第4話─合金記憶――微笑みの中に仕組まれた回路
>風と記憶は、いつも夜の帳の中で交差する。
この物語は、口にできなかった別れと、不完全な和解について描いたもの。
イランとミドの会話は、過去の残響であると同時に、未来への始まりでもある。
風球が浮かび上がる瞬間に描きたかったのは、魔法の輝きではなく、
かすかでありながら確かな感情——
読んでくださるあなたにも、その優しい風が届きますように。
軌道の下を風が掠めていく。
潮の塩気と夜の残り温もりを含んだ空気が、頬をかすめた。
俺は導軌に沿って滑りながら、頭の中ではまださっきの場面が残っていた。
ピカの妙に近すぎる顔、ケーキの屑だらけの口元、
そして、笑えばいいのか呆れればいいのか判断に困る、あの曖昧な台詞が耳に残っている:
「ちょっと研究室に行って、欲しいものが――」
俺はあの馬鹿げたセリフを風に投げ捨てるつもりだった。
だが「研究室」という三文字が、喉に引っかかった砂粒みたいに、どうしても吐き出せなかった。
(学院の研究室……あいつ、何を考えてるんだ?)
(しかも『手伝って』だと? 誰があんな奴のために動くかよ。)
(……なのに、あいつの目が、妙に引っかかる。いったい何を探してる?)
俺は思わず首を振って、さっきの光景を振り払おうとした。
あの言葉が頭の中を一巡して、残ったのは恐怖じゃなく、妙な滑稽さだった。
そのわけは......
島の貴族たちは、風の根を掌握している。
彼らの家紋は実のところ風脈印――主風脈に結びついた古代の印章だ。
五つの主風支脈、五枚の印章。議会領主、防衛伯爵家、学院代表、風律家、そして風祀家。それぞれが風の流れを分割し、管理している。
貴族が学院の研究内容に干渉しないというのは、あくまで伝説の話だ。
学院は研究機関であり、エネルギー議会であり、風脈体系の管理中枢でもある。
風力の調整、結界の修復、儀式の運転――すべてが学院の監視と許可を通して行われる。
だが、学院が風の運用を管理していても、風の根を握っているのは貴族だ。
管理者であっても、鍵を持たぬ限り、その扉は決して開かない。
彼らは「風の管理者」と自称しているが、手を放したことは一度もない。
貴族のどれか一族が支脈の流れを止めれば、その区域の灯りはすぐに消える。
島のエネルギー、気候、交易航路、そして民の生活のリズムまでもが、彼らの印に縛られている。
高位術式を起動するには、貴族の印章による許可が必要だ。
それは形式ではなく契約――周波数を一つ間違えれば、風塔全体が逆流して災いとなる。
だから、あいつが「研究室」と口にしたとき、俺の頭に浮かんだのは驚きではなく――
あいつは風脈体系そのものに挑もうとしているのか?
印章の許可なしに主風を研究するなんて、それはもう反逆行為だ。
シャミル家に関する噂は、俺も聞いたことがある。
ほとんどが口に出せず、記録にも残せない話ばかりだ。
彼らは陽の下で微笑み、陰の中では制度を破る。
風脈の結晶を密輸したり、流れを妨害したり――
誰よりも「風核」に近い存在だと言われている。
(……まさか、風核に触れるつもりなのか?)
俺は眉をひそめた。
(……その先に、何を見ている?)
考えすぎた頭に、風の冷たさが染み込んでくる。
夜風が袖口から吹き込んできて、ほんのり甘ったるい糖香を運んでくる。
「ふう――」
俺は肩の力を抜いて息を吐き、導軌の先を見上げながら心の中で思った――
もしかすると、あいつは俺が思っていた以上に愚かで、そして危険なのかもしれない。
風は導軌に沿って流れ、夕暮れの残り暖気を巻き込んでいた。
俺は風球に乗って空中の導線を滑っていく。
下層の街区では灯りが一つまた一つと灯り始め、空の端に残る橙の光と交わって、幾重もの光の輪を描いていた。
「ハクション――」
高所の気流は穏やかで冷たかった。
俺はくしゃみをひとつして、下方に見えるパミラ環線を目にとめた――
人魚噴泉駅の入口層へと続く支線が、銀の弧のように霧の中へ伸びている。
水気は風圧で細かい霧となり、街灯の光を柔らかな暈に変えていた。
遠くから風鈴と祭りのホルンの音が聞こえてくる。
島全体がまだ百年祭の余韻に浸っているようだった。
俺はその光の海を見下ろしながら、心の中で思った――
今夜の風は、どこか違う気がする。
(人間には狩りと破壊の本能があるのに、なぜ学院は防御術しか教えない?)
(もし学院が攻撃術を教えてくれていたら、さっきの奴なんか近づく隙もなかったはずだ。
あいつの小賢しさと度胸なんて、低位術式一発で吹き飛ばせたのに。)
俺は苦笑して首を振った。
学院は繰り返し強調する――魔法の本質は「守ること」であって、「征服」ではないと。
入学したその日から、訓練はすべて「安定」「修復」「防御」を中心に組まれていて、
誰もが「風脈を調律し、エネルギー圧を均す」ことを叩き込まれる。
だが、もし悪意に直面したらどう反撃すべきか――その話をする者はいなかった。
(皮肉なもんだ……ピカみたいな奴にすら、運と逃げ足でしか対抗できないなんて。)
〈魔導倫理〉《まどうりんり》の授業で、カイクラ教授がこう言っていたのを覚えている。
「魔法が攻撃できるなら、破壊もできる。
そして誰もが破壊できるようになれば、文明は崩壊する。」
だから学院は「攻撃術」を制限科目に指定し、
議会の許可と貴族の後ろ盾を得た研究生だけが触れることを許されている。
俺たち一般学生に許されているのは、せいぜい防御壁と光障壁、それに応急風膜
くらいのものだ。
(こんな力で、「風を掌握
した」と言えるのか?
