第3話―パミラの風祭――初めての呼び声
>この話では、イランがパミラマケットに足を踏み入れます。
風祭を控えた街は、まだ始まっていない気配にそっと染まり、
光の波紋と香りが、彼の記憶を静かに揺らしていきます。
彼は何かを探していたわけではありません。
ただ、風の流れに身を任せて歩いていた。
その途中で、遠方からの旅人や、忘れられた機具との出会いがあり、
日常の端に潜む微かな異変に気づいていきます。
もしよければ、イランと同じように、風の音に耳を澄ませながら読んでみてください。
この夜の匂いと祭りの光が、あなたにも小さな驚きを届けてくれることを願っています。
手にしていた風球を、ホーム前にせり出した収納槽へそっと置いた。
チップ識別灯が二度ほど点滅し、登録が確認されると、球体はゆっくりと金属の槽へ沈んでいく。
槽の表面はすぐに閉じ、細い隙間と淡い緑の指示光だけが残った。
指先のあいだでその光が瞬き、やがて消えていくのを見つめる。
胸の奥には、言葉にならない期待がそっと広がっていた。
――次にこの風球を取り出すとき、
きっともっと遠くへ連れていってくれる。
「ピッ――」
軽やかな電子音とともに、ゲートが静かに開く。
淡い緑の光が床を伝い、水の波紋のように静かに広がっていった。
空気中の塵が光を受けて揺らめき、
風のささやきが耳をくすぐる。
低く、やさしく、どこか甘い香りを含んで――
遠くでは、楽の調べも混じっている。
背後で光の幕が閉じると同時に、
新しい世界が目の前に広がった。
前方には、パミラの中層街区が見えていた。
風が街の路地を抜け、宙に浮かぶ布の旗や気脈灯をやさしく揺らしていく。
光の霧が風の流れに乗って漂い、宙に淡い弧を描く。
まるで祭の予行のためにしつらえた幻の光のようだった。
通りの両側には重なり合うテラスと歩道が続き、
屋根の隙間から吊るされた風鈴が気流に触れ、細やかな音を連ねる。
遠くの懸橋には淡い青の光脈が流れ、
まるで都市が呼吸しているかのようだった。
道沿いの屋台では、すでに夜の風祭の支度が始まっている。
魔導糖菓、風果酒、気脈飾、羽紋布――
さまざまな色と香りが、空気の中で静かに溶け合っていた。
「さあさあ、風果酒はいかが? 一口飲めば、風の声が聞こえてくるよ!」
「風晶糖二袋で八十! 今夜は気脈が順流、甘さ二倍、保証付き!」
俺は中央通り《ちゅうおうどおり》をゆっくりと進んでいく。
屋根の隙間をすり抜ける気流が渦を巻き、風に舞う光の粒が頬をかすめた。
「気灯の修理、風球の充填――風漏れなし、光も安定! 今夜は安心ですよ〜!」
「遠方よりお越しの貴族の皆様〜! パミラ名物、青絹気果パイをお見逃しなく!」
「風果酒、飲めば風が語りかける! 今夜限定、急げ急げ〜!」
「風紙鶴、風に乗って舞い上がれ〜! 一つ買えばもう一つ、お子様に大人気〜!」
店主が魔杖を振ると、光球が空にふわりと灯った。
風に乗って舞い上がる気晶紙鶴を、子どもたちが楽しげに追いかけていく。
パミラの中層街は、透明な楽の調べに包まれているかのようだった。
それは、柔らかく、生き生きと響いていた。
俺は歩みを緩め、視線を風の流れに合わせて滑らせた。
香辛料、焼き果実、果皮の甘い香りが混ざった気流が、温かく頬をかすめていく。
遠くから魔導音箱の試奏が聞こえてきた。
音波は街区のあいだを反響し、風鈴の音と交じり合って、微妙なリズムを奏でていた。
SWEETの開店まで、まだ一時間以上ある――
ただ空き時間にぶらつくつもりだったのに、目の前の光景に足が止まった。
(少し見て回ろう……まだ時間はあるし。)
風は人の声を乗せて流れていく。
古物の露店の前では、ビロードの布を纏った数人の貴族が集まり、
古びた表紙とかすれた文字の本を、分析機で丁寧にスキャンしていた
彼らが目を交わし、満足げに微笑んだ瞬間、周囲の空気もふっと沸き立った。
少し離れた場所には語環調整台が設置されていて、発音を調整するための列が伸びていた。
光板には入境案内が流れている。第二波の来訪者は十七時以降に大量到着予定らしい。
今はまだ人もまばらで、本格的な賑わいはこれからだ。
