第39話 ― 指揮所の圧迫――裂けた火種
※もとの第26話を、読みやすさを考えて分割しています。
内容に変更はなく、こちらはその続きになります。
時間:3670シヴン年 12月25日 AM 05 : 58
地点:交渉会場
黒曜石の大扉が乱暴に押し開けられた。
符紋金属が低く唸り、気流がなだれ込み、燭火が激しく揺れ、卓上の杯がちりちりと鳴った。
「誰が私たちを脅すっていうのよーー!」
自信と怒気を帯びた女の声が、人影より先に会場へ滑り込む。
怒鳴り声というより、刃を投げ込むように——冷たく、尖って、嘲りを含んでいた。
次の瞬間。
入口に真っ先に踏み入れたのは、高く屈強で、圧を放つ影だった。こめかみの黒緑の髪に灰が混じり、黒いコートの肩線はまっすぐ、胸元の《裂風双蛇》の徽章が燭光を冷たく返す。
彼は顕像幕を一瞥したが、口元は微塵も揺れない。
「よくもこの時刻を選んだな。 」
冷たい一言が落ちた瞬間、席の温度が一気に奪われた。
「賑やかだな。」
続いて入ってきたのは、商人の匂いを纏う男。灰白の工坊コートの腰に道具がいくつも揺れ、胸の歯車徽章が淡く光る。
長卓の前を通りながら、彼はまるでついでのようにアップルパイをひとつ取った。
指先で軽く量ると、粉砂糖が燭光の下で砕けて瞬いた。
「それで——話す価値はどこにある?」
彼は急いで食べようともせず、甘い香りだけを連れたまま、長卓と術式顕像幕の間に視線を往復させる。
計算しているみたいに——一秒ごとに、どれだけの駒が動くか。
その後方、漆黒の長髪の女が踏み入れた瞬間、空気が一枚削がれた。冷色の細身コートが燭光を映し、胸の《裂月》徽章がゆっくり回転している。
唇の端には、さっきの叫びの余韻が残っていた——薄く、冷たい笑み。
刃のような視線が、まず校長へ、次いで王子へ落ちる。どこから切り開くかを量っているように。
「エルブレイス公爵は?」
誰かが反射的に口にした。
双蛇徽章の男が鼻で笑った。
「奴には奴のすべき用がある。」
さらりと言い捨てたが、まるで欠席そのものを意図的に覆い隠すみたいだった。
その時、別の影が内側から早足で駆けてくる。
「やめろ!」
声は大きくない。だが鋼尺を卓に落としたように鋭く、侍者たちの動きを一瞬で凍らせた。
タンブラムスも交渉の間へ踏み込む。
水紋術士袍の裾にはまだ急ぎ足の張りが残り、通信水晶も手放していない。
視線は、いま辛うじて戦線を引き留めたばかりの刃に鋭かった。
貴族の随員が扉際に立ち、手を伸ばして止めようとする。
「下がれ。」
彼女が一瞬だけ見上げる。
その手は宙で固まり、随員は無意識に半歩退いた。
「ここは、お前たちが勝手に踏み込める場所じゃない。」
タンブラムスは一歩前へ。三人と会場の間に、ちょうど壁のように立つ。
三人の胸の徽章を冷たくなぞり、最後に先頭の男へ視線を止めた。
「まして今は。」
双蛇徽章の男が冷笑する。
「助教殿、私たちに作法を教えるつもりか?」
タンブラムスは挑発を受け取らない。
その場に立ち、寸分も譲らない。
「止めている。あなたたちの引き延ばしを。」
彼女は術式顕像幕を指した。
「さっき、見たでしょう。」
「港区の防衛線は、いま削り潰されている。」
そして、校長へ視線を向ける。短く、しかし揺るぎない。
「校長。」
「私はすでに命じました——各区の術士と卒業生を分けて配置し、欠けた箇所を埋めています。」
「医療、補給、符陣師の臨時増幅も接続中です。」
声は平坦だ。けれど、押し殺した焦りが底に張りついている。
「しばらくは持ちます。」
