大学へ
令和4年は遂に半分を迎えた。
6月、電動自転車を漕ぐ狭川は、裾の裂けた雨合羽で出勤していた。
「チェーンに合羽の裾が絡まるなんて昭和じゃないんだが。」
娘のお古のこの自転車は改造車だ。至る所を取り外し、シンプルだが、チェーンカバーも無い。雨に気を取られて裾バンドを忘れて足元を引っ張られる感じがしていた。
病院に着き裾を見ると折り目の部分が完全に裂けていた。
「寒いの後は熱い、今度は水攻撃。季節は何故人間を責める。」
道理に合わない理屈を捏ねながら診察室へと向かった。
「山見静さんどうぞ。」
石礫の歯切れのいい声が診察室前の廊下に響いた。
中へ入って来た静は、物憂げな表情に見えた。
「雨が続きますが、気が滅入ったりしませんか。」
狭川は、診療では無く、私事として気持ちを聞いた。
「先生は、季節によって気分が変るとほんとに思っていますか。」
ドキリとした。彼女の眼は、憂いから挑戦する目に変っていた。
リストカットによる影響である事と狭川は捉え、「そうですね、人の気分と言うものには実態が無いですから、季節により人が変る事は実証しようがないですね。」と答えた。
彼女は、「心も実態は無いですよね。」と感情なく言う。
「その通りです。私達の診療は有ってないようなものですね。」
精神は心、と言う時代は崩壊しつつある。自殺を考える脳に疾患があると変化している。然し、外傷の無い、心の傷がみえる医者など一人もいないだろう。どんな研究が進められ、どんな試験やデータを積み上げようと、人の心と言う空虚な世界を理解出来る天才もいないだろう。
「もう少し、静さんの事を知りたいと思いますが、前回、高校時代のお話を聞かせていただきました。その後は、大学の方へ進みましたか。」と狭川が言うと
静は落ち着いた顔に戻り、「はい、慶唐大学へと進みました。」とおくびもなく言った。
慶唐大学は、ノーベル賞を受賞した歴代の研究者が目指した国内屈指の名門大学。決して裕福な家庭環境では無い山見家で彼女は人間の限界を超えるような努力を続けてきた事が窺われた。
高校時代には狭川に分かる自殺念慮の原因は無かった。
大学時代に有るとすれば社交不安症であるかもしれない。
SADと呼ばれるこの精神疾患は、大学生の自殺原因に多い。
これと併存して大うつ病エピソードMDEが発症すれば、自殺企図の確立が高くなる。
「受験勉強は、一日どのくらいでしたか。」
「高校三年の時は、二日に一度、3時間の睡眠を取る以外は、全て勉強に当てました。」
狭川は、彼女の表情に達成感と言うものが感じられない事が気になった。
「勉強熱心で素晴らしいですね。」
心底思った感想だ。人間の集中力問題や、引き出せる力問題など様々なデータにより解析が進むが、人に限界は無いという事は言えるだろう。集中が切れたところで目で見、頭で考える事は人にとっては自然な行いだ。
「大学生活は謳歌しましたか。」狭川の質問に、静の口元に笑みが浮かんだ。
狭川は、幸せ一杯だったんだと思ったが、彼女の口から出た言葉は、「闇の中でした。」だった。
「大学の入学式の日に母と彼が結ばれたんです。」
狭川は目を大きく広げた。
「彼は高校の同級生でした。2年の時、付き合い始めました。彼と私は同時に心が繋がったような気がします。どちらかが付き合って下さい的な行動は無く、只自然にそばに寄り添うようになりました。高2の終業式が終わって家に帰ると彼と母がセックスをしていました。体位から彼の方が積極的なようでした。」
静は、何故か安心した雰囲気を醸し抱いていた。
「だから、私は高3では勉強だけをし続けたのです。ただ、その状況がそれを行う事でしたから。」
そこまで静が話すと狭川は、「今、体調に変化は有りますか。辛いとか苦しいとか。」と聞いた。
「平素の自分です。」そう言いきった彼女の手は行儀よく腿の上に置かれている。
「そうですか。又次回お話を聞かせてください。」
狭川は心的負担を考え診療を次回に持ち越した。
彼女は快く引き受けた言葉遣いで「分かりました。」と答えた。