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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
21/25

第16話 ―赤紫の断片――伝説的な遺物

>イランは目を覚ました後、仲間と離れ離れになりながらも、風の導きに従うことを選びました。


その風は彼の運命の炎をさらに燃え上がらせ、歩む一歩ごとに未来を近づけていきます。やがて教授との再会が待ち受けていますが、それは彼にどんな答えをもたらすのでしょうか。


この第16話は、イランが運命の炎に向き合い、本格的に歩み始める大切な場面です。



時間:3670シヴン年12月25日 AM 04∶05

場所:風穴の路・人魚噴水広場の隠し通路


水霧は狭い岩壁の間に立ちこめ、滴る水音は心臓の鼓動のように打ち鳴らしていた。人魚噴水広場の背後には、隠された通路が曲がりくねりながら下へと続き、湿った気配と岩の冷たさが混じり合い、まるで異界へ通じる扉のようだった。


(……ミド?)


頬に温もりが伝わり、半ば夢の中でわずかに眉をひそめる。身体が揺れていることに気づき、背負われているのだと理解した。肩の力は重く、しかし確かで、荒い呼吸が耳に届く――それがミドだと直感した。


「イラン、お前はもうミルバより重いぞ。」


ミドは私の動きを察し、息を切らしながらも口元にかすかな笑みを浮かべた。疲れを隠すかのように、冗談めかして笑った。


「ミド……悪い、もう俺は平気だ。」


俺はそっと彼の肩を叩き、降りられると合図した。

ミドは一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに足を止めて俺をゆっくりと地面へ下ろした。

足はまだ少し震えていたが、濡れた石の上に立った瞬間、胸の奥に確かな決意が湧き上がった。


深く息を吸い、無理やり歩みを整える。

通路にはなお水霧が立ちこめ、滴る音が足音に重なりながら、まるで「これからは自分の力で進め」と告げているかのようだった。


歩みが安定し始めたその時、心の奥に奇妙な感覚が広がっていく。

さっきの烈風、闇に瞬く銀髪、あの声――本当に存在したのだろうか。


それとも、ただの夢だったのか。



俺はうつむき、指先を見つめた。何もなく、ただ空っぽだった。


その瞬間、胸の奥がえぐられたように空虚になり、ほっと息をついたかと思えば、すぐに言いようのない喪失感が押し寄せてきた。


身体の中にもう一人が存在する――その事実を、俺はどう受け止めればいいのか分からなかった。


たとえ一時的に「夢だった」と自分に言い聞かせても、心臓は不安げに脈打ち続け、何かの応答を待っているかのようだった。


「ムラス・サフィール。」


震える声が胸の奥から絞り出される。指先に裂け目のような光が走り、蒼藍の指環が肌の上に姿を現す。

光脈は呼吸に合わせて瞬き、心臓の鼓動と重なり合った。その瞬間、これが幻ではないと確信した。


さっきの烈風、あの声、契約の呼び声――すべてが現実だったのだ。


「やっぱり……夢じゃなかった。」


俺は低く呟き、胸の奥に複雑な感情が渦を巻いた。

風神から授かった力は、ついに他者を守る力を得たことを意味する。もう二度と、ミドのような悲劇を繰り返させない。


そして何より、この見知らぬ姿へと変わり果てた世界に、俺は勇気をもって立ち向かわなければならないのだ。



指環の光が指先で瞬き、心臓の鼓動と交差して響き合う。光脈は呼吸のように揺らぎ、この力の確かさを絶えず思い知らせてきた。


前方でルキが振り返り、その瞳に安堵の色を宿す。


「目を覚ましてくれてよかった。さっきはもう二度と見つからないかと思ったわ。」


彼女の声はわずかに震え、恐怖を押し殺した響きを帯びていた。


「さっきの風……その後、何があったの?」


俺は眉をひそめ、急き立てるように問い返した。


「あのさ、危なかったんだよ!俺は吹き飛ばされて別の洞口に落ちかけた。真っ暗で手を伸ばしても何も見えず、仕方なく予備の導光石を取り出して、そのわずかな明かりを頼りに一歩ずつ戻ってきた。」


