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第6話 武内宿祢

妹子(いもこ)殿、高句(こうく)()の強さの秘密分かっていただけましたかな。のう(かわ)(かつ)殿そうであろう」

「天皇家ではそのように伝わっていたのですか? 我が(はた)一族(いちぞく)では少し違って伝わっておりました。しかし、結果はそのとおり、全く変わるものではありません。違うのは、(じん)(ぐう)皇后(こうごう)が神のご神託により、三韓(さんかん)征伐を言い出したのではなく、じつは、武内宿祢(たけうちすくね)殿にたのまれたからにほかなりません」


武内宿祢は800年前(紀元前3世紀)、(しん)の始皇帝が()(こく)へ派遣した(じょ)(ふく)が連れてきた500人の童の末裔だった。

徐福は訳あって始皇帝の孫を()(づき)の地へ逃し、その地に弓月国を建国した。

そして、何十年先になるか分からないが、倭国へ必ずお連れすると誓い、倭国へ戻った。

倭国へ戻った徐福は、成人した500人の童たちに弓月国にいる始皇帝の孫を必ず迎えに行けと命じた。

天皇家の側近や豪族になった500人の童の子孫は、代々徐福の命令を口伝していた。

400年が経ち(西暦2世紀)、500人の童の子孫の中から、ヤマト王朝の重鎮、武内宿祢が現れた。

武内宿祢は武勇に優れ、数々の戦に功をあげた強者だったが、宿祢が壮年のおり、畑違いの教育係を任されてしまった。

相手は九代開化(かいか)天皇(てんのう)の玄孫の姫、後の神功皇后である。

教育係などやったこともない武内宿祢は、こともあろうに(そん)()の兵法を指南した。

この、孫氏の兵法書は原本である。

400年前(紀元前3世紀)、秦の始皇帝が中華を統一した際、古くから伝わる思想や学問を撲滅するため、焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)を実施した。勿論その中には孫氏の兵法も含まれていたが、徐福はこっそり持ち出して、倭国へ持ってきた。

「兵は()(どう)なり……」

戦いは、所詮騙し合いで、いろいろの(はか)りごとを凝らして、敵の目を欺くことだ。

そんなことばかり教えられた神功皇后が、どんな成長の仕方をしたか、推して知るべしである。

だが、幼き頃の神功皇后は目を輝かせて講義を聞くようになり、やがて、武内宿祢を自分の父より尊敬するようになっていた。

十数年のときが経ち、徐福存命時から数年置きに来ている弓月国の使者から悲痛な訴えがあった。

弓月国の東、()曹操(そうそう)が度々弓月国を襲ってきているとのことだった。

応戦はしているものの、危うい状態が続いる。

ひいてはヤマト国に一族二万人を受け入れてほしい内容だった。

もとより、徐福からの申し送りで、受け入れを画策していた武内宿祢だったが、大きな問題が三つほどあった。

一つは天皇の了解だが、仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)は了承していた。

もう一つは通り道の三韓を制圧することだが、いずれ兵を派遣しなければならないと考えていた。

最後は隣国魏の動向だ。

曹操が洛陽(らくよう)にいたならば、魏の国を通過するのは難しい。

曹操が魏を離れる時を見定めなければならない。

だが、曹操が魏を離れる絶好の機会が巡ってきた。

敵対する()(しょく)が同盟を結んだというのだ。

いずれ曹操は呉蜀連合軍を打ち滅ぼすため、遠征するに違いない。

そうであれば、三韓を早めに制圧しなければ、絶好の機会を逃してしまう。

その矢先である、熊襲(くまそ)が反乱を起こしたのは…… ヤマト国の将軍である、武内宿祢は熊襲の征伐を後回しにして、三韓征伐を優先してくれとは口が裂けても言えなかった。

そんな話を神功皇后にしてしまった。

神功皇后は僅かに微笑みを浮かべ、

「兵は詭道なり…… でしょ。私に任せてください」

そう言って仲哀天皇の前に行き、

「ミカド! 熊襲へ行ってはなりませぬ。昨晩、夢に(あま)(てらす)大御神(おおみかみ)が現れ、ご神託を下されました。それによると、熊襲を平定する前に三韓を平定せよとのご神託でございます」

と謀を巡らした。


「このように聞いております。ちなみに秦の始皇帝の孫は、私の祖先です。つまり私は秦の始皇帝の末裔なのです」

「そうであったのう、そなたは秦の始皇帝の末裔であることは知っていた。だが、神功皇后が(はかりごと)で三韓征伐を言い出したとは初耳じゃった。いずれにしても妹子殿が、隋に行くことに何の支障も無かろう。のう妹子殿」

「はい! 隋の国情から、高句麗の強さまで知ることができ、何より河勝殿が隋の情報通である理由が理解できました。ところで、神功皇后が熊襲に討ち入った際、神功皇后に後光さしていたとは誠ですか? それとも詭道ですか?」

「妹子殿にお尋ねしたい。一万の兵より強きものは何でありましょう?」

(はた)(かわ)(かつ)が尋ね返した。

「私は尋ねておるのだ。だが、強いて言うなら十万の兵であろうか……」

「数の多さではありませぬ、やり方次第ですが、三千の兵でも十万の兵に勝つことはできます。十万の兵より強きもの、それは神です。どんな猛者でも、あるいは十万の兵でも神に弓ひくことはできません。敵に神が来たと思わせるのです。私が聞き及んだ話ですが、神功皇后の鎧は金糸で縫ってあり、日の光を浴びると(まばゆ)く、光り輝くそうです。神功皇后が熊襲に入られるとき、わざと夕方、西から入られたそうです。分かりますか? 西日に照らされた神功皇后は何に見えますか? 神です。熊襲の兵は神が降臨されたと思っても不思議ではないでしょう」

秦河勝が答えた。

「なるほど。詭道というより戦略ですな。すると新羅(しらぎ)に入ったのも、朝を待って東から入ったのですな?」

「ご推察のとおり、新羅まで順調に航海ができて、夕方には到着できるのですが、わざと東に航路とり沖合に停泊して朝を待ったと聞いております」

「ならば、祝詞(のりと)をあげて南風が吹いたというのはどうじゃ?」

「暦でございます。我が秦一族も暦を読むことができますので、春分、秋分、夏至、冬至を正確に知ることができます。武内宿祢殿も暦が読めました。宿祢殿は春先に吹く強い南風(春一番)がいつ吹くか、予想ができていたと思われます」

「なるほど。では神功皇后が神懸かっていたというのは偽りであったのか?」

「いえ、そうではありません。考えてもみてください。二四、五の小娘が…… 失礼、言い方が無礼ではありますが、若き皇后が孫氏の兵法を学んでいるからとはいえ、熊襲や新羅を戦わずして屈服させる能力は神懸りというより、まさに神の所業と言わざるを得ません。我々秦一族にとって神功皇后は神なのです」

「我が天皇家でも神功皇后は、歴代最初の女性の天皇と認識しておるのじゃ。まっ、天皇としての称号は、現、推古天皇が最初だがな」

厩戸皇子は、話に割り込んだ。

「良く分かりました。神功皇后は私も神だと思います。皇后のように、隋までの道中、南風が吹くと良いのですが……」

そうして小野妹子は帰っていった。


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