守ることしかできないなら、風に庇われる鳥と何が違う?)
その瞬間、俺は風が笑ったような気がした。
笑い声は極めて微かで、遠くの環状線から届いたようだった。
それが気流の交錯する音なのか、自分の心の反響なのか、判別できなかった。
「君たちは、怖がっている。」
その声は、俺の脳内にかすかに響いた。
「力が神に似すぎることも、風に巻き込まれる側になることも。」
俺ははっとして、夜の闇に延びる透明な軌道を見上げた。
風の音がその中で旋回し、共鳴している。
まるで俺に語りかけるように――
守ることも、攻めることも、風が見せる、ただ異なるひとつの顔にすぎない。
風が導軌をかすめ、その言葉の残響をさらっていった。
風球がパミラ下環線の終点に差し掛かると、
噴水駅の導軌が柔らかな光を帯び始めた。
俺は徐々に減速し、気流を散らす。
風球を収め、翼桿を
折りたたみ、駅前の下層固定槽に差し込んだ。
符紋の光はゆっくりと薄れ、気流の音も静かに消えていった。
(市の喧騒に慣れた身には、この静けさがかえって怖い。)
駅のプラットフォームに足を下ろした瞬間、夕日がちょうど地平線をかすめ、
空の輝きは夜の色に飲み込まれ、雲の端にわずかな橙の残光だけが滲んでいた。
俺は体を伸ばし、長く浮いていたせいでこわばった筋をほぐした。
前方には半弧形の出入口ホールがあり、壁は霧化ガラスと風石の柱で編まれていた。
内部の気流は渦を描くように導かれ、低く微かな音を響かせながら、静かに回っていた。
出入口の上部、光板には淡い青の文字が揺れていた——
「人魚噴泉駅」。
外観だけで言えば、それは山腹のガラス層に埋め込まれた透明な貝殻のようだった。
高空から導軌が貫き、この場所に達すると、弧を描いて都市の中層へと滑り込んでいく。
駅の外では、気流管と導能柱が薄暗い光の中でちらつき、まるで流動する風脈網のように見えた。
俺は出入口を通り抜け、足元の導光標が微かに光るのを見た。
一歩踏み出すごとに、気流がリズムに合わせて微かに震える。
空気には湿った金属の匂いが漂い、
地下の霧気と風石の摩擦が混ざった、ほのかな鉱香が鼻をくすぐった——
これは中層以下に特有の匂いだ。
外層へと繋がる通路は広く、ひんやりとしている。
見上げれば、半透明のドームに光が流れていた——
それは上層市から差し込む、祭の残光だった。
橙金色の光が幾層ものガラスプラットフォームを通して降り注ぎ、
遠くの水霧が空中に銀の輪郭を描いていた。
俺は外縁の螺旋スロープを下りながら、
欄干の隙間を風がすり抜け、微かに塩気を含んだ潮の匂いを運んできた。
螺旋スロープはここで少し広がり、空気は軽く、湿り気を帯びてくる。
緩やかな弧を描く坂をそのまま進み、
最終カーブを抜けた瞬間、視界がぱっと開けた——
ここは人魚噴水広場。
港湾区の上方に位置する円形の中庭で、下層全体の中でもひときわ目を引くランドマークだ。
広場は淡い色合いの風石で舗装されており、中央には三階建てほどの高さを持つ人魚の噴水像が立っている。
その尾は優雅に旋回しながら半透明の流線を描き、五人の大人が並んで立てるほどの幅がある。
尾鰭には光を屈折させるチップが埋め込まれており、夕陽が水霧を透かすたび、橙と青の微光が交差する。
噴水の脈動が跳ね上がるたびに、像のまわりに淡い旋風が巻き起こり、
霧光と水音が重なり合って、虹のような暈が水面を漂っていく。
像を囲む水盤は広く、その縁には古代の風語の符文が刻まれている。
泉水は人魚の手に抱かれた水瓶から静かに注がれ、潮の香りと風石のほのかな鉱石の匂いが風に乗って広がっていく。
賑やかなパミラ市と比べると、ここはずっと静かだ。
数人の魚族の子どもたちが池の縁を駆け回り、尾鰭が水光の中に銀の弧を描く。
その笑い声は霧に包まれ、遠くから聞くと、まるで何かの楽器が震えているようだった。
俺は足を止め、向こう側の外縁方向へと視線を向けた。
SWEETはその下層、港の出口付近にある。
そこへ向かうには、噴水の脇にある石橋の通路を迂回し、さらにもう一つの下り坂を抜けなければならない。
俺は歩調を速め、噴水の右側から回り込もうとした時——
(今日、まさか……また?)
