第3話「ぼんやりメルと家族、メイドの日常」
フェリスウェル家の朝は、いつも穏やかに始まる。
屋敷の窓から見える庭は、朝露に濡れてきらきらと輝いていた。
手入れの行き届いた芝生が広がり、季節の花々が色鮮やかに咲き誇っている。
遠くの森からは、小鳥たちの楽しそうなさえずりが聞こえ、涼やかな朝の風が、木の葉を優しく揺らしていた。
僕は、自室の窓辺に置かれたお気に入りの椅子に座って、その光景をぼんやりと眺めるのが好きだった。
時間に追われることなく、ただ静かに流れていく時間。
前世では決して手に入れることのできなかった、かけがえのない宝物だ。
屋敷の中は、朝の支度を始めるメイドたちの、かすかな物音で満ちている。
床を磨く布の音、食器が優しく触れ合う音、遠くの厨房から漂ってくる、焼きたてのパンの香ばしい匂い。
そのすべてが、僕の心を安らぎで満たしてくれた。
◇
コンコン、と控えめなノックの音がした。
僕が返事をする前に、扉がそっと開かれる。
「メルヴィン様、朝ですよ。失礼しますね」
入ってきたのは、メイドの一人、メアリーだった。
亜麻色の髪を揺らしながら、お茶のセットが乗ったトレイを、少しぎこちない手つきで運んでくる。
「おはようございます、メルヴィン様。昨日はよく眠れましたか?」
彼女はにこりと人懐っこい笑顔を向ける。
でも、その足元はやっぱり少しだけおぼつかない。
見ているこちらが、少しだけひやひやしてしまうのは、いつものことだった。
「うん……おはよう、メアリー」
僕は椅子から立ち上がり、彼女が運んできたお茶を受け取ろうと手を伸ばす。
「ありがとうございます、メルヴィン様! 今日のリーデル村は、とっても良いお天気ですよ!」
くるくるとよく動く表情で、彼女は楽しそうに話す。
その明るい声を聞いていると、こちらまでのんびりとした気分になってくるから不思議だ。
「よかったね」
僕の短い返事に、メアリーは一瞬きょとんとした後、ふふっと優しく笑った。
「もう、メルヴィン様はいつもぼーっとしてらっしゃるんですから。でも、そこが可愛らしいんですけどね」
彼女は、僕のまだ少し眠たそうな顔を覗き込みながら、少しだけ心配そうに眉を寄せた。
ドジで慌てん坊だけど、メアリーはいつも一生懸命で、とても優しいメイドだった。
彼女の気遣いが、僕の心を温かくする。
◇
朝食のために食堂へ向かうと、すっきりとした顔のレオ兄様がすでに席について、書物を読んでいた。
「おはよう、メル。ちゃんと目は覚えているか?」
僕の姿に気づくと、兄は本から顔を上げて、穏やかに微笑む。
その目は、僕がぼーっとしているのを少し心配しているようだった。
僕がこくりと頷くと、安心したように「そうか」と呟いた。
そこへ、パタパタと軽い足音を立ててイリ姉様がやってきた。
「もう、メルってば! またそんなぽやんとした顔をして! 少しは気合を入れなさいよ!」
姉は僕の隣にどかりと座ると、僕の頬を両手でむにゅっと挟む。
口ではいつも厳しいことを言うけれど、その声には優しさが滲んでいるのを、僕は知っている。
「……ん」
僕がいつものようにぼーっとした返事をすると、姉は「はぁ」とわざとらしく大きなため息をついた。
でも、その口元は少しだけ笑っていた。
家族に囲まれて食べる朝食は、いつも温かくて美味しい。
父様と母様も席に着き、穏やかな会話が始まる。
みんなが僕のことを気にかけて、優しく見守ってくれている。
その愛情が、じんわりと胸に広がっていくのを感じた。
◇
朝食の後、僕は庭の木陰にあるお気に入りのベンチに座って、一人でのんびりとしていた。
柔らかな日差しが、木々の隙間から降り注いで、心地よい。
『……ナビ』
心の中で、そっと呼びかける。
《はい、メル。ここにいますよ》
すぐに、落ち着いた声が頭の中に響いた。
この声を聞くと、いつも心が安らぐ。
『みんな、いそがしそうだね』
心の中で、そっと呟く。
《ええ。フェリスウェル家の朝は、効率的かつ穏やかに進行しています。各々の役割が明確ですからね》
ナビが淡々と答える。
『僕のやくわりは、ぼーっとすることかな?』
前世の癖からくる不安ではなく、子供らしい素朴な疑問として口にする。
《現時点では、健やかに成長し、この世界の日常に慣れることがあなたの最優先タスクです。つまり、メルが『ぼーっとする』ことは、非常に重要な役割と言えますよ》
『そっか。大事な、おしごとなんだ』
ナビの言葉に、僕はなんだか満足して、胸を張った。 この『おしごと』なら、誰にも負けないくらい上手にできる自信がある。
◇
「メルヴィン様、おやつの時間ですよー」
メアリーが、今度は果物のジュースが乗ったトレイを持って、にこにこしながらやってきた。
僕が「ありがとう」と手を伸ばした、その時だった。
きゃっ、と小さな悲鳴が上がる。
メアリーが、何もないところで少しだけ足をもたつかせ、トレイがぐらりと大きく傾いた。
「わわっ! す、すみません!」
幸い、ジュースのグラスは彼女が必死に押さえたおかげで落ちずに済んだけれど、トレイの上の焼き菓子がいくつか、芝生の上に転がり落ちてしまった。
メアリーは真っ青になっている。
その時、近くのテラスで読書をしていたイリ姉様が、さっと駆け寄ってきた。
「ちょっと、メアリー! またドジしてるの! メル、大丈夫!? かかったりしてないでしょうね!」
姉は僕の服をぱたぱたと払いながら、すごい剣幕でまくし立てる。
その必死な様子が、なんだかおかしくて、僕は少しだけ笑ってしまった。
「大丈夫だよ、イリ姉様。ぜんぜん、平気」
「そう……ならいいけど……」
僕の言葉に、姉はほっとしたように胸をなでおろし、それからメアリーの方をじろりと睨んだ。
「もう、本当に気をつけてよね!」
「は、はい! 申し訳ありません!」
しょんぼりするメアリーと、ぷんぷん怒っている姉。
そのやり取りを、僕はぼんやりと眺めていた。
この屋敷の、いつもの光景だった。
◇
夜、自分の部屋のベッドに横になりながら、今日一日のことを思い返す。
心配してくれる兄様。
口うるさいけど、本当は優しい姉様。
ドジだけど、一生懸命なメイドのメアリー。
みんな、僕のことをちゃんと見てくれている。
『ぼーっとしてても、ここは大丈夫だなあ……』
ぽつりと、独り言が漏れた。
この家族と、そしてナビがいれば、僕は僕のままでいいんだと、心から思える。
《ええ、大丈夫ですよ》
頭の中で、ナビが優しく応えた。
《私がずっと、あなたのそばにいますから。どうぞ、安心して、のんびりしてくださいね》
その言葉が、温かい毛布のように僕の心を優しく包み込む。
明日もきっと、今日と同じように、穏やかで、少しだけ賑やかな一日が始まるのだろう。
僕は、そんな幸せな予感に満たされながら、静かに目を閉じた。