「ですが風脈印を解除しない限り、攻撃術式の封印を解かない限り——戦力は永遠に埋まりません。」
交渉室の呼吸が重くなる。
「……承知した。お前はここに残り、支援を続けよ。」
校長は低く応えた。その声は短く、しかし揺るぎない命令だった。
いろいろあったから、もう誰も杯に触れなかった。
ノーラントンは、すぐには応えなかった。彼はただ背を向け、長卓へ歩いていく。
「埋まらない」は届いていない。——いや、届かせていない。
指先が銀盤の縁を掠める。まるで昔から馴染んだ道具を選ぶように。
ワイングラスをひとつ取り、ゆっくり卓角を回っていく。
グラスの液面は、ほとんど揺れない。
視線だけが彼を追う。だが誰も声を出せない。
彼はリヴァント・ディラール王子の前でようやく止まり、グラスを僅かに掲げた。笑みは薄く、刃の背のようだった。
「殿下、ご無沙汰を。貴国にはまだ、いくつも未払いの注文代金が……」
その言葉が落ちた瞬間、室内には嚥下の音すら聞こえそうだった。
彼は「生死」を脇へ追いやり、わざと金と契約へ戻す。
——規則はまだ、こちらが書く。そう言わんばかりに。
その言葉にも王子は一歩も退かなかった。彼はただグラスの赤を見上げる。火を消すみたいに冷たい目。
「殿下に無礼だ!」
バルフがほとんど本能で半歩踏み出した。
背の翼が一瞬で張り、主君を覆うように開きかける。腰へ伸びた手は節が白い。
ノーラントンの薄い笑みを睨みつけ、胸の怒りが礼儀を破りかけた。
「——失礼。」
王子が手を上げる。
動きは急がない。だが見えない境界線が落ちたように、バルフの足は硬く止まり、息が喉で詰まる。ほんのわずかに退くしかなかった。
王子は彼を見ず、淡く呼ぶ。
「バルフ。」
その声は静かだった。だが、それだけでバルフの言葉は途切れた。
王子はようやく視線を上げ、ワイングラスへ落とす。
怯えではない。相手がどんな規則で話を進めるつもりかを確かめている。
「未払いは契約どおり支払う。」
口を開く声は大きくない。だが、聞かなかったふりはできないほど明瞭だった。
一拍置き、目をノーラントンへ移す。
「だが、この時刻に持ち出したのは——帳尻の確認じゃない。」
「取引で、ここでの規則を書き続けたい。そう私に念押ししている。」
交渉室の誰かが、息を止めた。
燭火の爆ぜる音さえ刺さる。
王子は退かない。語気はむしろ平らになる。
「なら、私も一つだけ言っておく。」
顕像幕を指した。
「外の街路は、いま引き裂かれている。」
「注文も、代金も、契約も欲しいなら——まずこの島を生かせ。」
王子はそれ以上言わない。
視線はグラスの縁に留まったまま。
水晶の内側に貼りつく赤が、あまりに静かだった。
静かすぎて、次の一言で覆されるのを待っているかのようだった。
「なんの騒ぎだ......」
黒曜石の大扉の方で、急にざわめきが起きた。
侍者の足が止まり、椅子が慌てた摩擦で耳障りな音を立てる。
「こ、侯……!」
一人の家随員がほとんど転げ込むように会場へ入り、顔色は真っ白で息が繋がらない。
「侯爵!」
喉が煙にむせたみたいに震える。
「ピ……ピカ坊ちゃまが……!」
交渉室の視線が一斉に向く。
ノーラントンの眉尻が一度だけ引きつった。
頭痛が先に来たみたいに。
彼は目を閉じ、次の瞬間には感情を無理やり押し戻した。声は鉄の冷えだった。
「ゆっくり。正確に言え。」
随員は唾を飲み込むが、震えが止まらない。
「坊ちゃまがさっき……廊下で顕像の内容を聞いてしまって……」
「こう言いました——『お前らが卓の上で喋ってるだけなら、外で見せてやる』って。」
「外へ出ると……止められませんでした。」
