第11話「いつもの味と新しい味」
僕が八歳になり、前世の記憶を取り戻してから、数週間が過ぎた。
僕の日常は、特に何も変わらない。相変わらず、のんびりと毎日を過ごしている。
◇
その日の夕食のメインディッシュは、川魚のムニエルだった。
もちろん、ソースにはたっぷりと、今やこの領地の特産品となった「フェリスハーブ」が使われている。
「うむ、やはりこのハーブは素晴らしいな。ヒューゴの腕も相まって、毎日食べても飽きない味だ」
父様が、満足げにそう言う。
「ええ、本当ですわね。爽やかな香りが、食欲をそそりますわ」
母様も、にこにこと同意する。
家族みんな、この味がお気に入りだ。
もちろん、僕だって嫌いじゃない。美味しいとは思う。
思うんだけど……。
『ナビ。僕、そろそろこの味、飽きてきたかもしれない』
《はい。同一の味覚刺激を連続して摂取することにより、脳が満足度を低下させる、いわゆる「飽き」の状態ですね。メルの食生活の多様性を向上させるため、新しい味覚体験の導入を推奨します》
『だよねえ。何か、他にないのかな。もっとこう、こってりしたやつとか、甘酸っぱいやつとか』
前世の記憶が戻ったことで、僕の舌は、この世界の素朴な味付けだけでは満足できなくなっていた。
《承知しました。メルの前世のデータに基づき、最適な調味料を提案します。本日のムニエルであれば、「マヨネーズ」または「ケチャップ」とのペアリングが、あなたの満足度を120%向上させるでしょう》
『マヨネーズ……ケチャップ……!』
その懐かしい響きに、僕の口の中にじゅわっと唾液が広がる。
よし、決めた。明日は、厨房に行こう。
◇
次の日、僕は厨房を訪れた。
中では、料理長のヒューゴが、新しいフェリスハーブの料理を試作しているところだった。
「おお、メルヴィン坊ちゃま! ちょうど良いところに! 新しいハーブのスープを試作したのですが、味見をしていただけませんか?」
ヒューゴは、目を輝かせて僕に小さな器を差し出す。
僕は、にっこりと笑ってそれを受け取ると、本題に入った。
「ヒューゴ、ありがとう。それも嬉しいけど、今日はね、新しい『味』を作ってみたいな」
「ほう、『味』、でございますか」
「うん。白くて、ちょっとすっぱくて、こってりしたのと、赤くて、甘くて、すっぱい、二つのソース」
僕の言葉に、ヒューゴは「ふむ」と腕を組んだ。
プリンの一件以来、彼は僕の言うことを、ただの子供の戯言だと笑わなくなった。
「して、坊ちゃま。そのソースは、一体何から作るのですかな?」
「えっとね、白い方は、卵の黄身と、お酢と、油だよ」
その材料を聞いた瞬間、ヒューゴの顔が、わずかに曇った。
「坊ちゃま……。油と酢……水と油という言葉があるように、その二つは決して混ざり合うことはございませんぞ。それに何より、卵を生で使うなど! 食あたりを起こします! とてもお出しできるものではございません!」
「大丈夫! あのね、お酢をね、ほんのすこーしだけ、あったかくするの。そこに、卵の黄身をいれて、よーく混ぜるんだよ。そうするとね、お腹が痛くならない、安全な卵になるんだよ」
「酢を温める…? そのような調理法、聞いたこともございません……」
ヒューゴは混乱している。
「それに、油はやっぱり混ざらないのでは?」
「それもだいじょうぶ! 油をね、すごーく、すごーく、ちょびっとずつ入れながら、めちゃくちゃ早く混ぜるの!」
僕は、ナビが頭の中に映し出す映像を、一生懸命、言葉で説明する。
ヒューゴは、まだ半信半疑だったけれど、「坊ちゃまがそうおっしゃるなら」と、調理を始めてくれた。
◇
最初は、分離して全く混ざらなかった油と卵黄。
ヒューゴが「やはり、これは……」と諦めかけた、その時だった。
「ヒューゴ! もっと早く! もっと、腕をぶんぶん振って!」
