第12話「ふわふわの泡とやさしい匂い」
その日は、朝から雨が降っていた。
外でお昼寝ができない僕は、少しだけ退屈していた。
『ナビ、何か面白いことないかな』
《室内での活動を提案します。先日開発したマヨネーズとケチャップを用いた、新しいサンドイッチのレシピを考案するのはいかがでしょう》
『それもいいけど、もう食べたしなあ』
僕は窓の外の、雨に濡れる庭をぼんやりと眺める。
雨のせいで、地面はどろどろのぬかるみになっていた。
それを見て、ふと、あることを思い出した。
◇
数日前、天気が良かった日に、僕は庭で泥団子を作って遊んでいた。
もちろん、手は泥だらけ。
その時、メイドのエリスに手を洗ってもらったんだけど、この世界の手洗いは、あまり気持ちのいいものじゃなかった。
「メルヴィン様、こちらでどうぞ」
エリスが差し出してくれたのは、ざらざらした粉だった。
木の灰や、細かい砂を混ぜて作った、この世界の洗浄剤だ。
それで手をこすると、汚れは確かに落ちる。
でも、洗い終わった後の僕の手は、少しだけ赤くなって、カサカサしてしまった。
『ナビ。もっとこう綺麗になるものってないのかな』
《あります。メルの前世のデータに基づき、最適な洗浄剤「石鹸」の製造方法を提案します》
ナビの言葉と同時に、僕の頭の中に、油と木の灰から作る、固形の石鹸の作り方が表示された。
『なるほど、石鹸か。面白そうだね。今度、時間がある時にでも作ってみようかな』
《はい。あなたの快適なスローライフを維持するための、重要な生活改善です。実行を推奨します》
◇
雨を眺めて退屈していた僕は、その時のことを思い出した。
『そういえば、ナビ。この前話してた石鹸のレシピ、もう一回見せてくれる?』
《承知しました。こちらになります》
僕の頭の中に、再び石鹸の作り方が表示される。
材料は、油と、木の灰から作る液体。工程には、火を使う場面もある。
『ナビ、これ、僕一人じゃ作れないよね? 火とか使うし』
《はい。火気と薬品を取り扱うため、専門的な知識と技術を持つ協力者が必要です》
僕の頭に、一人の人物が思い浮かんだ。
薬草係のメイド、リディアだ。
彼女なら、植物に詳しいし、何より仕事がとても丁寧で、細かい作業も正確にこなしてくれる。
僕は、リディアがいるであろう、屋敷の隅の作業場へと向かった。
作業場の中では、リディアが乾燥させた薬草を、静かに仕分けしているところだった。
「リディア、こんにちは」
「メルヴィン様。こんにちは。何か御用でしょうか」
リディアは、僕の姿を見ると、作業の手を止めて、静かに一礼した。
「うん。リディアにお願いがあるんだけど」
「私にできることでしたら」
「あのね、あぶらと、木のはいをまぜて、ぐつぐつしたいんだ」
僕の、あまりにも突飛なお願いに、リディアは少しだけ目を丸くした。
「油と、木の灰を…でございますか。それは、一体何をお作りに?」
「手が綺麗になって、いい匂いがする、ふわふわアワアワの石鹸だよ」
僕がそう言うと、リディアは少しだけ考え込むような仕草をした。
「…承知いたしました。面白そうですね。お手伝いさせていただきます」
リディアは、静かに、しかしその目には確かな好奇心を浮かべて、そう言ってくれた。
◇
僕たちは、厨房の隅にある、今は使われていない古いかまどを借りることにした。
「坊ちゃま、本当にこんなもので何かできるんですかい?」
料理長のヒューゴは、まだ半信半疑といった顔だ。
「うん。大丈夫だよ、ヒューゴ」
僕の指示のもと、リディアが慎重に作業を進めていく。
大きな鍋に、動物の油と、木の灰から作った液体(灰汁)を入れて、ゆっくりと火にかける。
「リディア、火はね、とろとろでね。絶対にぐつぐつさせちゃだめだよ」
「はい。承知いたしました」
「それから、混ぜる時は、ゆっくり、同じ方向に、ずーっと混ぜてね」
「はい」
僕の、子供らしい、感覚的な指示。
でも、リディアはそれを完璧に理解して、驚くほど正確に実行していく。
鍋の中の液体は、最初は分離していたけれど、リディアが辛抱強く混ぜ続けるうちに、だんだんとろみが増して、白く濁ったクリーム状に変わっていった。
「……まあ」
リディアが、小さな声を漏らした。
《鹸化反応、順調に進行中です。リディア氏の作業精度は98%。素晴らしいですね》
『でしょ?』
僕は、ナビの言葉に、少しだけ得意な気持ちになった。
◇
数時間後、鍋の中の液体は、完全に固まり始めていた。
僕たちは、それを木の枠に流し込むと、涼しい場所で一日寝かせることにした。
次の日。
木の枠を外すと、そこには乳白色の、大きな塊が出来上がっていた。
「これが、ふわふわアワアワの石鹸…ですか?」
リディアが、不思議そうにそれを手に取る。
僕たちは、水の入った桶のそばで、早速それを試してみることにした。
塊を少しだけ水で濡らして、両手でこすり合わせると、信じられないことが起きた。
しゅわしゅわしゅわ……。
今まで見たこともないような、きめ細かくて、ふわふわの泡が、リディアの手から溢れ出したのだ。
「まあ……!」
リディアは、驚きに目を見開いている。
僕も、自分の手で試してみる。
ふわふわの泡で手を洗うのは、すごく気持ちがいい。
水で洗い流すと、汚れは綺麗に落ちているのに、手は全然カサカサしていなかった。
むしろ、少しだけ、しっとりしているくらいだ。
「すごい……! すごい発明です、メルヴィン様……!」
リディアが、静かに、しかし興奮した声で言った。
「うん! これに、いい匂いをつけたいな」
僕がそう言うと、リディアは「それなら」と、自分が育てている薬草の中から、フェリスハーブを持ってきてくれた。
僕たちは、もう一度、今度はハーブの香りをつけた、特別な石鹸を作った。
◇
完成したばかりの「フェリスハーブ石鹸」は、すぐに屋敷の女性たちの間で、大評判になった。
「まあ! なんて素敵な泡立ちなのかしら! それに、この香り……! とても癒されますわ!」
母様は、すっかりお気に入りの様子だ。
「ふん、ただの石っころじゃない。……えっ、何これ! 手がすべすべになるじゃない! ちょっと、これ、私にも一つちょうだい!」
イリ姉も、最初は馬鹿にしていたくせに、一度使っただけですっかり虜になっていた。
父様は、その様子を見て、すぐに商売の匂いを嗅ぎつけたらしい。
「ヒューゴ、リディア。この石鹸の量産体制を整えろ。プリン、ハーブに続く、我が領地の第三の特産品とするぞ!」
父様の号令に、屋敷はまた、新しい発明で活気づいていた。
僕は、そんな大人たちの騒ぎを、少し離れたところからぼんやりと眺める。
『ナビ、これで、泥んこになっても大丈夫だね』
《はい。あなたの快適なスローライフを維持するための、重要な生活改善です。副次的な経済効果も期待でき、計画は順調と言えるでしょう》
僕は、満足げに一つ頷くと、自分の手についた、ハーブ石鹸のいい匂いを、くんくんと嗅いだ。
うん。やっぱり、のんびりするためには、清潔で、いい匂いがするのが一番だ。




