第14話「空のお散歩と最高のお昼寝」
その日は、雲一つない、最高の晴天だった。
庭の木陰にあるお気に入りのベンチに寝転がって、僕は気持ちのいい風を感じていた。
ぽかぽか陽気で、絶好のお昼寝日和だ。
「あら、奥様! 見てください、この前の石鹸のおかげで、洗濯物が真っ白ですわ!」
「本当ねえ。それに、干しているだけでハーブのいい香りがするのよ」
遠くで、メイドたちが楽しそうにおしゃべりしている声が聞こえる。
それはそれで、平和でいいんだけど……。
『ナビ。なんだか、今日は少しだけ、賑やかだな』
《はい。天候が回復したことにより、屋外での活動が活発化しています。騒音レベルは、平常時より15%上昇しています》
『もっと静かで、誰にも邪魔されない場所で、お昼寝したいな』
僕の、ささやかな、しかし切実な願い。
それを聞いたナビは、即座に最適な解決策を提示した。
《提案します。屋敷の屋根の上は、最適な日照量、最小限の人的往来、そして優れた眺望を確保できます。アクセスには、風の魔法を用いるのが最も効率的です》
『屋根の上か。なるほど』
その手があったか。
僕は、にやりと笑うと、ベンチからゆっくりと体を起こした。
◇
僕は、庭の隅の、あまり人が来ない場所で、新しい魔法の練習を始めた。
『ナビ、風の魔法って、どうやるんだっけ? 普通にやっても、ただ風が吹くだけで、うまく浮かないんだよね』
『ていうか、そもそも風魔法で空って飛べるものなの?』
僕の素朴な疑問に、ナビは少しだけ間を置いてから答えた。
《良い質問です、メル。結論から言えば、この世界において、風魔法による個人の飛行は「理論上は可能だが、現実的には不可能」とされています》
『そうなの?』
《はい。ほとんどの魔術師が使う風魔法は、単純に空気を押し出すだけのものです。人間一人を安定して浮遊させるには、それとは比較にならないほど精密な魔力コントロールと、膨大なエネルギー効率が要求されるため、おとぎ話の領域とされているのです》
『じゃあ、無理なんじゃない?』
《いいえ、メル。それを可能にするのが、私の役目です。私がメルのマナ特性に合わせて最適化した、全く新しい複合術式を使用します。足元に小さな上昇気流を複数発生させ、それをらせん状に回転させることで、安定した揚力を最小限の魔力で生み出すことができます。この術式の設計図を、あなたの脳内に表示します》
『うわ、なんだか難しそう……』
《大丈夫です、メル。あなたはただ、この設計図の通りに、マナがくるくると渦を巻くのをイメージするだけでいいんですよ》
僕はナビに言われた通り、地面に落ちていた枯葉に意識を集中する。
僕の周りのキラキラしたマナが、ナビの設計図通りに、小さないくつもの渦を巻きながら、葉っぱをそっと包み込む。
ふわ。
葉っぱが、ただ浮き上がるのではなく、安定した姿勢で、僕の目の前まで静かに昇ってきた。
「おー」
思わず、小さな声が漏れる。
楽しくなって、僕はその葉っぱを、右に左に、くるくると動かして遊んだ。
次に、小さな石ころを浮かせてみる。これも成功だ。
『よし。じゃあ、次は僕だ』
《はい。メルの体重を浮遊させるには、より広範囲のマナを、足元に集束させる必要があります。焦らず、ゆっくりと》
僕は、目を閉じて、大きく深呼吸をした。
僕の体を、ナビの設計図通りの優しい風が、下から支えてくれるイメージ。
ふわり。
体が、軽くなる。
目を開けると、僕の足は、地面からほんの少しだけ、浮き上がっていた。
「わ、浮いてる!」
嬉しくなって、少しだけぴょんぴょんと跳ねてみる。
無重力みたいで、すごく楽しい。
これなら、屋根の上まで行けそうだ。
◇
僕は、ゆっくりと、高度を上げていく。
庭の木々のてっぺんを越え、二階の窓を通り過ぎ、あっという間に、屋敷の屋根の上までたどり着いた。
屋根の上は、僕が想像していた以上に、広くて、静かで、最高の場所だった。
太陽の光を浴びて、瓦がほんのりと温かい。
ここからだと、僕たちの領地の全部が、おもちゃみたいによく見える。
