第9話―工房の鳴動――人魚噴水の異変
>夜の工房はいつもと同じ静けさを保っているはずだった。だが、導風計の針が震えた瞬間、胸の奥に眠っていた不安が目を覚ました。
義肢の符文が熱を帯び、皮膚の下で脈打つたびに、過去の事故の記憶が蘇る。あの時と同じ匂い――空気が歪み、世界が軋む前触れ。
教授の軽薄な声に隠された警告を聞いたとき、私は悟った。これは試練でも研究でもない。街そのものが鳴動し、何かが始まろうとしている。
人魚噴水の異変、それは私にとって逃げられない呼び声だった。
時間:3670シヴン年 12月24日 PM 20:00
場所:ビゴトラス島・人魚噴水――魔導工房
気流が夜に震え、不安な呼吸のように響いた。
工房の導風計が突然震え、符文共鳴器が青白い光脈を放ち、壁の粒子検出管が「カタッ、カタッ」と鳴り続けた。
ミドの左腕の義肢が共鳴し、符文が皮膚の下で脈動し、熱が血液のように滲み出た。
「……この感覚……」
彼は低く呟いたが、心の中では分かっていた――人魚噴水は工房のすぐ隣にあり、水霧の周波数が異常で、まるで心臓が眠れずにうずくようだった。
その時、腰の,伝音クリスタルが突然光を放った。
聞こえてきたのは厳しい警告ではなく、グモ教授の怠惰な声だった。
「おい、ミド、今日の試練は……飛ばしておけ。
風のデータが酔ったトカゲの踊りみたいに乱れてる。無理に試練に挑めば、八割方焼き魚になるぞ。ハハ、焼き魚もうまいけどな……ああ、気にするな。とにかく、噴水の節点が少し怪しい。気をつけろ、自分を爆発させるなよ。」
「はぁ?」
ミドは眉をひそめ、問い返そうとしたが、教授はわざと遮るようにさらに一言付け加えた。
「工房のデータを記録しておけ、これは面白い素材だぞ!」
「ちょ、教授……」
彼が言い終える前に、でんおんクリスタルの橙光はすぐに消えた。
ミドは拳を握りしめ、心が震えた――教授はいつもふざけているが、それは何か異常を察知した合図だった。
彼は深く息を吸い込み、閉ざされていた窓を開いた。風が流れ込み、義肢の符文が暗闇に瞬いた。
夜風は突然重くなり、幾重にも異なる向きで布が揉み合わされるように乱れた。
人魚噴水の水霧が闇の中で瞬き、周波数は急に速まり、ほとんど震え出す寸前だった。
工房の符文壁が自動的に展開し、柔らかな光が沈んだが、外から押し寄せる圧力は抑え込めなかった。
「!」
導風計の指針が突然最大目盛りまで振れ、粒子検出管の光砂はすべて逆流し、噴水の方向へらせん状に昇った。
「……この風、ちょっとおかしい。」
ミドは低くつぶやいた。目の前の光景は研究室の事故を思い起こさせた――
空気が粘り、光球が変異し、金属と火が同時に悲鳴を上げた。
だが今回は、彼は何も触れていない――空気は誰かに密かにノブを捻られたように、島全体が勝手に調律されていく。
「ゴオッ――」
噴水の水霧が突然炸裂し、細かな水滴が宙に舞い、紅紫の輝きを折り返した。
その光は炎ではなく、粒子の共鳴だった。
心臓の脈動が限りなく拡張され、街区全体の空気を震わせていた。
「ゴロゴロ……」
地面の震えは次第に深まり、低い地鳴りが続いた。工房の壁がそれに合わせて震え、卓上の魔導部品や工具が一つ一つ跳ね、金属とガラスがぶつかり合って、細かくせわしない音を立てる。符文刻線が震動の中で一本ずつ発光し、光は強引に引かれていくように流れ、
まるで工房全体が見えない渦へ引きずり込まれようとしていた。
ミドは唇を強く噛み、胸の奥で焦燥を押し殺した。だが圧迫感は声となって溢れ出す。
「どういうことだ!」
通りに響く声は混乱し始めた。誰かが驚き、誰かが悲鳴を上げ、押し合いと転倒の音が交錯する。屋台の板はドンドンと鳴り、吊られた旗や提灯は震えながらぶつかり合い、せわしない硬い音を返す。子どもの泣き声は風に裂かれ、女の呼び声は途切れ途切れに砕け、街区全体が目に見えない共鳴へと引き込まれ、誰もが不安の波動の中で均衡を失っていった。
「助けて!」
「お母さん――」
「早く逃げろ!」
風の轟音に混じって、人々の驚きと奔走の声が響いた。
石畳は足元で震え、まるで地脈そのものが身を翻すかのようだった。
低い震響が噴水の方角から伝わり、次第に下層街区全体へ広がっていく。
「地脈……震えているのか?」
ミドの瞳孔は収縮し、壁面に跳ねる数値を凝視した。導風計の指針は臨界に張り付いたまま震え続け、共鳴器の光脈は波を重ね、工房全体を呑み込もうとしていた。
彼が窓外に目を上げると、街道はすでに混乱の渦――紅紫の霧の中を人々が奔走し、呼び声と崩落音が交錯し、まるで異常なパターンが目の前で暴走しているかのようだった。
義肢の符文は自動的に防護層を展開し、掌の金線が急速に点滅する。外の轟音と拍子が重なり、心臓までもが震えを強いられた。
次の瞬間、扉越しの遠方から建物の崩落音が響いた――
厚い煉瓦壁が砕け、木梁が裂ける鋭い音が走り、
人々の慌ただしい叫びと混じり合い、
街区は突如として戦場と化した。
ミドは歯を食いしばり、低く呟いた。
「この異常なエネルギー反応……いったい何が起きている!」
彼は立ち上がり、工房の大扉を押し開けた。混乱した風圧が紅紫の光霧と雷鳴のような轟音を伴い、一気に流れ込んでくる。
街では人々が四散して逃げ惑い、
誰かが倒れ、誰かが家族の名を叫び、
街区全体が混乱に呑み込まれていた。
その時、イランの姿が脳裏を閃いた――
(まずい!イランはさらに下の港区にいる……知らせなければ!)
