第78話:閑話「エリスの、とある一日」
秋の柔らかな日差しが窓から差し込む朝。
わたしの一日は小さな主メルヴィン様の一日の始まりをお手伝いすることから始まります。
「おはようございます、メルヴィン様。朝でございますよ」
部屋のカーテンをそっと開ける。
ベッドの上ではメルヴィン様がまだすうすうと穏やかな寝息を立てていらっしゃいました。
この数週間、収穫祭や冬支度のことで、きっとたくさんお心を悩ませていたのでしょう。
そのあどけない寝顔を見ていると胸の奥が自然と温かい気持ちになります。
わたしが、お目覚めの紅茶を用意し、サイドテーブルにそっと置くと、カップからふわりと優しい湯気が立ち上りました。
わたしはベッドのそばにそっと歩み寄ります。
「メルヴィン様。朝でございますよ」
優しく声をかけると、メルヴィン様は「……ん……」と小さく身じろぎをしました。
しかし次の瞬間、くるりとわたしに背を向けるように寝返りを打つと、再び毛布の中に頭までもぞもぞと潜り込んでしまいました。
(あらあら……)
わたしはくすりと小さく笑みをこぼしながら、もう一度声をかけます。
「メルヴィン様、お気持ちはよく分かりますが……。本日は午前中に兄様であるレオンハルト様との剣の稽古のお約束がございますよ」
毛布の中から、うー、という不満そうなうめき声が聞こえてきます。
やがて観念したように、メルヴィン様がもぞもぞと乱れた髪のままベッドから身を起こされました。
「……おはよう、エリス」
「はい、おはようございます、メルヴィン様。よくお眠りでしたか?」
「うん……。エリスの紅茶の匂いがしたから、なんとか目が覚めた」
少しだけ不機嫌そうにそうおっしゃるメルヴィン様。
その子供らしい素直な言葉に、わたしは思わず頬が緩むのを感じました。
「ふふっ、それは光栄です。さあ、どうぞ。温かい内に」
わたしがカップを手渡すと、メルヴィン様はこくりと頷きました。
◇
朝食の後、わたしは厨房を訪れ、料理長であるヒューゴ様と本日のおやつの相談をしておりました。
「ヒューゴ様、本日のおやつですが、少し野菜を使った甘いお菓子にしてみてはいかがでしょう? メルヴィン様は最近少し読書に根を詰めすぎですから、目に良いものを」
「むう、野菜だと? 子供たちが喜びますかな?」
「ええ、きっと。子供たちは甘くて見た目が可愛らしいものが大好きですから。例えばヒューゴ様、そのお野菜を小さなお花の形にしてあげたりしたら、きっと大喜びすると、わたしは思います」
頑固なヒューゴ様も、わたしの提案にはいつも少しだけ耳を貸してくださいます。
領主様一家の健康を管理するのも、わたしたち使用人の大事な仕事の一つなのです。
◇
昼下がり、わたしが廊下を歩いていると、前の方からガシャン! という派手な音と小さな悲鳴が聞こえてきました。
角を曲がると、そこには割れた花瓶の破片の前で顔を真っ青にして固まっているメアリーさんの姿が。
「ひぃん、ま、また、やっちゃいましたですぅ……!」
半泣きのメアリーさんがおろおろしている。
わたしは静かにその隣にしゃがみこみました。
「 ご、ごめんなさい、ごめんなさいですぅ……! 大事な花瓶が……!」
「メアリーさん、落ち着いて。まずお怪我はありませんか?」
「は、はい……でも、花瓶が……! ああ、どうしましょう、メイド長にきっとひどく叱られてしまいますぅ……!」
メアリーさんの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
わたしはその背中を優しくさすってあげました。
「大丈夫ですよ。正直に話せば、きっと分かってくださいます。……もし言いにくいようでしたら、わたしからご報告しましょうか? わたしも一緒に謝りますから」