僕の応援に、ヒューゴは「うおおおっ!」と雄叫びを上げながら、鬼の形相で木の枝を束ねた泡立て器をかき混ぜる。
すると、どうだろう。
今まで反発しあっていた液体が、ゆっくりと乳化し始め、とろりとした、艶のあるクリーム状に変わっていったのだ。
「な……! なんだこれは……! 混ざった……!」
ヒューゴは、自分の腕の中で起きている化学反応に、驚愕の声を上げる。
完成したマヨネーズを、恐る恐る指先につけて、ぺろりと舐める。
「……!! こ、この濃厚なコクと、爽やかな酸味! 信じられん! ただの油と卵が、これほどまでに豊かなソースになるとは!」
ヒューゴの感動は、まだ終わらない。
次に、僕はトマトを煮詰めて作る、ケチャップの作り方を教えた。
真っ赤な果実が、砂糖と酢、そしていくつかの香辛料と共に、コトコトと鍋で煮詰められていく。
やがて、厨房には甘酸っぱい、最高の匂いが立ち込めた。
出来上がったケチャップを味見したヒューゴは、もう言葉もなかった。
ただ、天を仰いで、ぷるぷる震えているだけだった。
◇
その日の夕食。
食卓には、こんがりと焼かれた鶏肉のソテーが並んでいた。
そして、その横には、二つの小さな器。
白いマヨネーズと、赤いケチャップ。
「まあ、可愛らしいソースね。これは何かしら?」
母様が、不思議そうに首をかしげる。
「メルが、ヒューゴと一緒に作ったんだとさ。新しい『味』だそうだ」
父様が、楽しそうに説明する。
「ふん、どうせまた、変なものでしょ」
イリ姉は、まだ疑いの目を向けている。
「なんでも、生の卵を使っているそうじゃないか」
父様の言葉に、イリ姉と母様の顔が凍り付いた。
「えっ、生の卵!? あなた、やめなさいメル! お腹を壊しますわよ!」
「そうよ! お腹痛くなっても知らないんだから!」
僕は、そんな二人の心配をよそに、鶏肉に白いマヨネーズをたっぷりとつけて、ぱくりと食べた。
うん、この味だ。最高に美味しい。
僕があまりに幸せそうな顔で食べるので、イリ姉は、じっと僕の顔を見つめている。
「……本当に大丈夫なんでしょうね。お腹こわしたら、どうなるかわかってるでしょうね」
「そんなに心配なら、食べなきゃいいのに。……うまっ!」
僕がもう一口、美味しそうに頬張ると、イリ姉はついに観念したようだった。
彼女は、おそるおそる、ほんの少しだけソースを鶏肉につけて、ぱくりと口に運ぶ。
そして、目を見開いた。
「……! な、なによこれ! ちょっと、おいしいじゃない! 私、こっちの方がハーブより好きかも!」
さっきまでの心配はどこへやら。
イリ姉の言葉を皮切りに、父様も、レオ兄様も、みんな、新しい味の虜になっていた。
「なっ……! この白いソース、鶏肉の味をこんなにも濃厚にするのか!」
「本当だ! こちらの赤い方は、甘酸っぱくて、食が進むな!」
◇
食事が終わる頃には、ヒューゴは完全に燃え尽きていた。
いや、燃え上がっていた。
「坊ちゃま……! このソースがあれば、我がフェリスウェル家の食文化は、革命的に進化しますぞ!」
彼は、興奮した様子でまくし立てる。
「パンに挟んで『サンドイッチ』に! 揚げた芋につけても最高でしょう! 村の酒場のメニューも、根底から見直さねば!」
『うん。サンドイッチ、おいしそうだね。明日のお昼はそれにしてもらおうかな』
僕は、そんなヒューゴの熱意を、いつものようにぽやんと眺めながら、心の中でそう呟いた。
《はい。食生活の質の向上は、メルのスローライフ計画における最重要項目の一つです。今回の発明により、計画は大きく前進しました》
ナビの、頼もしい報告。
僕は、満足げに一つ頷くと、残っていたパンに、マヨネーズをたっぷりとつけて、大きく口を開けた。
うん、新しい味って、わくわくするな。




