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第60話 背水の陣、四面楚歌

漢中(かんちゅう)で体制を立て直して早2年、咸(かん)陽(よう)のある関中(かんちゅう)はガラ空きだった。

一応、章邯(しょうかん)が守っているが、わずかばかりの兵だった。劉邦(りゅうほう)は決断した。

「関中へ行こう……」

韓(かん)信(しん)を先発隊に章邯を滅ぼすと、劉邦軍20万が咸陽へ入った。

そのころ項羽(こうう)は、義(ぎ)帝(てい)と改めた先の楚(そ)王ともめ、義帝を殺してしまう。

これにはかつて、楚の軍に所属していたものから反発が起き、あちこちで反乱が起こった。

それを鎮めるため項羽は彭(ほう)城(じょう)を出て、鎮圧に向かった。

劉邦は、この機会を見逃さなかった。

20万の軍を引き連れて彭城を奪ったのだ。

その知らせを聞いた項羽は、激怒し手勢3万だけで彭城を奪い返した。

劉邦軍は、5万の兵を失う完敗である。

劉邦は一計を案じ、韓信に趙(ちょう)や燕(えん)を攻めさせ、項羽軍を挟み撃ちにしようと考えた。

韓信は天才だった。

たった数万の兵で20万の趙軍をひと月ほどで落とした。

彼は数万の自軍を川の淵に並ばせ、逃げ道を断ったうえで敵の攻撃に備えた。

有名な「背水(はいすい)の陣(じん)」である。

北の韓信、西の劉邦に挟まれた項羽は動けなかった。

劉邦は、項羽に和睦を提案した。

和睦を受け入れ彭城へ帰ろうとした項羽軍に、劉邦軍20万が襲ってきた。

項羽軍も必死に戦ったが、兵糧が尽きて垓下(がいか)の城に立てこもった。

その夜である四方から楚の歌が聞こえてきた。

項羽は悟った。

ほとんどの楚の兵が劉邦軍に寝返ったことを…… この有名な「四面楚歌(しめんそか)」は劉邦軍の軍師、張良の策である。

劉邦は中華を統一したのである。


始皇帝の孫、胡(こ)苑(えん)を連れて月(げっ)氏(し)へ逃げた徐(じょ)福(ふく)は、ここに胡苑を王として弓(ゆ)月(づき)国(こく)を建国した。

秦や世界各国からレビ一族を呼び寄せ、養蚕から機織りなどの産業を興し、パルティアやローマに売りに行くなどして、ほぼ国家の体をなした。

始皇帝崩御から7年が経過し、秦も漢になって落ち着きを取り戻したのを見定め、徐福は倭国へ帰ることを決めた。


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