取った履歴書の感触は、大学で提出を求められるどんなレポート用紙よりも、よっぽど重く、ざらついて感じられた。

翌週から、レンの日常のタイムラインは完全に一変した。 毎朝、まだ太陽が昇りきる前の午前5時に起き、鉄板の入った重い安全靴の紐を固く結び、埃とコンクリートの乾いた粉塵が激しく舞い散る現場へと向かう。 重いバールを両手で力任せに握りしめ、かつて誰かの生活があった古い民家の、腐りかけた壁や床板を強引にベリベリと引っぺがす。効率的な体重移動のコツが全く掴めず、最初の数日間は、スニーカーとは違う安全靴の硬さのせいで、足の裏や手のひらに新しい血マメがいくつもでき、それが作業の途中で無残に潰れては、皮膚の裏側から生々しい激痛を訴えてきた。

(痛い。めちゃくちゃに痛い。でも――これでいい)

バールの先端を、目の前の冷たいコンクリートの塊に突き立てるたび、自分の肉体が、世界の中身のないノイズではなく、確かに「目の前の物質」と真っ正面から衝突しているという、圧倒的な手応えがあった。 夕方、全身が泥と、コンクリートの粉と、己の流した濃い汗に塗れて六畳一間のアパートに戻ると、かつてあの部屋の壁が押し寄せてくるかのように感じさせていた、窒息しそうな空虚さは、跡形もなく消え去っていた。そこにあったのは、ただ泥のように深く、心地よい肉体の疲労と、自分の身体が確かにこの世界の地面に存在しているという、圧倒的なまでの生の手応え、充実感だけだった。

同じ頃、アサミもまた、あの青白い蛍光灯が冷たく降り注いでいた物流倉庫の仕分けレーンから、一歩外の世界へと自分の足で踏み出していた。

彼女のパーカーの胸元から、あの名前を剥ぎ取られた記号としての『4番』のプラスチックプレートは、もう完全に消え去っていた。アサミは、駅前にある小さなビジネスホテルの、客室清掃ベッドメイクの仕事を新しく始めていた。 時給は、あの深夜の仕分け倉庫の時よりも少しだけ下がった。けれど、ここでは誰も彼女を数字の番号では呼ばない。初日に渡された名札には、彼女がずっと呪い、けれど捨てきれなかった「深山みやま」という苗字が、明確な文字で印字されていた。

「深山さん、ここのベッドメイクはね、シーツの両端のシワが絶対に寄らないように、体全体を使ってピンと張って、マットレスの下に深く潜り込ませるの。それが基本だからね」

パートの、手のひらが象の皮膚のように固くなった年配の女性から、何度も厳しい口調で指導を受けながら、アサミは額に汗を滲ませ、一言も愚痴をこぼさずに黙々と手を動かし続けた。

白い巨大なシーツの両端を、細い両手で千切れるほどの力で掴み、全身の体重を後ろに預けるようにして一気に引っ張る。 客室の狭いベッドの周りを何周も激しく動き回るフットワークが上手くいかないと、履き慣れない作業シューズの中で、足の裏が激しく擦れて、じわじわと嫌な熱を持ち始める。

かつて、自分が地元のあの壊れた家から投げ出して逃げてきた凄惨な過去のしがらみや、夜中に一人でいると襲ってくるあのドロドロとした焦燥感が、脳裏を掠めて自分を再び闇に引きずり戻そうとするたび、アサミは歯を食いしばり、さらに強く、千切れるほどの力で目の前のシーツを引っ張った。

自分の体の中に刻み込まれた、あの汚れた過去を完全に消し去ることは、今の自分にはできない。 けれど、目の前の、見知らぬ誰かが使い汚した乱れたベッドを、真っ白に、何一つ汚れのない美しい状態に整えることは、今の自分のこの両の手を使えば、いくらでも、何度でもできるのだ。それだけが、今の彼女にとっての、唯一の世界に対するささやかな復讐であり、自己証明だった。

一日の過酷なノルマが終わり、夕暮れ時を迎えた午後五時。 アサミはホテルの人気のない非常階段の踊り場に出て、手すりに身体を預けながら、真夏の夕日に照らされて真っ赤に染まっていく、東京の混沌とした街並みを静かに見下ろしていた。

カシャリ、と乾いた音がして、デニムのポケットの中でスマートフォンが一度だけ短く震えた。 それは、あの地元からの着信拒否した番号からの通知でも、誰かからのメッセージでもなかった。彼女が画面を開くと、液晶に表示されたのは、自分が以前設定しておいた、ただのカレンダーの自動通知だった。

あの高架下のコインランドリーの夜、百円のライターの炎で互いの顔を照らし合わせたあの雨の夜から、ちょうど二ヶ月の月日が経とうとしていた。

アサミは、スマートフォンの画面を消すと、自分の、新しく少し硬くなり始めた右手のひらを見つめた。 かつて配送倉庫の粘着剤や段ボールの擦れで、ガサガサに荒れ果てていた生気のない皮膚はいつの間にか消え去り、今は何度も何度も重いシーツを全力で引っ張り続けたせいで、親指と人差し指の付け根のあたりが、黄色く、固いタコとなって盛り上がっている。それが、彼女がこの二ヶ月間、自分の足で必死に生きてきたことの、何よりの証明だった。

(レンも今、あの狭い街のどこかで、同じように走ってる)

お互いに、どちらの側からも一切の連絡を取らないという、あの海辺で結んだ沈黙のルールは、二ヶ月が経過した今も、頑ななまでに守られたままだった。 スマートフォンの画面を数回タップして、メッセージを送れば、あるいは電話をかければ、三十分もしないうちにすぐに会える距離に、お互いはまだいる。けれど、今、この中途半端な状態で安易に顔を合わせ、互いの体温に触れてしまえば、またあの「ぬるま湯のような、傷の舐め合いの夜」に逆戻りしてしまうことを、二人は痛いほどによく知っていた。

