第10話「8歳の誕生日」
僕がこの世界に生まれて、八回目の誕生日を迎えた、ある晴れた日の朝。
食堂のテーブルには、いつもより少しだけ豪華な朝食が並んでいた。
「メル、誕生日おめでとう。もう八歳か、大きくなったな」
父様が、僕の頭を優しく撫でながら、目を細める。
「おめでとう、メル。兄として、お前の成長が嬉しいよ」
レオ兄様も、穏やかな笑顔でそう言ってくれた。
「ふん、八歳になったんだから、もう赤ちゃんじゃないんだからね! 少しはしっかりしなさいよ!」
イリ姉は、いつもみたいにツンツンしながら、僕の皿に大きなソーセージを一つ乗せてくれる。
素直じゃないけど、優しいお姉ちゃんだ。
「メル、おめでとう。今日はあなたの好きなものを、ヒューゴにたくさん作ってもらいましたからね」
母様が、僕の隣に座って、優しく微笑む。
家族みんなに祝福されて、僕の心はぽかぽかと温かかった。
僕は、ただ「うん」「ありがとう」と頷きながら、もぐもぐと朝食を食べた。
◇
朝食の後、僕は一人で自室の窓辺に座り、外の景色をぼーっと眺めていた。
穏やかで、平和で、退屈な、いつもの時間。
その、静寂を破ったのは、頭の中に響くナビの声だった。
いつもより、少しだけ改まった、澄んだ声。
《メル。八歳の誕生日、おめでとうございます》
『うん、ありがとう、ナビ』
《本日をもって、メルの脳と身体の発達は、前世の膨大な情報量に耐えうる規定レベルに到達しました》
『きていれべる?』
《はい。これより、メルのスローライフ計画を本格的に始動するため、これまで安全のために封印されていた、全記憶領域の解放プロセスを開始します》
ナビの言葉の意味を、僕が理解するよりも早く。
ずきん、と頭の奥に、鈍い痛みが走った。
◇
次の瞬間、僕の頭の中に、嵐のような光景が流れ込んできた。
チカチカと点滅する、無機質な蛍光灯。
目の前に広がる、終わりのない数字の羅列。
冷めきった珈琲の、苦い味。
鳴り響く電話と、同僚たちの怒号。
そうだ。
僕は、働いて、働いて、働き続けて。
最後に「のんびりしたい」と願いながら、冷たくて硬いデスクの上で、意識を失ったんだ。
白い、病院の天井。
遠ざかっていく、サイレンの音。
そして、深い、深い闇。
それら、乾いて色あせた記憶と、今世の温かい記憶が、混ざり合っていく。
母様の優しい笑顔。
父様の大きな手。
レオ兄様の穏やかな声。
イリ姉の、不器用な優しさ。
ヒューゴが作ってくれた、初めてのプリンの、とろけるような甘さ。
市場で食べた、フェリスハーブの、爽やかな香り。
全てが、一つになる。
僕の中で、バラバラだったパズルのピースが、カチリ、カチリと音を立てて、あるべき場所にはまっていく。
◇
やがて、頭の痛みはすっと消えていった。
僕は、ゆっくりと目を開ける。
目の前に広がるのは、見慣れた自室の、穏やかな光景。
でも、その世界の見え方は、さっきまでとは、全く違っていた。
『……思い出した。そうだ、俺は……いや、僕は、過労死したんだったな』
子供らしい、たどたどしい思考じゃない。
前世の、成人男性としての思考が、完全に蘇っていた。
『そして願った。今度こそ、何もしなくてもいい、最高のぐうたら生活を送ると』
僕は、自分の小さな手を見つめる。
まだ、か弱くて、何もできない子供の手。
でも、僕の頭の中には、前世で培った知識と経験、そしてナビという最強のパートナーがいる。
僕は、思わず笑みがこぼれた。
この、ぼーっとした子供の姿。
おかげで、周りは僕を優しく見守ってくれる。
これなら、誰にも邪魔されずに、僕のペースでのんびりできそうだ。
最高のぐうたら生活を手に入れるための準備を、静かに始められる。うん、悪くない。
◇
僕は、窓の外に広がる、のどかな領地の風景を眺めた。
穏やかで、平和だけど、まだまだ発展の余地だらけだ。
つまり、僕が快適に暮らすための「のびしろ」が、たくさんあるということ。
『さて、と』
僕は、椅子から立ち上がり、ぐっと一つ伸びをする。
『ナビ。僕の最高のぐうたら生活を実現するために、まず何から始めたらいい?』
《はい。メルの目標達成のため、最適なロードマップを提示します。フェーズ1:経済基盤の確立。まず、この領地の財政を安定させ、将来的な不労所得の源泉を確保します》
『うんうん。それで?』
《具体的なアクションプランとして、以下の二点を優先的に実行します。第一に、先日発見した『フェリスハーブ』のブランド化と商品化。第二に、水車を用いた農業生産性の向上です》
『なるほど。フェリスハーブと水車か。悪くないね』
もちろん、僕が直接働くわけじゃない。
僕は、ただ、きっかけを思いつくだけ。
あとは、頼りになる父様や、村の大人たちにお任せしよう。
『うん。僕の最高ののんびりスローライフ計画、いよいよ本格始動だね』
《はい、メル。一緒に頑張りましょう》
『いや、僕はあんまり頑張りたくないんだけどな』
《承知しました。では、メルが頑張らなくて済むように、頑張りましょう》
ナビの、少しだけおかしな返事に、僕は思わずくすりと笑ってしまった。
最高ののんびり生活は、もうすぐそこだ。
うん、なんだか、これからがすごく楽しみになってきた。




