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第105話「静かな馬車とにぎやかな馬車」

 まだ空が白み始めたばかりの、早朝。

 フェリスウェル邸の談話室は、出発の慌ただしさとは裏腹に、静まり返っていた。

 僕は、すでに出発の支度を終えさせられた格好のまま、最後の抵抗としてコタツに潜り込んでいた。


(よりによって、こんな朝から……。あー……面倒くさい。コタツと別れたくない……)


 僕がコタツと一体化している一方で、イリ姉は鏡の前でそわそわしていた。


「ねえ、母様!やっぱりこっちのリボンにする!バルカス領のお屋敷に、この髪飾りは地味すぎないかしら!?」


「まあ、どちらも素敵ですけれど、今日は移動が長いですから、シンプルなこちらのほうがよろしいんじゃないかしら」


 よそのお屋敷に行くとあって、イリ姉のテンションは最高潮らしい。

 そこへコンコン、と控えめなノックが聞こえ、エリスが静かに部屋へ入ってくる。


「メルヴィン様。恐れ入りますが、もう出発のお時間ですわ」


「あと5分……」


「いけません。旦那様も皆様も、もう玄関でお待ちです。馬車の準備も整っております」


 僕がコタツ布団を固く握りしめていると、母様が優しく微笑んで、とどめを刺した。


「あらあら、メルったら。帰ってきたら、いくらでも入れますわよ。さあ、行きましょう」


(母様の笑顔には勝てない……)


 僕は、背中のぬくもりが消えるのを感じながら、しぶしぶコタツから這い出した。

 エリスがテキパキと僕に暖かいコートを着せ、手袋をはめてくれる。

 そのままエリスに急かされながら、僕たちは談話室を後にし、玄関ホールへ向かった。



 屋敷の前には、馬車が二台も並んでいた。

 一台は僕たち家族が乗るためのもの。

 もう一台は、荷物と使用人さんたちが乗るためのものだ。


 荷物を積む馬車のそばでは、見慣れた顔ぶれが最終確認をしていた。

 薬草係のリディアが、荷物が崩れないよう、布や薬草を静かに詰め込んでいる。


 どうやら彼女が今回の侍女役らしい。


(リディアがついてきてくれるなら、少なくとも道中は静かで済みそうだ)


 馬車の御者台には、活発なソフィアが座り、馬の手綱をしっかりと握っている。

 その隣には、屈強そうな男性の使用人さんが二人いて、護衛を兼ねて槍を立てかけている。

 少し離れたところでは、メイド長のカトリーナが、父様と何やら確認をしていた。


「旦那様。道は整備されておりますが、日が暮れる前には必ずバルカス領に到着なさってください」


「うむ、無理のない行程だ。心配いらんよ」


 父様がそう言って、家族用の馬車に乗り込もうとしたとき、僕は小さく呼び止めた。


「あの、父様」


「ん?どうした、メル。もう出発するぞ」


 僕は隣の馬車を指さした。


「僕、あっちの馬車に乗っていい?」


「……は?」


 父様の動きがぴたりと止まり、その後ろで乗り込む順番を待っていた母様とイリ姉も、きょとんとした顔で固まった。

 僕が指さしたのは、荷物と一緒にリディアが乗る予定の、もう一台の馬車だ。


「なっ、何言ってるのよ、メル!こっちが家族の馬車でしょ!」


 イリ姉が、真っ先に我に返って叫ぶ。


「あらあら、メル?どうして家族の馬車じゃないほうがいいのかしら?」


 母様も困ったように微笑んでいる。

 向こうの馬車では、リディアが目を丸くして固まっている。


(だって……こっちの馬車、絶対面倒くさい)


 イリ姉は、さっきからクラリス嬢の話でそわそわしっぱなしだ。

 馬車に乗ったら、きっと母様の「貴族の挨拶講座・実践編」が始まるに違いない。

 それなら……。


(無口なリディアと、荷物の馬車のほうが、絶対、楽に決まってる……!)


 僕は、一番それらしい言い訳を探す。


「……リディアと、薬草の話がしたいから。それに、イリ姉がうるさそうだし」


「なっ……!うるさいとは何よ!」


「こら、イリス。……はあ」


 父様が、大きなため息を一つついて、僕の頭を見た。


「……まあ、いいだろう。リディアの邪魔だけはするんじゃないぞ」


「ええーーっ!?いいの、父様!?」


 イリ姉が抗議の声を上げる。


「やった!」


 僕はさっさと家族の馬車に背を向け、荷物用の馬車に駆け寄った。


「め、メルヴィン様……?こちらは、その……荷物と、わたくしどもが……」


 リディアが、まだ混乱したまま慌てている。


「うん。静かにしてるから、大丈夫。よろしくね、リディア」


「は、はい……」


 僕は、護衛の人が開けてくれた荷台のスペースに、よいしょ、と乗り込んだ。


 干した薬草の匂いがして、こっちのほうが落ち着く。


「……メル!覚えてなさいよ!」


 遠くの馬車からイリ姉の叫び声が聞こえたが、僕は知らないふりをした。


 カトリーナのやれやれ、といった深いため息に見送られ、僕たちを乗せた二台の馬車は、ゆっくりと動き出した。



 荷物用の馬車は、思った通り静かだった。

 ガタガタと石畳の道を行く振動は、家族用の馬車より少しだけ大きく感じる。

 でも、そんなのはどうでもよかった。


(ああ、静かだ……最高……)


