第2話「ナビとぼんやり、はじめての会話」
ふわり、と意識が浮上する。
瞼の裏に、柔らかな光を感じた。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた自室の天井が視界に入る。
窓の外からは、小鳥たちの楽しそうなさえずりが聞こえてきて、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の中を優しく照らしていた。
この世界に生まれ変わってから、僕の朝はいつもこうだ。
時間に追われることも、けたたましい音に叩き起こされることもない。
ただ、自然の音と光が、穏やかに僕の一日の始まりを告げてくれる。
僕はしばらくの間、ベッドの中でぼんやりと天井を眺めていた。
前世の記憶は、もうずいぶんとおぼろげだ。
ただ、いつも何かに追われていた息苦しい感覚と、「のんびりしたい」と願った最後の瞬間だけが、今も微かに胸に残っている。
その願いが、叶えられたのだろうか。
この温かくて、どこまでも穏やかな毎日が、その答えのような気がした。
◇
いつものように、ぼんやりと過ごしていた、その時だった。
これまで頭の中にふんわりと漂っていた優しい気配が、すっと輪郭を結び、はっきりとした声となって響いた。
《おはようございます、メル》
その声は、男性的でも女性的でもない、落ち着いた中性的な響きを持っていた。
でも、不思議と冷たさは感じない。むしろ、陽だまりのような温かさがあった。
『……おはよう』
僕は、心の中でそっと返事をした。
これが、僕と『ナビ』の、初めてのちゃんとした会話だった。
《よく眠れたようですね。バイタルサイン、安定しています。気分はいかがですか?》
『うん……いい、かんじ』
まだ幼い僕の思考は、うまく言葉にならない。
それでもナビは、僕の言いたいことを正確に汲み取ってくれるようだった。
《それは何よりです。今日のリーデル村は快晴。日中は少し暖かくなるでしょう。薄手の服をおすすめします》
『わかった』
ナビは、僕の体調や気分を気遣い、生活のささやかなアドバイスをくれる。
それはまるで、ずっと昔から僕のことを見守ってくれていた、古い友人のようだった。
この声の主が、前世で僕が研究していた『AI』に近い存在なのだと、僕は直感的に理解していた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
ただ、この未知の世界で独りぼっちだと思っていた僕に、頼れる相棒ができた。
その事実が、僕の心をこの上ない安心感で満たしてくれた。
《さて、メル。今日は少しだけ、この世界のことに触れてみましょうか》
『せかいのこと?』
《ええ。この世界を満たしている、不思議な力についてです》
◇
ナビは、ゆっくりと僕に語りかけた。
《メル、目を閉じて、耳を澄ませてみてください。何か聞こえませんか?》
言われるがままに、僕はそっと目を閉じる。
聞こえるのは、小鳥のさえすり、遠くで風に揺れる木の葉の音、屋敷の中から聞こえる家族の生活音。
『……いつもの、おと?』
《そうです。では次に、その音の向こう側……空気の流れや、光の暖かさを感じてみてください》
僕は、ナビに導かれるままに、意識を集中させる。
頬を撫でる、優しい風。
瞼を通して感じる、朝の陽光の温もり。
僕の体を包む、穏やかな空気。
《この世界は、目に見えないエネルギーで満たされています。人々はそれを『マナ』と呼び、ごく一部の才能ある者だけが、それを『魔法』として操ることができます》
『まほう……』
あの日、蝶を追いかけて体が浮いた時の、不思議な感覚が蘇る。
《今のあなたには、まだそれをはっきりと認識することは難しいでしょう。ですが、あなたは非常に優れた素質を持っています。もしかしたら、その力のほんの小さなカケラくらいは、感じ取れるかもしれませんよ》