腰に結わえた伝音クリスタルへ手を伸ばしたその瞬間、
突如として巨大な揺れが襲いかかり、
工房の床は船板をひっくり返したように傾斜し、
ミドは敷居に手を突き、辛うじて踏みとどまった。
壁の符文刻線が同時に閃き、
共鳴器は耳を裂くように尖鳴し、粒子検測管のガラスがついに「パキッ」と音を立てて割れた。
光砂は逆流する火雨のように噴き出し、夜風の中で紅紫の霧に呑み込まれていった。
ミドは身を踏みとどめたが、心臓はその震動にかき乱されていた。
彼は伝音クリスタルを強く握りしめ、符文の光が掌で震え、まるで彼のメッセージを押し出そうとしているかのようだった。
橙光は彼の思念に呼応するかのように数度点滅し、すぐに消えた。
「どうして繋がらない!」
ミドは低く吠え、心臓が急に沈み込む。
「ドン! ドン!――」
地面は再び激しく揺れ、工房の外から 「ガラガラッ」「メキメキッ」 と連続する崩落音が響いた。
まるで街全体の骨格が強引に折り砕かれていくかのようだった。
紅紫の霧がうねりながら流れ込み、呼吸は瞬時に困難となる。
ミドはよろめきながら後退し、義肢の符文は自動的に防護層を再展開した。掌の光は急速に点滅し、まるで自分を急き立てるかのように――
時間は容赦なく刻一刻と削り取られていった。
彼は再びクリスタルを掌に押し当て、歯を食いしばって符文を駆動した。
今度は橙光がすぐには消えず、断続的に点滅し、まるで何かの干渉を突き破ろうともがいているかのようだった。
ついに、風に切り裂かれながらも急迫した声が耳に飛び込んできた。
「――ミド! いるのか? 聞こえるか? 港区……イラン……急いで彼を探せ!」
「ルキ?」
「港口……外環が……ザーッ……ブツッ……」
声は震えていたが、疑う余地のない切迫感を帯びていた。
やがて信号は風に断ち切られ、伝音クリスタルは沈黙だけを残して途絶えた。
だが自分にはもう説明は不要だった――それは自分とイランの親友ルキの声であり、その焦燥がすべてを語り尽くしていた。
瞳孔は猛然と収縮し、その声は釘のように脳髄へ打ち込まれ、思考はただ一つの方向へ凝固した。
低く詠唱し、中位防衛呪文を紡ぐ。橙光の符光が周囲に走り、義肢の遮断魔導術式が展開され、薄い護盾が自分を包み込む。自分は一瞬たりとも留まらず、街区へと駆け出した。
紅紫の霧は街路に渦巻き、叫び声と崩落音が交錯し、街区全体を呑み込もうとしているかのようだった。石畳は足元で震え、瓦は屋根から砕け落ち、群衆は恐慌の中で四散し、喧騒は潮のように押し寄せる。
自分はクリスタルを握り締め、義肢の符文は光の脈動を急速に閃かせ、鼓動と重なり合う。深く息を吸い込み、地面に杭を打ち込むように足を沈め、そして一気に加速した。
もはや微塵の迷いもなく、自分の姿は舞い上がる土煙と人波の間を縫い、港区へ向かい――
イランのもとへと駆け抜けた。
>土煙と喧騒の中を駆け抜けながら、私はただ一つの声に突き動かされていた。
ルキの焦燥、イランの名――それだけが私の思考を支配し、迷いを削ぎ落とした。
工房の震動も、街の崩落も、すべては私を港区へと押し出すための圧力のように感じられる。
時間は容赦なく削り取られていく。だが、その刹那の中で私は決意した。
この鳴動の正体を突き止め、イランを守り抜く。それが、今の私に残された唯一の道だ。