その言葉に、メアリーさんは少しだけ顔を上げた。
「さあ、まずはこれを一緒に片付けましょう。ね?」
「……はい、ですぅ……!」
わたしはメアリーさんと一緒に黙って割れた花瓶の破片を拾い集めた。
壊れてしまったものは元には戻らない。
でも彼女の震えが少しずつ収まっていくのを感じて、わたしはそれだけで十分だと思いました。
床を綺麗にした後、わたしは次のお使いのために村へと向かう準備を始めるのでした。
◇
午後、わたしは村へのお使いにメルヴィン様にお供していただくことになりました。
広場を歩いていると、遊んでいた村の子供たちがわたしたちの姿を見つけて「あ、メル様とエリスさんだ!」と次々に駆け寄ってきます。
「メル! 何か面白いことでもしに行くのか!?」
ルカ君が元気いっぱいにメルヴィン様に話しかけます。
「ううん、エリスのお使いのお供だよ」
メルヴィン様が穏やかにそう答えました。
わたしはにこやかに懐から、今朝厨房で焼いておいた小さなクッキーを取り出します。
「あらあら、皆さん。ちょうどおやつの時間ですね」
わたしが一人一人にクッキーを配ってあげていると、ふとメルヴィン様の様子がいつもと違うことに気づきました。
いえ、いつも通りなのです。
視線はどこか遠くを見ていて、ぽけーっとしていらっしゃる。
(あらあら、メルヴィン様、また、あのお顔に……)
時々こうして、ふと遠くを見るような不思議なお顔をされる。
イリス様は「メルは、ぼーっとしていて、締まりがない」とおっしゃいますけれど。
わたしはこの、何か考えているような無防備で可愛らしいお顔が、とても好きなのです。
わたしがそんなことを考えていると、メルヴィン様がはっと我に返りました。
嬉しそうにクッキーを頬張る、たくさんの笑顔。
その温かい光景の中心に、メルヴィン様と一緒にいられること。
わたしは本当に幸せな気持ちになりました。
◇
夜、メルヴィン様が自室のベッドで本を読んでいるところに、わたしは温かいミルクを持って部屋を訪れました。
「メルヴィン様。あまり根を詰めすぎてはいけませんよ」
わたしがそう声をかけると、メルヴィン様は読んでいた本から顔を上げて、にこりと笑いました。
その時、わたしはメルヴィン様が読んでいた本に気づいて、懐かしさに思わず声を上げました。
「まあ、その絵本は……。わたくしが昔、イリス様とメルヴィン様がまだ本当に小さかった頃に、よく読み聞かせをしたものですわね」
それはこの国に古くから伝わる英雄の冒険譚を描いた子供向けの絵本。
「うん。覚えてるよ。エリスの声、落ち着くから、好きだった」
そのあまりに真っ直ぐな言葉が、わたしの心の中に、ぽとりと温かい雫を落としたかのように、静かに染み渡っていきました。
少しだけ頬が熱くなったような気がします。
「……ふふっ。ありがとうございます、メルヴィン様」
自然と緩んでしまう口元を隠すように、わたしは静かに一礼し、そっと音を立てないように部屋の扉を閉めました。
(……エリスの声、落ち着くから、好きだった)
先ほどのメルヴィン様のささやかな言葉が、まだ胸の中で温かく響いている。
昔読み聞かせをした古い絵本を今でも大切に読んでくださっている。
普段はお祭りをまるごと変えてしまうような大人顔負けのすごいことを考える方なのに。
時々こうして年相応の、いえ、それよりも幼い子供のような素直な一面を見せてくださる。
あのぽけーっとしたお顔の下では、一体どれだけの素晴らしい考えが巡っているのでしょう。
そしてその頭の中には、こういう温かい思い出もきちんとしまわれているのだと思うと、なんだかとても愛おしい気持ちになるのです。
わたしは自分の小さなご主人様のその不思議な魅力に、くすりと一人静かに微笑むのだった。