ミドは水煙で濡れた短髪を振り払い、疲れを滲ませながらも橙の瞳を異様なほどに輝かせていた。彼は笑みを浮かべ、危うい体験を冗談めかして語る。


「ふう――まるで乱流だな。地脈の供物になるかと思ったよ。でもまあ、導光石があったおかげで戻れたし、ちょっとした冒険ってやつだな。」


彼は肩をすくめ、軽さを装うように付け加えた。


「私......乱流に巻かれて上層の岩壁に叩きつけられて、亀裂の縁で落ちかけたんだ。」


ルキの声は冷静で、ミドの軽口とは対照的に緊張を押し隠していた。彼女の瞳にはまだ恐怖の残滓が揺れ、その記憶を振り払うように瞬いていた。


「その時はあなたたちがどこにいるか全く分からなくて、導光石の明かりを辿るしかなかったの......」


彼女の声は低く、ただならぬ厳しさを帯びていた。



「それで......どうやって俺を見つけたんだ?」


俺は眉をひそめ、急き立てるように問い返した。心臓は勝手に速く打ち始めた。

二人は視線を交わし、困惑と戸惑いを浮かべた。


「声が聞こえたの。」


ルキの声にはためらいが混じっていた。


「ええ、風に響いていた声。呼んでいたのは――『イラン』。」


ミドは口を固く結び、ルキの不安よりも好奇心を瞳に宿していた。

俺の心臓は激しく震えたが、言葉は出なかった。


「やはり風神……風神が俺の名を使って、導いたんだ。」


俺は低く呟き、言葉には言いようのない重さが滲んだ。

視線は胸前の〈無知の眼(むちのがん)〉へと落ちた。


それはもはや六角形の切面箱ではなかった。縁は彫り直されたように滑らかで、中央のエネルギー球体が露わになり、一つの眼のように見えた。蒼藍の光脈が霧の中で呼吸していた。


「イラン……もう変わっていた。形がまるで違っていた!」


ルキは俺の視線を追って胸元へと目を向け、その瞳が瞬時に凝りつき、驚きと警戒を帯びた声を漏らした。

ミドは身をかがめ、中央のエネルギー球体を凝視し、眉をひそめた。


「これは……まるで本物の眼だ。俺たちを見ていた。」


彼は手を伸ばしかけて、しかし途中で止めた。瞳にはルキの不安よりも強い好奇心が宿っていた。



俺は息を呑み、指輪の光と箱の蒼藍が交錯し、心臓が震えた。


「……もう別の形態に変わっていた。これは幻じゃない。」


低く確認するように呟いた。瞳にはかすかな動揺が宿った。


その瞬間、脳裏にルキが先ほど口にした教授の最後の通信がよみがえった。

途切れる直前に残された唯一の指示――


「イランを見つけたら、人魚の泉の秘密の通路で合流せよ。」


――あの場所には、一体何が待っていたのだろうか。



胸に込み上げたのは不安じゃなく、好奇心だった。人魚の噴水――誰もが知る場所なのに、その裏には教授とルキしか知らない入口がある。さっきまでに起きたことが多すぎて、頭の中は情報でいっぱいになり、考えるだけで疲れていた。


俺は顔を上げ、ミドとルキが俺の決断を待っているのを見た。水霧が肩に小さな雫を作り、符文灯の光が濡れた岩壁を照らす。それはまるで未知へ導く灯台のようだった。


「行こう。」


声には抑えきれない期待が混じっていた。

ミドは眉を上げて笑みを浮かべ、まるでこの言葉を待っていたかのようだった。ルキは静かに頷き、冷静な瞳の奥にわずかな緊張を覗かせていた。



三人の足音が通路に響き、やがて滴る水音と重なっていった。前方の霧は次第に濃くなり、何かを覆い隠そうとするかのようだった。


俺の心臓の鼓動は、一歩ごとにますます鮮明になっていった。


霧は導光石の光に照らされ、ぼんやりとした輪となって折り重なり、まるで呼吸のように揺れていた。石壁はもはや粗い岩肌ではなく、滑らかな紋様を浮かび上がらせ、古代の刻痕のように見えた。雫はその線を伝い落ち、まるで符号を描いているかのようだった。


