第103話:閑話「メイドの矜持と悪魔のぬくもり」
晩秋の朝は、屋敷の中もひんやりとして、とても寒い。
石造りの床は足元から冷気を伝え、窓辺に立てば、はあ、とうっすら白い息がこぼれた。
(朝の冷え込みが指先まで響きますわね……)
わたしは、これから始まる長い一日に備え、きゅっとエプロンの紐を結び直した。
最初の大仕事は、担当する主を起こすことだ。
コンコン、と優しいノックの音を立てる。
「メルヴィン様、朝ですよ。起きてくださいまし」
部屋に入ると、メルヴィン様は暖かい布団の中で、カタツムリのように丸くなっていた。
顔だけを布団から出して、不満そうにこちらを見ている。
「うぅ、さむい……まだ寝てる……」
「あらあら、メルヴィン様。朝ごはんですから、そろそろ起きてくださいませ」
布団から不満そうな、くぐもった声が聞こえてくる。
「……やだ。寒いし、僕のコタツもないし……。もう起きない……」
「コタツでしたら、ほら、お部屋の隅にございますわ」
視線の先には、メルヴィン様がお作りになった小さなコタツがぽつんと置いてある。
「加熱石が入ってないコタツなんて、コタツじゃなくて、ただのテーブル……」
その不満げな一言に、ここ数日の出来事が頭に浮かぶ。
あのコタツは、あまりの快適さに奥様の鶴の一声で、あっという間に談話室行きになってしまった。
けれどご家族全員で入るには小さすぎたため、結局メルヴィン様はぶつぶつ文句を言いながらも加熱石をお譲りになり、ご家族で使える大きなコタツを魔法で作り直されたのだと聞いている。
(面倒だと文句を言いつつも、ご家族のためにはちゃんと動いてしまわれるのですもの……)
そのことを思い出し、胸の奥でくすりと笑ってしまった。
(こんなふうに駄々をこねるお姿も、子供らしくて可愛らしいですわ)
わたしは、寒がるメルヴィン様の肩口をそっと直してやりつつ、ベッドから起こす。
そして、まだ眠そうに目をこする小さな主の背中を、ダイニングルームまで優しく押していった。
◇
メルヴィン様をダイニングまで送り届けた後は、わたしの本格的な仕事が始まる。
まずは屋敷中の暖まり具合を見て回る。
暖炉の前にしゃがみ込み、一つ一つ火加減を確かめ、灰が溜まっていれば手早くかき出す。
それから、厚手のカーテンを開けて朝の光を入れ、廊下や談話室の絨毯にほつれや汚れがないか、さっと目を走らせていく。
こうして屋敷を一巡し終え、ほっと息をついて厨房へ戻ろうとしたところで――
「エリス」
メイド長のカトリーナ様に呼び止められ、わたしは背筋を伸ばした。
「談話室は、コタツのおかげで皆様がお集まりになることが増えましたからね。お茶と軽食の用意をこまめにお願いします」
「はい、カトリーナ様」
(コタツ……。皆様があんなに夢中になるものとは、一体どれほどのものなのでしょう……)
◇
昼前。
わたしがリネンの交換をしていると、奥様のセリーナ様に呼び止められた。
「エリス、談話室にお茶と焼き菓子をお願いできますか?メルたちがくつろいでいますの」
「はい、奥様。すぐに」
わたしは一度厨房へ下がり、ヒューゴ様が用意していた焼き菓子と、湯気の立つハーブティーのポットをトレイに並べた。
甘い香りがふわりと立ちのぼり、少しだけ指先の冷えが和らぐ気がする。
そのぬくもりを背中に受けながら、トレイを両手に抱えて談話室の前へ向かい、コンコン、と扉をノックする。
中から奥様の「どうぞ」という声が返ってきたので、静かにドアを開けて入室した。
談話室の中央には、噂に聞いていたコタツが、ふかふかの布団をまとってどんと置かれていた。
(メルヴィン様のお部屋にあった、小さなコタツとは比べものになりませんわね……)
コタツの中では、メルヴィン様は、すっかりとろけた顔で本を読み、イリスお嬢様はぐでーっとした姿勢でトランプを混ぜている。
奥様は、その様子を優雅にお茶を飲みながら眺めていらっしゃった。
(皆様、すっかり……堕落されていらっしゃいますわね……)
わたしは姿勢を正し、きっちりとテーブルの上にお茶と菓子を配膳していく。
と、その最中にメルヴィン様が何気ない一言を口になさった。
「エリスも足冷えてるでしょ?少し入ってみたら?」
一瞬、心がぐらりと揺れたが、わたしは慌てて首を横に振った。
「と、とんでもありませんわ。わたしはメルヴィン様方のお世話をする側ですもの。コタツに入ってしまっては示しがつきませんわ」
(……ほんの少しだけなら、なんて思ってしまいましたわ。いけません、いけません)
わたしは自分で自分を戒めて、談話室を出た。
◇
厨房へ戻ろうと廊下を歩いていると、先のほうからメアリーとリディアの声が聞こえてきた。
「聞きましたぁ?旦那様まで、コタツでうとうとしちゃわれたそうですよぉ……」