通りの端には臨時の港務棚が組まれていて、風脈技師たちが透明な指輪を箱ごと運んでいた。
それぞれの指輪には小さな風晶が埋め込まれていて、光が気流に乗って、淡く瞬いていた。
「語導環だぞ! 登島用の翻訳具! 港区に急げ、夕方の船便がもうすぐ着く!」
工匠の叫び声が街路を抜けて、風鈴の音と混ざり合いながら響き渡った。
行き交う人波の中、俺は外地からの客や異族が混じっていることに気づいた。
鳥族の幼子が母親の翼にぴったりと寄り添いながら、甲高くさえずっている。
鰭紋の肌を持つ海民は、布袋に乾いた果実を詰め込んでいた。
彼らの耳の後ろやこめかみには、透明な細環がひとつずつ装着されており、
環の縁には、淡い光脈が呼吸するように脈打っていた。
それは、入島者向けに一時配布または貸与される翻訳晶環。
風語を校準すれば、各地の舌音を共通語に変換し、
反響は骨膜に沿って装着者へと返される。
俺は暮光の中で淡く青く光るその指環を見つめながら、「今夜は、本当に外地の客が来るんだな」と思った。
風に、潮の匂いが混じり始めていた。
遠くの波が、確かにこちらへ向かっている。
「沙───#寸€°£───§」
その瞬間、すべての呼び声と音楽が、まるで押し潰されたように低くなった。
音は風に裂かれ、再構成されたかのように震えながら響き、
街区の喧騒の中で、異様なほど際立っていた。
人々の声は次第にかき消され、
空気の中には、あの奇妙な共鳴だけが残っていた。
それは音楽でもなければ、呼び声でもない。
低く脈打つような振動――
その震鳴は、封殻に反射されたようでもあり、
ガラスの覆いから滲み出す囁きのようでもあった。
風に包まれながら、前方から這うように届いてくる。
俺は思わず足を止め、その音の方へ視線を向けた。
人波の中央、隙間もないほど囲まれた古神器の露店で、
ちょうど競売が始まっていた。
「五十万カラ!」
腹の出た中年男が真っ先に声を上げる。
その声は厚く、響きが強くて、周囲の瓶や器がわずかに震えた。
「八十万」
その声は低く、冷静だった。
風に押し潰された金属音のようで、抑揚はないのに、群衆の喧騒を突き抜けてはっきりと響いた。
次の瞬間、サングラスをかけた若い男が、ゆっくりと顔を上げる。
彼は深緑のマントをまとい、サングラスの下の顔は白く、反射するほどの肌色だった。
皮膚の表面には、かすかに青い光が滲んでいるようにも見える。
そのマントの布地は落ち着いた質感で、縁には極細の金糸による符紋が刺繍されていた。
微風に揺れるたび、布面に光と影が淡く浮かび上がる。
そして何より目を引いたのは、彼のほぼ完璧な体格だった。
高く、まっすぐ、まるで歩く芸術彫像のようだ。
彼の手の動きは、緩やかでありながら、寸分の狂いもなかった。
まるで、いつ声を発すればいいかを、あらかじめ知っていたかのように。
(あの自信……初めてじゃないな、こういう場は。)
俺は思わず足を止めた。
視線は、あの奇妙な張力に引き寄せられ、離せなくなっていた。
人々は中央へと押し寄せ、空気に満ちていた喧騒は、いつしか目に見えぬ対決へと変わっていく。
「九十五万カラ……!」
腹の出た中年男が、鼻息を荒くしながら髭を吹き、サングラスの男を睨みつける。
負けじとばかりに、再び札を掲げた。
その声は大きく、その声は大きく、語尾には震えるような鼻音が混じっていた。
彼の頭には、風獣の羽根が飾られた絨革の広縁帽。
上層貴族が祭礼の場で好んで身につける、典型的な式典用の装いだ。
ただ、帽子の縁にあしらわれた羽根はすでに風に乱され、汗の粒が数滴、そこに張りついていた。
そして何より目を引いたのは、あの絹製のシャツ――
あまりにも窮屈で、胸元のボタンは辛うじて留まっており、ひとつは飛び出した肉に押されて、今にも外れそうだった。
次の呼吸で、「ポン」と音を立てて飛んでいきそうなほどに。
彼が手を振って値を叫ぶたびに、指輪と腕輪がぶつかり、澄んだ音を立てる。
濃厚な香水の匂いと汗の気配が混ざり合い、露店全体が彼の誇張された存在感に染め上げられていた。