二人は今、誰の助けも借りず、ただアスファルトの地面に、己の爪をぎりぎりと音を立てて立てるようにして、それぞれの過酷な現実という名の急な坂道を、泥臭く、しかし確実に、一歩ずつ上り始めていた。 あの高架下のコインランドリーで交わした、乾いた冷たい約束の記憶だけが、今や二人の孤独な背中を、世界の何よりも強く前へと押し出す、最強の押しエンジンとなっていたのだ。

頭上から、激しい夕立の、強烈な水の気配を孕んだ生温かい夏の突風が吹き抜け、アサミの少し伸びた黒い髪を大きく、激しく揺らした。

七月の半ばを過ぎると、東京の暑さは本格的に狂気を帯び始め、解体現場のコンクリートの粉塵は、熱せられた空気の中で、吸い込むだけで肺が焼け付くような凶器へと変わっていた。

「おい、カジ! そこ、一気にハンマー叩き込め! もたもたしてっと熱中症で倒れるぞ!」 ヘルメットの奥から汗を滝のように流した先輩作業員が、大型のパワーショベルの重低音に負けない大声で怒鳴る。

「っす!」 レンは返事をすると同時に、自分の体重ほどの重さがある鉄製の両手ハンマー(大ハンマー)を頭上高くに振り上げ、目の前にある古いビルの、ひび割れたコンクリートの支柱に向かって、全身のバネを使って一気に振り下ろした。

ドグォォン、と鈍い破壊音が周囲の空気を震わせ、硬いコンクリートの破片がレンの保護メガネの表面に激しく当たって弾け飛ぶ。手のひらのマメが再び裂け、中から滲み出た血が軍手の繊維を赤黒く染めていくのが分かったが、レンはそれを気にする暇もなく、すぐに次の獲物に向かってハンマーを構え直した。

筋肉が悲鳴を上げ、視界が暑さでチカチカと黄色く明滅する。けれど、その極限の状態の中で、レンの頭の中は、大学の講義室にいた時とは比べ物にならないほど、驚くほど透明に澄み切っていた。 壊して、更地にして、新しくする。この単純で暴力的な世界の循環の中に、自分の肉体を丸ごと放り込んでいる時だけ、彼は自分が「梶原レン」という、一人の血の通った人間としてこの地球の上に立っていることを、骨の髄から実感することができた。

同じ時間の午後四時、アサミはビジネスホテルの最上階の客室で、最後の一部屋のチェックを終えようとしていた。 完璧にシワ一つなくピンと張られた、純白のシーツ。ベッドの四隅は、定規で測ったかのように正確に、45度の角度で美しくマットレスの下へと折り込まれている。その様子を、アサミは少し離れた場所から、満足そうにじっと見つめた。

彼女は、作業用のエプロンのポケットから、あのレンの部屋からずっと持ち歩いている、あの百円の使い捨てライターを取り出し、親指の腹でその傷だらけのプラスチックの表面を優しくなぞった。

火を点けることはしない。ただ、このポケットの中にある小さな「熱の記憶」が、彼女がこの歪んだ世界で、自分を見失わずに生きていくための、唯一のアンカーだった。

二人は、お互いの顔を見ることも、その声を聴くこともないまま、けれど同じ真夏の烈日の下で、確実に、自分たちの未来に向かって爪を立て、地面を削りながら進んでいた。 五月のあの夜、高架下で偶然出会った二人のすれ違う足音は、今や、それぞれの現実を力強く踏みしめる、誰にも止めることのできない、本物の「生活の足音」へと、完全に進化を遂げていた。

街の向こう側、劇的に赤黒く焼け焦げていく夏の夕焼け空の端から、再び、ゴロゴロと世界を震わせる、乾いた終わりのない雷の音が響き渡った。


第八章:夜明け前の再会


八月の終わり。夜になっても黒いアスファルトの地面が、日中に蓄え込んだ暴虐的な熱を容赦なく放ち続ける、息苦しい夏の盛りのことだった。

レンは夜勤の現場帰りに、どこへ行くというあてもなく、ただ重い足取りで歩いていた。 オレンジ色の薄暗い街灯に照らされた彼の作業着は、昼間の解体現場で浴びたコンクリートの白い粉塵と、乾いてはまた噴き出した大量の汗が混ざり合い、ひどく煤けて汚れている。つま先に鉄板の入った重い安全靴の重量が、一歩を進めるごとにふくらはぎの筋肉へ、鈍く、逃げ場のない疲労となって確実に蓄積していった。

大学に休学届を出してからというもの、これまでのぬるい人間関係の象徴だった友人たちとは、完全に連絡が途絶えていた。 パーカーのポケットの中で、スマートフォンの無機質な通知音が鳴ることも滅多にない。世界から半分切り離されたような、圧倒的な沈黙。けれど、今のレンの目線は、二ヶ月前のように絶望して地面ばかりを彷徨ってはいなかった。

毎日、身体を限界まで酷使し、自分の力だけで稼ぎ出した固い金で食う、安物の牛丼や白飯の味を、彼はもう知っていた。フットワークの体重移動が下手くそで、安全靴の硬さに負けて足の裏の皮が何度もベリベリと剥けては、その度に新しく硬いタコへと変わっていった。その泥臭いプロセスの積み重ねそのものが、今の彼の中に、「俺は確かに、この世界の地面の上に自分の足で立って生きている」という、これまでにない確かな手触りを与えていた。