その瞬間——
「イラン!」
(また……同じ展開かよ。)
耳元で聞き慣れた声が響き、柱の陰から突然飛び出した影が、俺の行く手を塞いだ。
「うわっ!」
不意を突かれた俺は足を滑らせ、反射的にブレーキをかけようとした勢いのまま、噴水の池に倒れ込んだ。
視線が傾いた瞬間、風の音、叫び声、水霧が一斉に交錯する——
「ドン!」という鈍い音とともに、冷たい水しぶきが炸裂し、世界は霧に包まれた。
(何回目だよ……はぁ。)
「ハ——ックション!」
全身が水しぶきに濡れ、髪の先まで顔に張りついた。
靴底が石畳に「パタッ」と音を立て、
冷たい泉水が袖口から流れ込み、衣の中まで染み渡る。
思わず身震いし、そして盛大なくしゃみをひとつ。
(こんなことするの、あいつしかいない。)
「ははっ、イラン! やっぱり避けられないね!」
聞き慣れた、ちょっとムカつく声が耳に届く。
顔を上げると、池の縁に両手を腰に当てて、
誇らしげに笑っている少年の姿があった。
(……避けられないってことか? いや、違う——これは俺の償い。
こうでもしなきゃ、罪悪感は少しも薄れない。)
「アハハ! イラン、なんでそんな顔してるの? 聞こえてる?」
彼の朗らかな声が、思考の流れを断ち切った。
耳に馴染んだ、ちょっとムカつくあの調子——
顔を上げると、池の縁に両手を腰に当てて、誇らしげに笑っている少年が立っていた。
「ミド! またお前かよ!」
俺は顔についた水をぬぐいながら、思わず文句を漏らした。
夕映えが噴水の水霧に差し込み、
雫が光の中で金色の弧を描いてきらめいた。
ミドの姿は、あたたかな橙の光に包まれていた。
髪は短く刈り込まれていて、少し赤みのある茶色。
光が当たると、ふわっと柔らかい艶が浮かぶ。
あの橙がかった大きな目は、いつも感情を隠しきれないくらいキラキラしてて、
ちょっと視線を動かすだけで、風に揺れる琥珀みたいに見える。
いつも着てるのは、茄子紺のつなぎ服。
袖口や襟元には焼け跡や油染みがついてて、
腰には錬金用の小瓶や工具がジャラジャラぶら下がってる。
歩くたびにカランカラン鳴って、うるさいけど、なんかクセになる音。
もともとは俺と同じ学年だったけど、
三年に上がってからは学院の授業をやめて、研究区に行った。
魔導工芸と風属性金属の強化技術を専攻してるらしい。
天才だって言う人もいるし、ただ授業が退屈なだけって言う人もいる。
でも、いつも煤まみれになってるあの姿を見てると、
俺は、彼が本気で部品のことばっか考えてるんだと思う。
あの出来事さえなければ、
今も学院に残って、
実験レポートが多すぎるって文句言いながら、俺と一緒に徹夜してたかもしれない。
元気そうに見えるし——
トラブルも、誰よりよく引き寄せる。
「あはは〜イラン、SWEETにクロワッサン買いに急いでるの?」
彼は口元を押さえて、いつも通りの調子っぱずれな声で笑った。
昨日ちょっと口にしただけなのに、今日もうここにいる——
あいつの伝導器って、風を探るんじゃなくて俺を探ってるんじゃないかって思う。
ミドの魔導機械工坊は人魚噴泉のすぐそばにあって、
学院から魔導機械の職業証書をもらった時、
「噴き上がる水霧が落ちてくるのを見るのが好きなんだ」って言って、ここを選んだんだ。
俺がここを通るたび、まるで時間を計ったみたいに現れる。
ほんとに、あのゴチャゴチャした機械で行動を予測してるんじゃないかって、時々本気で思う。
「ミド!お前その殴りたくなる性格、ほんと腹立つ!」
……って、思わず睨み返して、呆れ半分で言ってやった。
「ハ、ハ——ハクション!」
肌をかすめるような冷たい風が吹いて、俺はまたくしゃみをした。
ついでに髪についた水を手で払う。
ミドはさらに楽しそうに笑って、わざと濡れた作業服をポンポン叩いた。
「おいおい、そんなに近くで振り回すなよ!これ、俺の最新の防焦層素材なんだから!」
「前にそのセリフ言った時、工坊全体が真っ黒に吹っ飛んだじゃん。」
「あれは事故だったんだって!ただのテストしすぎ!」
彼は手を挙げて勝利ポーズを取ったが、目の奥にはあの見慣れた得意げな笑みが隠しきれなかった。
「そんな目で見るなよ、ちょっとしたサプライズを用意しただけさ。」
彼はウインクしてみせた。語気は半分得意げで、半分申し訳なさそうだった。
「ふん、あんたの“サプライズ”って、毎回俺が水に浸かるオチじゃん。」
俺は不機嫌そうに言い返し、言い終わるとつい足を上げて蹴りを入れた。
「カンッ!」
「いった〜〜!」
俺は足の指を抱えて跳ね回りながら叫んだ。目尻には涙がにじみそうだった。
ミドは俺の滑稽な様子を見て、得意げに左腕をポンと弾いた。
「ははっ、イラン、忘れたの?この腕、超合金震動融合技術で強化済みなんだぜ!」
彼はその左腕を軽く回してみせた。手の甲には淡い金属の光沢が浮かび、
関節のラインは自然で滑らかだが、血肉にはない精密さを帯びていた。
夕日に照らされ、皮膚の下には青い符紋がかすかにきらめいていた——それは錬金術と魔導技術が交差した痕跡だった。
彼は笑いながら腕を軽く揺らし、半分冗談、半分本気の口調で言った。
「学院じゃ攻撃術は禁止されてるけど、狩り用に腕を強化するくらいなら、違反じゃないだろ?