その向かい側で、サングラスの男はただ顎をわずかに持ち上げただけだった。
それでも、その気配は騒然とした場を一瞬で制してしまうほどのものだった。
マントの布地は光を吸収し、反射しない。
縁に刺された金糸の符紋が、風に揺れてほのかに輝いていた。
男の所作には独自の風格があり、
その服装の品位は、あの飾り立てた肥えた貴族――シャツのボタンが今にも弾けそうな男――
そして周囲の「自称・高雅」な貴族たちさえも、彼の前では色褪せて見えた。
それは、虚飾ではない。
静けさを纏うような華やかさだった。
……俺は、ただ見ているしかなかった。
まるで、舞台の照明が一斉に彼だけを照らしているようで、 他のすべてが、背景に溶けていく。
周囲の観客たちが、低く驚いたような声を漏らす。
何人かの子供は、大人に腕を引かれて後ろへと下がった。
突然巻き起こった競りの熱気に、巻き込まれるのを恐れているようだった。
(もう少し……もう少し近くで、あの出品物を見たい。)
俺は人波に押され、さらに前へと押し出された。
足元は、ほとんど露店の縁に触れそうなほどだ。
その時、古神器を扱う露店の女主人が唇を引き結び、
視線を二人の競り手の間で行き来させていた。
その表情は、緊張と期待が入り混じっていて、
まるで風向きの変化を待つ祭司のようだった。
「さらに高値を、つける方は?」
彼女は商人特有の甲高い声で、探るように問いかけた。
その口調には、慎重さと興奮が同居していた。
肥えた貴族は得意げに胸を張り、帽子の羽根を勢いよく揺らす。
その拍子に、隣の客にぶつかりそうになるほどだった。
酒気と熱気で赤らんだ顔には、勝利を確信したような笑みが浮かび、
小さな目には、自分が場を支配していると信じて疑わぬ光が宿っていた。
指輪をびっしりとはめた指が、一定のリズムで卓を叩いていた。
澄んだ金属音が空気の中に響き渡り、まるで彼の勝利の時を刻むカウントダウンのようだった。
「若いの、まだ続けるつもりか?」
彼はわざと語調を落とし、
一語一語に、見下すような挑発を滲ませていた。
指輪は照明の下で冷たい光を放ち、
沈黙する相手を嘲るかのように、きらりと輝いていた。
その表情には、隠そうともしない自信が満ちていた——
まるで勝敗など、すでに自分の懐に収めたものだと言わんばかりに。
サングラスの男は、口元をわずかに持ち上げる。
すぐには答えず、何かを測っているようだった——
だが、そのほんの数秒の沈黙が、かえって空気を張り詰めさせた。
そして——
「二百万カラ。」
その声は大きくはなかった。
だが、それはまるで電流のように場を貫き、
すべての喧騒が一瞬にして吸い取られた。
残ったのは、露店の間を風が掠める音だけだった。
「……あ、は……はは……」
肥えた貴族はその場に固まったまま、笑顔を引きつらせていた。
額の冷や汗が鬢を伝って流れ落ちる。
さっきまでの誇張された自信は、まるで一刀のもとに裂かれたかのように消え、
残ったのは、虚ろな表情と、かすかに震える指先だけだった。
彼は口を開いた。何かを言おうとしたのかもしれない。
だが、漏れたのは、かすれた乾いた笑い声だけだった。
周囲の観客たちはざわめき始め、
目を見開く者、息を呑む者、
そして、突如訪れた静寂に怯え、思わず大人の手を握りしめる子供の姿もあった。
「二百万カラ? それなら海岸沿いの屋敷が一帯買えるぞ!」
「誰だよ、あいつ? 金はどこから?」
「頭おかしいんじゃないか? あれにそんな価値あるのか?」
「しっ……声を抑えて! 聞かれたらまずい……」
「雰囲気からして、どこかの家の内通じゃねえの?」
群衆の声が風に煽られた波のように、次々と巻き起こる。
男の顔を見ようと押し寄る者もいれば、
圧されて後ずさる者もいて、
露店の周囲は一時騒然となった。
三秒後、その騒ぎは彼の沈黙に呑まれた。
サングラスの男は、変わらずその場に立ち、
表情は静かで、
まるでこの争いが、最初から彼の筋書き通りだったかのように見えた。
女店主の手が震え、拍槌を握るのも危うい。
彼女は口を開き、震える声で繰り返す:
「に、二百万……一回目!」
周囲の人々は息を呑み、