気づけば、彼の足は無意識のうちに、あの始まりの場所へと向かっていた。

頭上を巨大な鉄塊として走り抜ける、高架線の重低音。数分おきに通過する、鉄錆と油の匂いを孕んだ列車の地鳴り。 その騒音の真下にある、古びたコインランドリー。 黄色いプラスチックの看板は、あの五月の夜と変わらず無惨にひび割れたままで、その奥からは、相変わらず虫の群れが群がる蛍光灯の、冷淡な白い光が漏れ出している。

レンはランドリーの軒下に立ち、ポケットから少し潰れた煙草の箱を抜き出した。 何度も手のひらで弄んで傷だらけになった百円のライターを握り、ホイールを親指で強く弾く。チ、と音がしてオレンジ色の小さな炎が灯り、吸い込んだ紫煙が、じっとりと張り付く夜の熱気の中に溶けて消えていく。

(あいつは今、世界のどこで、どうしているだろうか)

互いの領域を詮索はしないという、あの沈黙のルールの裏側で、アサミという少女の存在だけが、この過酷な数ヶ月間、レンの折れそうな背中を支え続けていたのは間違いのない事実だった。 配送倉庫の『4番』という記号ではなく、どこかで自分の名前を取り戻し、不器用にも自分の足で立とうともがいていた、あの剥き出しの冷たい瞳。

「……相変わらず、汚い顔して煙草吸ってんね。見てるこっちが暑苦しい」

不意に、すぐ横にある自動販売機の、冷たい缶がぶつかり合うガタンという音の影から、聞き覚えのある低めの声が静かに響いた。

レンは一瞬、肺の中の煙を止めて息を呑み、声のした方をゆっくりと振り向いた。 そこには、あの夜と全く同じように、自動販売機の青白い光に照らされたアサミが立っていた。

二ヶ月前と変わらない、履き潰したデニムに黒い無地のTシャツ。けれど、その佇まいから受ける印象は、あの頃とはまるで違っていた。 少し伸び放題だった黒い前髪は、眉の上で綺麗に、まっすぐ切り揃えられており、その奥にある冷たい瞳からは、世界を呪い、何かに怯えきっていたあの暗い焦燥感が、完全に消え去っていた。代わりにそこには、どこか静かで、誰にも侵されることのない確固たる光が宿っている。

彼女の細い指先には、同じように一本のメンソールの煙草が挟まれていた。

レンは無言のまま、手の中にある百円のライターを彼女の目の前へと差し出した。 親指に力を込め、ホイールを弾いて火を灯す。小さなオレンジ色の炎が、二人の濡れた視線の間で静かに揺れた。

アサミは一歩だけレンの方へと近づき、邪魔な髪を耳にかけながら、その炎に顔を近づけて静かに煙を吸い込んだ。 彼女の身体からは、あの雨の夜に漂っていた、まとわりつくようなジメジメとした湿気は完全に消え去っていた。代わりに漂ってきたのは、彼女が毎日毎日、必死に引っ張り続けてきたあのホテルのシーツのような、清潔で、どこまでも乾いたリネンの匂い。そして、彼女が確かに自分の力で新しい日常を営んでいるという、健康的な体温の気配だった。

チ、と小さな音がして、煙草の先端が赤黒く爆ぜる。 アサミは深く煙を吸い込み、それを頭上を走る高架線の方へ向かって、ゆっくりと吐き出した。

「ありがと」

アサミは自動販売機の冷たい鉄板に背中を預け、レンと肩を並べるようにして、ちょうど頭上を通り過ぎていく列車の群れを見上げた。 激しい金属音の地鳴りが二人の間を力任せに通り抜けていく。けれど、その巨大な轟音に怯えるように、耳を塞いで身を硬くしていたかつてのアサミは、もうそこにはいなかった。彼女はただ、その世界のノイズを、自分たちの生きる日常の当たり前の一部として、静かに、優しく受け入れているようだった。

「変わったね、レン。身体、ひと回り大きくなったんじゃない?」 アサミは、レンの泥とコンクリート粉に汚れた作業着と、つま先の擦り切れた重い安全靴に目を向けながら、からかうようなトーンで言った。

「そうかな。大学を完全に休学して、毎日ハンマー振り回して古い壁をぶっ壊してるだけだよ。おかげで毎日全身ボロボロでさ」 レンは自嘲気味に笑うと、自分の、度重なる労働でマメが硬いタコへと変わった、大きな手のひらを彼女の前に晒してみせた。

「いい手じゃん。前の、ファミレスで何も掴んでないみたいだった、あの死んだ魚みたいな手より、ずっと手触りがあってマシだよ」 アサミはフッと喉の奥で小さく笑うと、今度は自分の右手を、レンの目の前へと無造作に差し出した。

かつて配送倉庫の固い段ボールの擦れ跡や、ガムテープの粘着剤で生々しく荒れ果てていた彼女の皮膚は、いつの間にか綺麗に消え去っていた。その代わりに、ホテルの重いシーツを全身の体重で何度も何度も引っ張り続けたことで、指の付け根の皮膚が、新しく黄色く固いタコとなって、しっかりと出来上がっていた。

「私もさ、あの後ホテルで毎日『深山さん』って名前で呼ばれながら、ひたすらベッドメイクしてる。私の汚い過去は消えないし、相変わらず着信拒否してる実家からは、たまに死霊みたいに電話がくるよ。でもね、もう、あのサイレンの音を聞いても怖くないんだ」

アサミは短くなった煙草をアスファルトの地面に落とすと、スニーカーの底で、今度は静かに、確実に行儀よく、火種を踏み消した。

「私、来月から、別の街のビジネスホテルに契約社員として行くことになったんだ。ここの系列の、もっとずっと遠くの街にある、海に近い店舗。誰かに命令されたわけじゃなくて、自分で手を挙げて、転勤の希望を出したの」

アサミのその言葉を聞いた瞬間、レンの胸の奥を、一瞬だけ、冷たい冬の風が通り抜けたかのような、寂しさに似た痛みがよぎった。 けれど、次に彼の胸に湧き上がってきたのは、言葉にできないほどの深い納得と、誇らしさだった。