少なくとも、風の盾よりは役に立つってさ。」
俺はふと動きを止めた。
その光景は、突然走った閃光のようだった——
記憶の奥深く、ずっと封じていた場所を突き刺す。
あの日の実験室、あの火の閃き、あの叫び声——
すべてが、一瞬で押し寄せてきた。
あのとき俺たちは研究室で、上位リディア粒子の合成を試みていた——
風脈を安定させ、エネルギー伝導率を増幅すると言われる、伝説の魔導媒質だ。
目標は、学院杯〈防衛術コンビネーション競技〉での優勝だった。
ミドは火系呪術において、昔からずば抜けた才能を持っていた。
一年生の頃から、教授の監視下で火の結界を安定して維持できて、
温度やエネルギーの流れを掴む感覚は、ほとんど本能の域に達していた。
彼はいつもこう言っていた——「火は爆発じゃない、呼吸だよ。」
でも、俺は違った。
火の呪よりも、風術やルーンの調律のほうが得意だったけど、
それも所詮は“中途半端”なレベルにすぎなかった。
風脈を呼び出したり導気しようとするたびに、流速が安定せず、
火と風のバランスを崩してしまうのが俺の癖だった。
だから今回の実験では、風で炎を導く方法を俺が提案した——
反応速度を高めるための手段として。
ミドは最初、猛反対した。「命知らずな調律法だぞ」って。
それでも俺が何度も頼み込んで、最後には渋々うなずいてくれた。
俺たちは、リスクが大きいことを分かっていた。
それでも、外島行きのために、賭ける価値があると思った。
ミドは勝利のためじゃなく、俺の願いを叶えるために、最後には首を縦に振ってくれた。
その年の優勝賞品は、外島行きの風力客船のチケットだった。
その船の名は「ルミア号」。
島で唯一、クラウドシーレーンを越えて航行できる巨大な風力客船だ。
船体は深藍鋼合金製で、外周には導風環と気脈翼帆が装備されている。
気圧と風脈を制御することで、雲層や海霧の上を安定して滑走できるのだ。
年に三度、風の抵抗が最も安定する風窓期に、
「ルミア号」は外島へ向けて出航する。
次のウィンドウ・フェーズが訪れるまで、風障を越えてビコトラスへ戻ることはできない。
噂によれば、船の主艙の奥深くには古代の風導晶爐が設置されており、
暴風層の中でも風脈の均衡を保ち、
船全体をまるで風に浮かぶ城のように進ませるという。
ビコトラス島の外縁に広がる海域は、長年風障帶と呼ばれてきた。
あの海域では気流が乱れ、磁圧も不安定で、
通常の従来型客船では安全に通過することができない。
風導晶爐を搭載した客船だけが、
その暴流の中を生き延びることができるのだ。
島の人々にとって、「ルミア号」はほとんど唯一の島外への道だった。
当時の俺の頭の中にあったのは、優勝の栄光とあの船だけじゃない——
俺が欲しかったのは、島を出る可能性だった。
あの船にさえ乗れれば、
この島を離れて、外海の果てにある群島へ行ける。
叔父が出発する前、誰かがその場所から南へ向かう姿を見たと言っていた。
それは、島の住人たちの噂を辿ってようやく耳にした話だった。
もしかしたら……そこで彼の痕跡を見つけられるかもしれない。
あの頃の俺は、風が望む場所へ連れて行ってくれると信じて疑わなかった。
でも今振り返ると——
もう一度選べるなら.....
俺はあんな選択はしまい。
『ビコトラス学院・防衛術研究室。』
「イラン!!」
「やめて、今すぐ止めて——!」
「待ってミド、あと少しでリディア粒子が合成できるんだ!!」
俺は炎の中心を見つめながら、光糸の周波数変化を測っていた。
声には興奮が滲み、抑えきれなかった。
「ダメだよ、イラン!周囲の粒子が活性化しすぎてる、エネルギー圧が急上昇してる!」
ミドは眉をひそめ、俺の袖を引っ張りながら、焦ったように首を振った。
それでも俺は炎から目を離さず、反射光に照らされた瞳が輝いていた。
「キリム教授が言ってた。これは『破滅効果』の臨界点——
これを越えれば、リディアの安定共振を本当に掌握できる!」
粒子たちは炎の周囲で騒がしく旋回し、
まるで何か見えない力に引き寄せられているようだった。
壁の温度ルーンが点滅し始め、
実験台の固定結界もかすかな震えを発していた。
「イラン!実験を中止して!」
「ダメだ!あと少しだけ——!」
炎の中心にある光糸が、突然激しく跳ねた。
それは、俺たちが今まで見たことのない反応だった。
銀白の光が炎の中で閃き、分裂し、やがて肉眼ではほとんど識別できない微粒へと凝縮されていく。
それらの粒子は絶えず震え、互いに引き寄せ合い、空気の気圧が一瞬で変化した。呼吸すら困難になるほどに。
「ミド!見て、成功したんだ!」
「わ……ほんとだ!」
「えっ……!?違う!」
ミドの瞳孔が一気に開き、驚きから恐怖へと声色が変わった。
俺も異変に気づいた——そのエネルギーの流速は不自然なほど速く、結界の光さえ震えていた。
「違う……イラン、それはリディア粒子じゃない!」
「それは——エンディム粒子だ!」
ミドの声はほとんど悲鳴だった。
「活性値が三十を超えてる!魔能電磁効果が発生する!早く下がって——!」
「な、なに……そんなはず——!」
言い終える前に、空気全体が裂けるように震え始めた。
ルーン壁の刻線が眩しい白光を放ち、
温度が一気に上昇し、瓶や導管が鋭い共鳴音を立てた。
導能管の中で流光が激しく奔流し、