ナビは、決して僕を急かさない。
ただ、新しい世界の扉を、そっと指し示してくれるだけだ。
僕は、言われた通りに、空気の中に満ちているという『マナ』を感じようとしてみた。
でも、やっぱりよく分からない。
ただ、いつもより少しだけ、世界がキラキラして見えるような気がしただけだった。
『……よく、わかんない』
《ふふ、それでいいんですよ。焦る必要はありません。今はただ、この世界が優しくて温かい力で満たされているということだけ、心の片隅に置いておいてください》
ナビの優しい声を聞いていると、分からなくてもいいや、という気持ちになってくる。
僕は大きくあくびを一つして、ゆっくりと目を開けた。
◇
コンコン、と部屋の扉がノックされた。
メイドのエリスが、僕の朝の支度を手伝いに来てくれたのだ。
着替えを済ませて食堂へ向かうと、そこにはもう家族の姿があった。
「おはよう、メル。今日もぼーっとしているな」
僕の顔を見るなり、そう声をかけてきたのは兄のレオンハルトだった。
レオ兄様は、僕の六歳年上。
真面目で責任感が強く、いつも僕のことを気にかけてくれる優しい兄だ。
「もう、レオ兄様ったら! メルはこれが通常運転なのよ!」
レオ兄様の隣から、元気な声が飛んでくる。
姉のイリスだ。イリ姉様は僕の三歳年上で、いつもツンツンしているけれど、本当は僕のことが大好きだということを、僕は知っている。
「ほら、メル! 口開けてないで、さっさと席に着きなさい!」
イリ姉様はそう言いながら、僕の背中をぽん、と押して椅子に座らせてくれる。
その手つきは、少し乱暴だけど、温かかった。
「おはよう、メルヴィン。よく眠れたかしら?」
母のセリーナが、僕の前に温かいミルクの入ったカップを置きながら、優しく微笑む。
父のアレクシオも、新聞から顔を上げて、僕に穏やかな視線を向けた。
この、何気ない朝の光景が、僕にとってはかけがえのない宝物だ。
僕が、頭の中にいるナビと会話していることなんて、誰も知らない。
みんな、僕のことを「少しぼーっとした、のんびり屋の末っ子」だと思っている。
それで、よかった。
この秘密は、僕とナビだけのものだ。
◇
朝食を食べ終え、僕は再び自室の窓辺に戻ってきた。
庭では、イリ姉様が剣の素振りをしている。
レオ兄様は、父様の書斎で領地経営の勉強中だろうか。
それぞれが、それぞれの役割を果たしている。
じゃあ、僕の役割はなんだろう。
『……ナビ』
《はい、メル》
『僕は、このままでいいのかな。ぼーっと、してるだけで』
ふと、そんな疑問が湧いてきた。
前世では、常に何かを成し遂げることを求められていた。
その癖が、まだ抜けないのかもしれない。
《もちろんです。あなたの役割は、あなたが決めることです。ですが、今はまず、この穏やかな時間を心ゆくまで味わうことが、最も重要だと私は判断します》
ナビの声は、いつも僕の不安を優しく溶かしてくれる。
《あなたが望んだのは、『のんびりとしたスローライフ』です。その実現のためには、まずあなた自身が心からリラックスする必要がありますからね》
『そっか……』
ナビの言う通りだ。
僕は、のんびりするために、ここにいるんだった。
『じゃあ、これからも、のんびりやっていこうと思う』
僕は、窓の外の青い空を見上げながら、心の中で静かに決意した。
もう、何かに追われる必要はない。
自分のペースで、ゆっくりと歩いていけばいいんだ。
《ええ、一緒にのんびりと歩んでいきましょう。私が、ずっとそばであなたをナビゲートしますから》
その言葉が、僕の胸に温かく響いた。
穏やかな日差しの中、僕は相棒の優しい声に包まれながら、また少しだけ、うとうとと微睡み始めた。
僕の新しい人生は、まだ始まったばかり。
焦らず、気負わず、この優しい世界を、ゆっくりと味わっていこう。
そう思いながら、僕はまたゆっくりと目を閉じた。