第83話「釣り師のロマンはAIの前に散る」
新しいコートができてからというもの、村の広場は昼休みになると賑やかになった。
昼餉を終えた男たちが、午後の仕事に戻るまでのひととき、コートに集まってはボールを追いかけているのだ。
微笑ましい光景なのだけれど。
屋敷の庭まで届くその歓声は、少しだけ賑やかすぎた。
(……うん。今日は静かな場所へ行こう)
僕だけの静かで平和な秘密の場所へ。
「あら、メルヴィン様。どちらへお出かけですか?」
屋敷の廊下を歩いていると、ちょうどリネンを抱えたエリスと出会った。
「うん、ちょっと森の探検にね。夕方までには戻るよ」
「まあ、素敵ですね。お気をつけていってらっしゃいませ」
エリスに見送られ、僕は南の森の入り口まで来ると、ふわりと宙に浮いた。
木々の梢をかすめるように飛び、やがて森の奥深く、小川の流れる空き地に音もなく降り立つ。
「ふう……。やっぱり、ここが一番だね」
僕が魔法で作った小さな家は、静寂の中にひっそりと佇んでいた。
扉に手をかけたその時だった。
近くの茂みがカサリと揺れ、茶色の毛並みがぴょこんと姿を現した。
「コンちゃん! 久しぶりだね」
「きゅん!」
コンちゃんが尻尾をぶんぶんと振りながら僕の足元に駆け寄ってくる。
最近のフットサル騒動で、ここに来るのは少し久しぶりになってしまった。
どうやら僕の気配を察して出てきてくれたらしい。
「ごめんごめん、寂しかったかい?」
コンちゃんの頭を優しく撫でてから、コンちゃんを抱き上げ僕は家の中に入った。
僕は特製のベッドに腰を下ろし、持ってきたクッキーを袋から取り出した。
足元では、コンちゃんが「それは何?」と言いたげに、くりくりとした目で見上げている。
僕は一枚、自分の口に入れると、もう一枚を小さく割って、コンちゃんの目の前に差し出した。
「ほら、コンちゃんの分だよ。お食べ」
コンちゃんはくんくんと匂いを嗅ぐと、ぱくりとそれを口にくわえる。そして嬉しそうに尻尾を振りながら、カリカリと小さな音を立てて食べ始めた。
「ふふ、美味しいかい?」
「きゅん!」
その愛らしい仕草に、僕の口元が自然と綻ぶ。
静かな空間に、僕たち二人のおやつを食べる音だけが響いていた。
「さて、と」
僕は立ち上がると、コンちゃんを促して家の外へ出た。
小川のほとりにある日当たりの良い岩に腰を下ろし、ただぼーっと水面を眺める。
さらさらと流れる水の音と、暖かい日差しが心地いい。
(……うん。村の賑やかさが嘘みたいだ。やっぱり、こうでなくっちゃ)
ふと、隣に座るコンちゃんの視線が、じっと水面の一点に向けられていることに気づいた。
「コンちゃん、何を見てるの?」
僕もその視線の先を追ってみると、きらりと銀色の鱗が光った。
手のひらくらいの大きさの魚が、流れに逆らって泳いでいる。
(なるほど。お魚が食べたいのか、コンちゃんは)
じっと見ていると、塩を振ってこんがりと焼いた魚の姿が頭に浮かんできた。
僕のお腹が、ぐうと正直に反応する。
僕は、にやりと口の端を上げた。
僕は立ち上がると、コンちゃんに向かってにっと笑いかけた。
「よーし、コンちゃん。今からお魚を捕まえるから、見ててごらん」
『ナビ。釣り竿を作りたいんだけど、この辺りにあるもので作れるかな?』
《はい、作製可能です。必要な構成要素は「竿」「糸」「針」です。まず「竿」に適した材料をスキャンします。……三メートル前方の茂みにあるカエデの枝を推奨します》
僕はナビの言葉に頷くと、言われた通りの枝を見つけ、風の魔法で刃を作り、手頃な長さにすぱんと切り取った。
『ナビ、次は糸だね。材料はある?』
《はい。足元に生えているクモイトソウ(蜘蛛糸草)の蔓が最適です。非常に強靭な繊維質を持っています》
僕はナビが示してくれた蔓を何本か手に取った。
『この蔓からどうやって作るの?』
《はい。植物魔法を応用します。まず蔓に魔力を流し込み、繊維以外の柔らかい部分だけを分解させてください。次に残った繊維を撚り合わせるように魔力を操作します》
そのまま蔓にそっと魔力を流し込むと、緑色の表皮や柔らかい部分がほろほろと砂のように崩れ落ち、手の中にはキラキラと光る絹のような繊維の束だけが残った。
『よし、これを撚り合わせるんだね。結構難しそうだけど……』
《はい。私が術式を補助します。メルはこの繊維が一本の糸になるように強くイメージしながら魔力を流し込んでください》
僕がナビの言葉通りに魔力を込めると、手の中の繊維が、まるで意思を持ったかのようにひとりでにくるくると回転し始めた。
そして、あっという間に一本の丈夫な釣り糸へと姿を変えていった。
『よし、最後に釣り針だね。何で作るの?』
《足元の土を直接加工すれば、強度の高い針を作製できます》
『土で? でも、すぐに崩れちゃうんじゃない?』
《はい。ですので、土魔法で土の粒子を高密度に圧縮して針の形状に加工します。私が術式を補助しますので、メルはこの地面から小さな釣り針を作るように強くイメージしてください》