安定していた魔導管が低く唸り始め、
装置の表面には不吉な光脈が浮かび上がる。
ガラスドーム内のエネルギー流が軌道を外れ、何かの力に歪められているようだった。
次の瞬間——
粒子たちが一斉に膨張し、激しく閃光を放つ。
炎は引き裂かれ、引き延ばされ、そして一瞬で収縮した。
細い光が次々と導能線に絡みつき、
実験台の銅管が「パチッ、パチッ」と音を立て始めた。
魔導管の中の液体が高圧蒸気に押し出されて爆発し、
ガラスの破片と火花が空気中に炸裂した。
壁の符文結界は不安定に点滅し、
防御陣の光輪には次々と亀裂が走る。
導能メーターの針が激しく震え、
エネルギー計の目盛りは狂ったように上昇していく。
床の魔法陣からも不協和音のような唸りが響き、
まるで警告のようだった——
すべてが、すでに制御を超えていた。
飛び散った破片が空気を裂き、
そのうちの一片が俺の頬を直撃した。
冷たい痛みが瞬時に血の気配を滲ませ、
顎を伝ってゆっくりと滴り落ちる。
風が震えているのが、ほとんど聞こえた。
「うっ——ああっ!」
反射的に後退し、視界は炎と蒸気に霞んだ。
そしてその瞬間——
俺の声は、爆裂音に呑み込まれた。
粒子たちは光糸を呑み込んだ後、透明な赤紫の光球へと変化し、
互いに引き合い、融合し、最終的に巨大なエネルギー球体へと凝縮された。
それは周囲の魔導儀器の電力を次々と吸収し、
眩しい青藍の光を放ち続ける。
その点滅の周期は、心拍とほぼ一致していた。
「ジ──ジ──ズ──チャチャ──」
あのエネルギー体は、もはやただの混沌とした反応体ではなかった。
透明な赤紫の光球は、まるで命を持ったかのように見えた。
光脈が神経のように空気中へと広がり、
その一閃ごとに低く脈打つ音が響く。
まるで、何か未知の意思が——呼吸しているようだった。
いや、それ以上に——
俺たちを「見つめて」いるようだった。
空気が次第に灼熱を帯び、符文壁の温度が上昇して赤く染まり始めた。
書棚の紙が気流に煽られ、瞬く間に灰と化す。
「イラン——下がって!」
反応する間もなく、一つの光球がまっすぐこちらへ飛んできた。
眩しい蒼藍色の光が目前で炸裂し、胸を激しい衝撃が貫いた。
その瞬間、呼吸も心拍もすべてが止まった。
「げほっ、あ……!」
数歩吹き飛ばされ、背中が金属ラックに激突する。
電流が全身を駆け抜け、四肢が一瞬で痺れた。
混乱の中、ミドの声だけがかすかに届く——
「イラン!!」
彼は一切ためらうことなく駆け寄り、
俺とあの蒼藍色の火光のあいだに身を投げ出した。
ミドは右手を掲げ、掌に炎が素早く集まり始めた。
口元で低く呟くように詠唱する——
「火の妖精よ、我が命に従え——
絶え間なく燃え続ける炎で、巨人さえ破れぬ壁を築け。
原初の火源よ、命を守る大盾となれ——!」
「火の呪術:〈火囲〉!」
烈火が瞬時に彼の前で広がり、灼熱の防壁を形成する。
透明なエネルギー球が火壁に激しく衝突し、
炎と電流が交錯して、歯に響くような高周波音を発した。
壁の符文が限界まで閃光を放つ——
「ジジッ——ジジッ——!」
炎に遮られた光球は一時的に足止めされた。
俺は地面に伏せたまま、胸の灼けるような痛みに耐え、
呼吸は焦げた煙と金属の匂いに混じっていた。
ミドが振り返り、強い眼差しで叫ぶ——
「耐えて!イラン!」
だが、火壁の光は徐々に薄れていく。
あのエネルギーは止まることなく、むしろ俺たちのリズムを「学習した」かのようだった。
球体の内層にある光脈が、さらに速い周期で震え始める。
〈蒼藍色〉の電気の炎が赤い炎を飲み込み、
空気の匂いは刺すように焦げつき、鼻を突く。
警告しようと口を開いたが——
声は喉の奥で詰まり、出なかった。
ミドが再び手を掲げ、第二層の火壁を張ろうとする——
「パキン!」
その音は異様なほど鋭く響いた。
次の瞬間、防護結界の符文が一斉に崩壊する。
符紋は砕けたガラスのように壁面から剥がれ、
制御不能な光線となって四方へ飛び散った。
炎と電光が同時に絡み合い、爆ぜる。
そのエネルギーは巨大な波のようにミドの左側から押し寄せ、
空間全体が〈蒼白色〉の閃光に引き裂かれた——
風さえも、砕ける音を立てた。
炎と電光が爆ぜた瞬間、
実験室は〈蒼藍色〉のまばゆい光に呑み込まれる。
空気は焦げついた金属の匂いで満ち、
すべての魔導機器が同時に震え、魔導管線が一本ずつ裂けていく。
「ミド——!」
地面を押さえて立ち上がろうとしたが、
激しい衝撃波に吹き飛ばされた。
次の瞬間、〈蒼藍色〉の火束が空気を裂き、
一直線にミドの左腕を貫いた。
「うあ——あああああ——!」
その悲鳴は、空気を引き裂くほどの凄まじさだった。
ミドの身体は大きく仰け反り、
左腕は瞬時に火光に包まれる。
その炎は異様なほど純粋だった——
煙はなく、ただ灼熱と、パチパチと弾ける光だけがあった。
「ミドォォォ!!」
俺は駆け寄り、強引に手を掴もうとした——
だが、その灼熱に押し返され、半歩後退する。
炎が通った空間は歪み、床の符文さえも剥がれ始めた。
「ダメだ……耐えてくれ!」
ミドは歯を食いしばり、右手で地面を支えながら、
もう片方の手でエネルギーの流れを封じようとする。
だが、炎はまるで意思を持つかのように腕に絡みつき、
血脈を這うように肩へと這い上がっていく。
俺の頭は混乱でいっぱいで、