足元も変わり始めた。ごつごつした岩道は次第に平らになり、濡れた石段が姿を現した。まるで誰かが意図的に敷き詰めたかのように。滴る水音は孤独ではなく、低い反響と重なり合い、儀式めいた空気を作り出していた。



奥へ進むにつれて、霧の中に淡い光の脈が浮かび上がった。蒼い光が柔らかく岩壁の奥から滲み出し、まるで心臓の鼓動のように脈打っていた。その光は俺の指輪の脈動と呼応し、胸の鼓動をさらに強めていった。


ミドは周囲を見上げ、不安げなルキの眼差しとは対照的に、好奇心を宿していた。


「この場所……天然のものじゃないな。」


彼は低く呟き、その声には探索への興奮が混じっていた。


ルキは導光石を強く握りしめ、眉間に深い皺を刻んでいた。冷静さの奥には、先ほどの緊張がまだ残り、言葉にできない違和感が漂っていた。



霧の奥へ進むと、角を曲がった瞬間に視界が開けた。


そこは広大な空間で、天頂は高くそびえ、まるで天然の岩層をくり抜き、符紋で補強したかのようだった。水霧はその中を漂い、ゆっくりと立ち上り、祭壇の煙のように時に形を結び、時に薄い紗となって散っていった。


岩壁はただの石肌ではなく、流れるような紋様に覆われていた。その紋様は光の脈に照らされて瞬き、線に沿って光が流れ、まるで銀河が岩壁に広がるかのようだった。


目を凝らすと、紋様は互いに絡み合い、巨大な図を描いていた――古代の星図のようでもあり、一つの眼が静かにこちらを見下ろしているようでもあった。


天頂の縁には雫が垂れ、落ちるたびに空間に響き渡った。その音は低く荘厳で、この聖殿の呼吸に呼応しているかのようだった。光の脈動と水音が重なり合い、儀式めいた律動を生み出していた。



俺は息を止め、心臓の鼓動が空間全体の律動と重なっていくのを感じた。ここは、ただ通路の果てではなく、隠された聖殿のようだった。


平台の中央には人魚の像があり、光霧の中でひときわ鮮明に浮かび上がっていた。輪郭は細やかで、魚尾は弧を描くように絡み合い、両手から湧き出す水は絶えず下の石槽へと流れ落ちていた。

水面は光の脈を映し、幽かな蒼の光を屈折させ、空間全体を結びつけているかのようだった。


ミドは目を細め、ふいに近づいて驚いたように声を漏らした。


「こ、この彫像、外の噴水の彫像にすごく似てる!ただ少し小さいだけだ。」


彼は手で大きさを示し、瞳に好奇の光を宿した。



「……似ているだけじゃない。これは俺たちに応じている。」


胸元の『無知の眼』が震え、蒼藍の光が浮かぶ紋様と共鳴した。俺は静かに確かめ、心臓の鼓動が完全に一致しているのを感じた。


ルキは光脈の縁に立ち、冷静な表情を保ちながらも一瞬ためらった。


「これは転送の導き。エネルギーが臨界まで集まれば、通路が開く。」


声は確信に満ちていたが、その瞳には複雑な感情が一瞬走った。


「どうしてそんなことを知ってるんだ?ここには一体何がある?」


俺は思わず彼女に向き直り、声を荒げた。ミドも顔を上げ、眉をひそめる。


「そうだよ、まるで前に来たことがあるみたいだ。何を隠してるんだ、ルキ?」


ルキは導光石を握りしめ、呼吸をわずかに震わせた。


「……教授に会ってから話す。」


短い言葉だったが、何かを必死に押し殺しているように響いた。



「ルキ……」


俺とミドは互いに無力な視線を交わし、彼女の後を追って転送点へ踏み込んだ。


その瞬間、光の柱の律動はさらに強まり、水霧が穹頂の下で渦を巻き、岩壁の巨大な紋様が絶え間なく明滅した。それはもはや星図の形ではなく、巨大なエネルギー網のように線が交錯し、光の収束に合わせて震動した。