遠くの楽の音さえ、押し黙ったように感じられた。
彼女はもう一度深く息を吸い込み、
苦しげに、二度目の宣言を叫んだ——
「二百万……二回目!」
その声には、信じがたい思いと、終わらせたくない未練が混ざっていた。
無理もない。
これまで古神器の競売で百万を超えた品は、ただ一度きり——
そして今、その数字は倍に跳ね上がったのだ。
女店主の喉がごくりと鳴り、
手にした拍槌がわずかに震えた。
彼女は周囲をぐるりと見渡し、誰も札を上げないのを確認すると、
ついに息を止め、最後の一声を力強く叫んだ——
「二百万……三回目!」
「落、落札!」
拍槌が打ち下ろされる。
澄んだ音が空気を裂き、何かの結界を破ったかのようだった。
群衆の感情が一気に爆ぜ、
歓声と驚声が交じり合い、
パミラの風さえ、その音に震えたようだった。
「二、二百万! 本当に二百万だ!」
「彼女の聞き間違いかと思ったよ!」
「今夜の見出しは決まりだな。絶対にこの競売が主役だ!」
周囲の群衆が興奮と驚愕に包まれる中、
サングラスの男は表情を変えず、静かに前へと歩み出た。
マントの裾が卓をかすめ、その動きは滑らかで優雅。
まるでこの瞬間を、最初から予期していたかのようだった。
彼は迷いなく、一枚の晶質結算カードを取り出す。
——ビ・グトラス汎用型。
深い青の半透明が灯りに照らされてきらめき、
中央には流線型の偽造防止紋が刻まれていた。
控えめながら、目を逸らせない存在感を放っている。
彼は躊躇なくカードを女店主の右手側にある取引機のスロットへ差し込む。
パネルが柔らかな光を放ち、すぐに表示されたのは、引用符内の文字列——
「200万カラ」
その瞬間、周囲は再び沈黙に包まれた。
女店主は息を止め、表示された数字に誤りがないことを確認してようやく我に返った。
顔に張りついていた硬い笑みは、次第に驚愕と震えへと変わっていく。
彼女は慎重にカードを抜き取り、
わずかに震える両手で男に差し出した。
その所作は恭しく、そして一言も発することなく沈黙に包まれていた。
男は軽く頷き、指先でカードの縁に触れると、
それをすぐさまマントの内側、内ポケットへと滑り込ませた。
動きは滑らかで静か。まるでそのカードが最初から存在していなかったかのようだった。
そして彼は手を伸ばし、
保護装置の中に置かれていた球状の晶体を取る。
今や防護は解除されており、
彼の掌の動きはあまりにも静かで、
まるで神聖な何かに触れているかのようだった。
(あの構え……まさか、狂熱者?)
周囲では再び拍手とざわめきが湧き上がり、
人々はこぞって撮影用晶片を掲げ、
この歴史的瞬間を記録しようとしていた。
誰かが笑いながら叫ぶ——
「二百万の古神器だぞ! こりゃパミラの話題、来年まで持つな!」
だが、その賑わいも喧騒も、
俺には厚い霧の向こうから聞こえてくるようだった。
人々に押されて身体がぐらりと揺れ、
その拍子に視線があの晶体をかすめた。
それは男の掌に静かに収まっていた。
黒ずんだ外殻に、淡い霧がたゆたっている。
その霧の隙間から、時折きらりと金色の符紋が覗く——
それは文字だった。
ぼやけているのに、妙に見覚えがある。
「……藍亞?」
頭にぱっと浮かんだのは、授業で教授が話してたあの場面だった。
古代語系の中でも、いちばん古くて、いちばん解読が難しいって言われてる文字。
でも今、それはただの教科書の単語じゃない。
体温を持った響きとして、俺の胸にじんわりと染み込んできた。
胸の奥から、妙な震えが湧いてくる。
あの晶体が、
まるで呼吸してるみたいで——
光がちらっと瞬くたびに、俺の心臓の鼓動とぴったり重なっていく。
『……呼んでる? 俺を?』
俺は呆然と、サングラスの男の背中を見送っていた。
風が彼の後ろをすり抜けて、
屋台の上に吊るされた彩帯がふわりと舞い上がる。
空中で旋回し、翻りながら、残された光をきらめかせていた。
その瞬間、風の音が聞こえた気がした——
忘れられた名前をそっと囁くような、
やさしくて、遠くて、それでも確かにそこに届くような声。
「ドンッ——!」