「ええ、聞きました。レオ様も”あれは騎士の敵だ”なんて言いつつ、気に入っていらっしゃるそうですよ」
二人のやり取りに、思わず苦笑がこぼれた。
(やはり、本当に人をダメにするテーブルなのですのね……。メルヴィン様にとっては、さらに危険そうですわ)
わたしが通り過ぎようとした時、そこへメイド長のカトリーナ様が音もなく現れた。
「メアリー、リディア。井戸端会議をしている暇があれば、まず手を動かしなさい」
「「は、はいっ!すみません!」」
二人は慌てて散っていく。
カトリーナ様は、その二人を見送った後、わたしに向き直った。
「エリス」
「はい、カトリーナ様」
「あなたはメルヴィン様の担当です。メルヴィン様をコタツから引きはがす役目も、あなたの仕事のうちですよ」
「はい、心得ておりますわ」
カトリーナ様の言葉に、思わず肩にぎゅっと力が入った。
(……そうですわよね。わたしが甘やかしすぎてはいけませんわ)
◇
日もだんだんと傾き、屋敷の廊下にも長い影が伸び始めたころ。
談話室の片付けと、暖炉の火の確認のため、わたしは一人で部屋に向かった。
さっきまでご家族でにぎわっていた部屋も、今はひっそりと静まり返っている。
窓の外では冷たい風が木々を揺らし、ガラス窓がうっすらと曇っていた。
わたしの足先も、朝から屋敷中を歩き回っていたせいで、芯まで冷えきっている。
(カトリーナ様にも引きはがす役目と念を押されましたし……コタツがどれほど”危険”なのか、一度自分でも試しておいた方が、きっとメルヴィン様のためになりますわ)
そう自分に言い聞かせるように、わたしはそっと言い訳を重ねた。
(メルヴィン様のためですもの。ほんの少しだけなら……大丈夫ですわよね)
おそるおそる部屋履きを脱いで、コタツの端に腰を下ろし、そっと足を入れた。
じわ……。
足先から、優しい暖かさがゆっくりと染み込んでくる。
「ああ……」
思わず、口から安堵のため息が漏れた。
(なんて……優しい暖かさなんでしょう……。これはたしかに……出たくなくなってしまいますわね……)
わたしは、つい上半身までコタツに身を預けてしまい、頬がとろっと緩む。
気づけば仕事中だというのに、ほんの数秒だけ目を閉じていた。
その時――ドアの開く音がした。
「あ、エリス。いたんだ」
「メ、メルヴィン様!?」
わたしは思わず飛び上がろうとした。
けれど、ぬくぬくとした暖かさに足が離れず、一瞬その場でもたついてしまった。
「こ、これは、その……危険性の確認と、その……!」
メルヴィン様は、少し意地悪くその言葉を繰り返す。
「へえ、コタツの危険性の確認ねえ。ふーん」
からかわれているのが分かり、わたしの顔は一気に熱くなった。
「……っ!メルヴィン様、意地悪を仰らないでくださいまし!」
メルヴィン様は、笑いながら特に気にした様子もなく、わたしの向かい側に座って自然に足を入れた。
「たまには一緒にのんびりしようよ。夕食まで、ちょっと時間あるし」
メイドとして、主と同じコタツに入るなど……。
それでも、ぬくぬくと温まった足は、もう冷たい床になんて戻れそうになかった。
「……では。ほんの少しだけ、ですわよ?」
ふたり向かい合って、静かなコタツの時間が流れる。
メルヴィン様が、どこからか持ってきた焼き菓子を机の上にそっと置き、半分わたしの方へ押しやった。
「いけませんわ、メルヴィン様のおやつでしょう?」
「ヒューゴが余ったって言ってたから。いいから食べてよ」
結局、わたしは「いただきますわ」と小さく呟き、メルヴィン様が分けてくださった焼き菓子を一緒に味わった。
(もう……メルヴィン様は、本当にお優しすぎますわ)
そのさりげない温かさに思わず頬がゆるむ。
(こんなふうに、さりげなく人を甘やかしてくださるから……わたしも、つい甘えたくなってしまいますわ)
そこへ、軽いノックとともにカトリーナ様が顔を出した。
「……エリス。メルヴィン様。お二人とも、そろそろ夕食の支度の時間ですよ」
「は、はいっ!」
わたしは、今度こそ反射的にビクッと立ち上がろうとしたが、足が少し引き抜きにくくて焦ってしまった。
カトリーナ様は、その様子を見て、ため息半分、苦笑半分といった表情を浮かべていた。
「……コタツの誘惑は、予想以上のようですね。ほどほどにしておかないと、本当に一日中ここから出られなくなりますよ」
「うん、気をつけるよ」
「はい……申し訳ございません。」
わたしは軽く頭を下げて退出の準備をしながら、最後にもう一度だけコタツのぬくもりを名残惜しげに振り返った。
(やっぱり、コタツは悪魔的ですわ……。でも――この暖かさの中で、メルヴィン様のお側にいられるのなら……寒いのも悪くないかもしれませんわね)