僕は言われた通り、地面にそっと手をかざした。
すると、足元の湿った土が、まるで生きているかのように僕の手のひらの下に集まってくる。
それは、ぎゅっと音もなく圧縮されると、あっという間に石のように硬く、そして鋭い先端を持つ釣り針へと姿を変えていった。
あっという間に、僕だけの森の特製釣り竿が完成した。
「よし、と。あとは餌だけだね」
僕は辺りを見回し、小川のそばにある湿って苔むした石をひっくり返してみる。
すると、丸々とした白い幼虫が、うにうにと動いていた。
(うわ……。でも、魚はこういうのが好きなんだよな……)
僕は少しだけ顔をしかめながらも、その幼虫をそっとつまみ上げ、土の針に付けた。
「よし、これで完璧だ」
小川のほとりの岩に腰を下ろし、仕掛けを流れの穏やかな場所へと投げ込む。
コンちゃんも僕の隣にちょこんと座り、不思議そうに水面を見つめていた。
耳に届くのは小川のせせらぎと鳥の声だけ。
ただ静かに魚がかかるのを待つ。こういう時間も、悪くない。
どれくらいたっただろうか。
僕が水中に垂らした釣り糸は、静かな水面の上で、ぴくりとも動かない。
(……おかしいな。魚、さっきは見えたのに)
僕は少しだけ竿を動かして、魚を誘ってみる。
しかし反応はない。コンちゃんは、すっかり飽きてしまったのか、僕の足元でうとうとと船を漕ぎ始めている。
さらに時間が過ぎる。
最初の頃の穏やかな気持ちはすっかりどこかへ行ってしまい、だんだんと苛立ちに変わっていった。
(なんで釣れないんだ! 餌だってちゃんとついてるのに!)
僕は今度は少し乱暴に、ばしゃんと音を立てて仕掛けを投げ直した。
その時、僕の目の前を、さっきよりも大きな魚が、すいーっと優雅に横切っていった。僕の餌には目もくれずに。
(……なっ……!)
そのあまりの無視っぷりに、僕の額にぴきりと青筋が浮かんだ。
その瞬間、脳内にナビの声が響いた。
《メル。心拍数の軽度な上昇を検知しました。ストレス反応と推測されます》
『……うるさいなあ。分かってるよ!』
《提案します。目的が魚の捕獲であるならば、現在の低確率な手法に固執するのは非効率的です。水魔法による捕獲であれば、成功率は100%です》
『違うんだよ、ナビ! 釣りっていうのは、ただ魚を捕るのが目的じゃないんだ! この待ってる時間とか、魚との駆け引きとか、そういうプロセスを楽しむものなんだ! ロマンなんだよ!』
《ロマン。その概念は理解していますが、目的達成のプロセスに非効率な回り道を導入するだけの、論理的価値のない要素です。目的は魚の捕獲。現在の成功率は0%。魔法による成功率は100%。論理的な選択は明白です》
『うぐっ……!』
ナビの完璧な正論に、僕はぐうの音も出ない。
ちらりと水面を見る。相変わらず、僕が垂らした釣り糸は、ぴくりとも動かない。
(……ロマンも大事だけど……お腹が空いては戦はできぬ、とも言うし……)
僕の中で「こういうのは自分の力で釣ってこそ意味がある」という小さなこだわりと、「もう面倒だから魔法でいいじゃないか」という怠惰な心が、激しい戦いを繰り広げる。
……そして、戦いは一瞬で決着がついた。
僕は、はあと一つ大きなため息をつく。
『……ナビ。ほんのちょっとだけだよ。ほんのちょっとだけ、手伝って』
《承知しました。目標の魚に対し、微弱な【水魔法】を用いて、自然な流れに見せかけた指向性のある水流を生成します。私が術式を補助しますので、メルはこの小川の水を少しだけ動かすようにイメージしてください》
僕はナビの言葉通り、指先から魔力をそっと流し込んだ。
すると、僕の魔力に呼応して水中でごくごく僅かな流れが生まれた。
その小さな水の流れが、近くを泳いでいた一番大きな魚の背中を、まるで優しく押すように、僕の釣り針の方向へとすーっと誘導していく。
そして、魚が餌の目の前で口を開けたその瞬間。
ぐんと竿先が水中に引き込まれた。
(……きたっ!)
「せいっ!」
短い掛け声と共に僕が竿を引いた瞬間、ぐぐんっと今までとは違う強い手応えが伝わってきた。しなやかな枝が、満月のように大きくしなる。
「負けるもんか!」
僕は両手で竿をしっかりと握りしめ、ぐっと空中に持ち上げた。
ばしゃっと大きな水音と共に水面から現れたのは、さっき僕を無視したあの大きな川魚だった。
「やった! コンちゃん、釣れたよ! すごいだろ!」
「きゅんきゅん!」
目を覚ましたコンちゃんが、僕の周りを嬉しそうに飛び跳ねる。
僕は少しだけ罪悪感を覚えながらも、その見事な釣果を誇らしげに掲げた。
《はい。釣果の確認はできました。ですが、捕獲成功への貢献度は魔法によるアシストが98%を占めます。やはり当初の私の提案が最も効率的であったことが証明されました》
『……分かってるよ』
僕はナビの冷静すぎる分析に、少しだけ頬を引きつらせるのだった。