『ナビ、すごいよ! ここ、特等席だ!』
《はい。外部からの干渉を受ける可能性は極めて低く、安眠を確保するには最適な環境です。スリープモードへの移行を推奨します》
『さんせーい』
僕は、一番日当たりのいい場所に、ごろんと寝転がった。
誰にも邪魔されない、僕だけの秘密基地。
僕は、心地よい温かさと、静けさの中で、あっという間に夢の中へと落ちていった。
◇
その頃、庭では。
「もう! メルったら、どこに行ったのかしら! おやつの時間よって、カトリーナが呼んでるのに!」
イリ姉が、少しだけ不機嫌そうに、僕を探していた。
「まあまあ、イリス。メルももう八歳だ。屋敷のどこかで、本でも読んでいるんだろう」
レオ兄様が、穏やかに姉をなだめる。
その時だった。
一羽の小鳥が、さえずりながら、屋敷の屋根の上にとまった。
「あら、綺麗な鳥ね」
イリ姉が、その鳥を見上げて、ふと、動きを止めた。
鳥がとまった、すぐその隣。
屋根のてっぺんの、一番日当たりのいい場所で、何かがすやすやと寝息を立てている。
「なっ……! な、なによ、あれ……!」
イリ姉が指さす先を、レオ兄様もゆっくりと見上げた。
そして、信じられないという顔で、目を見開いた。
「……メル?」
そう。
そこには、世界で一番平和な顔をして、屋根の上でお昼寝をしている、僕の姿があった。
「な、なんでメルがあんなところにいるのよ!? どうやって登ったの!?」
イリ姉が、パニックになって叫ぶ。
「……信じられない。あんな高い場所に、一人で……。一体どうやって……」
レオ兄様は、冷静に、しかし呆然と呟いていた。
◇
二人の大声で、僕は気持ちのいいお昼寝から、ゆっくりと目を覚ました。
「ん……? あれ、兄様? イリ姉?」
僕は、屋根の上から、手を振る。
下から、イリ姉が必死の形相で叫んでいるのが見えた。
「メルー! あんた、どうやってそこに登ったのよ! 危ないから、早く降りてきなさい!」
どうやって、と言われてもなあ。
「こうやってだよ」
僕は、ふわりと浮かび上がると、ゆっくりと二人のいる庭へと降りていった。
「ただいまー」
僕が、まだ少し眠たい声でそう言うと、イリ姉がすごい勢いで駆け寄ってきた。
「ただいまー、じゃないわよ! 危ないでしょ!」
「メル、すごいじゃないか。だが、その力はあまり人前では使わない方がいいかもしれないな……」
兄様も、興奮と困惑が混じったような、複雑な顔をしている。
僕は、二人の剣幕に、きょとんと首をかしげるだけだった。
『ナビ。なんだか、二人ともすごく怒ってるみたい』
《いいえ。あれは、あなたの規格外の能力に対する、驚愕と、親愛の情の発露です。問題ありません》
僕は、そんなことより、おやつのことしか頭になかった。
だって、気持ちよくお昼寝した後は、お腹が空くものだから。
◇
その夜、父アレクシオの執務室。
「……ということが、本日ありました」
レオ兄様は、今日の昼間に起こった出来事を、父に正確に報告していた。
「……なんだと? メルが、空を飛んだ、だと?」
書類に目を通していた父様は、ペンを止め、驚いたように顔を上げた。
「はい。風の魔法だったかと。しかし、あれほどの安定性と精度……私も魔法を学びますが、常軌を逸しています。まるでおとぎ話のようです」
レオ兄様の言葉に、父様はしばらく黙り込んでいたが、やがて、こらえきれないといったように、くつくつと笑い出した。
「はは……はははは! そうか、メルが! あのいつもぽやんとしているメルが、か!」
父様は、心底おかしそうに笑っている。
「いや、しかし……とんでもない才能だな。」
「はい……」
「まあ良い。レオ、イリスにも口止めしておけ。あの子の力は、まだ我々だけの秘密にしておこう。面倒なことになっても、あいつの昼寝の邪魔になるだけだろうからな」
父様の言葉に、レオ兄様は「承知いたしました」と、静かに頷いた。
僕の知らないところで、僕ののんびりスローライフは、家族の愛情によって、しっかりと守られていたのだった。




