第15話「お姉ちゃんの猛特訓と秘密の魔法」
昨日の屋根の上でのお昼寝は、最高に気持ちよかった。
今日もあの場所でのんびりしようかな、なんて考えながら、僕は自室のベッドで二度寝の体勢に入っていた。
穏やかで、平和な一日の始まりだ。
そう、思っていたのに。
バンッ!
「メルー! 起きなさい!」
ものすごい音を立てて、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、僕の姉、イリスだった。
彼女は、朝からすごい剣幕で、僕のベッドにずんずんと近づいてくる。
「イリ姉……? おはよう……。まだ、眠いんだけど……」
「おはよう、じゃないわよ! あんた、昨日のあれ、どうやったのよ!」
イリ姉は、僕が布団をかぶるのもお構いなしに、僕の両肩を掴んでぶんぶんと揺さぶる。
昨日のあれ、というのは、間違いなく空を飛んだ魔法のことだろう。
「私にも教えなさい! 今すぐに!」
その目は、好奇心と、対抗心でキラキラと輝いていた。
どうやら、僕ののんびりした朝は、今日はお預けらしい。
『ナビ、どうしよう。めんどくさい……でもイリ姉が本気で悩んでるなら、少しだけ手伝ってあげてもいいかな……』
僕は姉に揺さぶられながら、心の中でナビに助けを求めた。
《提案します。最も効果的なのは、理解不能な情報を提供し、対象の学習意欲を根本から削ぐことです。いわゆる「煙に巻く」という戦術ですね》
『なるほど』
ナビの、いつもながら冷静で的確なアドバイス。
僕は、一つ頷くと、眠たい目をこすりながら、姉に向き直った。
「あのね、イリ姉。あれは、そんなに簡単なことじゃないんだよ」
「なによ! あんたにできて、私にできないわけないでしょ!」
「うーんとね、まず、風さんと、仲良くならないといけないの」
僕の、あまりにも子供らしい言葉に、イリ姉は一瞬きょとんとした顔をした。
「か、風さんと仲良く? なにそれ?」
「うん。風の声を聴いて、心を一つにするんだよ。ふわーって、体ごと風になるの」
僕は、ナビが頭の中に表示してくれる、それっぽいイメージ図を、一生懸命、言葉にする。
もちろん、全部でたらめだ。
しかし、イリ姉は、その言葉を真剣な顔で聞いていた。
そして、何かを掴んだように、ぽんと手を打った。
「な、なるほど……! 風と心を一つに……! さすがメルね、言うことが違うわ! 分かったわ、ちょっとやってみる!」
そう言うと、イリ姉は嵐のように部屋から飛び出していってしまった。
僕は、ようやく訪れた静寂にほっとしながら、再び布団にもぐりこんだ。
◇
しばらくして、庭の方がやけに騒がしいので、僕はしぶしぶベッドから出て、窓の外を覗いてみた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「風さーん! 聞こえますかー! 私、イリス・フェリスウェルです! どうか、私と心を一つにしてください!」
イリ姉が、庭の真ん中で、空に向かって大声で叫んでいる。
そして、その場でぴょんぴょんと、何度もジャンプを繰り返していた。
『ナビ、あれは……』
《はい。あなたの提供した偽情報に基づき、対象は独自のトレーニングを開始した模様です。成功確率は、0.001%以下と算出されます》
僕が、そのシュールな光景に言葉を失っていると、呆れたような声が聞こえてきた。
「イリス、お前、一体何をやっているんだ……」
レオ兄様だった。
彼は、本を片手に、奇妙な踊りを続ける妹を、遠巻きに眺めている。
「レオ兄様! 見てなさい! 私は今、メルに教わった秘密の特訓をしているのよ!」
「メルに? ……イリス、その練習方法は、たぶん間違っていると思うぞ」
「な、何よ! レオ兄様には分からないのよ! これは、メルと私だけの、風と心を通わせるための、神聖な儀式なんだから!」
イリ姉は、顔を真っ赤にして、兄様に怒鳴り返す。
そして、さらに高く、ぴょん、ぴょんと飛び跳ね始めた。
もう、誰にも止められない。
◇
ぴょんぴょんと、必死に飛び続ける姉の姿。
最初は面白がって見ていた僕も、だんだん、少しだけ可哀想になってきた。
汗だくになって、息も上がっている。
『ナビ、ちょっとだけ手伝ってあげようかな。……あんまり頑張ってるから、さすがに放っておけないし』
《メルの任意行動を承認します。対象のモチベーションを維持することは、今後の我々への干渉を抑制する上で有効な手段です》
僕は、窓からそっと、イリ姉に意識を集中する。
そして、ナビの設計図通りに、精密な風の魔法を、ほんの少しだけ使った。
イリ姉が、一番高くジャンプした、その瞬間。
彼女の足元に、優しい上昇気流を、そっと送ってあげる。
「きゃっ!」
イリ姉の体が、いつもよりほんの少しだけ高く、ほんの少しだけ長く、ふわりと宙に浮いた。
時間にして、一秒にも満たない。
でも、彼女にとっては、十分すぎる時間だった。
すとん、と地面に着地したイリ姉は、何が起こったのか分からないという顔で、自分の手と足を見つめている。
そして、次の瞬間。
「やった! やったー! 今、浮いたわ! ちょっとだけ浮いた! 私、風さんと仲良くなれたんだわ!」
彼女は、満面の笑みで、その場でくるくると回り始めた。
完全に、自分の力だと信じ込んでいる。
レオ兄様だけが、不思議そうに首をかしげながら、僕のいる部屋の窓を、ちらりと見ていたような気がした。
◇
すっかり満足したイリ姉は、僕の部屋に凱旋してきた。
「ふん! 見てなさいよ、メル! 今のは、ほんの始まりなんだから! すぐにあんたみたいに飛べるようになって、追い越してあげるんだからね!」
彼女は、自信満々の顔でそう言い放つと、上機嫌で鼻歌を歌いながら、部屋から出ていった。
ようやく、僕の部屋に、本当の静寂が戻ってきた。
僕は、やれやれと肩をすくめると、今度こそ、ベッドにごろんと寝転がった。
『ナビ、これでしばらくは、静かにお昼寝できるかな』
《はい。成功体験により、彼女の自己学習へのモチベーションは300%向上しました。当面の間、我々への直接的な干渉はないものと予測されます》
ナビの、いつも通りの冷静な報告。
僕は、その言葉に満足げに一つ頷くと、心地よい眠りの世界へと、ゆっくりと意識を沈めていった。
うん。やっぱり、お昼寝が一番だ。