涙を拭いながら、ただ彼の名前を叫ぶことしかできなかった。
「ミド……ミドォォ……!」
「ミド、大丈夫なの……?返事してよ……!」
彼は片手で地面を支え、膝をついたまま、
わずかに顔を上げて俺を見た。
その橙黄色の瞳は、火光の中で痛みと悔しさに揺れていた。
汗が頬を伝い、彼は歯を食いしばりながら、
焼けるような痛みに耐え、倒れまいと必死に姿勢を保っていた。
その瞬間——
俺には感じ取れた気がした。
彼の全身の力が、あの炎と戦っていることを。
唇がわずかに開き、何かを言おうとした——
だが、その声は烈火に呑まれた。
火光が突如、閃く。
「ドォン!!」
研究室全体が爆裂するエネルギーに呑み込まれた。
ガラスと金属の破片が四方へ飛び散り、
空気が一瞬で掻き消える。
俺の身体は衝撃波に吹き飛ばされ、
背後の壁に激しく叩きつけられた。
「うあ——あああああああ——!!」
それは言葉ではなかった。
衝撃に引き裂かれた悲鳴——
まるで魂が引き剝がされるような叫びだった。
その声は灼熱と轟音の中で引き延ばされ、歪み、
やがて、砕けた息音へと変わっていった。
視界には、ぼやけた〈蒼藍色〉の光しか残っていなかった。
俺は手を伸ばしたが、掴めたのは灼熱の空気だけだった。
炎の熱波が再び襲いかかり、呼吸が奪われる。
耳に残るのは、自分の心臓の激しい鼓動だけ——。
その音は、遠ざかる意識の中で、
少しずつ……ぼやけていった。
「くそ、俺……間違えた……やっちゃいけなかった……」
(ミド、ごめん……)
(どうして、こんなことに……)
視界が光に呑まれる直前、
俺が最後に見た光景——
それは、ミドが倒れる姿だった。
光は、徐々に〈深紅〉へと変わっていく。
地の底から風の音が立ち上がるのが聞こえた。
まるで、世界そのものの呼吸が再び目覚めたかのように。
灼熱の気流が空間を渦巻き、
炎は符文の軌道に沿って広がり、
研究室全体を燃え上がる光で染めていく。
その光の縁が崩れ始め、
砕け散る一片一片の光が——
ミドの叫びの残響を、抱えていた。
俺の意識が完全に崩れ落ちようとした、その瞬間——
耳をつんざく轟音の中、
遠くから響くような、威厳ある声が、
低く、静かに呼びかけてきた。
「イラン——」
「火風の守護者よ、我が言葉に従え!」
その声は低く、力強く、空間そのものと共鳴していた。
「大地が陰る時、汝の光にて秩序を保て——
風を盾となし、火を環となし、
荒ぶる焔を、眠りへと導け!」
咒文が落ちると同時に、空間の圧力が一変した。
暴走していた炎はもはや暴れず、
何か、より巨大な力に引かれるように、
渦を巻き、収束していく。
それは——
俺には真似できず、理解も及ばない、
秘術の構造だった。
「——火の秘防術式・顕現:〈焔の嵐〉!」
地面から震動が走った。
俺の身体はそのエネルギーに持ち上げられそうになり、
目の前には金紅色と深橙色が交錯する光が閃いていた。
熱波が押し寄せ、空気は炎によって液体のように歪む。
その光の中心に——
俺は、見覚えのある姿を見た。
烈火の中、暗紅色の魔導ローブが火流に持ち上げられ、
その縁には「火の律」を象徴する金糸の符文が縫い込まれていた。
厚手の布地は気流に翻りながらも、炎に焼かれることは一切なかった。
銀灰色の長髪が光の中で火の残像を映し、
風に舞い上がり、微かに巻いた毛先が、
炎と同じリズムで輝いていた。
それは——キリム教授だった。
彼の顔立ちは鋭く、眉骨は深く刻まれていた。
その目は、まるで元素の奥深くを見据えているかのようだった。
怒りを帯びているわけではないのに、
その眼差しには、直視することすらためらわせる圧があった。
彼が口を開くたびに、炎はその語調に従うように静まり、
空気の熱も、彼の呼吸のリズムに合わせて脈動する。
そのとき、ようやく理解した——
これこそが、古代学院最強の密術師。
俺たちには決して届かない存在。
教授は右手を掲げ、掌に刻まれた符文が輝き、
火の光が彼の周囲で星のように瞬いた。
最後の咒文が落ちた瞬間、地面が激しく揺れ、
紅の光紋が壁と床を這うように広がっていく。
研究室全体が、まるで巨大な陣に点火されたかのように、
天井へと突き抜ける火柱を噴き上げた。
その熱波が一気に俺の顔をかすめ、
あまりの熱さに、呼吸すら困難になるほどだった。
咒文が響き渡る中、
空気の構造すら変えてしまうほどの力が、空間全体に共鳴した。
教授の姿は烈火に包まれ、
炎はその動きに従って渦を巻き、
地の底から湧き上がる気流は、紅金色の旋風となって現れた。
それらは旋回し、重なり合い、
やがて〈封焔の輪〉を形成する。
俺は、その巨大なエネルギー球が気流に持ち上げられ、
まるで空中で脈打つ心臓のように跳ねているのを見た。
それは抵抗しようとしていた——
だが、すべての光脈は炎の律動によって抑えられ、断ち切られていた。
地の底から轟音が響き、〈封焔の輪〉が瞬時に爆ぜる。
光と炎が交錯し、
一つの巨大な影を形作った——
それは神ではなかった。
無数の符文によって構成された、護陣の影だった。
「§×§~•£✓&~§§」
その目には深紅の焔が燃え盛り、
口を開いたとき、発せられたのは怒号ではなく——
大地の深奥から響いてくるような、ひとつの嘆息だった。
——火風の守護、展開。
熱風が吹き荒れ、目を開けることすらできなかった。
