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第82話 古代日本の覚醒

縄文人が家族単位の小集団を形成していた1万年も前から、倭国と呼ばれたヤマトの文明は続いている。

そして、その文明のスピードは、変化を感じないくらいゆっくり流れてきた。

しかし、(はた)()が渡来してきたこの時代は、今まで体験したこともない変化が急速に起こることになる。

秦氏が最初に手掛けたのは畿内の灌漑だった。

(じょ)(ふく)が渡来した5百年前(紀元前3世紀)まで水田の技術すらなかったヤマトの民だが、今やいたるところに水田がある状態にまでなった。

しかし、水田は水をふんだんに必要としたため、川のそばにしか作れなかった。

それも大雨や台風などで全滅し、一粒の米も採れないことが度々あった。

秦氏の灌漑は革命的だった。

標高の高い川の上流から、横にそれるように幅3尺(1メートル)の溝を掘り、底の高さを微妙に調節して、水が流れるように掘り進め、ひとつの水路を10里(4キロメートル)、それを1里ごとに掘っていった。

そして、その間に田んぼを作るわけである。

これだけでもそれまでの耕作面積の20倍に相当する。

だが、これだけではなかった。

彼らは川のないところに、ため池を掘ったのだ。

ひとつのため池が、1里(4百メートル)四方あり、雨水をため、横にはり出す水路を作り、さらに田んぼを作った。

ため池には、鮒や鯉を養殖し、住民の貴重なたんぱく源になった。

これら大規模な土木工事をすると大量の土砂が発生する。

一か所に集め、小山を作るのもいいが、秦氏はこの余った土砂でとんでもない物を作り上げた。

「古墳」である。

古墳は天皇や豪族の墓である。

もちろん、秦氏が渡来する前にも古墳はあった。

しかし、形が丸や四角で大きさも6間(11メートル)四方がわずかながらあるだけだった。

秦氏が渡来して以降、古墳の形は「前方後円墳」に統一された。

この形はレビ族のモーセがヘブライ人を引き連れ、エジプトを脱出して40日が過ぎたころ、食料が枯渇し皆、餓死寸前になった折、神がモーセに与えた「マナの壺」から、大量の食糧が噴出して皆、飢えから救われたとされる逸話を基に、ヤマトの民が飢えないよう願掛けして、マナの壺の形を選んだのだ。

前方後円墳と呼ばれているが、正確に言うならば、円形の中央に棺が納められ、四角の部分に祭壇を作り、皆で弔うことから「前円後方墳」が正しい言い方になるのではないか。

また天皇が崩御すると、たくさんの殉死者も埋葬するならわしがあり、これは野蛮な風習であると(おう)(じん)天皇に進言し、代わりに兵士や馬などをかたどった「埴輪(はにわ)」を埋葬することを提案した。

兵士の埴輪は千年前に活躍した、イスラエルのヘブライ人兵士を模したものを作成した。

ヘブライ人の特徴として、もみあげを切らずに伸ばし続ける「みずら」という風習があり、弓月から渡ってきた者の中に、少数ではあったがみずらの髪型をしている者がいた。

不思議なことに、ヤマトの豪族の中でそれが流行り、もみあげではなく、髪を伸ばして耳元で結わく髪型をみずらと称して、そうする者が数多く現れた。

これらの土木作業を行った秦氏だが、正確にいうならば、秦氏の親戚で後に「土師(はじ)」の氏名を与えられる土師氏が中心になって執り行ったのである。

土師氏は弓月国のころから、土木関係のプロフェッショナルで建物の基礎工事やら灌漑は得意中の得意である。

秦氏は建築を得意としている。

土師氏が基礎を固め、そこに秦氏が建物を建てるのである。

絹を製造するのも、秦氏が渡来して以降だ。

それまで絹はあったが、中華の国から輸入したものしかなく、天皇家や天皇家と近しい豪族しか所有できない高価なものだった。

秦氏は弓月国を旅立つとき、大量の蚕の卵と鉢に植えた桑を持ってきた。

まず始めたのが桑の栽培である。

桑の鉢植えを直接そのまま地面に植替えするのと、適当な長さの枝を切り、栽培に適した山間部の畑に挿し木をするのに分けた。

そして、翌年の初夏には、地植えの桑が、緑豊かに葉が生い茂り、甘酸っぱい桑の実がふんだんに採れた。

卵から孵化した蚕は、採れたばかりの桑の葉をあっという間に平らげた。

やがて、サナギになった蚕は繭を作り始める。

桑を蝕む夏の喧騒と違い、繭を作る秋は静寂な時が流れた。

大量の繭を拾い集め、土器で湯を沸かし、繭を沈め、柔らかくなった繭から糸を紡ぐのである。

その糸を様々な色の染料で色付けし、布を織る機械にかけるのである。

ヤマトの民が誰も見たことがない、その魔法のような機械を誰言うとなく「ハタ(・・)織機」、「機織り機」と呼ばれるようになった。

酒造りも秦氏の功績だ。

それまでヤマトの国にも酒はあった。

しかし「口噛み酒」と称する酒造法で、米を口に入れて噛み、吐き出して、水を加えて発酵させる単純なものだった。

当然、品質にもばらつきがあり、とてもうまい酒と呼べる代物ではなかった。

秦氏の酒造りはまったく違う。

精米した米を蒸して、麹と酵母を加え、適量の水を入れて発酵させる。

これを「もろみ」といい冬の間熟成させるのだ。

最後に木綿の布で搾れば新酒の出来上がりだ。

応神天皇に献上したこの酒は、この世の物とは思えない美味だと称賛し、一升用意した献上酒をすべて飲み干した。

馬も秦氏が連れてきた。

(かん)()(てい)(きょう)()を討伐できたのは、弓月国の秦一族がパルティア(イラン)から、一日千里(4百キロ)を走ると言われた(かん)(けつ)()を仕入れて提供したからに他ならない。

ヤマトにも汗血馬を提供しようとしたが、駄目だった。

ヤマトの民があまりにも背が低いので、汗血馬に乗れないのだ。

仕方がないので、古来より中華の国で飼育されていたロバのような馬を繁殖させることにした。

元々騎馬での戦など一度もやったことがないヤマトの民に、戦闘能力の優れた汗血馬など不要だったのかもしれない。

だが、ロバのように小さい馬でも、農耕の手助けなど戦以外で役立った。

この馬の繁殖は、ニニギのふるさと日高(ひだか)()(こく)の西に最適な牧場(まきば)があった。

なだらかな丘陵が広がり、エサになる草が生い茂っている。

やがてこの地は「群馬」と呼ばれ数千頭の馬が飼育された。


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