空間全体が脈動する核となり、光の柱は穹頂へ突き上げ、俺たちを包み込んだ。

次の瞬間、視界は蒼藍の光に完全に呑み込まれた。


足元の感覚が消え、重さを奪われたようだった。空気は流動するエネルギーへと変わり、耳には低い唸りだけが響いた。やがて光が散り、足元に再び重さが戻る。

そこはもはや聖殿の岩壁や水霧ではなく、半ば人工、半ば自然の空間だった。


床には緻密な符紋陣が敷かれ、線は金属の導管へと繋がり、冷たい光流がその中を走っていた。


周囲の壁には金属の枠組みと結晶装置が埋め込まれ、古代の紋理と現代の秩序が交錯し、まるで遺跡を強引に研究施設へ改造したかのようだった。


中央の高台には器具や書巻が散らばり、エネルギーの光の柱がそこで収束し、脈動は安定し、まるで空間の心臓のように鼓動していた。穹頂には冷藍の光環が覆いかぶさり、光暈が半空に浮かび、場全体を照らし出し、圧迫感が覆いかぶさるように広がった。


ミドは周囲を見渡し、低くつぶやいた。


「まるで……何かの研究施設みたいだ。」


俺の心臓はまだ激しく打ち、『無知の眼』の光はここでさらに強く共鳴していた。



「教授……ここにいる。」


ルキは最前に立ち、普段とは違う憂いを帯びた複雑な眼差しを浮かべ、振り返ることなく低くつぶやいた。


「来たか。」


キリム教授の声が場に響き渡り、冷たく確固たる響きは、空気を圧し潰すように無形の力となって広がった。


ミドは彼を凝視し、その瞳に驚きと好奇の光を宿した。


ルキは静かに最前に立ち、導光石を固く握りしめ、確かな眼差しを浮かべていた。まるでこの瞬間をすでに予期していたかのように。


教授の歩みは揺るぎなく、踏み出すたびに符紋の光がわずかに震え、空気の律動は彼の呼吸に合わせて変化していった。


やがて高台に至り、視線をゆるやかに俺たち三人へと巡らせ、再び声を響かせた。


「ここに踏み込んだ以上、答えを受け止める覚悟を持て。」


教授の目は俺たちの間に留まり、その声は低く、しかし急ぐことなく重みを帯びていた。



「今回の島の異変は、風脈と地脈の異常だと考えているんだろう。」


床の符紋の光がわずかに流れ、言葉に呼応するようにその律動を変えた。冷たい蒼の光輪は揺るがずに宙に懸り、空気の中のエネルギーの脈動は一層鮮明になっていく。


「確かにそう推測している。風脈の流れは乱れ、地脈の圧力も高まっている。」


ミドは眉をひそめ、思考の端を追いかけるように一瞬沈黙した後、顔を上げて教授を見返した。



ルキは言葉を返さず、導光石をゆっくりと下げ、床に浮かぶ符紋の中心へと近づけた。彼女の視線はぶれず、光の流れの微細な変化を捉え続けていた。


俺はその場に立ち尽くし、胸元の『無知の眼』がほとんど聞き取れないほどの震えを発した。その震えは答えを示すものではなく、むしろ――見落としている線があると告げる警告のようだった。