烈火が旋回し、気流が交錯して環状の光壁を形成する。
あの青紅のエネルギー球は風圧の中で収縮を続け、
やがて砕け散り、無数の金色の微粒となって空中に残光を放った。
空間は異様なほど静まり返り、
残されたのは、溶けた金が滴る音だけ。
余熱の中で、ゆっくりと響いていた。
すべてが徐々に鎮まったとき、
研究室は火光によって洗い清められ、
残されたのは符文の痕跡と、漂う灰燼だけだった。
俺は身体をなんとか起こし、
焦げた床に指を這わせる。
掌には焼けるような痛みが走った。
「教授……ミドは……無事です……か?」
声は、もはや自分のものとは思えないほど掠れていた。
烈火の中心から、ひとつの影がゆっくりと歩み出る。
その圧迫感は消えることなく、
むしろ、近づくにつれて一層鮮明になっていった。
キリム教授は静かに俯き、
地面に倒れているミドをじっと見つめていた。
その表情は沈着で冷静だったが、
その眼差しの奥には、一瞬だけ深い悲しみの色が走った。
「イラン……ミドは無事だ。だが——」
彼は言葉を切った。
その声には、言葉にできない悔いのようなものが滲んでいた。
胸が締めつけられる。
俺はなんとか立ち上がろうとしたが、身体はふらつき、足元が定まらない。
「教授……ミドは……いったい……」
教授はすぐには答えなかった。
ただ静かにしゃがみ込み、
そっと手を伸ばして、ミドの胸元に掌を当てた。
低く沈んだ咒音が、教授の唇から静かに流れ出す。
符文が柔らかな光を放ち、火の気配がゆるやかに広がって、ミドの全身を包み込んだ。
「〈生命徴候〉は……安定している。」
彼はそう呟きながら、指先の光をそっと収めた。
「……だが、左腕の組織は、完全に炭化している。」
その声は大きくなかった。
けれど、それは癒えることのない裂け目のように、
静かに、俺の心を切り裂いた。
「な……」
言葉が出ない。
涙が勝手にこぼれ落ちる。
時間が止まったように感じられ、耳には低く唸るような音が残るだけ。
空気の中には、炎の「じゅう……」という微かな音だけが漂っていた。
まるで、俺の鈍さを嘲笑うかのように。
その言葉は、鈍く胸に落ちた重い一撃だった。
俺はただ、ミドの焦げた腕を見つめるしかなかった——
かつてあれほど生気に満ちていた腕が、今はただの黒い影となっていた。
「……いや、そんな……そんなはず……」
震える手を伸ばし、彼に触れようとしたその瞬間、
教授の手がそっと俺を制した。
「触れるな。彼の体内には、まだエネルギーの〈残滓〉が残っている。」
その声は静かだった。
だが、その奥には、抑えきれないほどの重さが滲んでいた。
その瞬間、周囲の光がすべて色を失ったように感じた。
残されたのは、空気の中でかすかに震える、炎の残り香だけだった。
目の前のすべてが揺れているように感じた。
意識は、強烈な罪悪感と疲労に引き裂かれていた。
「教授……ミドの言うことを聞くべきだった……俺は……」
言葉を言い切る前に、膝が崩れ、地面に倒れ込んだ。
教授が手を伸ばし、俺の身体を支えてくれる。
その掌からは、安定した熱が伝わってきた。
「もう自分を責めるな、イラン……これは、事故だ。」
その声は低く、重みがあり、
まるで闇の中に灯された一つの光のようだった。
最後に見えた光景は——
教授のマントが熱風に巻き上げられる瞬間だった。
顔を上げようとしたが、何も見えなかった。
炎の残光が目の前で瞬き、遠ざかっていく——
そして、すべてが静寂に包まれた。
視界が、すうっと暗くなっていった。
——あの事故のあと、ミドは二度とあの日のことを口にしなかった。
(そして俺も、慣れたふりをしていた。)
彼は相変わらず笑って、ふざけて、
まるで何もなかったかのように振る舞っていた。
ただ——あのグモ教授が自ら作り上げた超合金の左腕だけは、
陽の光を受けて金属の微光を放つたびに——
俺は、無意識に視線を逸らしてしまうのだった。
風が噴水の水面を撫で、細かな光を散らす。
我に返ると、ミドが池の縁でしゃがみ込み、
困ったような顔で手を差し伸べていた。
「おい、早く起きろって。
これ以上浸かってたら、塩漬けの魚になるぞ?」
その顔に思わず笑ってしまい、俺は手を伸ばして彼に引き上げられた。
袖口から水滴がこぼれ落ち、石畳の上にきらめく痕を残す。
「……お前さ、本当にタイミングだけは完璧だよな。」
俺の言葉に、彼は何も答えず——
ただ、当然のように笑っていた。
彼が手を軽く振ると、掌に橙紅色の微光が灯った。
その炎は空中に浮かび、温度は高くないが、柔らかなぬくもりを帯びていた。
「……お前、それ……?」
「動くな、動くな——」
「今回はイタズラじゃないってば。」
口元を歪めて笑う彼の指先に、火光がゆるやかに回転しながら、
細かな熱流となって俺の周囲を流れ始める。
濡れた衣服と髪は数秒で乾き、
風が残り火の温もりを含んで肌を撫で、
ほのかなキャラメルの香りだけが残った。
「俺をずぶ濡れにして、乾かして……結局、何がしたいんだよ。」
睨みつけながらも、思わず苦笑してしまう。
「それが俺の特技ってやつだろ?」
ミドは得意げに胸を張る。
その〈義手〉が〈夕日〉を受けて、柔らかな光を反射していた。
その瞬間——
胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚が走った。