「そっか。逃げるんじゃなくて、自分の足で進むんだな」

「うん。進むの。もう、ここじゃないどこかへ、誰の所有物でもない私の足でね」 アサミはまっすぐに、濁りのない瞳でレンを見つめた。 その瞳には、かつて夜の街でベタベタと傷口を舐め合っていたような甘ったるい依存もなければ、もう二度と会えないかもしれない別れを惜しむような、安っぽい感傷も何一つ含まれていなかった。そこにあったのはただ、同じ暗闇の底から、血を流しながら一緒に這い上がろうとした、唯一の「戦友」に対する、最大限の敬意と信頼だけだった。

「レンは、これからどうするの」

「俺は……もう少しここで、あの現場で壁を壊すよ。自分の頭の中にいつの間にか作ってた、中身のない要らない壁を全部壊しきったら、またあの大学に戻るか、あるいは全く別の道を探すつもりだ。自分の言葉で、喋れるようになるためにね」

「ふうん。相変わらず真面目で、レンらしいね」

話しているうちに、東の空の端が、少しずつ、深い藍色のグラデーションから、白濁した灰色へと移り変わり始めていた。 夜から朝へと世界が作り変わる、夜明け前の、最も静かで、最も冷え込む時間。 けれど、二人の足の下にある黒いアスファルトの地面は、日中の強烈な熱をまだその奥底に微かに残しており、彼らの汚れた靴底を通して、確実な大地の体温を伝えていた。

「じゃあね、レン」 アサミはキャンバス生地のトートバッグを肩にかけ直し、レンに背を向けた。

「ああ、じゃあな。アサミ。元気で」

二人は、別れ際の握手もしなければ、スマートフォンの連絡先をその場で消去し合うような派手な演出もしなかった。 アサミは始発電車の待つ駅の方向へ、レンは自分のボロいアパートの方向へ、それぞれの、地面を力強く踏みしめる足音を夜明けの街に響かせながら、ゆっくりと歩き出した。

交わした言葉は、驚くほど少なかった。けれど、二人の胸の奥には、もうどんなに長い言葉を尽くしても足りないほどの、強固な「並走の記憶」が、消えない火となって刻まれていた。 彼らはもう、社会の底辺で立ち往生し、誰かの書いた台本をただ待っているだけのエキストラではなかった。 自分の人生という名の、泥臭くて、不条理で、けれど愛おしい舞台の上で、しっかりと両足で地面を踏み締め、自分の本当のセリフを喋り始める、一人の独立した人間だった。

頭上をごうごうと音を立てて、今日の一番列車が、眩い純白のヘッドライトで夜明け前の暗闇を真っ二つに切り裂きながら、次の街へと通り過ぎていった。

レンが自分のアパートの、あの鍵の壊れかけた202号室のドアを開けたとき、部屋の中には窓から差し込む、新しく、透明な朝の光がまっすぐに差し込んでいた。

部屋の中は、相変わらず男の一人暮らしらしく散らかってはいたけれど、かつてのように彼を窒息させようと迫ってきたあの四方の壁は、もうどこにも存在しなかった。窓を開け放つと、部屋の中に流れ込んできた朝の風は、真夏の熱気を孕みながらも、驚くほど軽やかで、どこまでも澄んでいた。

レンは、作業着を脱ぎ捨ててシャワーを浴びると、机の引き出しを開け、その一番奥に仕舞い込まれていた、あのプラスチックの破片を取り出した。 アサミが残していった、仕分け倉庫の『4番』という文字が切り落とされた、あの白いカードの切れ端。

彼はその破片を、自分のポケットから取り出した、傷だらけの百円の使い捨てライターのすぐ横に、並べて静かに置いた。

これから始まる彼らの生活は、決して映画のように華やかなものでも、一瞬で大金が手に入るような劇的なものでもないだろう。 明日からもまた、レンは埃まみれの現場で大ハンマーを振り下ろし、手のひらの皮を剥きながらコンクリートの壁を壊し続ける。アサミもまた、遠い知らない街のホテルで、指の付け根にタコを作りながら、他人の使い汚したシーツを真っ白に引っ張り続ける毎日が待っている。過去の亡霊が、またいつ彼らの背後を脅かしにやってくるかもわからない。

けれど、彼らはもう、その過酷な現実から目を背けて、コインランドリーの自販機の影に隠れることはない。 自分の爪をアスファルトに立て、血を流しながらでも、自分の足で一歩ずつ、その坂道を上っていく強さを、二人はあの沈黙の果てで、完全に手に入れたのだから。

レンは、机の上に置かれた二つの小さな相棒たちを見つめながら、ふっと、これまでで一番、深く、心の底から満たされた笑みを浮かべた。

外からは、街が本格的に動き出すための、無数の人々の生活の足音が、遠くから津波のように響き渡ってきている。 レンは、その大きな世界のノイズの中に、自分自身の、新しく力強い足音をしっかりと重ね合わせるようにして、新しい一歩を踏み出すために、ドアを開けてまばゆい真夏の太陽の下へと、真っ直ぐに歩き出した。

第九章:重い足取りで、坂を上る


アサミが新しい知らない街へと自分の足で旅立ってから、さらに一ヶ月という月日が静かに、けれど確実に流れていった。

カレンダーが九月の声を聞いてもなお、日中の太陽から降り注ぐ容赦のない日差しは、アスファルトの地熱とともに人間の肌をじりじりと焦がし続けた。けれど、夕暮れ時や真夜中に現場を出る瞬間の風の匂いには、かつてのあの湿った梅雨や狂気じみた真夏のそれとは違い、確実に、どこか乾いた、寂しげな秋の気配が混じるようになっていた。