「人を押しのけて、扉際の護衛にも怒鳴って……『止める奴は反逆者だ』と……」
ノーラントンの指節が酒杯に食い込む。
「……一人で?」
「い、いえ……違います。」
随員が慌てて首を振る。
「護衛の兄弟が二人、付いてはいます……ですが坊ちゃまが速くて、見失いかけたと……」
「それから……港区へ行くと……」
「港区」という語が落ちた瞬間、室内の燭火が一斉に震えた気がした。
この突発の展開を前に、王子はただノーラントンを見ていた。
唇の端が僅かに動く。何か言いかけて、引っ込めた。
空気に残るのはワインの微かな甘さと、燭火の細い爆ぜ音だけ。
ノーラントンも、すぐには言葉を返さない。
さっきの随員の荒い喘ぎが、鈍い刃になって耳膜を擦り続けている。
杯を握る指節が固くなり、そしてゆっくり解けた。
ここにあるはずのない感情を、押し戻すみたいに。
ピカ。
いつも口を挟み、いつも見栄を張り、彼の一言で黙り込む愚かな子。
彼はずっと思っていた——いつか。
いつか、あの子は本当の嵐の中で口を閉じ、見極め、立ち方を覚えるのだと。
成長は宴席の説教じゃない。
代価の前でしか分からないものだ。
分かっていた。
それでも心の底で、あの子に道を一本残していた。
「……」
ノーラントンの喉仏が一度だけ動いた。
杯の口を僅かに下げる。あの赤に、動揺を映したくない。
そして目を上げた時、瞳の冷えはもう鉄に戻っていた。
ただ、その鉄には——初めて亀裂が混じっていた。
その瞬間、交渉の空気が引き裂かれた。
誰かが反射的に立ち上がり、隣に引き戻される。
侍者は壁際へ退き、銀盤を胸に貼りつけ、嚥下の音すら大きくできない。
王子の視線はノーラントンに留まる。相手が自分で選ぶのを待っている——交渉か、救命か。
「タンブラムス。」
校長がようやく口を開く。声は高くないが、軍令の落ち方だった。
「直ちに二組を回し、ピカと随行護衛の捜索救助に当たれ。」
「廊下、外側連通路、港区方向——すべて封鎖。」
「はい。いま——」
言い終える前に、タンブラムスの手はもう上がっていた。すぐにでも転身して指揮を飛ばす動き。
「必要ない。」
ノーラントンが手を上げる。
その手が半空で止まっただけで、会場の声が一刀両断された。
「私が行く。」
彼はタンブラムスを見ない。声は抑揚を欠き、氷のように冷たい。
ノーラントンの「私が行く」が落ちた。
彼はワイングラスを銀盤へ戻す。動きは遅い。だが怖いほど安定していた。
グラスの底が金属に触れた小さな音が、交渉卓の規則まで一緒に置き去りにするみたいに響く。
背を向けて歩き出す。
黒いコートが燭光を掠め、《裂風双蛇》の徽章が一瞬だけ閃いて消えた。
ソーンの視線がその背を追う。口元にはまだ商人の笑みが残っている。
ミレーナの笑いが先に滑り出た。薄く、冷たい。
「その馬鹿な子……そんなに大事?」
ノーラントンの歩みは止まらない。
だが次の瞬間——
彼は首だけを僅かに返した。
深井戸から引き上げた黒みたいな眼。冷たさに、人は本能で黙る。
「私の子だ。」
声は高くない。
けれど刃の背が首筋に貼りつくように、嚥下さえ痛くなる圧があった。
ミレーナの唇の笑みは、水で薄めた糖みたいに一瞬で味を失う。
彼女はもう笑わない。目の奥の光がわずかに沈む。初めて思い知らされたのだ——これは玩具にできる駒じゃない。
ソーンは目を細める。ふと何かを思い出したように、口調は軽いまま、だが慎重さが増した。
「とはいえ——」
「もし本当に何かあったら、この卓は取引だけじゃ済まないかもな。」
黒曜石の大扉が、再び閉まった。




