第1話「転生、そして新しい日々のはじまり」
チカチカと不規則に点滅する蛍光灯の光が、やけに目に染みた。
深夜、というにはあまりにも深く、夜明け、と呼ぶにはまだ早い時間。
ビルの中は静まり返り、聞こえるのは自分のキーボードを叩く音と、時折響くサーバーの低い唸りだけだった。
珈琲はとっくに冷めきって、ただの苦い水になっている。
それを喉に流し込み、無理やり意識を覚醒させた。
目の前のモニターには、終わりが見えないデータの羅列。
頭痛が酷い。
こめかみが脈打つたびに、視界の端がぐにゃりと歪む。
「……もう、のんびりしたい……」
それは、心の底から漏れ出た、あまりにも漠然とした願いだった。
緑の匂いがする場所で、暖かい日差しを浴びて、時間に追われることなく、ただ穏やかに。
そんな、叶うはずもない夢想が頭をよぎった、その瞬間。
ガクン、と首から力が抜けた。
最後に見たのは、無機質で、どこまでも白い、病院の天井。
それがゆっくりと闇に溶けていくのを最後に、僕の意識は完全に途切れた。
◇
ぱちり、と目を開いた。
目の前に広がるのは、先ほどまでの白い天井ではない。
木目が美しい、見慣れない天井だ。
体を包んでいるのは、信じられないほど肌触りの良い産着で、ふかふかの寝台に横たわっているらしい。
何が起こったのか、まるで理解が追いつかない。
僕がいたのは、冷たく無機質な病院のはずだ。
なのに、今僕がいるこの場所は、温かい陽の光と木の匂いに満ちている。
「あら、メルヴィン。起きたのね」
ふわりと、優しい声が降ってきた。
見上げると、そこには美しい女性が微笑んでいた。
彼女は僕をそっと抱き上げると、その胸に優しく抱き寄せる。
メルヴィン。
どうやらそれが、僕の新しい名前らしい。
転生。
その言葉が、妙にすんなりと胸に落ちた。
前世の記憶は確かにあるが、不思議と混乱はなかった。
むしろ、あの終わりなき労働から解放された安堵の方が大きい。
もう、あの場所に戻ることはないのだ。
そう思うと、全身の力が抜け、ただこの温もりに身を委ねたいという欲求だけが残った。
◇
それから、どれくらいの時が経ったのだろうか。
日々の感覚はまだ曖昧で、眠りと覚醒を繰り返すうちに、少しずつ周囲の物事を認識できるようになってきた。
そんなある日のことだった。
いつものように、母親の腕の中でまどろんでいると、頭の中にふわりと、声のようなものが響いた。
それはまだ、はっきりとした言葉にはなっていなかった。
まるで水の中にいるかのように、くぐもった音の響き。
だが、冷たいものではなく、どこか温かみのある気配だった。
『……こんにちは……メル……』
『……これから……いっしょに……』
途切れ途切れの、でもなぜか安心する響き。
僕が意識をそちらに向けると、その気配は少しだけ輪郭を帯びて、僕を優しく包み込むようだった。
独りではない。
この未知の世界で、僕には誰かが寄り添ってくれている。
その事実だけで、僕の心は不思議なほどに平穏だった。
◇
僕の新しい家族は、いつも愛情深く僕を見守ってくれた。
「まあ、なんて可愛らしいのかしら」
母のセリーナは、僕を抱きしめては頬ずりをする。
その笑顔は、まるで陽だまりのようだ。
「メル、私が兄のレオンハルトだ。よろしくな」
少し離れたところから、真面目そうな顔をした少年が、少し照れくさそうに僕を見ていた。
「もう、レオ兄様は固いわね! 私がイリスよ、メル! 可愛がってあげるから!」
元気な女の子が、僕の小さな手をきゅっと握る。
その手はとても温かかった。
このフェリスウェル家は、貴族といっても、それほど裕福ではないらしい。
屋敷は立派だが、華美な装飾はなく、質実剛健といった趣だ。
領地も、のどかな田舎の村といった感じで、皆がのんびりと暮らしている。
まさに、僕が望んでいた環境そのものだった。
まだ魔法の存在も、何も知らないけれど、この穏やかな日々がずっと続けばいいと、心から思った。
◇
ある晴れた日の午後。
僕は、床に置かれた木製の積み木を、ただぼんやりと眺めていた。
母セリーナが、少し離れた場所でメイドと話している。
その優しい声を聞きながら、うとうとと微睡んでいた、その時だった。
ぽっ。
目の前の積み木の一つが、ほんの一瞬だけ、淡い光を放ったように見えた。
まるで、中に小さな灯りがともったかのように。
「……え?」
母の声が、微かに聞こえた。
彼女も、今の光に気づいたのかもしれない。
だが、僕自身は何が起こったのか分からず、ただ目をぱちくりとさせるだけだった。
積み木は、もう元の木の色に戻っている。
まるで、何もなかったかのように。
「……気のせい、かしら」
母は不思議そうに首をかしげた後、またメイドとの会話に戻っていった。
僕も、すぐにその出来事を忘れて、再び眠気の波に身を任せる。
その時、頭の中の優しい気配が、ほんの少しだけはっきりと、僕に語りかけた気がした。
『大丈夫。私が、あなたのスローライフを、ちゃんとサポートしますからね』
転生して手に入れた、新しい人生。
穏やかで、温かくて、少しだけ不思議な毎日。
僕ののんびりスローライフは、まだ始まったばかりだ。
僕は、未来への確かな希望を感じながら、深い眠りへと落ちていった。