レンは相変わらず、解体工事の現場に身を置いていた。 その日、彼が親方から配属を命じられたのは、都心から少し離れた、細く急な坂道を上りきった高台の上にある、古い二階建ての木造民家の解体現場だった。 何十年もの間、その土地に建ち続け、主を失ってからもう随分と長い年月が経っているのだろう。敷地内には雑草が膝の高さまで生い茂り、至る所の梁や柱といった木材は湿気で黒く腐り果て、一階の床板は建物自身の重みに耐えかねて、あちこちが不格好に歪んで陥没していた。

「おい、梶原。お前は二階の奥の和室に入れ。当時の古い桐のタンスがそのまま残ってて邪魔だから、大バールを使ってその場でバラバラにぶっ壊せ。壊した端から、一階のトラックの荷台に窓から放り投げろ」

首から汗拭きタオルを下げた親方の、いつも通りのぶっきらぼうな指示の声が飛ぶ。 「了解です。入ります」 レンは短くそう返事をすると、つま先に鉄板の入った重い安全靴をギシ、ギシ、と不気味にきしませながら、今にも踏み抜きそうな古い木造階段を二階へと上っていった。

埃が何層にも堆積し、昼間だというのにどこか薄暗いその和室の隅に、親方の言っていた通り、色褪せて金具のサビついた古びた桐のタンスが、静かに佇んでいた。 レンは両手に大バールをしっかりと構え、タンスの木目のわずかな隙間に向かって、その鋭い金属の先端を容赦なく突き立てた。そして、自分の全身の体重をこれ以上ないほど乗せ、一気に両腕の力でバールを引き剥がす。

バリバリバリ、と乾燥しきった古い木材が絶叫を上げるようにして激しく裂ける音が、静まり返った午後の住宅街に木霊した。 何度も、何度も、木材を強引に引き裂くたびに生じる激しい鈍い衝撃が、ダイレクトに両手のひらを伝って、レンの太い両腕、そして肩、背骨の芯へと向かって容赦なく突き抜けていった。けれど、かつてのように手のひらのマメが破れて血が流れることは、もう二度となかった。分厚く、硬くなった彼のタコは、道具の冷たい硬さを何事もないようにしっかりと受け止めている。

(壊すんだ。過去も、弱さも、全部)

タンスの引き出しが完全に破壊され、床に崩れ落ちた衝撃で、その奥の隙間に隠されていた何枚かの色褪せた古い書類や、当時の主の生々しい生活の断片が、埃とともに床一面へとばさばさと散らばった。 それらを見つめたとき、レンはふと、自分のアパートの埃を被った狭い机の上に、二ヶ月以上も放置されたままになっている、大学の「現代社会論」の未提出のレポート用紙のことを、唐突に思い出した。

かつての、中身が空っぽでただ怯えていただけの自分なら、こうして他人の残した古い生活の気配や、自分が社会の中で果たすべき義務の重さ、単位という名のプレッシャーに勝手に気圧され、その場にただ立ちすくんで、また現実から逃げ出していただろう。

けれど、今のレンは、全く違っていた。 彼は散らばった過去の残骸を、感情の消えた瞳でただ無表情に見つめ、大きな箒を使って淡々と一箇所へと掃き集め、頑丈な麻製のガラ袋へと躊躇なく詰め込んでいった。

「過去は消えない。でも、もう私は怖くないよ」 あの夜、コインランドリーの自販機の灯りの前で、アサミが静かに言い放ったあの言葉が、解体現場の騒音の中で何度もレンの脳裏を過る。

自分の頭の中にいつの間にか作り上げていた、「何か特別な者にならなければいけない」という、実体のない強迫観念のような壁。 周囲の要領が良くて楽しそうな奴らと、何もない自分を勝手に比べては、勝手に窒息して逃げていた、あの無意味でプライドばかり高い脆い自意識。 レンはそれらを、目の前にある主を失った古い建物を物理的に破壊していくのと全く同じように、自分の肉体と時間を使って、一つずつ、粉々に、再起不能になるまで叩き壊し続けていたのだ。

夕方、すべての作業が終わり、更地へと変わり始めた現場の足場の最上段から、レンは遠くの街並みを静かに見下ろした。 落ちていく真赤な夕日が、どこまでも続く住宅街の屋根を、どす黒い赤色へと染め上げている。 ここから見える広大な景色の中に、もう、かつてのような「自分の居場所がどこにもない」というあの狂おしい焦燥感は、微塵も存在しなかった。 どこに行こうが、どんな底辺にいようが、自分の血の通った身体が確かにそこにあれば、そこが自分にとっての唯一の、誰も侵すことのできない「正しい現実」になる。その圧倒的な、暴力的なまでの事実だけが、レンの胸の奥底に、静かに、重く居座っていた。

同じ頃、東京から遠く離れた、潮の匂いがかすかに風に混じる新しい街に赴任したアサミもまた、自分の人生の「最後の壁」と、真っ正面から対峙していた。

新しく配属されたビジネスホテルは、以前いた東京の店舗よりもずっと規模が大きく、一日に彼女が処理しなければならない、あるいは確認しなければならない客室の総数は、倍近くに膨れ上がっていた。 二ヶ月間の圧倒的な仕事ぶりが認められた彼女は、今やただシーツを引っ張るだけの平作業員ではなく、チーフの女性のすぐ後ろにつき、新しく入ってきた年上のパート従業員たちに明確な指示を出す、リーダーとしての立場になっていた。

「深山さん、302号室と305号室のベッドメイクのチェック、最終確認をお願いね」

「はい、分かりました。すぐ向かいます」 アサミはインカムのボタンを的確に押し、ハキハキとした、濁りのない通る声で応じた。 乱れがちだった黒い前髪をきっちりと黒いピンで額に留め、シワ一つないホテルの紺色の制服に身を包んだ彼女の凛とした姿には、あの五月の雨の夜、路地裏の片隅で震えながら、泥まみれの手で煙草の火を求めていた、あの浮浪児のような、世界の終わりを待つような影は、もうどこにも残っていなかった。

