第52話「光るインクと、父の笑い声」
次の日の朝、僕が談話室で静かに本を読んでいると、少しだけ困ったような顔をしたリディアが、僕の元へやってきた。
その手には、僕が昨日いたずら書きをした、あのキツネの絵が描かれた紙が、大切そうに握られている。
「メルヴィン様。おはようございます。少しだけ、お知恵をお借りしてもよろしいでしょうか」
「ん? どうしたの、リディア」
「はい。実は昨日、旦那様より、この『光るインク』と同じものを開発するように、と、大変なご命令をいただきまして……」
リディアは、深いため息を一つ ついた。
「これが、その『お手本』だと。……ですが、このインクに魔力を込めるという部分が、どうしても私には理解できず、一睡もできずに考えていたのですが……」
彼女は本気で困っているようだった。
薬草の専門家である彼女にとっても、魔法とインクを融合させるという発想は、全くの未知の領域なのだろう。
◇
僕は彼女の話を聞きながら、頭の中ではナビと会話していた。
『ナビ、どうすればいいんだっけ?』
《はい。インクに魔力を定着させるには、魔力親和性の高い、特殊な触媒が必要です。この世界に存在する物質の中では……『月光苔』の胞子が、最も適しています》
『月光苔!』
僕の頭の中に、夜になると淡い光を放つ、あの美しい苔の姿が浮かんだ。
僕はナビの助言をリディアに伝える。
「リディア、普通のインクにね、あの夜になると光る苔あるでしょ? あれの、ふわふわした粉をほんの少しだけ混ぜるんだ」
「まあ……! 月光苔の胞子をですか!? あれは非常に繊細で普通のインクとは混ざらないはずですが……」
「大丈夫。僕がお手伝いするから」
僕の自信に満ちた言葉。
それにリディアは一瞬だけ驚いた後、こくりと頷いた。
「……承知いたしました。メルヴィン様がおっしゃるなら」
◇
場所は変わって、リディアの薬草研究室。
そこは、もうすっかり僕の第二の発明工房になっていた。
「リディア、すごいね。ここ前より道具が増えてる」
「はい、メルヴィン様。旦那様が研究のためならと、予算を増やしてくださいましたので」
リディアは少しだけ嬉しそうに微笑む。
僕たちは、早速、新しいインクの開発に取り掛かった。
リディアはガラスの乳鉢で、月光苔の胞子を丁寧に、丁寧にすり潰し始める。
そして出来上がった淡く光る粉を、黒いインクの壺へと、そっと混ぜ合わせた。
「やはり……弾かれてしまいますわ」
リディアの言う通り、光る粉はインクとは混ざらず、表面に浮いてしまっている。
僕は待ってましたとばかりに、その壺にそっと手をかざした。
「メルヴィン様?」
「大丈夫。ちょっとだけ、仲良くさせるだけだから」
最初は弾かれていた粉が、僕が壺にそっと手をかざし、魔力で二つの物質の調和を促すと、すうっと、インクの中に溶けていった。
「……混ざりましたわ」
リディアが、息を呑む。
(うん。でも、毎回これをやるのは、ちょっと面倒だな)
『ナビ、毎回僕がこれをやるのは面倒なんだけど。何かいい方法ない?』
《提案します。製品に直接魔法をかけるのではなく、生産プロセスを自動化する『触媒』となる魔道具を作成します》
『触媒? どうやるの?』
《はい。研究室の隅にある、あの大きな陶器の壺に、特殊な術式を刻み込みます。その壺は中で混ぜられたインクと月光苔の分子構造を、親和性の高い状態へと半永久的に、そして自動的に変化させ続けます。設計図を脳内に投影します》
ナビの言葉と共に、僕の頭の中には見たこともないほど精密で美しい魔法の設計図が映し出された。
「メルヴィン様…?」
