第27話「はじめての本」
紙工場の完成を祝うお祭りが終わってから、村はまたいつもの穏やかな日常を取り戻していた。
違うことといえば、村の子供たちの間で、夜空に咲いた光の花の絵を描くのが大流行していることくらいだろうか。
その日、僕はレオ兄様の執務室にいた。
兄様は、机の上に山と積まれた真っ白な紙を前に、見たこともないくらい上機嫌だった。
「すごいだろう、メル! これが、あの工場で初めて量産された紙だ!」
レオ兄様は、興奮した様子で一枚の紙を手に取り、光に透かしている。
「見てくれ、この滑らかさ! 羊皮紙のように分厚くなく、それでいてインクの乗りもいい。何より、これが安価に、好きなだけ手に入るんだぞ!」
兄様は、領地の未来を夢見るように、目を輝かせている。
「これがあれば、高価な羊皮紙を削って再利用する必要もなくなる。領地の帳簿も、村への通達も、好きなだけ書き損じができるんだ! なんて素晴らしいことだろう!」
『うーん、まあ、そうだね』
僕は、兄様の熱弁を、少しだけ眠たい頭で聞き流していた。
僕にとって、紙はトランプで遊ぶためのものであって、難しい書類を書くためのものじゃない。
『ナビ、この紙で、何か他に面白いことできないかな。帳簿より、もっと楽しいやつ』
《提案します。複数の紙を束ねて綴じることで、「書物」を作成することが可能です。現在、書物は高価な羊皮紙で作られているため、一部の富裕層や知識層しか手にすることができませんが》
『本か。なるほど。面白いお話の本を作ったら、イリ姉も喜ぶかもしれないな』
《はい。娯楽としての書物の普及は、領民の文化レベルと幸福度を向上させます》
『そっか。まあ、今度ひまになったら、考えてみようかな』
僕は、あくびを一つすると、その時はそれで満足してしまった。
◇
次の日の午後。
僕がお昼寝から目を覚ますと、どこからか不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「もう! 退屈だわ!」
声の主は、イリ姉だった。
彼女は、ぷんぷんに怒りながら、談話室のソファの上で足をぶらぶらさせている。
「どうしたんだい、イリス。そんなに怒って」
レオ兄様が、優しく声をかける。
「だって、お父様とお母様はお客様のところだし、レオ兄様はお仕事ばっかり! 図書室の本は、難しい字ばっかりで、全然面白くないんだもの!」
イリ姉は、頬を大きく膨らませた。
「どうしてこのお屋敷には、楽しいお話や、可愛い絵がたくさん描いてある本がないのよ!」
その、子供らしい、あまりにも真っ当な不満。
それを聞いて、僕は「そういえば」と、昨日ナビと話したことを思い出した。
『ナビ、決めた。本作ろう』
《承知しました。どのような内容にしますか?》
『うん、イリ姉でも分かるくらい、簡単で、面白いやつがいいな』
◇
僕は、レオ兄様から新しい紙を数枚もらうと、早速、はじめての本作りを始めた。
「メル? 何を始めるんだい?」
「うん、イリ姉のために、面白い本を作ってあげる」
「え、本当!?」
さっきまで不機嫌だったイリ姉が、ぱっと顔を輝かせて、僕の手元を覗き込んできた。
僕は、ナビに手伝ってもらいながら、前世で誰もが知っている、ある物語を思い出す。
三匹の子豚と、オオカミの話だ。
僕は、木炭で、紙に簡単な絵を描き始めた。
でも、僕の絵は、お世辞にも上手とは言えない。
『ナビ、もうちょっと、可愛く描けないかな』
《問題ありません。メルの脳内イメージを、あなたの右手の筋肉の動きにフィードバックします。あなたはただ、ペンを握っているだけで結構です》
ナビの言葉と同時に、僕の手が、まるで意思を持ったかのように、すらすらと動き始めた。
藁の家を作る、一番上のお兄さん豚。
木の家を作る、二番目のお兄さん豚。
そして、レンガの家を一生懸命作る、末っ子の豚。
我ながら、なかなか可愛らしい絵が描けている。
「すごいじゃない、メル! あんた、絵が上手だったのね!」
イリ姉が、感心したように声を上げる。
僕は、それに答えず、物語の文章を、簡単な言葉で書き加えていった。
◇
数時間後。
世界で初めての、「フェリスウェル童話」が完成した。
表紙をつけて、紐で綴じただけの、簡単な本だ。
「できたよ」
「わーい! 見せて見せて!」
イリ姉は、僕の手から本をひったくると、夢中になって読み始めた。
レオ兄様も、興味深そうに、その隣から覗き込んでいる。
「……ふふっ、このオオカミ、間抜けね」
「なるほど。勤勉の重要性を説く、教訓的な物語か。しかし、子供にも分かりやすい」
二人は、すっかり物語の世界に引き込まれているようだった。
やがて、最後まで読み終えたイリ姉が、興奮した顔で僕に言った。
「面白い! すごく面白いわ、メル! ねぇ、次のお話はないの!?」
「えー、もう疲れたよ」
僕がそう言うと、イリ姉は「そんなこと言わずに!」と、僕の腕をぶんぶんと振った。
◇
その夜。
僕が作った小さな絵本は、父様と母様にも、大絶賛された。
「メル、お前は……」
父様は、その本を手に取ったまま、何かを深く考え込んでいる。
また、領主の顔になっていた。
「父上。この『本』という形式そのものに、大きな価値があるかと」
「うむ。レオの言う通りだ。物語、絵、そして安価な紙。この三つが揃えば……」
父様とレオ兄様が、また何やら難しい話で盛り上がり始めた。
どうやら、僕の「退屈しのぎ」は、また一つ、この領地に新しい産業を生み出してしまったらしい。
僕は、そんな二人を横目に、あくびを一つ。
『ナビ、父様、また張り切ってるね』
《はい。出版業の確立は、文化レベルの向上と、新たな市場の開拓に繋がります。メルのスローライフ計画における、極めて有効な布石です》
『そっか。よかった』
僕は、イリ姉にせがまれて、次のお話のアイデアを考え始めた。
うん。みんなが喜んでくれるなら、たまには、こういうのも悪くないかもしれないな。
この、弟の退屈しのぎから生まれたささやかな一冊が、後に「フェリスウェル童話集」として、王国のすべての子どもたちに愛読されることになるのを、この時のメルは、まだ知らない。
【次回より毎日 18:00 更新】
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