第13話「イリ姉のイライラと髪のための石鹸」
僕が発明した「フェリスハーブ石鹸」は、屋敷の女性たちの間で大評判だった。
そのおかげで、屋敷の中はいつも、ハーブの爽やかで、いい匂いがしている。
それは、僕ののんびりスローライフにとっても、非常に快適なことだった。
ただ一つ、問題があったとすれば。
「もうっ! なんなのよ、この髪はー!」
お風呂上がりのイリ姉が、鏡の前で自分の髪と格闘しながら、かんしゃくを起こしていた。
石鹸で洗った彼女の綺麗な髪は、櫛がなかなか通らず、ギシギシと音を立てているみたいだった。
「せっかく汚れは綺麗に落ちるのに! これじゃあ、髪をとかすだけで一苦労じゃない!」
ぷんぷん怒りながら、無理やり髪に櫛を通そうとしている。
僕は、その様子を部屋の隅からぼんやりと眺めていた。
『ナビ。どうして石鹸で洗うと、髪はギシギシになるの?』
《石鹸はアルカリ性のため、髪の表面を覆うキューティクルを開かせる性質があります。それが、きしみの主な原因です》
『ふーん。じゃあ、サラサラにする方法はないの?』
《解決策を提案します。保湿成分を多く含んだ液体状の石鹸、いわゆる「シャンプー」の開発が有効です。髪専用に成分を調整することで、きしみを抑え、滑らかな洗い上がりを実現できます》
『なるほど』
僕は、ナビの冷静な解説に、一人で納得していた。
そして、思わず、心の声が少しだけ口から漏れてしまった。
「髪のための、特別な石鹸かあ……」
◇
その、独り言を。
すぐ近くで聞いていた人物がいた。
「メル!」
背後から、今まで聞いたこともないような、真剣な声で名前を呼ばれて、僕はびくりと肩を揺らした。
そこに立っていたのは、母様だった。
その目は、キラキラと、いや、ギラギラと輝いている。
「お母様?」
「今、なんて言ったの? 髪のための、特別な石鹸ですって!?」
母様は、ずんずんと僕の前にやってくると、僕の両肩をがっしりと掴んだ。
いつもの、ふんわりとした優しい母様じゃない。
なんだか、すごい気迫だ。
「えっと、まあ、そんなのがあったら、髪もサラサラになっていいのかなって……」
僕が、しどろもどろに答えると、母様の目の輝きが、さらに増した。
「作れるの?」
「えっ」
「作れるのね!? いいえ、作りなさい! 絶対に! 今すぐに!」
母様は、僕の肩をぶんぶんと揺さぶる。
「これは、お母様命令です! いいこと、メル? あなたの、その頭脳と知識を総動員して、この世で一番、髪がサラサラになる、最高の石鹸を作り上げるのです!」
どうやら、母様も、そして屋敷の他の女性たちも、髪のきしみに悩んでいたらしい。 僕のうっかりした一言が、彼女たちの心の奥底に眠っていた、切実な願いに火をつけてしまったようだった。
僕のすぐそばに控えていたエリスや、他のメイドたちも、目をギラギラさせながら、ぶんぶんと激しく頷いている。
『うわあ……』
《女性陣からの強い要求は、開発成功時の高い満足度を保証します。これはメルの快適な生活環境の維持に直結する、優先度の高いタスクです》
こうして、僕の意志とは関係なく、新しい発明プロジェクトが、強制的にスタートしてしまったのだった。
◇
僕は、熱意に燃える母様に腕を引かれ、リディアの作業場へと連れてこられた。
「リディア! 大変よ! メルが、髪がサラサラになる、特別な石鹸を作るのですって!」
母様は、興奮した様子でリディアにまくし立てる。
「あなた、この前も手伝ってくれたのでしょう? 今回も、メルを助けてあげてちょうだい! これは、この屋敷の、いえ、この世界の全ての女性のためなのですから!」
なんだか、話がすごく大きくなっている。
リディアは、そんな母様の勢いに少しだけ驚きながらも、僕の方を見て、静かに微笑んだ。
「坊ちゃま。また何か、面白いことをお考えで?」
彼女の目には、確かな好奇心の色が浮かんでいた。
僕は、少しだけ疲れた顔で、こくりと頷くしかなかった。
◇
僕たちの、新しい発明が始まった。
今回のテーマは、「髪のための、特別な液体石鹸」。
「リディア、この前の石鹸の元をね、もっとお水を多くして、とろとろにするんだ」
「はい。水分量を調整するのですね」
「それから、髪にいい葉っぱと、甘い蜜を少しだけ入れるの」
「なるほど。髪をしっとりさせるための、油と蜂蜜ですのね。承知いたしました」
ナビの科学的な知識を、僕が子供の言葉に翻訳し、それをリディアが専門的な技術で形にしていく。
僕たちの共同作業は、驚くほどスムーズに進んだ。
最後に、リディアが育てているカミツレ(この世界では、カモミールに似た、甘い香りのする花)の煮出し液を加えて、黄金色の、とろりとした液体が完成した。
「これが……髪のための石鹸……」
リディアが、うっとりとした顔で、その液体を眺めている。
見た目も、香りも、この前の固形石鹸とは全く違う、特別なものが出来上がった。
◇
その夜。
新しい発明品の、最初の実験台に選ばれたのは、もちろんイリ姉だった。
「ふん、どうせまた変なものでしょ。これで、この前よりギシギシになったら、あんたのせいだからね!」
イリ姉は、まだ疑いの目で、黄金色の液体を見つめている。
しかし、その液体を髪につけて泡立てた瞬間、彼女の表情が変わった。
「なっ……! なにこの泡! この前のより、ずっとふわふわじゃない!」
そして、お風呂から上がってきたイリ姉を見て、僕たちはさらに驚いた。
濡れたままの彼女の髪が、櫛を入れなくても、指でするすると解けていくのだ。
やがて、髪が乾くと、そこには信じられないような光景が広がっていた。
今まで、いつも少しだけごわついていたイリ姉の髪が、まるで絹糸のように、サラサラ、つやつやに輝いている。
風が吹くたびに、カミツレの甘い香りが、ふわりと漂った。
「な、なによこれ……! 髪が、とかさなくてもサラサラじゃない……! しかも、すごくいい匂い……!」
イリ姉は、自分の髪を何度も何度も手で触りながら、言葉を失っている。
母様は、その隣で「まあ、まあ!」と、涙ぐんで感動していた。
◇
もちろん、この新しい発明品は、すぐに父様の耳にも入った。
「リディア! この『髪洗い液』の量産化も、ただちに検討するぞ! これは、ハーブや石鹸を超える、我が領地の目玉商品になるかもしれん!」
父様は、いつも通り、商売のことしか考えていない。
でも、それでいい。
それで、僕ののんびりスローライフが安泰になるのなら。
僕は、サラサラになった髪を嬉しそうに揺らしながら、上機嫌で鼻歌を歌っているイリ姉を、ぼんやりと眺めていた。
『うん。お姉ちゃんがいい匂いだと、僕が近くにいても気持ちいいからな』
《はい。女性陣の幸福度向上は、家庭内の不和を減少させ、結果的にメルの快適な生活環境に貢献します》
ナビの、いつも通りの冷静な報告。
僕は、満足げに一つ頷くと、新しい発明品の成功を祝して、いつもより少しだけ早く、ふかふかのお布団にもぐりこんだ。