彼女のスマートフォンの電源は、あの夏の日を境に、今や24時間いつでも繋がる状態で入ったままになっていた。 そしてその日、すべての客室の清掃チェックを終えて、夕方の静かなロビーへとエレベーターで降りてきた時、フロントの女性スタッフが、困惑と緊張の入り混じった複雑な表情で、彼女を呼び止めた。

「あの……深山さん。お身内の方、お母様と名乗る方から、今、フロントの固定電話に直接お電話が入っていますが……いかがなさいますか?」

フロントのスタッフが、申し訳なさそうに、けれどどこか腫れ物に触れるような手付きで、黒い受話器を差し出してくる。 アサミの指先が、その瞬間だけ、氷水をかけられたかのようにピキリと硬直した。 スマートフォンを着信拒否にされ、東京の住処も失ったことで、地元の実家の人間はついに執念深く、彼女の新しい所属先であるホテルの系列の網の目を調べ上げ、この遠い街の職場へと直接、呪いの連絡をかけてきたのだ。

アサミは、ロビーの冷房の風の中で、深く、深く息を吸い込んだ。そして、自分の制服の裾を一度だけギュッと強く握りしめてから、迷いのない手付きで受話器を受け取り、耳に当てた。

「……お母さん?」

受話器の奥の鼓膜から、記憶の底にこびりついていた通りの、金属をヤスリで削るような金切り声混じりの、ヒステリックな罵声が響いてきた。 勝手に家を出ていったことに対する身勝手な非難、これまでの養育費を返せという理不尽な金の無心、そして、自分が今田舎で不幸であることのすべての原因を娘のせいにするような、ヘドロのようにドロドロとした言葉の暴力の弾丸。

かつての、ただ怯えることしか知らなかったアサミなら、この声を一瞬でも耳にした瞬間に過呼吸を起こし、目の前が真っ暗になって、すべてを投げ出して夜のどん底の街へと再び逃げ出していただろう。

けれど、今の客室チーフ、深山アサミの瞳は、驚くほど冷徹に、そして静かに、前方の景色を見据えていた。 ホテルの大きなロビーのガラス窓の向こうには、夕日に照らされて整然と区画整理された、美しく新しい街並みがどこまでも広がっている。彼女がこの数ヶ月間、自分の手のひらをタコだらけにしながら掴み取り、毎日の完璧なベッドメイクによって維持し続けている、彼女自身の、誰にも邪魔させない「正しい生活」が、確かにそこにあった。

「――もう、そっちには絶対に帰らないよ」

アサミは、相手の受話器の向こうの言葉を力強く遮り、遮二無二、しかし、これ以上ないほどはっきりとした、冷たい口調で告げた。

「私は今、この街で、自分の手でちゃんとお金を稼いで、私の名前で自分で生きてる。お母さんの人生の不幸は、お母さん自身のものだよ。私の人生に、これ以上一歩も入ってこないで。次に関係のない電話をかけてきたら、警察に全てのログを提出するから」

受話器の向こうで、母親が予期せぬ娘の強硬な態度に、ヒッと小さく息を呑んで絶句するのが分かった。 アサミはそれ以上、何の感情の揺らぎも乗せることなく、静かに、しかし断固とした力で、黒い受話器をフックの奥へと叩きつけるようにして戻した。

ト、と小さなプラスチックの音がして、彼女の人生を縛り付け、檻の中に閉じ込めていたあの最悪な過去のしがらみが、今、この瞬間に彼女のタイムラインから完全に、永久に切り離された。

受話器を離したアサミの身体は、微かに、小刻みに震えていた。 けれど、それはかつてのような恐怖や絶望による震えでは決してなかった。自分の人生の境界線を、誰の力も借りず、自分自身の言葉の力だけで完全に守り切ったという、圧倒的なまでの、魂の解放感の震えだった。

アサミは、制服のタイトなポケットの中にある、あの傷だらけの百円の使い捨てライターに、そっと指先で触れた。 もう、そのホイールを弾いて火を点けることはない。けれど、あの最悪な五月の雨の夜、コインランドリーの軒下でレンが彼女の煙草の先に灯してくれた、あの小さなオレンジ色の炎は、今や彼女の胸の奥底で、自分をどんな暗闇や過去の亡霊からも守り抜くための、決して消えることのない、眩い灯台となって力強く輝き続けていた。

二人は、それぞれの遠く離れた孤独な場所で、重い、重い足取りながらも、確実に自分自身の足で、人生という名の急な坂道を上り詰めていた。 凪の底の、あの光すら届かない暗闇から這い上がり、現実という名の、眩しくも正しい光が差し込む場所へと、彼らはもう、あと一歩のところまで、その手を伸ばし、迫りつつあった。

九月の終わりのある土曜日、解体現場での一日の激しい労働を終えたレンは、アパートへの帰り道、ふと足を止めて夜空を見上げた。

頭上には、夏のあのじっとりとした湿ったベールは完全に消え去り、吸い込まれそうなほどに高くて深い、濃紺の秋の夜空が広がっていた。街灯の光に邪魔されながらも、その奥では、いくつかの星が、自分の存在を主張するように強く、鋭く瞬いている。

レンはアパートに戻り、久しぶりに、机の上に置かれたままになっていたあの「現代社会論」のレポート用紙を手に取った。 シャープペンシルを握る彼の手のひらには、解体現場で培った硬いタコがある。そのタコのせいで、道具を握る感覚は以前よりも少しだけ無骨になっていたけれど、用紙に向き合う彼の心には、もう一ミリの迷いも、他者への劣等感もなかった。

