第2話「ヒナタ」
「……っ」
目が離せなかった。
茂みの奥から現れた、暖かな緑を閉じ込めたような、不思議な光を内包する瞳を持った彼。同じ人の形をしているはずなのに、目の前の彼が人ではないような、そんな錯覚に陥る。畏怖すら抱いてしまいそうな程の翡翠の光。それほどまでに彼は不思議で、美しかった。
「君、は」
青年が何かを言おうと口を開くと、腕の中で静かにしていたはずの獣が「フガァァァァァ!!」と大きな鳴き声を上げながら青年の顔にロケットのように突っ込んで行った。
「えっ、え!?」
「ぬあぁぁぁぁぁ!!!?!いた、いっ、ちょ、んぶっ」
勢いで地面に倒れた青年の顔をフガフガと興奮した様子で獣が踏みつける。
先程までの弱った様子が嘘のようだ。
いや、決して怪我が治ったわけではないのだがどうしてだろうか、ひたすらに青年をペシペシしている獣にもはや強い意志のようなものを感じる。
(出会って数十分しか経ってないけど、今までで一番目がいきいきしている気がする…)
「っっやめろって!」
青年が左手で顔にベッタリと張り付いていた獣の首元を掴みあげる。
離されたのが不服だというように手足をパタパタとさせている様子に可愛いな、なんて思っていると、獣は身を捩って青年の手から逃れ陽菜の腕の中に戻ってきた。
フンと鼻を鳴らしているのが愛らしいくて、その黒い毛並みをゆっくりと撫でる。
「ぃっつ〜…」
しまった、撫でるのに夢中になって忘れていた。か細く聞こえた声の方を見やると、顔を押えながら座り込んでいる青年がいた。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、うん。大丈夫。君こそ」
「はい、なんとか」
痛みに悶えていた青年がヘラリと笑う。
引っかき傷があちらこちらについてはいるがひとまず大丈夫らしい。
安心して小さく息を着くと、地面とにらめっこをしていた青年はこちらをゆっくりと見上げた。片側だけ顕になっている翡翠の瞳が、木々の隙間から漏れる光を反射してビー玉のようにキラキラしている。
「君、ここでなにしてたの?」
お尻についた砂を払いながら立ち上がった彼が陽菜へ問いかけた。
「へ?」
「あ、いや、この森さっきのやつみたいなのが結構いるし、ちょっと前から立ち入り禁止になってるのに君がいたからなんでだろうと思って」
いや立ち入り禁止ならなんで君もここにいるんだよと言ってやりたくなったが、あいにく初対面の相手にいきなり図々しくそんなことを言うような人間には育てられてはいないのでそっと胸の内でつぶやくだけに留めた。
「えっと、なんでかって言われるとちょっとわからなくて…気づいたらここにいて…」
「気づいたら?」
青年が訝しげに眉を顰める。そりゃそうなるだろう。しかしわからないものはわからないのだから、そんな目を向けられたって困る。
「あの、とりあえず、この子手当てしてあげたいんですけど…どこかいい場所ないですかね…?」
腕の中にはうとうとと微睡む獣。先程動き回ったから疲れてしまったのだろうか。
「手当て?」
「?うん」
「…あー、そっか。じゃあ、向こうの川に行こう。ここより開けてるし、傷も洗えるから」
「!ありがとう!」
そうして2人は立ち上がり荒れた山中を歩き始めた。
川までの道中は思いのほか静かなもので、どことなく気まずい雰囲気がある。
その雰囲気に耐えかねたのか、さっきから口を開いては閉じてを繰り返していた青年が少しどもりながら声をかけてきた。
「あ、っと、そういえば君名前は?」
「陽菜です、小鳥遊陽菜」
「敬語はいいよ。普段使われることないから、なんか変な感じするんだ」
と言って青年が照れたように笑う。その笑みに先程までの緊張がほぐれていく。
「俺はヒナタ。よろしくね、陽菜」
「うん、よろしく!ふふ、私たち名前似てるねぇ」
「ね、1文字違いだ」
