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第85話「厨房に広がる新しい秋の香り」

 森から屋敷へと戻った僕たちは、秋の恵みでいっぱいになったカゴを抱え、意気揚々と厨房へと向かった。

 厨房の扉を開けると、中から食欲をそそる良い匂いがふわりと漂ってくる。


「ヒューゴ、森でたくさん採ってきたよ」


 僕がカゴを抱えて声をかけると、大きな鍋をかき混ぜていた料理長のヒューゴが顔を上げて、豪快に笑った。


「おお、坊ちゃまに、ルカ坊主に、リリィ嬢ちゃん! お帰りなさいまし! ほう、こりゃあ大した収穫ですな!」


 僕たちのカゴの中を覗き込むと、満足げに頷いた。

 つやつやと輝く栗に、真っ赤な木苺、そして様々なキノコたち。


「へへん、どうだ! 俺が見つけた栗が一番でっけえんだぜ!」


「もう、ルカったら。でも、本当に立派な栗……」


 リリィが期待に満ちた目で僕を見上げる。


「ヒューゴ、この栗で何か甘いものを作ってくれるかい? みんなで食べたいんだ」


「お任せください、坊ちゃま! 最高の栗菓子に仕上げてご覧にいれますぞ!」


 その力強い言葉に、ルカとリリィが「やったー!」と歓声を上げる。


 僕は自分のカゴの中から、今日一番の宝物をそっと取り出した。


「このキノコも調理してほしいんだ」


 僕が例のキノコを差し出した、その瞬間だった。

 ヒューゴの顔から、さっと笑顔が消えた。


 彼のその変化に、それまで和やかだった厨房の空気が一瞬にして張り詰める。

 眉間に深い皺を寄せ、僕の手の中にあるキノコを厳しい目で見つめた。


「……坊ちゃま。そいつはいけやせん。村の者たちが『腹痛キノコ』と呼んで、決して口にしないものですぞ」


「大丈夫だよ。よく見ると毒のやつとは少しだけ違うんだ。ほら、傘の裏の色とか、ここの模様とか」


 僕はナビに教わった通り、毒キノコとの僅かな違いを指差して見せる。

 しかし、厳しい表情は変わらない。


「ですが坊ちゃま、違いが僅かであるのなら、危険なことに変わりはありやせん」


「大丈夫だよ。これは絶対に美味しいんだ。ヒューゴなら、きっと最高の料理にできるって信じてるよ」


 僕が真っ直ぐにそう言うと一瞬だけ目を見開き、それから何かを諦めたように、ふっと息を吐いた。


「……分かりやした。坊ちゃまがそこまでおっしゃるのなら……」


「すごく良い香りがするんだ。だから、お肉とかと一緒に、バターみたいなこってりしたもので炒めたり、牛乳でことこと煮込んだりしたら、きっとすごく美味しくなると思うんだ」


「……バターで炒め……牛乳で煮込む……承知いたしました。このヒューゴ、坊ちゃまのそのお言葉を信じましょう。ですが、まずは毒見も兼ねて、わし一人で試してみます。万が一のことがあってはなりませぬからな」


 そう言うと、ヒューゴは僕たちに厨房の隅にある椅子に座っているように言い、自らは調理台へと向かった。

 その背中には新しい食材と出会った料理人だけが放つオーラに満ちていた。


 ヒューゴは、僕が渡した一つのキノコを丸ごと厚切りにすると、熱したフライパンにたっぷりのバターを溶かした。

 じゅう、という心地よい音と共に、キノコがフライパンの上で踊る。


 その瞬間だった。

 今まで厨房に満ちていたどんな匂いとも違う、濃厚で、香ばしくて、鼻の奥を甘くくすぐるような、芳醇な香りが、ふわあっとあたりに立ち込めた。


「うわっ、なんだこの匂い!? すっげえ、いい匂いがしてきたぞ!」


 ルカが目を輝かせてフライパンに駆け寄ろうとした、その時だった。


「危ないよ、ルカ!」


 リリィが慌ててルカの服の裾をぐいっと引っ張って止めた。

「油がはねたらどうするの!」


「へへ、わりいわりい。でも、すっげえ匂いだぜ!」

 ルカはリリィに怒られながらも、安全な距離から調理台を背伸びして見つめている。


「……すごく……良い匂い……」

 リリィがうっとりとした表情で呟いた。

 森で僕が言っていたことが本当だったと、この圧倒的な香りが証明していた。


 ヒューゴは、軽く塩胡椒を振って炒めたキノコの中から、まず一切れだけを小さな皿に乗せた。

 そして、ごくりと唾を飲み込むと、それを口の中へと運んだ。


 次の瞬間、ヒューゴの目が驚きに見開かれる。 そして何も言わず、ただゆっくりと口を動かしている。


 長い、長い沈黙。

 僕も、ルカも、リリィも、固唾を飲んで、ヒューゴの次の言葉を待った。


 やがて、ヒューゴはその一切れを飲み込むと、天を仰いで、深く、そして長いため息をついた。


「……参りました。完敗ですぞ、坊ちゃま」


 ヒューゴはふきんで手を拭くと、それまでの厳しい顔つきを崩して、にやりと笑った。


「坊ちゃま、ルカ坊主に、リリィ嬢ちゃん! さあ、お食べくだされ! この奇跡の味を! この宝の発見者なのですから!」


 差し出された小皿を、僕たち三人はわくわくしながら受け取った。

 僕が一切れ口に運ぶと、暴力的なまでの旨味と香りが、ぶわっと広がった。


(……予想通り美味しい。美味しすぎる……!)


