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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
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第58話 ― 裂斗山――退屈の終わり

>第58話では、舞台が裂斗山脈へ移ります。


雨に削られた岩場、焼け焦げた術式痕、砕けた封鎖線ーー


“誰かがここで踏みとどまった” という痕跡だけが残る場所から始まる話です。今回は、生徒側ではなく、

別の立場にいる三人の視点 を通して、


「何が起きていたのか」


「何が動き始めているのか」


その“気配”だけを描いています。


直接的な展開には触れず、


ただ、物語の裏側で静かに積み上がっていたものがついに動き出す気配を感じてもらえる回ですw

時刻:3670シヴン年12月25日 AM 07:23

場所:裂斗山脈・下層封鎖線跡


 雨は、裂斗山脈の岩肌を叩き続けていた。


 黒く焼け焦げた術式痕が、岩場のあちこちに残っている。


 砕けた防御陣


 裂けた封鎖線


 雨に流されきらない血の跡


 そこには、異獣に踏み荒らされた痕跡だけでは説明がつかない、濃い戦闘の残滓があった。


 誰かがここで踏みとどまった。


 誰かを逃がし、なおも最後まで抵抗した。


 その跡だけが、雨の中に残されていた。


「やっと、この時が来たぁ」


 崩れた岩場の上で、少女が楽しそうに笑った。


 ボニー・エンシー。


 深緋の髪は雨に濡れてなお艶を失わず、金紫色の瞳は、壊れた舞台を眺める観客のように細められていた。


 白紫の長衣の裾が、雨風に揺れる。


「何も起きない時間って、ほんと退屈だったんだよねぇ」


 彼女はそう言って、濡れた岩の上を軽やかに歩いた。


 足元には、まだ薄く残る転送の残光があった。


 砕けた符文結晶の欠片


 雷に焼かれたような黒い痕


 血の混じった雨水


 誰かがここから消えた。


 そして、誰かがここに残された。


 ボニーはしゃがみ込み、砕けた結晶の欠片を指先でつついた。


「一人、逃げちゃったねぇ」


 彼女は楽しそうに首を傾げる。


「血まみれで、びりびりで、泣きそうな顔で」


 その声に、心配の色はなかった。


 遠くで上演される場面を、ただ想像して楽しんでいるようだった。


「悪趣味だな」


 低い声が、雨の向こうから返った。


 ガラドだった。


 彼は崩れた防御陣の外側に立ち、岩場の奥へ続く裂け目を見ていた。


 外套の片側は裂けている。


 肩口から胸元にかけて、白く焼けた痕が走っていた。


 雨粒がそこへ落ちるたび、かすかな煙のようなものが立つ。


 それでも、ガラドの立ち姿は少しも揺れていなかった。


「痛そうだねぇ」


 ボニーが笑う。


「問題ない」


「問題ない顔じゃないけど?」


「黙れ」


「こわいこわい」


 ボニーは肩をすくめた。


 だが、その目はガラドの傷を見逃していなかった。


 傷は深い。


 焼け焦げたというより、どこか冷たい光に、皮膚と術式の層をまとめて貫かれたような痕だった。


「それで」


 ボニーは岩場の奥を覗き込むようにして言った。


「あのしぶとい教授さんは?」


 ガラドはすぐには答えなかった。


 雨音だけが、その沈黙を埋める。


 裂斗山脈のさらに深い場所へ続く裂け目には、銀色の防御式が焼きつくように残っていた。


 誰かがそこへ進んだ。


 自分の背後を閉じながら、さらに奥へ踏み込んだ。


 その痕跡は、雨に打たれてもまだ消えていない。


 だが、その先に本人の姿はなかった。


「消えた」


 ガラドが低く言った。


 ボニーの笑みが、少しだけ深くなる。


「逃げたの?」


「分からない」


 ガラドの声が低く沈んだ。


「突然、強い光が走った。目を開けていられないほどの光だ」


