第43話「リディアの『新しいお仕事』」
僕の「お空が見えるお風呂がほしい」という一言から始まった、壮大な温泉開発プロジェクト。
次の日から、北の丘はにわかに活気づいていた。
「よし、こっちの岩から運ぶぞ!」「足元に気をつけろよ!」
大工のゴードンさんの指揮のもと、村の男たちが力を合わせて、露天風呂の基礎工事を進めている。
父様もレオ兄様も、領主とその跡継ぎという立場を忘れて、村人たちと一緒になって汗を流していた。
『ナビ、なんだか、みんなすごく楽しそうだね』
《はい。共同作業による大規模なインフラ整備は、コミュニティの一体感を醸成し、強いカタルシスをもたらします。領民の士気は現在、最高潮です》
僕は、そんな活気あふれる現場を、少しだけ離れた木の根元に座って、ぼーっと眺めていた。
うん、みんなが頑張ってくれるおかげで、僕の理想のお昼寝ライフ、ならぬお風呂ライフが、着々と形になっていく。実に素晴らしいことだ。
◇
僕が、そろそろお昼寝の体勢に入ろうかと思っていた、その時だった。
「……メルヴィン様」
静かな声に呼ばれて顔を上げると、そこに立っていたのは、薬草係のメイド、リディアだった。
彼女は、いつものように落ち着いた表情をしていたけれど、その手には小さな瓶を握りしめ、その目は強い好奇心の色でキラキラと輝いていた。
「こんにちは、リディア。どうしたの?」
「こんにちは。……メルヴィン様、少しだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
リディアは、僕の隣にそっと座ると、小さな瓶を僕の前に差し出した。
瓶の中には、昨日掘り当てたばかりの、まだ少しだけ土の混じった温泉水が入っている。
「このお湯のことです。先ほど、少しだけ分けていただいたのですが……」
「うん」
「このお湯、ただ温かいだけではありません。独特の香りと、肌に触れた時の、この滑らかな感触……。これは、薬草と同じ、あるいはそれ以上の、何か特別な『効能』を秘めているように思えるのです」
彼女は、まるで宝物でも見るかのような、熱心な目で瓶の中の水を見つめている。
さすがは、薬草の専門家だ。ただのお湯ではないことに、すぐに気づいたらしい。
『ナビ、この温泉の成分、詳しく分かる?』
《はい。分析結果を提示します。硫黄、ナトリウム、カルシウムを豊富に含有。特筆すべきは、微量ながらメタケイ酸が含まれている点です。これは、肌の角質を柔らかくし、保湿効果を高める、いわゆる『美肌の湯』の特性を持ちます》
ナビの完璧な解説。
僕は、それを子供の言葉に翻訳して、リディアに伝えた。
「うん。このお湯はね、お肌がすべすべになる、特別な魔法のお湯なんだって」
◇
「まあ……! やはり、そうなのですね!」
僕の言葉に、リディアはぱっと顔を輝かせた。
そして、彼女は少しだけ躊躇うように、僕に一つのお願いをした。
「あの、メルヴィン様。もし、もしよろしければ、このお湯と、私の育てている薬草を、いくつか組み合わせてみても、よろしいでしょうか」
「え?」
「このお湯の力と、薬草の力を合わせれば、きっと、もっと素晴らしいものが生まれるはずです。例えば、体を温める効果のある薬草を加えれば、湯冷めを防ぐことができます。香りの良いハーブを加えれば、心が安らぐ癒やしの湯に……」
彼女は、普段の無口さが嘘のように、目を輝かせながら、次々とアイデアを語り始めた。
その姿は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだった。
『ナビ、面白そうだね』
《はい。温泉と薬草学のシナジー効果は、計り知れません。メルの快適な入浴体験を、さらに向上させる可能性があります。全面的に協力することを推奨します》
「うん、いいよ。リディア、やってみて」
僕がそう言うと、リディアは「ありがとうございます!」と、深々と、そして嬉しそうに頭を下げた。
◇
こうして、リディアの「新しいお仕事」が始まった。
彼女は、自分の薬草園と温泉の工事現場を、毎日何度も往復するようになった。
僕も、時々彼女の研究室という名の、薬草園の隅にある小さな作業小屋を覗きに行く。
「メルヴィン様。このカミツレの花を乾燥させて、布の袋に入れてお湯に浮かべれば、きっと安眠効果のある、優しい香りの湯になります」
「へえ、いいね、それ」
僕は、ナビの知識を元に、時々ヒントを与えた。
「リディア、その葉っぱ、ただ入れるだけじゃなくて、お湯でじっくり煮出してから混ぜた方が、もっと効果が出ると思うよ」
「まあ! なるほど、成分を先に抽出するのですね! ありがとうございます、メルヴィン様!」
僕の言葉を、リディアは神のお告げのように聞き入れ、目を輝かせながら、次々と新しい「薬湯」を開発していく。
◇
数日後。
完成したばかりの「カミツレの薬湯の素」を、早速、お屋敷のお風呂で試してみることになった。
一番乗りで試したのは、もちろん、イリ姉だ。
「ふーん、ただの葉っぱじゃない。本当に効果あるの?」
半信半疑で湯船に浸かった彼女は、次の瞬間、驚きの声を上げた。
「な、なによ、これ……! すごく、いい匂い……! なんだか、体がぽかぽかして、眠たくなってきたわ……」
その日の夜、いつもは寝る前に騒がしいイリ姉が、ぐっすりと眠りについたのは言うまでもない。
◇
仕事終わりのお風呂の時間。
メイドたちの間では、リディアが作ったばかりの「カミツレの薬湯の素」が、さっそく話題になっていた。
「わあ、これがリディアさんがメルヴィン様と……? すごく、いい匂いがしますね!」
メアリーが、布の袋に入った薬湯の素を、くんくんと嗅いで、目を輝かせている。
リディアは、少しだけ照れくさそうに、それを湯船にそっと浮かべた。
ふわり、と、甘くて優しい香りが、湯気と共に浴室いっぱいに広がる。
「本当だ、すごくいい匂い…! なんだか、今日の疲れが飛んでいくみたい……」
外回りの仕事で疲れていたソフィアが、気持ちよさそうに目を細める。
お湯に浸かったメアリーも、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ! なんだか、お湯がいつもより柔らかい気がします! お肌も、すべすべになったような……!」
メイドたちが、きゃっきゃと楽しそうにしているのを、少し離れた場所で、メイド長のカトリーナが静かに見ていた。
そして彼女も湯船に浸かると、ふう、と一つ、心の底からリラックスしたような、深いため息をついた。
「……ええ。悪くありませんわね」
その、カトリーナの滅多に聞けない、穏やかな声。
それを聞いたリディアは、自分の仕事が認められたことが嬉しくて、湯気の中で、誰にも気づかれないように、そっと微笑むのだった。
 