「うめえええっ! なんだこれ! 口の中でとろけるぞ!」


「美味しい……! こんなの、初めて食べました……!」


 ルカとリリィも、目を丸くして、夢中でキノコを頬張っている。


 僕がその衝撃に打ち震えていると、興奮冷めやらぬといった様子のヒューゴが、はっと我に返ったように、真剣な顔で僕に向き直った。


「坊ちゃま! この素晴らしいキノコのことは、すぐにでも村の皆に知らせるべきです! ……いや、待てよ。下手に知らせて、本物の『腹痛キノコ』を採ってくる者が出てきては、大ごとになる……」


 ヒューゴの声のトーンが、それまでの興奮したものから、プロの料理人としての厳しいものへと変わった。


「坊ちゃま。まずは、村で一番キノコに詳しい、森番のダリウス爺さんのところに、このキノコを持っていき、違いをはっきりと教えてやらねばなりやせん。食の安全には、万全を期すべきです」


 ヒューゴのそのプロとしての責任感ある言葉に、僕はこくりと頷いた。


「うん、それがいいね」


 しかし、僕は内心でナビに問いかけた。


『ナビ、これだけで本当に安全かな?』


《いいえ。ヒューゴ氏の提案だけでは不十分です。村人が個々の判断で採取を開始した場合、誤食による集団食中毒が発生する確率は78%と算出されます》


『うわ、高っ! そんなことになったら、僕が食べられるって言ったせいになっちゃうじゃないか!』


《その通りです。発案者であるメルに責任が問われ、父君から厳しく叱責される可能性が濃厚です。また、原因となったキノコは再び危険な食材と見なされ、メルの献立から失われることになります》


『さっきのあの味が、もう食べられなくなるのか……それは、嫌だなあ……』


《リスク回避のための最適解を提案します。村の知識レベルが安定するまでの期間限定で、メルが鑑定役を担うのです。これが、将来発生しうる最大級の面倒事を、最小限の現在の労力で防ぐ、唯一の方法です》


(うっ……めんどくさい……。だけど、未来の僕の平和と、あの美味しいキノコのためだ……仕方ないか)


 僕は覚悟を決めると、ヒューゴに向き直って付け加えた。


「それと、みんなが見分け方を覚えるまでの間は、採ってきたキノコは一度、屋敷に持ってきてもらうようにしよう。僕が確認するから」


 僕のその言葉に、ヒューゴは「なんと……そこまでご配慮いただけるとは、ありがたきお言葉!」と、さらに深く頭を下げた。

 ルカとリリィも、感心したように僕を見ている。


「すげえな、メル! そこまで考えてるのか!」

「メル様……ありがとうございます。これで、村のみんなも安心して、この美味しいキノコが食べられますね」


 二人の素直な尊敬の眼差しに、僕は少しだけ照れくさくなって、こほん、と一つ咳払いをした。


(僕の平和と、美味しいキノコのためだ、なんて、口が裂けても言えないけどね)


 僕が内心でそんなことを考えていると、感動から立ち直ったヒューゴが顔を上げて、まるで少年のようなキラキラとした目で、僕たちに言った。


「坊ちゃま! 今夜の旦那様方の夕食に、このキノコを使った最高の料理をお出しする栄誉を、このヒューゴにいただけますかな!?」


 僕は満面の笑みで大きく頷いた。

 すると、ヒューゴはいたずらっぽく笑い、今度はルカとリリィに顔を向けた。


「そしてもちろん、この宝物を見つけるのを手伝ってくれた勇敢なる探検家のお二人にも、ご褒美がないといけませんな!」


 ヒューゴはそう言うと、二人の頭を大きな手でわしゃわしゃと撫でた。


「今夜作る最高のクリームスープを、お二人のお土産にも、このヒューゴが腕によりをかけてこしらえますぞ! おうちの人にも、この奇跡の味をたっぷりと味わわせてやってくだされ!」


 プロの料理人からの最高の約束。

 その温かい心遣いに、ルカとリリィが満面の笑みで顔を見合わせた。


「「やったー!!」」


 二人の元気な歓声が、幸せな香りに満ちた厨房に響き渡り、僕も今夜の夕食と友達が喜ぶ顔を想像して、二人と一緒になって笑った。


 こうして、村でずっと「腹痛キノコ」と誤解されてきた森の宝物は、僕たちのささやかな冒険によって、フェリスウェル家の食卓に華々しいデビューを飾ることになったのだった。