 彼は、白く焼けた岩肌へ鋭い視線を向けた。


「光が弱まった時には、あの教授の姿はもうなかった」


「誰かいた?」


「何も見えなかった」


 ボニーの金紫色の瞳が、興味深そうに細められた。


「へぇ……」


 少し離れた場所で、深い緑の外套をまとった男が立っていた。


 雨を吸わない布。


 黒い硝子のようなサングラス。


 その周囲では、落ちてくる雨粒がわずかに軌道を変え、男の輪郭を避けるように滑り落ちていた。


 そこに立つ姿だけが、周囲の雨景色から薄く切り離されて見える。


 サングラスの男は、白く焼けた岩肌を見下ろしていた。


 一本の光が落ちたような痕が、岩を抉り、術式を裂き、戦闘の流れそのものを断ち切っている。


「学院の術式じゃないねぇ」


 ボニーが言った。


 サングラスの男は、静かに頷いた。


「少なくとも、ビグトラス遠古学院の通常術式ではない」


「じゃあ、誰?」


 ボニーの声に、純粋な好奇心が混じる。


 ガラドは答えなかった。


 ただ、白く焼けた岩場を睨み続けている。


「気に入らない?」


 ボニーが問う。


「仕留め損ねた」


「でも、消えたんでしょ?」


「消えたことと、終わったことは違う」


 ガラドは短く言った。


 その声には、苛立ちと警戒が混じっていた。


 ボニーは楽しそうに笑う。


「いいねぇ。そういうの」


「何がだ」


「知らないものが混ざると、退屈しないでしょ」


 ガラドは答えなかった。


 サングラスの男もまた、白い焼け跡から視線を外さない。


 彼にとっても、それは予定にない傷だった。


 割れた小瓶の破片が、別の岩陰に散っていた。


 雨に流されてもなお、そこには微かに甘い薬草の匂いが残っている。


 防御式を補強するための調合液。


 あるいは、傷を塞ぐための緊急薬。


 使い切られたのか。


 壊されたのか。


 そこにいた者が、最後まで誰かを守ろうとしたことだけは分かった。


 ボニーはそれを見下ろし、退屈そうに目を細めた。


「ほんと、しぶとい人たちだよねぇ」


「しぶとくなければ、ここまで来ない」


 ガラドが言った。


「でも、もう一人はちゃんと捕まえたよ?」


 ボニーはくすくすと笑った。


「最後まで怒鳴ってたねぇ」


 その声は、雨に濡れた岩場の上を軽く転がった。


 焼け焦げた岩肌には、火の術式痕が深く刻まれている。


 その場に踏みとどまり、正面から抵抗した者が残した火の線だった。


 だが、その線は途中から激しく歪み、強制的に閉じ込められ、握り潰され、別の形へ圧縮されたように縮れている。


 周囲には通常の拘束術では生じない歪みが広がり、そこだけ距離感そのものが狂っていた。


「扱いが雑だ」


 サングラスの男が静かに言った。


「えぇ? ちゃんと捕まえたもん」


 ボニーは両手を広げる。


「小さくすると運びやすいし、静かになるし、かわいいし」


「静かにはなっていなかった」


「あれはあれで面白かったの」


 ガラドの眉がわずかに動く。


「遊びすぎるな」


「はいはい」


 ボニーは、素直さの欠片もない声で返事をした。


 裂斗山脈の下層を覆う灰霧の奥で、異獣の低い唸りが重なっている。


 数は多い。


 群れは無秩序に蠢きながらも、不自然なほど同じ方向へ引かれていた。


 何かに呼ばれ、見えない力の流れに沿って進路を変えられている。


「ちゃんと集まってるねぇ」


 ボニーは楽しそうに言った。


「いい子たち」


「制御ではない」


 サングラスの男が言った。


「誘導だ」


「そこ、そんなに大事?」


「大事だ。制御していると思われれば、対処も変わる」


 男はゆっくりと片手を上げた。


 雨の中、掌に小さな光が浮かぶ。


 球のようなものだった。


 表面には細かな符文が刻まれ、内側では灰色の光が脈打っている。


 周囲の明かりを吸い込むような鈍い輝きが、掌の上で静かに揺れていた。