彼は、自分の言葉で、自分がこの数ヶ月間で見て、触れて、壊してきた世界のリアルを、レポートの文字として淡々と、けれど力強く書き込み始めた。それは、誰かの本から盗んできた借り物の言葉ではなく、彼自身が肉体を削って手に入れた、本物の彼の「言葉」だった。

同じ時刻、遠い海の見える街のホテルの寮で、アサミもまた、窓を開けて秋の涼しい風を部屋の中に迎え入れていた。 彼女の部屋の机の上には、新しく購入した、資格試験のための分厚い参考書が開かれている。チーフとしての仕事をさらに極め、この街で本格的に自分のキャリアを築いていくための、彼女の新しい挑戦だった。

彼女は、窓の外で静かに波打つ、夜の海の音に耳を澄ませた。 あの五月に二人で見つめた海は、すべてを飲み込もうとする最悪な灰色の泥水のようだったけれど、今、彼女の目の前にある海は、ただ静かに、次の朝を迎えるために穏やかなリズムを刻んでいる。

二人は、もう二度とあのコインランドリーの自販機の前で、偶然出会うことはないかもしれない。お互いの連絡先さえ、もう必要のないものとして、それぞれの記憶の奥底に仕舞い込まれている。

けれど、彼らがアスファルトに爪を立て、血を流しながら上ってきたこの坂道の先には、間違いなく、同じ一つの、新しくて眩しい夜明けの光が待っている。 依存を捨て、馴れ合いを断ち切り、それぞれの場所で一人の人間として自立したからこそ、二人の間にある目に見えない「一度きりの沈黙」という名の絆は、今や世界のどんな鎖よりも固く、彼らを未来へと繋ぎ止めていた。

遠くの街で、今日を締めくくる最後の列車の音が、地鳴りのように静かに響き渡る。 レンとアサミは、それぞれの場所で、その音を新しい明日の始まりの合図として聞きながら、静かに、けれど確かな足取りで、自分たちの未来のページをめくるために、一歩前へと歩みを進めた。


第十章:凪の底から、光を見る


十月の半ば、街からは完全に夏の暴力的だった残熱が引き、乾いた、どこか切ない秋の風が路地裏の隅々を吹き抜けていくようになった。 空は驚くほど高く、一切の濁りを取り払ったかのような抜けるような青さが、世界の果てまでどこまでも広がっている。

レンは、かつて自分が逃げ出した、大学のキャンパスへと続く緩やかな坂道を一歩ずつ上っていた。 衣替えされたばかりの、少し硬い風合いをした薄手のネイビーのコートを着ている。その足元は、あの数ヶ月間、泥とコンクリートの粉塵に塗れて己の肉体を支え続けた安全靴ではなく、新しく買い直した真っ当なスニーカーだった。けれど、アスファルトを踏み締める足の裏の感触は、あの梅雨の時期の自分とはまるで違っていた。しっかりと地面の硬さと冷たさを捉え、一歩一歩の歩幅に、何のためらいも迷いもない。

彼はまっすぐに学生課の無機質な窓口に向かい、休学を終了し、後期の講義に復帰するための必要書類を手続きを済ませた。 事務的に手渡された新しい時間割のプリントは、相変わらず無機質で、ただの数字と記号の羅列のようだったけれど、今のレンの目には、それが自分を社会の枠組みに縛り付ける冷たい鎖には、どうしても見えなかった。ただの、自分がこれから進むべき道を記した、シンプルな地図に過ぎない。

「おい、梶原じゃん。お前マジで今期から復学したんだな。なんか……しばらく見ない間に雰囲気変わったな。ガタイもよくなったし」

大講義室の最上段の、かつて自分が世界のノイズから隠れるようにして座っていたいつもの席に着くと、かつてのゼミ生が少し驚いたような、どこか気圧されたような顔で声をかけてきた。 「そうかな。ちょっと、現場で古い壁をぶっ壊すバイトをしてたんだ」 レンが短く、飾らない声でそう答えると、友人は「何それ、意味わかんねえ」と肩をすくめて笑いながら、また別の、就職活動やサークルの話で盛り上がる華やかなグループの輪へと戻っていった。

彼らの喋る、誰がどこに内定しただの、今度の飲み会がどうだのという話は、相変わらずレンの興味を強く惹きつけるものではなかった。けれど、今のレンはそれを「中身のないプラスチックの玩具」として冷酷に見下したり、あるいは自分だけが取り残されているような恐怖を覚えたりすることは、もう完全になくなっていた。

彼らは、彼らの用意された正しい舞台の上で、必死に自分のセリフを喋り、生きているのだ。そして自分は、この泥臭くて、時に理不尽な現実の地平で、自分の足できっちりと立って生きていく。 ただ、それだけのことだ。優劣など、最初からどこにも存在しない。

講義がすべて終わり、街が夕暮れのオレンジ色に染まる頃。レンは大学の正門を出て、あのすべての始まりだった、高架下の暗い路地裏へと向かって歩いていた。 通り雨の気配は、どこにもない。空はどこまでも澄み渡り、遠くに見えるビルの幾何学的なエッジが、西日に照らされて黄金色に美しく輝いている。

高架下の、相変わらず薄暗いコインランドリーの前に立ち尽くすと、数分おきに頭上を通過する列車の重低音が、ごうごうと辺りの空気を震わせた。あの激しかった鉄錆の匂いは、秋の冷たく乾いた風に完全にかき消されて、今はもう、鼻腔の奥にほんの僅かに香る程度だった。