「風脈と地脈の均衡の乱れは表層にすぎない。君たちは第三の軸を見落としている。」


教授はわずかに身を傾け、ローブに刻まれた銀白の符文が瞬きながら揺れた。


ミドは息を呑み、ルキの指先は符紋の縁で止まり、俺は思わず顔を上げる。


「水脈……?」


ミドの声は、まるで俺にだけ届くかのようにかすかに響いた。



教授は否定も肯定もせず、ただ身をわずかに傾け、その輪郭に影と光の揺らめきが交錯した。


「風脈が流れを変え、地脈が圧を高めれば、水脈が無反応でいられるはずがない――だが問題は三者それぞれの異常ではなく、ひとつの『律』に繋ぎ直されていることだ。」


ルキは顔を上げ、教授と視線を交わした。


「つまり……自然の調整ではない、ということですか。」


「その通りだ。」


教授の声は一片の迷いもなく響いた。


「誰かが島の根を、この地に属していない『網状脈もうじょうみゃく』へと接続したのだ。」


場の光はその瞬間、ひそやかに一段暗くなり、すぐに安定した輝きへ戻った。符紋の流れは外からそっと撫でられたように揺らぎ、やがて元の律動を取り戻す。


俺はようやく『無知の眼』が震えた理由を悟った――


それは見えぬ線、異なる力を跨いで結ばれた接点だった。


「風と地だけを追えば、結局は操られるだけだ。この異変を解くには、三者を繋ぐ結び目を見つけ――断ち切るか、書き換えるしかない。」


教授は視線を落とし、その重みで俺たちの答えを引き出そうとしているかのようだった。



「教授、その結び目は……島のどこにある?自然に生まれたものなのか、それとも誰かが仕掛けたものなのか。」

ミドはしばらく考え、ためらいがちに問いを重ねた。彼にとって、この異変の成り立ちを知ることは何より大切だった。


ルキは導光石を掲げ、掌に反射する光の流れを見つめながら思案した。

「もし本当に断ち切ったら、島の律動は壊れてしまうのではありませんか。」


「……裂斗山脈へ。」


「裂斗?」


思わず口をついた言葉に、教授の顔に一瞬の驚きが走り、ルキとミドも同時に声を上げて私を見つめた。


「イラン、君の判断は正しい。どうやって知ったのだ。」


教授とルキ、ミドの驚き混じりの視線に囲まれながら、私はこの地に来る前に風神と契約を交わしたことを語った。



「風神の契約……」


教授は口を閉ざし、視線を深く俺に落とした。その言葉の背後にある重みを量るかのように。赤紫の光が彼の顔を照らし、その表情をいっそう厳粛に見せていた。


「イラン、これは尋常なことではない。風神の選択は、君が断片の核心の渦に巻き込まれたことを意味する。これからの道は、もはや個人の運命にとどまらず、世界全体の秩序を揺るがすものとなるだろう。」


ルキは静かに俺を見つめ、複雑な感情を一瞬だけ瞳に宿したが、言葉は発さず、ただ導光石を強く握りしめた。


ミドはいつもの笑みを浮かべ、肩を軽く叩いてきた。声は軽やかだが、そこに真心の励ましが滲んでいた。


「やれやれ、イラン。君の眉間の皺は裂斗山脈より険しいね。風神が君を選んだのなら、俺たちは一緒に進むしかないさ!」


彼の調子は軽快で、重圧を冗談に変えてしまうようだった。俺はその気楽な様子を見上げ、苦笑を漏らすと、張り詰めていた心が少し緩んだ。


「君は……いつも一番重い話を散歩みたいに言うんだな。」


声には呆れが混じっていたが、そこには感謝の色も隠れていた。


ミドは肩をすくめ、橙の瞳を輝かせて俺の重さを押し流すように言った。


「そうだろ?眉間に皺を寄せて歩いたって、道は平らにならないさ。」


「……そうだな。」


深く息を吸い込み、指輪の光脈が指先に瞬き、心臓の鼓動とミドの笑い声が重なった。それはまるで告げているようだった――この道は険しい。だが、俺は決してひとりではない。