「彼らは命令では動いていない」


 男は続けた。


「流れに従っている」


 ボニーは目を細める。


「流れを作ったのは、こっちでしょ?」


「そうだ」


「じゃあ、ほとんど同じじゃない」


「違う」


 ガラドが短く言った。


 ボニーは頬を膨らませた。


「二人とも細かいなぁ」


「お前が雑すぎる」


 ガラドの声に、ボニーはけらけらと笑った。


 その笑いの途中で、サングラスの男の胸元が、わずかに揺れた。


 雨音に紛れるほど小さな動き。


 だが、ボニーはそれを見逃さなかった。


「また出たがってる?」


 彼女が囁くように言う。


 サングラスの男は胸元へ視線を落とし、すぐに外套の前を引き締めた。


「黙らせている」


「かわいそう」


「必要ない」


「つまんないなぁ」


 ボニーは雨の中で杖をひらりと振り、軽薄に笑った。


「今は、まだだ」


 その短い言葉に、ボニーの笑みが少しだけ深くなる。


「今は、まだ」


 彼女はその言葉を舌の上で転がすように繰り返した。


「じゃあ、いつならいいの?」


 サングラスの男は、裂斗山脈の下方へ視線を向けた。


 雨と灰霧の向こう。


 ビグトラス島の中層。


 そして、さらにその先にある学院。


「学院中枢が動いた」


 男は言った。


「封印解除も、声紋放送も、予想より早い」


「声、届いちゃったねぇ」


 ボニーは楽しそうに笑った。


「子どもたちまで動き出した」


 ガラドが目を細める。


「それは誤差だ」


「誤差って言葉、嫌い」


「事実だ」


「私は好きだよ。そういう誤差」


 ボニーはくるりと岩場の上で回った。


 白紫の衣が雨の中で弧を描く。


「だって、予定通りだけじゃ退屈でしょ」


「予定外が多すぎれば崩れる」


 ガラドが言う。


「崩れたら?」


「立て直す」


「つまんない答え」


 ボニーは笑いながら、濡れた岩場の端へ立った。


 その下には、崩れた防衛線が広がっている。


 血


 焦げ跡


 砕けた符文


 消えかけた転送光


 白く焼けた岩肌


 誰かを連れ去ったあとに残る、歪んだ空間の痕


 雨の音が強くなる。


 裂斗山脈の下層に残る術式痕が、ひとつ、またひとつと薄れていく。


 だが、消えないものもある。


 焼け焦げた火の線


 砕けた結晶の残光


 銀色の防御式


 ガラドの肩から胸元へ走る白い焼け跡


 一人の姿が消えたあとに残された、白い光の痕


 ボニーは、そのすべてを見下ろしながら、満足そうに息を吐いた。


「やっと始まったねぇ」


 彼女は、雨の中で笑う。


「どんどん面白くなってきた」


 サングラスの男は、静かに手の中の球を閉じ込めるように握った。


 灰色の光が、彼の指の間で細く脈打つ。


「咲き誇った存在は、消える瞬間にこそ、いっそう美しくなる」


 その口元に、淡い笑みが浮かんだ。


 けれど、その微笑みは、雨よりも冷たい寒気を残した。


 ガラドは黙っていた。


 ボニーだけが、まだ笑っていた。


 その笑い声は雨に溶け、裂斗山の岩場を下り、灰霧の中へ消えていく。


 そして遠く、中層パミラの方角で、


 異獣の群れが、ゆっくりと向きを変え始めていた。

>ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第58話は、これまでの話とは異なる視点から、

“退屈の終わり”


を象徴するような空気を描きました。


裂斗山脈に残された痕跡、

そこに立つ三人の温度差、


そして雨の中で静かに変わっていく流れーーこの話は、直接的な戦いではなく、


物語の大きな歯車がひとつ回り始めた瞬間 を切り取ったものです。


次の話では、また別の場所で、


いろいろな選択が動き始めます。


ぜひ続きも見届けてくださいね~


(^∇^)ノ♪

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