背後から突然、強い衝撃がぶつかってきて、
俺は体勢を崩し、前のめりに倒れそうになった。
胸元の六角切面箱が揺れて、
金属が擦れるような音を立てる。
「うわっ!す、すまっ……」
言いかけた瞬間、襟を乱暴に引っ張られた。
「この野郎、よくも俺様ピカ様にぶつかってくれたな!」
俺は無理やり顔を上げさせられ、目の前に異様なほど近い顔が飛び込んできた——
左右の目の位置が微妙にずれていて、
妙に明るすぎる金色の巻き髪。
前髪には風で固まったような整髪料がべったりとついていて、
不自然な光を反射していた。
そいつは、やけに派手なショートジャケットを羽織っていた。
裾には羽飾りと金属製の鋲がびっしり縫い込まれ、
襟元には巨大な偽物の宝石がついたブローチまでついている。
動きのひとつひとつに、わざとらしい気品を漂わせていたが——
どう見ても、本物の上層貴族の真似事にしか見えなかった。
その背後には、護衛らしき男が二人、ぴしっと直立していた。
ひとりは寸短の銀髪で、がっしりした体格に、鋭い目つきをしていた。
もうひとりは片耳にピアスをつけ、口元には細長い煙管をくわえている。
二人とも、同じ深い灰色の制服を着ていて、
胸元には「シャミル」のワニの紋章が刺繍されていた。
その視線は冷たく、まるで主人の合図を待っているかのようだった。
「っ、す、すみません! ちょっと考え事してて……本当に申し訳ないです、ピカ様!」
俺は慌てて謝りながら、なんとかその手から逃れようとした。
ピカは鼻で笑い、鼻先がほとんど俺の額に触れそうな距離まで迫ってきた。
「考え事? ふん……ずいぶんと余裕じゃねぇか。」
その口から漂ってきたのは、鼻をつくような強烈な匂い。
香料と汗が混ざった濃厚な臭気で、あまりの近さに息を止めたくなるほどだった。
突然、男の視線が下へと移り、俺の胸元にある六角切面箱で止まった。
その瞬間、口元がにやりと歪み、欲を滲ませた笑みが浮かぶ。
「お前、学院の生徒だろ? それ……なかなか高そうじゃねぇか。」
俺は反射的に胸元へ手を伸ばし、指先であの冷たい金属箱に触れた。
(やばい……)
これは、エンおじさんが去る前に残してくれたもの——
用途はよく分からないけど......
でも、絶対に誰にも渡しちゃいけないってことだけは、分かってる。
それはただの物じゃない。
俺にとって、エンおじさんへの最後の想いそのものだった。
(ダメだ。こいつには触れさせられない。)
あの紙片に書かれていた言葉が、あまりにも重すぎたからか——
それとも、ただの直感だったのかもしれない。
「……これは、渡せない!」
俺は喉の奥がひきつるのを感じながら、言葉を絞り出した。
「どうやら、その箱……お前にとって、ずいぶん大事なモンらしいな?」
ピカは俺と箱を交互に見やり、口元に薄く笑みを浮かべた。
「一つ、仕事をしてもらおうか。そうすりゃ……何もなかったことにしてやるよ。」
ピカは怪しげな表情を浮かべながら、ふいに俺の耳元へ顔を寄せてきた。
その声は、ほとんど囁きに近いほど低く、ねっとりと絡みつくようだった。
あの鼻をつく匂いが再び押し寄せる。
香料と蒸れた汗が混ざった熱気に、思わず目を閉じ、息を止めてしまう。
言葉の調子は妙に引き延ばされていて、
一語一語が俺の神経をじわじわと削ってくる。
「た—だ—し——……クク、言ってる意味、分かるよな?」
その笑い声に、背筋がぞくりと震えた。
「ピカ様、俺……そのお願いは、できません!」
「なッ……!?」
俺は力いっぱい振りほどき、ピカが一瞬呆けた隙を突いて、人混みへと飛び込んだ。
「待、待っててぇぇぇぇ!このガキィィィィ——死ぬほど後悔させてやるからなぁぁぁ!」
ピカの裏返ったキンキン声が市場に響き渡る。
二人の護衛が「は、はいっ!」と声を上げながら飛び出し、
ピカは片手で腰を押さえ、ゼェゼェ息を切らしながら後ろから腕を振り回す。
「つ、捕まえろ!あのクソガキをぉぉぉ!捕まえたら俺は——俺はぁぁぁ!」
俺は雑踏の中を左右に身をかわしながら、次々と人を押し分けて進んだ。
(ちっ、なんでこんな目に……とにかく、まずは撒かないと!)
