第47話「お姉ちゃんの大発明と、甘い大洪水」
その日の昼下がり、僕は屋敷の談話室で、静かに読書を楽しんでいた。
窓から差し込む陽の光は暖かく、時折ページをめくる音だけが聞こえる。完璧な、のんびりスローライフの時間だ。
「メルのおかげで、お洗濯もお料理も、本当に楽になったわねえ」
刺繍をしていた母様が、しみじみとそう呟いた。
その言葉に、ぴくりと反応した人物が一人。
「ふん! メルばっかり褒められてずるい! シャンプーくらい、私にだって作れるんだから!」
イリ姉は勢いよく立ち上がり、頬を膨らませる。
そして胸を張って、堂々と宣言した。
「見てなさい! メルが作ったのなんかより、ずーっとすごくて、もっといい匂いの、最高の美髪薬を作ってみせるわ!」
そう叫ぶや否や、イリ姉は嵐のように談話室を飛び出していった。
母様は、そんな姉の背中を「まあ、元気なこと」と、にこにこしながら見送っている。
『ナビ、なんだかすごく嫌な予感がする』
僕が心の中でそう呟くと、ナビは即座に分析結果を提示した。
《はい。対象人物イリス様の性格データ、及び現在の行動目的を分析した結果、今後3時間以内に、メルの快適な読書環境が、外的要因によって妨害される確率は、92%です》
『やっぱりか……』』
僕はナビの無慈悲な予測に、深いため息を一つ ついた。
◇
薬草園では、リディアが静かに作業していた。そこへイリ姉が飛び込んでくる。
「リディア! 力を貸して!」
突然現れたイリ姉の元気いっぱいの声。
薬草の手入れをしていたリディアは驚いて顔を上げた。
「……はい、イリス様。何をいたしましょうか」
「決まってるでしょ! メルに負けない、最高の美髪薬を作るのよ! リディアは薬草に詳しいから手伝ってほしいの!」
イリ姉の無茶苦茶な要求。
それにリディアはいつも通りの落ち着いた声で、しかしプロとしてきちんと意見した。
「……イリス様、薬草の調合には、きちんとした手順と配合がございます。闇雲に混ぜ合わせても、効果は期待できませんが…」
「分かってる! でもね、いい匂いのやつとツヤツヤになるやつを集めれば、きっと素敵な美髪薬になるわ!」
リディアは、深いため息を一つ つくと、いろいろ諦めたようだった。
彼女はイリ姉の言う通りに、いくつかの安全なハーブを摘み始め、その背中にぽつりと呟いた。
「……後で、奥様や旦那様に叱られても知りませんからね」
◇
僕がしばらく静かに本を読んでいると、どこからか、甘ったるい、むせ返るような匂いが漂ってきた。
そして厨房の方から、メイドさんたちの「きゃー!」という悲鳴が聞こえ始めた。
『ナビ、なんだか、すごく騒がしくなってきたよ。』
《緊急事態です。イリス様が高粘度の糖類を広範囲に飛散させ、厨房の機能が完全に停止しています。人的被害も拡大中です》
『やっぱり、イリ姉の仕業か!』
僕は深いため息をつくと、『仕方ない、様子を見に行くか』と、重い腰を上げた。
◇
僕が厨房へ行くと、そこは想像を絶する光景だった。
壁も、床も、そしてイリ姉自身も、甘くてベタベタの蜂蜜まみれ。メアリーは床に足を取られて動けなくなり、ヒューゴは頭から蜂蜜をかぶって呆然としている。
そして、真ん中で泣きそうな顔のイリ姉。
「だ、だって、蜂蜜をたくさん入れた方が、髪に良いと思ったんだもん…!」
イリ姉が泣きそうな顔で言い訳している。
どうやら厨房の隅を借りて実験をした結果、魔力を込めすぎて蜂蜜の壺を爆発させてしまったらしい。
『ナビ、あのベタベタ、どうにかならない?』
《はい。蜂蜜の主成分である糖分は、高温のお湯で溶解します。水の魔法で大量のお湯を生成し、同時に風の魔法で排水路へと誘導するのが最も効率的です》
僕は深いため息を一つ つくと、二つの魔法を同時にそして静かに発動させた。
厨房の天井から、温かいお湯のシャワーが、ざあっと降り注ぎ始める。
「きゃっ!」
「まあ、温かいお湯?」
そのお湯が、壁や床の蜂蜜を、見る見るうちに溶かしていく。
そして風の魔法で、床に広がった甘い香りのするお湯を、床を滑らせるように、一滴残らず綺麗に厨房の排水溝へと導いていく。
数分後。
あれだけ大惨事だった厨房は、完璧に綺麗になり、後には甘い花の香りだけが残っていた。
◇
「……え? あれ? 消えちゃった……」
イリ姉は、自分だけがまだベタベタなことに気づき、ぽかんとしている。
その時だった。
「……イリス」
静かだが、有無を言わさぬ迫力のある声。
声がした方を見ると、そこには、にこりと微笑んだ母様が立っていた。
しかし、その目は、全く笑っていない。
「母様……! あ、あの、これは、その……」
母様はイリ姉の言い訳には耳を貸さず、床に広がった甘い水たまりを、ため息と共に見やった。
「イリス。これは皆で作るはずだった蜂蜜菓子の材料ですわよね?」
「は、はい……」
「後で、あなたのお部屋で、ゆっくりとお話を聞かせてくださるかしら?」
母様の完璧な笑顔。
イリ姉は顔を真っ青にして、こくこくと、人形のように頷くしかなかった。
僕はそんな姉の姿を横目に、少し笑って一言だけ告げる。
「イリ姉、お風呂入った方がいいんじゃない? ……次は一緒に作ろうね」
そう言うと、イリ姉はきょとんとした後、ほんの少しだけ表情を緩めた。
談話室に腰を下ろし、再び本を開いた瞬間――。
「メルー! タオルちょうだい!」
……やっぱり、僕の平和は長持ちしないらしい。