まるで、さっきの記憶が風に吹かれて、
もう一度、そっとめくれ上がったかのようだった。
「そんな顔すんなって。」
ミドは後頭部をかきながら、どこか気まずそうに笑った。
「この手さ、前よりずっとタフなんだぜ。ほら——」
彼は左腕を持ち上げ、器用に指を動かす。
関節のあいだから、かすかなギア音が響いた。
金属のラインは滑らかで、表面には淡い金色の紋が走っている。
まるで、何かの〈活性符文〉が呼吸しているかのようだった。
「グモ教授が風属性の反応回路を組み込んでくれたんだ。」
その声には、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。
「またあの暴走粒子に出くわしても、この手なら耐えられるってわけ!」
「……いや、それはもう二度と起きてほしくないけどな。」
俺は苦笑しながら言葉を挟んだが、
心の奥では、あの火と轟音に包まれた瞬間がよぎっていた。
ミドは瞬きをして、何かに気づいたように声の調子を落とした。
「イラン……まだ、自分を責めてるのか?」
俺は答えず、ただ静かに首を振った。
遠くで風鈴が揺れ、かすかな音を立てる。
その音は、夜の帳に溶けそうなほど微かだった——
けれど、あの日、炎に呑まれた光をまた思い出させた。
「はあ……」
ミドは深くため息をつき、立ち上がってズボンの水滴を払った。
「何度言わせるんだよ、あれは事故だったって。
それに見てみろよ、この手。前よりずっと高性能だぜ? むしろ得したってもんだろ?」
俺は彼を見上げた。
その〈橙金〉の瞳は暮れなずむ空の下で微かに光り、
彼はいつものように軽口を叩いて笑っていた。
けれど、その笑顔の奥には、誰にも見せたくない痛みが確かにあった。
「忘れたくないのはわかるけどさ、
ずっと背負ってても、前には進めないだろ? それに、お前……行きたいんだろ?」
「……エンおじさんのところに。」
ミドは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「やっぱり、お前は変わらないな。」
「じゃあ、行ってこいよ、イラン。
もう過去に縛られるのはやめろ。」
彼はそっと俺の肩を叩いた。
掌のぬくもりが衣越しに伝わってくる。短くても、確かな温度だった。
「一緒に祭り、行かないのか?」
答えはわかっていたのに、つい聞いてしまう。
ミドは肩をすくめて、少し困ったように笑った。
「グモ教授と約束しててさ。あとで時間があったら、また会いに行くよ。」
俺は顎に手を当てて、眉を上げながら彼を見た。
「〈銀風〉……の試練か?」
「うん。」
「今度こそ、成功するといいな。」
彼は静かにうなずいた。
その瞳の奥で、火の光が一瞬だけ揺れた。
(銀風の試練——それは、並の挑戦じゃない。)
俺は思わず首を振り、苦笑した。
風が噴水の霧を撫で、細やかな涼しさを運んでくる。
霧が晴れた瞬間、空には〈紫がかった闇〉が滲んでいた。
俺の視線は彼を越えて、遠くの下層港湾区へと向かう——
あそこは風がもっと強くて、もっと冷たい。
「……うん、待ってて。」
俺は小さく呟いた。
ミドは俺の目線に気づいて、ふっと笑い、
噴水を背にして振り返り、手を二度ひらひらと振った。
「急げよー、SWEET閉まっちゃうぞ!」
「……ふっ。」
思わず笑ってしまう。
彼の背中に手を振って別れを告げたあと、
俺は石畳の道を小走りに駆け出した。
風が路地の奥からゆるやかに吹き出し、
ベーカリーの残り香を運びながら、海霧の塩気と混ざって石畳の隙間を流れていく。
灯りが一つ、また一つと灯り、
温かな黄の弧が街角に沿って広がっていく。
遠くの環状ステーションは霧の中にぼんやりと浮かんでいた。
俺は歩調を緩め、鼓動と風音を重ねる。
空気に含まれた水気と微かな電流音が、
夜に始まる祭典の予告のように、静かに響いていた。
指先で識別台をなぞると、光紋が浮かび上がり、
〈風球〉がスロットからゆっくりと昇ってくる——
導軌の光が起動し、微かな振動を伴った気流が足元の風を持ち上げる。
その震動は次第に安定し、風球は掌の上にふわりと浮かび、
柔らかな光を放っていた。
眩しい輝きではなく、ただ穏やかな風圧が、静かに掌を包み込む。
夜の帳が、前方に静かに広がっていく。
俺は深く息を吸い込み、港へと続く導軌に足を踏み出した。
風が耳元をかすめ、導軌の還流がもたらす微かな熱と光を運んでくる。
微光が瞬いたその瞬間、
下層街区の灯影は背後に流れ去り、
風球は導軌に滑り込み、俺を外環の夜へと運んでいった。
>この一節を書き終えたとき、頭の中にはずっとミドの「むしろ得したってもんだろ?」という言葉が響いていた。
彼はいつも笑っているけれど、その笑顔の奥には痛みを隠している。
イランの沈黙は逃避ではなく、自分を許す方法をまだ探しているだけ。
二人の間にある、言葉にしなくても伝わる空気がとても好きだ——
まるで、風が霧を撫でて痕跡を残さずとも、空気の温度を変えていくように。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
もしあなたも、ある夜に願いを胸に旅立ったことがあるなら——
この物語は、きっとあなたのために書かれたものです。




