第50話「王都からの、便り」
あれから、数ヶ月が過ぎた。
僕たちの領地では、温泉がすっかり日常の一部になっていた。村人たちは仕事の合間に疲れを癒やし、リディアが開発した薬湯は、お屋敷の女性陣の肌をますますすべすべにしている。
そして僕は、と言えば。
『ナビ、今日のフルーツ牛乳は、桃の味がする』
《はい。ヒューゴ氏が、季節の果物を取り入れた新作を開発したようです。あなたのQOLは、順調に向上しています》
完成したばかりの露天風呂に浸かりながら、湯上りの一杯を味わう。
うん、今日も僕ののんびりスローライフは完璧だ。
そんな、いつもと変わらない、平和な午後だった。
村の入り口の方から、パカラッ、パカラッ、と、聞き慣れない、軽快な馬蹄の音が聞こえてきたのは。
◇
「なんだい、あの馬車は?」
「見たことない紋章だな。どこぞの貴族様かい?」
村人たちが、物珍しそうに噂している。
やってきたのは、一台の、小ぶりだが装飾の美しい馬車だった。以前ヨナスさんが乗っていた、旅慣れた幌馬車とは比べ物にならない。
「おや……? あれは――ヨナスさん!?」
御者台から飛び降りた人物を見て、村の誰かが驚きの声を上げた。
「よお! みんな、元気でやってたかい!」
そこに立っていたのは、旅商人のヨナスさんだった。
しかし、その姿は、数ヶ月前とはまるで別人だ。
着古した旅人の服ではなく、上質な布で作られた、動きやすそうな仕立ての良い服。その指には、キラリと光る指輪までしている。
「ヨナスさん!?」
「おお、坊ちゃま! ご無沙汰しておりやす!」
ヨナスさんは、僕の姿を見つけると、満面の笑みで駆け寄ってきた。
「どうしたんだい、その格好は! まるで、どこぞの金持ち商人じゃないか!」
村のおじさんの言葉に、ヨナスさんはがははと豪快に笑った。
「へっへっへ。旦那、その通り! このヨナス、あんたたちの領地のおかげで、ちいっとばかし、成り上がっちまったんでさあ!」
久々の再会に村人たちと盛り上がった後、ヨナスさんはすぐに父様へ挨拶をするため、屋敷に案内されることになった。
◇
父様の執務室は、ヨナスさんが持ち込んだ熱気で、むんむんとしていた。
父様とレオ兄様が、ゴクリと息を呑んで、一枚の羊皮紙に書かれた報告書を睨みつけている。
「……信じられん。ヨナス殿、この数字は、本当に正しいのか?」
「へえ! もちろんでございます、旦那様! これでも、かなり控えめに書いたくらいでさあ!」
ヨナスさんが持ち帰った報告書は、衝撃的な内容だった。
僕が発明した品々、特に**『紙』と『トランプ』**は、王都でとんでもない熱狂を巻き起こしたらしい。
「貴族も、金持ちの商人も、誰もが見たことのない『紙』の滑らかさと、『トランプ』という遊びの面白さに、あっという間に夢中になりやした! あっしが持ち込んだサンプルは、初日で言い値の10倍の値がつきましてな!」
ヨナスさんの報告に、レオ兄様が頭を抱えている。
「……父上、これは、我々の想像を遥かに超えています。王都の商人たちが、今、血眼になってこの『紙』の出所を探している、と……」
「うむ……」
父様も、嬉しいというよりは、事の重大さに、難しい顔をしていた。
「旦那様! どうか、どうかお願いします! このヨナスに、正式な販売代理人としての契約を!」
「ねえヨナスさん、ぼくのお土産は……?」
僕の、あまりにも場違いな一言。
それに部屋中の全員が、きょとんとした顔で僕を見た。
「え?」
「メル?」
僕は、そんな周りの反応にはお構いなしに、ヨナスさんに向かって、期待に満ちた目で言った。
「ヨナスさん、約束、覚えてるよね? 面白いお話と、美味しいお菓子、持ってきてくれるって」
僕の言葉に、ヨナスさんは一瞬だけぽかんとした後、腹を抱えて大笑いした。
「はっはっは! 坊ちゃまは変わりませんな! もちろんでさあ、坊ちゃま! あんた様との約束を、このヨナスが忘れるはずがねえ!」
彼は、そう言うと、持ってきた荷物の中から、ひときわ大きな包みを取り出した。
中には、僕が見たこともない、王都で流行しているという、キラキラしたお菓子や、美しい絵が描かれた物語の本がたくさん詰まっていた。
「うわー!」僕がはしゃいだ声を上げたその瞬間――
どこからか聞きつけて「なによ、メルだけずるいわ!」と、イリ姉がドタドタ乱入してきた。
『ナビ、こうなると思ってた?』
《はい。お菓子の紛争発生確率は、97%と算出していました》
《ですが、兄妹の笑顔が見られる確率も同じく97%です》
「メル! そのクッキーよこしなさい!」
「だめだよ、これは僕の分!」
……まあ、甘い戦争なら、それも悪くない。
◇
その日の夜。
父様とレオ兄様は、二人きりで、執務室の暖炉の前に座っていた。
「……レオ。これは、我々の手を離れて、大きな渦になろうとしておるぞ」
「はい、父上。この『紙』という発明は、もはや、この小さな領地だけで抱えきれるものではございません」
「うむ。下手をすれば、他の貴族からの、妬みや、圧力も……」
二人の顔は、喜びよりも、むしろこれから訪れるであろう困難への覚悟の色に染まっていた。
――そうして執務室には、重苦しい静けさが落ちていた。
けれど、その頃の僕は。
『ナビ、このクッキー、イリ姉から守れる?』
《はい。推定勝率は……残念ながら17%です》
『そんなに低いの!? ナビ、もっと本気出してよ!』
父様と兄様が真剣に未来を語っていたのと同じ夜、僕はお菓子防衛戦線の真っ只中にいた。