「おい!ガキ、前見て走れ!」
「きゃっ、あたしの飴が!」
「押すなってば——誰か転んだぞ!」
人々の声が入り混じり、屋台の布がめくれ、紙灯籠がぐらりと揺れる。
俺は振り返る余裕もなく、ただひたすら前へと駆け抜けた。
あの怒鳴り声が、雑踏と音楽にかき消されるまで——。
「はぁ……はぁ……」
俺は息を切らしながら足を止め、全身が汗でびっしょりだった。
胸元の六角切面箱はまだじんわりと熱を帯びていて、
まるでさっきの混乱に目を覚ましたかのように、俺の乱れた鼓動に呼応しているようだった。
路地の入口から風が吹き込む。
夕暮れの涼しさを含んだその風が、俺の肌を撫でていく。
俺は壁にもたれ、大きく息を吐いた。
吐いた白い息が薄暗がりの中にふわりと溶けていく。
額の汗が風に冷やされ、髪の毛に染み込み、ひやりとした感触が残った。
(今は冷静にならなきゃ……まずは隠し路地を探すんだ。)
空はすでに暗くなり始めていた。
遠くの空にはまだオレンジ色の残光が漂っていて、
風にかき混ぜられた残り火のように、雲の層へとゆっくり沈んでいく。
さっきの騒ぎがまだ耳の奥に残っている気がするが、
市場の喧騒はもう遠ざかっていた。
「ここか......」
俺は狭い路地を踏み進む。
両側の壁には風祭の残り布が垂れ下がっていて、 風に煽られて半分巻き上がったものもあれば、 微かに符の光を放っているものもあった。
路地の奥から吹き込む風が強くなり、
遠くの軌道の共鳴音と混ざり合っていた。
(この先まで行けば、きっと安全なはず……)
俺が前へ踏み出そうとしたその瞬間、
背後から足音が突然響いた。
それは、石畳を踏みしめる革靴の鈍い音。
ぼそぼそと罵っている声が混じっていた。
「おかしいな……さっき、あのガキがこっちに走っていくのを見たはずだろ」
「いいから黙って探せ!」
あの二人の護衛の声だった。
(ったく、うっとうしい……)
俺は思わず小さく愚痴をこぼしながら、息を殺し、背中を壁に押しつけて、
半分崩れかけた木枠の陰へとそっと身を滑り込ませた。
風に煽られた布がめくれ、
符光が一瞬だけ閃き、
その光が前方の曲がり角に浮かぶ数人の影を照らした。
「探せ!探し出せぇ!」
ピカの耳障りな声が路地の入口で炸裂する。
苛立ちを隠そうともせず、怒鳴り散らしていた。
「この俺様、ピカ様にぶつかるとは……今日こそ皮を剥いでやるからなァ!」
護衛の足音が、じりじりと近づいてくる——。
俺は胸元の六角切面箱をぎゅっと握りしめ、
ほとんど息をすることもできなかった。
空気には香辛料と埃の匂いが混じっていて、
湿った冷たい壁が背中に張りつき、
鼓のような心音が耳の奥で鳴り響いていた。
(曲がり角の向こうに人影……人が多い方へ行こう!)
俺は慎重に、壁に身を寄せながら、路地の縁をそっと進んだ。
角の向こうから風が吹き込んできて、
どこか異様な熱気を含んでいた——
角を曲がった瞬間、
焦げたキャラメルとココアが混ざったような甘い香りが鼻腔を突いた。
それは香辛料ではなかった。
熱風の中に漂う、本物の糖の匂いだった。
吹きつけてきた気流に、俺はほとんど香気へ突っ込むようにして飛び込んだ。
路地の入口には、銀鍋と包み紙をぎっしり積んだ小さな台車が停まっていて、
その奥には、外壁が淡い紫色で、古びた木製の看板を掲げた店が続いていた。
看板には、見覚えのある文字が刻まれていた——
『ラマヤティ・チョコレート工坊』
「まあまあ、イランじゃないかい?」
おばあちゃんの声は穏やかで落ち着いていて、思わず足が止まった。
その皺だらけの笑顔——俺は、確かに覚えていた。
口を開く暇もなく、ばあちゃんはさっと布のれんをめくり上げた。
「早く入りな、聞かなくていいよ」
俺はすぐに工房へ飛び込む。
背後で布のれんがすぐさま落ちた。
「逃がすな!」
外の足音が路地の入口まで迫り、
荒々しい罵声が気流に乗って響いてきた。
「ピカ様!あのガキ、こっちへ逃げました!この工房に入るのを見ました!」
「探せ——全部ひっくり返してでも見つけろ!」
ピカの声は尖っていて重く、腰に手を当てながら、
目をぎらつかせ、唾を飛ばして指示を飛ばしていた。