「授業で、君たちにいくつかの知識を話したことはある……だが、ある真実は決して明かされることはなかった。」


教授はゆっくりと息を吸い込み、胸の内で何度も思案してから再び口を開いた。視線はルキへと移る。


「今から、その長く埋もれてきた真実を明かそう。」


ルキはその言葉を聞いた瞬間、指先が思わず強張り、掌の導光石の光流が震えた。表情は一気に張り詰め、眉間には圧力が滲み、心の最も深い部分を震わせる予感が走った。


教授は喉を整え、杖をゆっくりと前方へ向け、低い声を響かせた。


「ミスラド──イダメーン──ピスティリアク!」


空気は瞬時に震え、黄金の光流が地面から立ち上がり、呼吸のように脈打った。光の軌跡が宙に渦を描き、やがて重厚な形を結ぶ――牛革の表紙、暗金の縁取り、古文書がゆるやかに姿を現し、皆の眼前に漂った。


ページは自然にめくれ、紙面には微かな光が流れ、まるで聞こえぬ拍動に合わせて呼吸するかのように静かにめくられていった。



ルキは思わず身を震わせ、反射的に二歩後ろへ退いた。ミドは目を大きく見開き、金の光に照らされてしばし言葉を失った。


「アダド──イダメーン──リアク!」


青い光脈が古文書の奥底から滲み出し、金光と交わる。符紋は幾重にも広がり、空間は青金の光暈に包まれた。ミドは「眩しい!」と低く叫び、手をかざして視線を遮る。ルキは視線を逸らし、導光石を強く握りしめ、指先が微かに震えた。


「ムラド──イスタマン──ケルサス……ニュゼシパン!」


最後の詠唱は低く急迫し、空気そのものが震えるように場を揺らした。古文書の中央に細長い裂け目が浮かび、光がその隙間に集まり一本の線となる。見えぬ力に引き寄せられるかのように伸びていき、やがて青光が炸裂し、震動は次第に鎮まっていった。



「眠れる典籍よ、

今こそ姿を現し、

そのページで秘められた幕を払い、

触れられる器となり、

失われた記憶を掌に集え──!」


裂け目から、ひとつの木箱がゆっくりと落ちてきた。古びて重く、表面には暗金の紋が刻まれ、角には金属片が嵌め込まれている。力の律動に合わせて微かに震え、やがて光が収まると、箱は教授の掌に静かに留まった。


木箱が姿を現した瞬間、無知の眼は激しく震え、次の刹那には静けさへと戻っていった。



ルキの目付きは古文書をかすめ、再び木箱へと戻った。その眼差しには、懐かしさを思わせるような気配が漂っていた。ミドは唇を噛み、両手で目を覆いながら、喉の奥からかすかな声を漏らす。


「始まった……?」


木箱の質感はひときわ特別だった。長い年月を経た深い褐色の木材で作られ、触れると少しざらつき、積み重ねられた歴史が伝わってくるようだった。表面には細かなひびが走っていたが、四隅の暗金色の金属片がしっかりと嵌め込まれ、箱全体に重みと不思議さを与えていた。


金属片の縁は長年の摩耗で少し鈍くなっていたが、精緻な符文や紋様がまだ浮かび上がり、目に見えぬ力を放ちながら周囲の気配と微かに共鳴していた。蓋の中央には極細の裂け目があり、かつて開かれた痕跡を思わせながらも、今はしっかり閉ざされていた。


教授がゆっくりと木箱を開けると、眩しい光が一瞬で四方に広がった。



光の中に、無数の細かな白い点が漂い、まるで縮小された星空のようだった。さらに驚いたのは、それらの星々が木箱の周囲へと散り始めた時、中から七センチほどの薄い断片がふわりと浮かび上がったことだ。その断片の周囲には赤紫の光が瞬いていた。


