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第49話「初めての『湯治客』」

 バルカス領から、新しい馬とたくさんのお菓子が届いてから、数日が過ぎた。

 銀色の馬は、イリ姉が毎日熱心に世話をしたおかげですっかり懐き、今では彼女の一番のお気に入りになっている。

 レオ兄様は、父様と一緒に、交易で得た鉄鉱石の使い道について、何やら難しい顔で話し合っていた。


 そして僕は、いつも通りだった。

 完成したばかりの露天風呂に毎日浸かっては、湯上りにキンキンに冷えたフルーツ牛乳を飲む。

 そんな、完璧な日常を送っていた。


『ナビ、やっぱり温泉は最高だね』

《はい。定期的な入浴は、メルの身体的及び精神的健康を維持する上で、極めて有効です》


 僕はナビの報告に満足げに頷きながら、ぷかぷかと、お湯に浮かんでいた。



 そんな穏やかな午後。

 村の入り口に、一台の少し古びた馬車がゆっくりと停まった。

 御者台から降りてきたのは、腰の曲がった人の良さそうな老人だ。

 彼が馬車の扉を開けると、中から一人の老婆が、ゆっくり、ゆっくりと姿を現した。


「ばあさん、無理はしなさんな」

「ええ、分かっていますよ、おじいさん」


 老婆は、杖を頼りに、一歩一歩、確かめるように地面を踏みしめている。

 その顔は、長旅の疲れで少しだけ青白く見えた。


 村の広場にいた子供たちが、物珍しそうにその二人を遠巻きに見ている。

 ルカが代表して声をかけた。


「じいちゃん、ばあちゃん、どこから来たんだ?」

「おお、坊主。わしらは旅をしておって、この先の町に滞在していたのじゃが『この先に病が治る奇跡の湯が湧いた』という噂を聞いて来たのじゃ」



 それから数日間。

 エララと名乗ったその老婆は、村の宿屋に泊まり、毎日、朝と夕の二回、丘の上の温泉へと通っていた。

 僕も時々彼女の姿を見かけた。


「こんにちは、坊ちゃま」

「こんにちは、おばあちゃん」


 彼女は僕が領主の息子だと知っても、特に態度を変えることなく、いつも優しい笑顔で挨拶をしてくれた。

 そんなエララさんには、薬草係のリディアが、彼女のために特別な薬湯を用意してあげているようだった。


「これは腰の痛みに効く薬草を、温泉水でじっくりと煮出したものです。どうぞ、ゆっくりと温まってください」

「まあ、ご親切にありがとう、お嬢さん」


 そんな、静かで優しい時間が流れていった。



 エララさんが、この領地に来てから、五日目の朝だった。

 その日、彼女は湯上りに、休憩所のベンチに座って、ぼんやりと空を眺めていた。

 いつもより、その表情が晴れやかに見える。


 エララさんが、ふと地面に落ちていた小さな花飾りに気づくと、それを拾うために何気なくすっと腰を屈めた。

 そして立ち上がり、髪飾りについた土を払う。


 そこまでして、彼女はぴたりと動きを止めた。


「……あれ?」


 彼女は不思議そうな顔で、もう一度ゆっくりと腰を曲げたり伸ばしたりしている。

 そして信じられないというように、自分の腰に手を当てた。


「痛くない……。いつもの、あの鈍い痛みが……ない……!」


 彼女の目に、じわりと涙が浮かぶ。

 その小さな奇跡に周りにいた客たちは思わず息を呑んだ。



 その日の夕方。

 夫妻は宿屋の紹介で領主館に招かれ、父様と面会していた。


「フェリスウェル卿。この度のご恩、なんとお礼を申し上げたらよいか……」


 彼女は深々と頭を下げた。

 長年、彼女を苦しめていた腰の痛みが、この領地の温泉とリディアの薬湯のおかげで嘘のように和らいだのだと涙ながらに話してくれた。


「いや、顔を上げなされ。貴殿の痛みが和らいだのは、この土地の湯とあそこのメイドの努力の賜物だ」


 父様はそう言って、部屋の隅に控えていたリディアを優しい目で見た。

 リディアは少しだけ照れくさそうに俯いている。


 僕はというと、話の最中に出されたお茶請けのクッキーを、もぐもぐ食べていた。


「うん、良かったね、おばあちゃん」


 僕が口をもぐもぐさせながらそう言うと、エララさんは「はい、坊ちゃま」と満面の笑みで頷いた。



 次の日。

 すっかり元気になったエララさん夫妻は、領地を旅立っていった。

 彼女は村の皆に「必ず、この素晴らしい温泉のことを、故郷の町でも話しますからね!」と何度も手を振っていた。


 その背中を見送りながら、僕は一つあくびをした。


『ナビ、温泉の評判が上がるとどうなるの?』

《はい。来客が増え、領地の財政が潤います。結果、施設の維持管理が安定し、メルの快適な入浴環境が永続的に保証されます》


『そっか。それはすごくいいね。……やっぱり、のんびりするのが一番だ』


 僕は、そんなことを考えながら、今日もまたのんびりと湯気に包まれるのだった。

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