ばあちゃんはカウンターの奥で銀鍋の糖漿を静かにかき混ぜていた。
熱気に乗って、甘い香りがふわりと漂う。
ばあちゃんは顔を上げ、声には笑みが滲んでいた。
「まあまあ、ピカ様じゃないか。風祭でお忙しいのに、よくぞお越しくださいましたね。ちょうど今日、ピカ様のお気に入り——『ラマヤティ・橘醬ケーキ』がございますよ!」
ピカは一瞬たじろぎ、しかめていた眉がすっと緩み、語気も和らいだ。
「橘醬ケーキ?それ……まだあるのか?」
「もちろんございますよ、ピカ様」
ばあちゃんは柔らかく微笑みながら、鍋から細やかなチョコレート漿をすくい取り、ケーキの表面にゆっくりと垂らしていった。
「これは風祭の日にしか焼かれない特別な味ですよ」
鍋から立ち上る香りは、ほのかな果酸とカカオの苦甘を含み、
ピカの頭に渦巻いていた怒気を一瞬で拭い去った。
その甘さは、ここに立っている理由さえ忘れさせるほど濃厚だった。
ピカの喉がごくりと鳴り、視線はケーキに釘付けになる。
とろりと流れるチョコレート漿に目を奪われ、
その瞳はぼんやりと光を追いながら、微かな笑みを浮かべた。
「ふ、ふん……わ、分かってるじゃないか」
口では威勢を張っていたが、
その手はすでにケーキを受け取っていた。
ピカはケーキに大口でかぶりついた。
橘醬が口角をつたって垂れ、
咀嚼しながら顔いっぱいに恍惚の色を浮かべる。
口の中で甘さを転がしながら、くぐもった声で褒めた。
「ん、んま——この味……わ、悪くないじゃないか」
護衛の二人は顔を見合わせ、誰も声を出せなかった。
巷には糖の香りが漂い、さっきまでの緊張感をすっかり覆い隠していた。
「んま——んで、あのガキ……次に、次にまた見かけたら……ん、終わりだ!」
ピカはまだ口にケーキを咥えたまま、もごもごと脅し文句を吐いた。
「はいはい、ピカ様。風がきっと、幸運を運んでくれますよ」
ばあちゃんはただ微笑みながら頷いた。
(何よ……そのバカみたいな顔)
俺は笑いをこらえるのに必死だった。
呼吸まで震えていた。
足音が遠ざかり、風と糖の香りだけが空気の中を漂っていた。
しばらくして、ばあちゃんがそっとのれんをめくり、俺に微笑みかける。
「風が足跡を隠してくれるよ。振り返らないでね」
「う、うん……えへへ——ありがとう、ばあちゃん」
俺は思わずまたうつむいて笑ってしまった。
あの光景は、どうしても堪えきれなかった。
ばあちゃんはカウンターへ戻り、銀鍋のそばから小さな紙箱を取り出して俺に差し出す。
「ここに焼きたてのラマヤティ・チョコレートがいくつかあるよ。持って行きな~」
「ありがとう、マリナばあちゃん!」
婆ちゃんはビゴトラス島でも名の知れたチョコレート職人だった。
学院では、来賓や貴族をもてなすために、最高級のラマヤティ・チョコレートの製作を彼女に依頼することが多い。
そのチョコレートの味は、外で売られているものとはまるで違う——
口に入れた瞬間、まず果実のほのかな香りが広がり、
そのあとゆっくりと苦甘が立ち上がってくる。
婆ちゃんの話によると、混ぜるときに「風晶糖」を少し加えることで、
カカオが口の中で溶ける際に、ほんのり涼しさが生まれるのだという。
粒は一つ一つ、特製の金箔紙に包まれていて、
その表面には手書きの古文符号が印されている。
それは「風が甘さを運びますように」という願いの象徴だった。
俺とミドは、機会さえあれば掃除の時間を見計らって、
こっそり倉庫に忍び込んで盗み食いしていた。
当然、先生に見つかってはよく怒られていたけど——
婆ちゃんは俺たちが特にそれを好んでいることを知っていて、
いつも余分に一人分ずつ用意してくれていた。
きっと、婆ちゃんのおかげで、俺とミドのやんちゃな性格も少しずつ落ち着いていったんだと思う。
「ばあちゃん、じゃあなーー行ってくるね!」
「道中、気をつけてね。イラン」
少しだけ立ち話をしてから、俺はうれしそうに手を振って別れを告げた。
ばあちゃんはにこりと頷き、両手を腰の後ろで組んだまま、
甘い香りの漂う工房へとゆっくり戻っていった。
夜風が店先の風鈴を揺らし、ちりん、と音が鳴る。
ばあちゃんは戸口で立ち止まり、そっとつぶやいた。