まさか……!古文献でしか見たことはなかったが、これは間違いなく——



「教授!これは失われた断片じゃないですか!」


俺は目を見開き、目の前の信じられない光景を凝視し、思わず声を上げた。


教授の視線がゆっくりと俺たちに移り、一言一言を噛みしめるように告げる。


「イラン、君の言うとおりだ。これこそ――失われた断片だ。」


「きょ、教授!まさか伝説の遺物を手にしているなんて……!」


ミドは言葉を詰まらせながらも興奮を隠せず、断片から目を離さない。まるで瞬きをすれば消えてしまうかのように。


「この断片は、俺たちの世界のものじゃない。」


「えっ……うそ!!」


その断言が響いた瞬間、俺とミドは同時に声を上げた。胸が重く押し潰されるようで、思考は一瞬にして凍りつく。ミドの瞳は揺れ動き、問いただしたいのに、未知の威圧に喉を塞がれたようだった。俺の背筋には冷気が走り、脳裏には無数の可能性が浮かんでは消え、どれ一つとして納得できる答えにはならなかった。



ルキは俺とミドを一瞥し、唇を固く結び、冷ややかで鋭い眼差しを向けた。指先は導光石を強く押さえ、手のひらの中で光の流れが震えている。声を発することはなかったが、その沈黙はどんな言葉よりも緊張を物語っていた。


教授は断片を見つめ、長い沈黙のあと、まるでその奥に潜む真意を探るかのように目を細めた。紫がかった紅の輝きが彼の顔を照らし、その表情をいっそう重々しく見せていた。


「この断片は、俺たちの世界ではずっと伝説の遺物とされてきた。失われた力と古代の禁忌を象徴するものだ。古い記録には、星々と共鳴し、空間の秩序すら揺るがすと記されている。」



教授は言葉を切り、低い声で続けた。


「だが――まさにそのせいで、取り返しのつかない災厄を招いたのだ。意図的に抹消された歴史の一幕であり、我々も残された記録の断片からわずかな輪郭を繋ぎ合わせるしかない。」


その言葉に、俺の脳裏には五百年前の“消去現象”がよぎった。空間の秩序を変えるという事実……次の可能性を思考する間もなく、教授の声が現実へと引き戻す。


「今や、それは我々の眼前に姿を現した。これは学術的な突破にとどまらず、世界そのものへの挑戦だ。」


「近年の研究によって、私とグモ教授は五百年前の消去現象が断片と直接関わっていた可能性を疑っている。あの災厄は領域の破壊にとどまらず、人も、出来事も、存在そのものが消え去った。建造物、血脈、記憶……すべてが抹消され、まるで初めから存在しなかったかのように。」


気づけばルキに目をやっていた。彼女の瞳は赤く滲み、隣のミドは橙の大きな目と半開きの口でただ教授を見つめていた。やがて、その視線を崩さぬまま顎に手を添え、低く呟く。


「近年の研究……」


ミドは教授の言葉を一つひとつ噛みしめるように、静かに声を落とした。



「ゆえに我々は推測する。当時、誰かが断片の力を術式に組み込もうとしたのだ。断片の特性は『共鳴』と『改変』。単なる増幅ではなく、術式そのものの構造を歪める。結果、術式は制御を失い、力が溢れ出し、空間の秩序が崩壊し、ついには大規模な災厄を引き起こした。」


教授の表情と声色は一瞬にして厳格さを増し、断片の力が術式に及ぼす危険性をはっきり示していた。



話を聞き終え、俺は深く息を吸い込んだ。


もし――もし五百年前に消去現象が実際に起きていて、断片が術式を増幅し改変する力を備えていたのだとすれば……攻撃術式が断片と共鳴した瞬間、必然的に極限へと押し上げられ、制御を失って災厄を招いたに違いない。


では、百年祭の時にも断片を持つ者がいたのか。

あるいは、それに匹敵する増幅の媒介を操っていたのか。


脳裏に浮かぶのは、あの百年祭の光景だった。


人波がうねり、花火が咲き、菓子と歌声が交錯し、熱気が空気を満たす。祝祭のはずのその場に、突如として異変が走った――光が震え、音が途切れ、何かの力が強引に引き寄せられているようだった。


もしそうだとすれば、あの百年祭は単なる祭りではなく、誰かが常理を超える力を呼び起こした場だったことになる。消去現象は偶然ではなく、断片あるいは同類の増幅器が投入されたことでエネルギー場が失われ、歴史そのものが抹消されたかも。