 その日の夕食。

 フェリスウェル家の食堂には、いつもとは違う、特別な期待感が漂っていた。


「ねえメル、本当にそのキノコ、大丈夫なんでしょうね?」


 イリス姉様が、少しだけ不安そうな、それでいて好奇心に満ちた目で僕に尋ねる。


「うん。大丈夫だよ、イリ姉。僕も味見したけど、すごく美味しかったから」


「べ、別に! あんたが大丈夫かなって、心配してあげただけなんだからね! わたしが食べたいわけじゃ……」


 そんなイリ姉の言葉を、ふわりと立ち上る芳醇な香りがさえぎった。

 メイドのエリスが、純白のスープ皿を僕たちの前にそっと並べていく。

 中には、とろりとした乳白色のスープと、こんがりと焼き色のついたキノコが、いくつも顔を覗かせていた。


「まあ……なんて豊かな香りなのかしら」


 母様が、うっとりと目を細める。

 父様とレオ兄様も、そのただ事ではない香りに、ごくりと喉を鳴らした。


 全員が、スプーンを手に取る。

 僕も、わくわくしながら、スープを一口、口に運んだ。


(……うん、美味しい……!)


 バターソテーの香ばしさとはまた違う、キノコの旨味がクリームに溶け込んだ、濃厚で、クリーミーな味わい。

 とろりとしたスープが、体の中からじんわりと温めてくれるようだ。


「……美味しいわ。ええ、本当に。こんなキノコが、あの森にあったなんて」

「すごいな……。キノコだけで、こんなにしっかりした味が出るのか……。これは、驚きだな」


 母様とレオ兄様が、感嘆の声を漏らす。

 イリ姉は、何も言わない。

 ただ、さっきまでの不安そうな顔はどこへやら、夢中になって、黙々とスープを口に運んでいた。

 その頬が、ほんのり赤く染まっている。


 そして、父様は一口スープを味わうと、その目を驚きに見開き、そして、何かを考えるように、じっと皿の中を見つめていた。


「……メル」

「なに? 父様」

「このキノコ、本当にあの森で採れるのだな?」

「うん。でも、毒キノコとそっくりだからね。みんなが見分け方を覚えるまでは、僕が確認することになったんだよ」

「……うむ。これは、我が領地の、新しい『宝』になるかもしれんな」


 父様の言葉に、僕は(よし、これで美味しいキノコがこれからも食べられるな)と、心の中で小さくガッツポーズをした。


◇ルカの家


「――ってことがあってさ! このスープ、ヒューゴさんが作ってくれたんだぜ!」


 ルカの家では、猟師である父が、壁に立てかけてある弓の手入れをしながら、息子の大興奮した話に眉をひそめた。


「ルカ。本当に大丈夫なんだろうな? 『腹痛キノコ』なんて、鹿ですら食べないぞ」


「大丈夫だって! これは腹痛キノコじゃないんだ! ヒューゴさんも毒見して、すっげえ美味いって言ってたんだから!」


 母親が、おそるおそる壺の蓋を開ける。

 その瞬間、家に満ちていた燻製肉や木の皮の匂いを吹き飛ばすように、濃厚なクリームの香りが広がった。


「……ほう……」


 父さんの弓を削っていたナイフを持つ手が、ぴたりと止まる。

「森のもんの匂いとは違うな……。なんだ、こりゃ……」


 母親が温め直したスープを食卓に並べると、ルカは待ちきれないとばかりに、スプーンを突っ込んだ。


「うめえええっ! やっぱり、すげえ美味え!」


 その幸せそうな顔を見て、父と母も、おそるおそるスープを一口、口に運んだ。


「……!」


 次の瞬間、森を知り尽くした猟師である父の目が、驚愕に見開かれる。

 そして、無言のまま、二口、三口と、夢中でスープをかき込み始めた。


「父ちゃん! 美味いだろ!?」


「……ああ。信じられねえ……。こんなうめえもんが、いつも見てるあの森にあったとはな……」


 それだけ呟くと、また無心でスープを味わうのだった。


◇リリィの家


「――それで、メル様が『大丈夫だ』って、毒のキノコとの違いを教えてくださったの」


 リリィの家では、農夫である父親と母親が、娘の持ち帰ったお土産を、少しだけ心配そうに、しかし興味深そうに見つめていた。


「へえ、メルヴィン様がねえ……」

「あのお方は、不思議なことをなさるからなあ」


 ヒューゴに言われた通り、温め直したスープが、食卓の真ん中で湯気を立てている。


「さあ、いただこうか。領主様のお屋敷の料理長さんが作ってくださったんだ。こんなにありがたいことはない」


 家族三人で、静かに手を合わせる。

 一口、スープを口に運ぶと、父親の顔が、ぱあっと輝いた。


「……おお……! これは……美味え……! 畑仕事で疲れた体に、染み渡るようだ……!」

「本当ね、あなた……。優しくて、滋養のある味がするわ……」


 リリィも、満面の笑みで頷く。


「うん! メル様が見つけてくれた、森の宝物なんだ!」


 その夜、フェリスウェル領の三つの家庭の食卓は、新しい発見への驚きと、美味しいものを分かち合う、温かい幸せに包まれていた。

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