「今夜の風……ちょっと、ざわついてるねぇ」
最後の曲がり角を抜けて、ようやくパミラ市の中層区画の端に辿り着いた——
そこは環状線へと通じる駅の入口だった。
学院の最上層にある荘厳な殿堂式の環状線とは異なり、
この駅の外観は低く、銀灰と琥珀色の金属が交差する構造になっている。
壁面には百年祭を記念する浮彫と風紋旗が嵌め込まれていた。
柔らかな光が導軌に沿って流れ、
半透明のガラス穹頂に反射して、
まるで夜風が編み上げた光の弧のように揺れていた。
入口の上には半円形の光板が吊られており、
「パミラ・東環駅」の文字が風に合わせて、呼吸するように光を放っていた。
近くにはいくつかの祭灯が掛けられていて、
灯籠の表面には「百年風祭」の紋章が印されていた。
気流に合わせてゆらゆらと揺れ、淡い橙色の星火のように漂っている。
空の淡金色の夕光は、夜の帳に呑まれつつあり、
環状線の軌道下では気流が規則的に脈動していた——
それは風球が通過する前のエネルギー循環音だった。
「ふぅ……さっきは本当に危なかった」
駅の入口が目の前に見えた瞬間、
私は思わず、長く息を吐き出していた。
駅構内は静謐で明るく、
床には流線型の魔導導軌が刻まれていた。
微光が弧を描くようにきらめき、金属の壁面に反射している。
(今日は環状線を使う人が少ないみたい……みんな、家族と一緒に風導列車に乗ってるのかな)
そう思った瞬間、胸の奥にふいに切なさが込み上げてきた——
エンおじさんの姿が脳裏に浮かぶ。
(おじさん……今、どこにいるの?)
ちょうどその時、遠くから市のざわめきが聞こえてきて、私の思考を遮った。
香辛料と糖の匂いが風に乗ってこの高所の空気に混じり、
導軌から放たれる魔力の気配と交差して、
どこか微かに甘く、涼やかな香りを漂わせていた。
俺はその切なさを風の中にそっと沈め、気流に乗せて遠くへ流した。
そして案内灯に従って通路へ入り、上層へと続く昇風梯に足を乗せた。
透明な気流通路が螺旋状の灯帯を包みながらゆっくりと上昇し、
足元の地面が徐々に遠ざかっていく。
二層、三層の風環が順に視界を掠めていった。
それぞれの層には異なる光の色があった——
一層は市街の金橘、
一層は港区の青白、
さらに上は夜の帳に染まり、深紫の色を帯びていた。
昇風の気圧は身体をふわりと持ち上げ、
耳元を通る風音は細く、均一で、
まるで心拍を測るようなリズムを刻んでいた。
俺は気流に乗って三層の主台座へと到達し、
足が地に着いた瞬間、空気は再び静かに安定した。
壁面には浮遊する光符が格子状に埋め込まれており、
まるで呼吸する火螢のように、淡く揺れていた。
先と同じ制御台に個人識別コードを入力したあと、
識別灯が二度点滅すると、スロットの表面が静かに開いた。
見慣れた風球がゆっくりと浮かび上がり、
符紋が気流の中で柔らかな光を放ち、
まるで私の手の動きを待っているかのようだった。
その光は呼吸に合わせて微かに色を変え、
まるで応えるように脈動していた。
俺は慣れた手つきで翼桿を展開し、
風向と導軌エネルギーの同期を確認してから、
プラットフォーム中央の識別円へと足を踏み入れた。
光が身体の側を掠め、短い起動音が鳴る。
思わなく顔を上げ、夜の帳へと伸びる透明な軌道を見つめた。
風の音がその中で旋回し、共鳴しながら、こう告げているようだった——
今夜は、まだ終わっていない。
>最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この章では、イランが言葉にできない違和感と向き合いながら、
風祭の喧騒の中で静かに観察を続ける姿を描きました。
彼の足取りは控えめですが、確かに何かを感じ取り、
次の章へと繋がる風の軌道を見つけ始めています。
物語はまだ序盤ですが、少しずつ、彼の視界に映る世界が変わっていきます。
次回もまた、風の先でお会いできれば嬉しいです。
感想やブックマークなど、ひとことでもいただけるととても励みになります。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。




