第78話 漢帝国の滅亡と三国志
イエスの誕生から2百年後(3世紀)。
そして、漢王朝が成立して4百年後(3世紀)。
盤石だった漢王朝もだんだんほころびが見えてきた。
漢王朝は高祖、劉邦の子孫が代々皇帝になっている。
この場合皇帝がすべて名君ならば申し分ないが、そんなことはあり得ない。
大体において取り巻きがサポートするので、多少の暗君でもフォローできる。
だが4百年もたつとそうはいかない。
最初のほころびは宦官だった。
数百人いる皇帝の妻や側室が居住する後宮には皇帝以外の男はいない。
いるのは宦官という生殖能力を失った男のような存在だった。
生殖能力を失ったと言っても、四六時中、皇帝の妻や側室といるので、知らないうちに妻や側室が、恋心を抱くようになっていった。
最初は妻や側室たちが、皇帝から金や銀の宝をねだり、お気に入りの宦官にみつぐ程度だったが、やがて、宦官は地位をねだるようになり、気づいてみると丞相や大臣はほとんど宦官が占めるようになってしまった。
政治のイロハを知らない宦官は、失政を極め、やがて、農民たちの反乱が勃発した。
ちょっと待ってほしい。
これは秦帝国が滅亡したときとまったく同じ状況ではないか。
道教の一派「太平道」の教祖「張角」は、漢の重税に抗議して反乱軍を組織した。
彼らは頭に黄色い頭巾をつけたため、これを「黄巾の乱」と呼んだ。
彼らは徐々に膨れ上がり、その数、30万から40万という大軍になった。
もちろん、漢の軍隊も殲滅に勤めたが、多大な出費を余儀なくされ、徐々に疲弊した。
一応、張角の死をもって漢軍の勝利という形になったが、もはや国家の体をなしてはいなかった。
そして、張角に変わり黄巾軍を引き継ぎ、もはや、死に体の漢帝国最後の皇帝「献帝」を引き取ったのが「曹操」である。
曹操は漢帝国の北半分を領土とする「魏」を建国した。
やがて、漢帝国の南東に「孫権」率いる「呉」が建国された。
さらに南西には「劉備」率いる「蜀」が建国された。
つまり、漢帝国は三国に分割されたのだ。
三国はそれぞれ領土拡大を望み、戦いは壮絶を極めた。
三国の中で一番強かったのは魏の曹操だった。
彼は呉や蜀もさることながら、弓月国へも攻めてきたのだ。
弓月国13代、功満王は戦ったが、かなりの犠牲を余儀なくされた。
そして、本気でヤマトへの移住を、仲哀天皇に願い出た。
そのためには、三つの課題をクリアしなければならない。
一つは仲哀天皇の了解。
二つ目は魏を通るので、曹操の兵がいないこと。
三つめは三韓(高句麗、新羅、百済)が我々を通してくれることだった。
そして二つ目の魏に曹操がいないチャンスが巡ってきた。
敵国の呉と蜀が手を組んだのである。
それを滅ぼすため、曹操は長江へ向かおうとしていると情報が入ったのだ。
早速、我らレビ一族の「武内宿祢」に使いを送り、三韓征伐を早めるよう、願い出た。
武内宿祢は「神功皇后」の力を借り、三韓征伐を成し遂げた。
功満王は喜んだ。
そして、曹操が長江へ行く機会を待った。
程なくして曹操が長江へ、向かった。
曹操は、おそらく3年は帰らないだろうと踏んで功満王はヤマトへ向かう準備を早めた。
しかし、曹操は半年足らずで早々に帰還してしまった。
呉、蜀連合軍に大敗したのである。
曹操は長江の中流「赤壁」で決戦となった。
当初、百万の兵を引き連れた曹操軍が圧勝すると思われた。
だが、二つの誤算で曹操軍は劣勢に追い込まれてしまった。
一つは船での戦いだったからだ。
陸戦を得意とする曹操軍は船をなめていた。
ほとんどの兵が船酔いして戦うどころではない状態になってしまった。
そんな時、曹操軍の下級兵士が「鎖で船をつなげば揺れが止まる」と進言してきた。
早速船を繋いだら、揺れが収まり船酔いが解消した。
しかし、これは罠だった。
二つ目の誤算。
それは蜀にとんでもない軍師がいる事だった。
その名は「諸葛亮孔明」、孔明一人で百万の曹操軍を倒したと言っても過言ではないだろう。
孔明は霧に煙る長江に藁人形を配した船で曹操軍に接近し、十万本の矢を撃ち込まれた。
孔明は労せずして十万本の矢を手に入れた。
そして、矢を回収して藁人形だけになった船を、さらに曹操軍へ突っ込ませた。
霧は消えていたので曹操軍は笑いながら船を回収しようと待っていた。
その時である呉と蜀の陣営から十万本の火矢が藁人形めがけて撃ち込まれた。
炎上した船は、曹操軍の船に突っ込み曹操軍の船は大炎上になってしまった。
鎖に繋がれた曹操軍の船は逃げることもできず、すべての船を失ってしまった。
ほうほうの体で魏に戻った曹操軍は、建て直すのに数年かかり、その後、数十年戦いが続いた。
ヤマトへの移住が頓挫した功満王は、その後、曹操軍が攻めてこなくなったので、しばらく様子を見ることにした。
数十年の時が過ぎ(4世紀)、功満王が崩御すると14代、融通王(弓月君)が即位した。
そのころ中華の状態は、匈奴や羌族など外部の五つの国(五胡)と北魏などの16の小国が覇権を争う混乱した状態だった。
弓月国も戦乱に巻き込まれ、限界を感じた融通王は、ヤマトの15代「応神天皇」に使者を送った。
応神天皇は三韓征伐を成し遂げた神功皇后の息子である。
母から経緯を聞いていた応神天皇は二つ返事で移住を了解した。
弓月国民2万人はほとんどレビ族の血が混じっている。
今回国ごと、ヤマトへの移住になる。
2万人が、一度に動くのは危険なので、2千人ずつ分かれて朝鮮半島の百済で合流することになった。