僕が研究室の隅に置いてあった、使われていない大きな陶器の壺を指さしたので、リディアが不思議そうな顔をする。
「リディア、あの壺こっちに持ってきてもらえるかな?」
「はい、かしこまりました。……ですが、これをどうなさるのですか?」
リディアが、よいしょと重そうな壺を僕の前に運んでくれる。
僕は、その壺にそっと手を触れると、にやりと笑った。
「うん、この壺をちょっとだけ、不思議に変えるんだ」
僕はナビの設計図通りに、その大きな壺にゆっくりと、そして丁寧に魔力を流し込み始めた。
僕の手のひらの下で、ただの陶器の壺が、淡くそして温かい光を放ち始める。
「まあ……!」
リディアが息を呑むのが分かった。
数分後、光がすっと消えると僕は満足げに頷いた。
「……できた。リディア、これからは僕の魔法はもういらないよ。この壺は、もう『魔道具』になったから」
僕の言葉にリディアは不思議そうな顔で、こてん、と首をかしげた。
「魔道具ですか…? ただの壺に見えますが…」
「そう。見た目はね。これからは、この壺の中でいつも通りに材料を混ぜるだけでいいんだ。そうすれば、ちゃんとインクと月光苔が混ざって光るインクになるから」
僕の、あまりにも突飛な説明。
しかし、リディアは、その言葉の意味をすぐに理解したようだった。
彼女は目の前のただの大きな陶器の壺を、まるで新しい生命でも見るかのような、畏敬の念に満ちた目で見つめていた。
◇
完成したばかりの「魔法のインク」を手に、僕たちは父様の執務室へと戻った。
そこには、父様だけでなく、母様や兄姉も集まって、僕たちの帰りを待っていた。
「できたのか、メル!」
「ええ、父様。リディアが頑張ってくれました!」
父様は、そのインク壺を受け取ると、新しい羽ペンを手に取った。
そして、緊張した面持ちで、一枚の紙の上に、僕たちの家の紋章である、「盾と剣」の印を描いていく。
描き上がった紋章は、ただの黒いインクの絵にしか見えない。
「ふん、何も変わらないじゃない」
イリ姉が、つまらなそうに言う。
しかし、父様は「まあ、見ておれ」と、にやりと笑った。
彼は、その紋章の上に、そっと自分の手をかざす。そして、ほんの少しだけ魔力を流し込んだ。
次の瞬間。
ただの黒い線だったはずの紋章が、まるで夜空に浮かぶ月のように、淡い美しい銀色の光を放ち始めたのだ。
「「まあ……!」」
母様とイリ姉が、同時に感嘆の声を上げる。
「すごい……! なんて綺麗なんだ……!」
「本当だわ……! これなら、絶対に真似できないわね!」
レオ兄様も、興奮した様子で、その光る紋章に見入っていた。
「……これなら王都でも通用する。いや、必ず通用しますね」
「これで、王都の偽物商人どもに目に物を見せられるな。はっはっは!」
父様の満面の笑みと、豪快な笑い声。
それを見て執務室は、久しぶりに明るい喜びに包まれた。
◇
僕は、そんな大人たちの興奮をよそに、そっと執務室を抜け出した。
だって、僕の仕事はもう終わったから。
中庭に出ると、この前バルカス家から贈られてきた、銀色の馬が気持ちよさそうに草を食んでいた。
イリ姉は、あのお馬様に「シルフィ」という、なんだか気取った名前をつけて、毎日熱心に世話をしている。
「やあ、シルフィ」
僕が声をかけると、シルフィは嬉しそうに鼻を鳴らして、僕の手に頭をすり寄せてきた。
僕は、そんな彼の首筋を優しく撫でながら、懐からヨナスさんがくれた干し果物を一つ取り出す。
『ナビ、やっぱり平和が一番だね』
《はい。今日もまた、メルのスローライフ環境は強化されました》
僕はナビの言葉に満足げに頷くと、シルフィと一緒に穏やかな午後の日差しを浴びるのだった。