 僕の向かい側にはリディアが座っているけど、彼女は薬草の本を静かに読んでいるだけで、一言も話しかけてこない。完璧だ。

 干した薬草の匂いと、荷物の布の匂いが混じって、なんだか眠くなってくる。


(今頃、父様の馬車では、イリ姉がそわそわして、母様が挨拶の練習とか始めてるんだろうなあ……。こっちを選んで、本当に正解だった)


 うとうとし始めた僕の脳内に、ナビが話しかけてきた。


《メルの選択は合理的です。前方車両からは、高周波数の音声が断続的に観測されます》


『……でしょ?僕はゆっくり寝ることにするよ。おやすみ、ナビ』


《はい。他領の生活インフラの観測も忘れずに。おやすみなさい》


(はいはい。分かってるって……)



 お昼が近づいた頃、馬車は街道沿いの、少し開けた場所で止まった。

 僕が荷台から降りると、ちょうど家族用の馬車からもみんなが降りてきた。


「あ!メル!ずるい!絶対あっちで寝てたわね!」


 イリ姉が、すぐに僕を見つけて頬を膨らませる。


「別に寝てないよ。薬草学の深い議論をリディアとしてたんだ。ねっリディア」


「……(こくこく)」


 僕が助けを求めると、ずっと寝ていたのを知りながら真顔で頷いてくれた。

 さすがリディア、よく分かってる。


 護衛の人たちが周囲を警戒し、リディアが静かにお茶の準備を手伝う。

 僕たちは、馬車の外で簡単なピクニックだ。

 ヒューゴが作ってくれたサンドイッチと温かいスープ。

 冷たい空気の中で食べる温かいスープは、思ったよりも悪くない。


『ナビ。外で食べるご飯って案外いいね。……まあ、ちょっと寒いけど』


《はい。環境の変化が心理的な満足度を向上させる効果は確認されています。一方で、現在メルは、体温維持のために通常時より約15%多くのエネルギーを消費していると推定されます》


『じゃあ、そのぶん今日は、「特別おいしい」ってことだね!』


《はい。では本日の評価は、「特別おいしい」ということで》


 僕は思わずくすっと笑って、スープをもう一口飲んだ。

 ふと顔を上げると、少し離れたところで父様と母様が、道のほうを眺めながら話していた。


「この道ができて、本当に移動が楽になったな」


「ええ、あなた。これなら、バルカス領との交流も、もっと増えるかもしれませんわね」



 昼休憩が終わり、僕は再びリディアのいる馬車に戻った。

 夕方が近づいてきた頃、道の脇に、古い石碑のようなものが見えた。


(あれ……?)


 森と土の匂いに混じって、ほのかに煙たいような、香ばしい匂いが漂ってくる。

 干した魚を焼くときみたいな、独特の匂いだ。


『ナビ、この匂い、分析できる?』


《はい。風に乗って運ばれてきた微粒子を分析。燻製小屋、または干物棚からの煙と推定されます》


(燻製……!)


 ちょうど前の馬車が少し速度を落とし、父様の声が聞こえてきた。

 どうやら、窓を開けてイリ姉たちに説明しているらしい。


「おお、ここから先が、バルカス領だ!」


 父様の声が、風に乗って聞こえてくる。


「この匂いは……燻製小屋の匂いだな。バルカス領は、あの大きな湖で獲れる魚を使った燻製が特産品でな」


(燻製……。やっぱり一回くらいは味見しておきたいよなあ)


 そう考えた瞬間、僕の胃袋が、ぐう、と静かに鳴った。


 そんなふうにお腹を空かせながら窓の外をぼんやり眺めていると、やがて遠くに大きな湖の青色がキラキラと見え始めた。

 湖を背にして建つ石造りの屋敷は、どっしりとした重厚な壁が印象的で、僕の家とは明らかに造りが違った。


(あれが、バルカス邸……)


 バルカス邸の屋根が、遠くの木々の向こうにくっきりと見え始めたあたりで、前の馬車が街道の脇に寄って速度を落として止まった。

 僕の乗った馬車も、そのすぐ後ろに止まる。

 何事かと思う間もなく、家族用馬車の窓が開いて、イリ姉が顔を出した。


「メル!父様が、もうすぐ着くから、こっちの馬車に移りなさいって!」


 家族用馬車の扉のそばには父様が立っていて、僕に向かって「来い」と無言で顎をしゃくっている。


(さすがに、よそのお屋敷に荷物馬車から降りるわけにはいかないもんなあ……)


「……リディア、静かでよかったよ。ありがとう」


「い、いえ……お役に立てたなら……?」 


 リディアが、不思議そうに首をかしげている。


 僕が、とぼとぼと家族用馬車に向かうと、イリ姉が「ぷん!」と頬を膨らませて僕を迎えた。


「もう!結局こっちに来るんじゃない!あっちでのんびりしてて、ずるいわよ!」


「のんびりじゃないって。薬草学の深い議論をリディアと……」


「はいはい、メルの言い訳はもういいから!」


 僕はイリ姉の隣の席に押し込まれ、二台の馬車は再びゆっくりと動き出した。

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