レンはパーカーのポケットから少し潰れた煙草の箱を取り出し、最後の一本を口に咥えた。 使い捨てライターのホイールを、硬くなった親指で強く弾く。チ、と音がして、小さなオレンジ色の炎が、夕暮れの斜光の中で静かに灯った。 深く、深く肺の奥まで煙を吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。紫色の煙はどこにも滞ることなく、高く、高く、どこまでも透明な秋の空へと吸い込まれるようにして、静かに消えていった。

彼のスマートフォンの画面には、当然のようにアサミからのメッセージは何一つ残っていない。 あの二ヶ月前の夜、この場所で「じゃあな」と短く言葉を交わしたのが、おそらく彼らの人生において、最初で最後の本当の会話になるのだろう。彼女が今、どこの遠い街のホテルで、どんな空を見上げながら真っ白なシーツを広げているのか、レンは知らない。そして、それをあえて知る必要もなかった。

けれど、レンが今もポケットの奥で、傷だらけの百円のライターを静かに握りしめるとき、彼は確かに、あの雨の夜にアサミの濡れた髪から漂っていた安っぽい石鹸の匂いと、自分の手首を掴んだ彼女の指先の凍えるような冷たさを、今でも自分の皮膚のすぐ裏側に、確かな熱量とともに感じることができた。

同じ時刻。ここから数百キロメートル離れた、どこまでも続く水平線から潮風が吹き付ける、海沿いの新しい街。

アサミは、勤務先である大型ビジネスホテルの最上階にある客室の、大きな窓拭き作業をちょうど終え、窓枠に手を置いて動きを止めていた。 磨き上げられた透明な窓ガラスの向こうには、傾きかけた夕日に照らされて、穏やかに、優しく凪いだ紺色の海がどこまでも広がっていた。 あの五月の雨の日に、二人で言葉を失って見つめていた、灰色に濁って世界のすべてを破壊しようと狂ったように吼えていたあの最悪の海とは、まったく違う、静かで、凛とした、どこまでも美しい海だった。

「深山さん、お疲れ様。今日のシフトの分の部屋チェック、これで全部終わりでいいよ。上がって」 廊下から、同僚の女性スタッフが親しみを込めた声で声をかけてくる。

「はい、ありがとうございます。お疲れ様でした」 アサミは、かつての自分からは想像もつかないような、真っ当で穏やかな笑顔を返し、使い古した掃除道具を機能的にカートの定位置へと収めた。

彼女のスマートフォンの画面を叩く両手のひらは、この数ヶ月間、何度も何度もホテルの重いリネンやシーツを扱い続けたせいで、すっかり固く、頼もしくなっている。けれど、その硬くなった手のひらはもう、何か過去の恐怖から逃れるために、他人の体温を盲目的に求めるためのものではなかった。 自分自身の人生の重みを、誰の手も借りずにしっかりと支えるための、強固で、確かな基盤だった。

更衣室へと戻り、紺色の清潔な制服を脱いで、私服のいつもの黒いTシャツへと着替える。 荷物をトートバッグの中にまとめようとした際、バッグの底の、暗い奥の隙間から、カツンと小さな音を立てて、一本の使い古された百円のライターが床へと転がり落ちた。

アサミは動きを止め、それをゆっくりと拾い上げると、親指の腹でそっと、プラスチックの傷だらけの表面をなぞった。 彼女はもう、何ヶ月もあのメンソールの煙草を吸っていない。あの東京の仕分け倉庫を辞めたとき、自分の過去の悪習を断ち切るように、煙草も一緒に完全にやめていた。 けれど、この、どこにでもある、なんの変哲もない使い捨てのライターだけは、どうしてもゴミ箱に捨てることができなかったのだ。

アサミはホテルの従業員口の重い鉄扉を出て、夕暮れの赤に染まる街の雑踏へと歩き出した。 冷たい潮風が、彼女の耳の上で短く、綺麗に切り揃えられた黒い髪を心地よく揺らす。

遠くの駅のホームの方から、ガタゴトと列車がレールを走る、規則正しい金属音が微かに響いてきた。 その無機質な音を聴くたびに、彼女の脳裏にはいつも、あの薄暗くて湿っていた高架下のコインランドリーの景色と、自分の差し出した煙草の先に、無言のまま、ただ静かに火を灯してくれた一人の不器用な青年の姿が鮮明に思い浮かぶ。

二人は、世間が言うような恋人同士にはならなかった。 お互いの抱える生々しい傷口を舐め合って、痛みを誤魔化すような、ぬるくて心地いいだけの依存関係を築くこともしなかった。 けれど、世界の片隅の、あの光すら届かない凪の底のような暗闇の中で、互いの存在だけを唯一の命綱にして、暗闇の中を必死に並走し続けた数日間の強烈な記憶は、何よりも強く、今の彼らの血肉となり、骨となっていた。

(あいつも今、あの街のどこかで、冷たいアスファルトを踏み締めて、必死に生きてる)

ただ、その圧倒的な事実が世界のどこかにあるというだけで、これからの長い、長い人生の旅路において、どんな退屈や焦燥、不条理な痛みが襲ってきたとしても、絶対に自分を見失わずに、溺れずに泳ぎ切れるという、絶対的な確信が彼女の胸の中にはあった。

アサミはライターをポケットの奥深くに大切に仕舞い込み、しっかりと前を向いて顔を上げ、駅へと向かう家路につく人々の、巨大な波の中へと、迷いのない力強い足取りで混ざっていった。

上空を走る鉄路の向こう、世界の境界線から、静かに、優しく、夜の帳が下りてくる。 かつて、二人を狭い部屋の中で圧殺し、窒息させようとしていたあの絶望の夜は、もう世界のどこにも存在しなかった。 そこにあるのは、ただ静かに凪いだ世界の底から、それぞれの力で、自分の足で歩き出した二人の人間を等しく、そして静かに照らし出す、どこまでも透明で、どこまでも美しい、新しい夜明けの光だった。

(『凪の底』――了)







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