「何だ……これが攻撃術式が封印された理由なのか……!」

すべての欠片が脳裏で瞬時に結びつき、俺は思わず低く声を漏らした。


教授はちらりと俺を見て、わずかに頷いた。その声はさらに沈み込み、まるで抹消された歴史を再び刻み込もうとするかのようだった。

「イラン……その通りだ。攻撃術式は最も直接的にエネルギーの放出を伴い、欠片と共鳴した時に制御を失いやすい。防御や補助の術式も影響は受けるが、即座に崩壊することはない。だが攻撃術式だけは極限へと押し上げられ、瞬時に均衡を失う。その危険を避けるため、後世の学者や術士は封印を選び、記録を覆い隠したのだ。」


その説明は、俺の推測とほとんど一致していた。だが続いた言葉は、さらに衝撃を与えた――


「もし誰かが欠片の力を攻撃術式に結びつけることができれば、既存の制約を突破する可能性がある。その衝撃は単なる力の倍増ではなく、術式そのものの構造を変わってしまうのだ。」



一瞬、息が止まった気がした。頭の中に無数の光景が次々と浮かんだーー


術式が断片の力で押し広げられ、符文が震え、空間が歪む……その破壊力は、俺たちの知るものを凌駕してしまうかもしれない。ミドは橙色の瞳を大きく見開き、荒い息を吐きながら、期待と恐怖の間で揺れていた。


「待って……もし断片が術式そのものを書き換えるなら、術者自身も改変されるんじゃないか? エネルギーが暴走すれば空間を裂くだけじゃなく、術者さえも飲み込んで、その存在を完全に消し去ってしまうかもしれない。」


すぐに、祭りの港区で見た光景が蘇る――消し去られた人々と建物。俺は教授を見据え、額に汗を滲ませながらも声の震えを抑えられなかった。


ミドは思わず一歩後退し、息を呑んだ瞬間に顔色を失った。もし彼が俺と同じ光景を見ていたなら、その蒼白さはさらに深まっていたに違いない。

ルキの指先は導光石を強く握りしめ、掌を走る光流は絶えず震えていた。彼女の顔は明らかに曇り、瞳には拒絶と不安の影が一瞬閃き、目の前に広がる異様を必死に拒んでいるようだった。


教授は俺を見据え、すぐには答えず、短く黙り込んだ。まるで俺の推論が核心を突いているかどうかを秤にかけているかのように。


「ちょ、ちょっと待って……教授!あなたが先ほど言った『この世界のものではない』とは、一体どういう意味なのですか?」


ミドはふと何かを思い出したように、視線を揺らし、俺の代わりに忘れていた疑問を口にした。


教授はそっとため息をつき、再び視線をルキへと落とす。なぜ二度も彼女に注意を向けるのか、俺の胸には小さな疑念が芽生え、思わず同じ方向へ目を向けてしまう。目覚めて以来、彼女にはずっと何か秘めた思いがあるように感じていた。


赤紫の光が頬をかすめ、彼女の瞳は冷たく鋭く、何かに抗うように強張っていた。だがその緊張は次第に解け、決意を宿した静けさへと変わっていく。ルキは導光石をさらに強く握りしめ、指先が白くなるほど力を込めたが、やがてゆっくりと手を緩め、石を静かに置いた。


「この断片……私がここに持ってきたの......」


「えっ!」


「な、何を言ってるんだ……ルキ?」


ミドは大きな声を上げ、口を開けたまま彼女を見つめ、言葉を失った。

その言葉が届いた瞬間、意識は空白に沈んだ。


教授は「これはこの世界のものではない」と言った。だがルキは「自分がここに持ってきたの」と打ち明けた。


――それは、どういう意味だ!?





>仲間と再び合流し、教授の前に立ったイラン。彼の胸にはまだ迷いも不安もありますが、確かに歩みは前へ進んでいます。


そして最後にルキが口にしたあの言葉――果たしてそれは何を意味していたのでしょうか。


次の一歩を考える上で、読者のみなさんにもぜひ心に留めていただきたい余韻です。

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