互いに名前を名乗りあったおかげだからなのかは分からないが、移動し始めた頃よりもだいぶ雰囲気が和らいで話しやすくなっていた。
「へぇ、落ちた、ね…」
「うん、それで気づいたらこの森の中にいてさ…あ、最初はもっと色んな植物が生えてるところにいたの。でも歩いてたらここに迷い込んじゃってて」
「いや、むしろこっちに来て正解だったと思う」
「なんで?」
「多分、君がいたのは人喰いの森だ」
「人喰い!?」
「あぁ、いや、多分今想像してる人喰いじゃなくてね」
ヒナタいわく、この森林地帯は6つのエリアに分かれていてそれぞれの森に名前がつけられているとのこと。陽菜たちが今いる地帯はウラカーンの森と呼ばれていて、嵐が頻発して常に森の道が変化することから名付けられたという。
そして陽菜が目を覚ました際にいた森は、入った人間が誰一人として今まで帰ってきたことがないため人喰いの森と呼ばれ恐れられているのだそう。現在でも調査が進んでおらず、ウラカーンの森とともに立ち入り禁止にされているらしい。
「人を攫う魔物が住んでるからだとか、生きる場所を追われたかつての魔法使いが住んでるだとか色々言われてるけど、実際はあそこに咲いてる花たちが原因なんだよ」
(花が原因…匂い?でも匂いはそんなにしなかったよなぁ…そしたら何が…)
「…あ、花粉?」
「そう、花粉に幻覚作用のある植物があるんだ。」
それを聞いて、森の中で見た亜麻色の髪と胸に湧き出た郷愁を思い出す。
(あれも花粉のせいだったってことなのかな…)
「え、でも待って。森の調査って今も進んでないんでしょ?なんでそんなこと知って…」
「え?あ、あー、いや、俺の体ちょっと特殊でさ、なんか色々耐性があるみたいなんだよ。だから個人で調査したりしてて知ってるってだけ」
「そう、なんだ」
森のことだったりたわいのないことだったりを話しながら歩いているといつの間にか川辺にたどり着いていた。
サラサラと流れる川の水は川底が見えるほどに透き通っていて、魚によく似た生き物がゆらゆらと泳いでいる。
陽菜は川のすぐ側に腰を下ろして、腕の中で眠っている獣をポンポンと小さくたたく。
その刺激で起きた獣は、変わった景色に目を白黒させながらあたりの匂いを嗅いで陽菜へと小さな瞳を向けてくる。
それに柔らかく微笑みながら鞄の中に入っていたタオルを取り出して水につけ、丁寧にその体の汚れと血を拭っていく。
水の冷たさと傷の痛みに驚いたのか、始めははこちらを恨めしそうに見ていた獣もだんだんと表情を和らげて気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
「そういえば、その、さ、陽菜は俺と会うまで森でどうするつもりだったの?」
獣を丁寧に洗っていた陽菜にヒナタが水の入ったボトルを手渡しながら聞く。
「人がいるところに行こうかなって。そこから先のことは特に…」
「へぇ…それならさ、もしよかったらなんだけど、俺のとこ来ない?」
「へ?」
ヘラリと笑ってそう提案したヒナタに目を丸くする陽菜。
「俺のところというか、正確には俺がお世話になってる人のところなんだけど。」
「え、それいいの?」
「うん、むしろ大歓迎してくれると思うよ。面白いことが大好きな人だから。それにあの人なら君を元の世界に返す方法知ってるかもしれないし」
「ほ、ほんと…?」
正直とてもありがたい話だ。スマホも食料もないこの状況で屋根のある場所に連れて行ってもらえるのは非常に嬉しい。しかも元の世界に帰る方法までわかるのなら、着いていく以外に選択肢はないだろう。ただ、陽菜には一つの懸念事項があった。
(なんか、違和感?が、ある気がするんだよなぁ…)
道中話していた感じからヒナタが悪い人でないのは何となくわかる。わかるのだけれど、彼が纏う雰囲気に小さな違和感があるというか、なにかザワザワするような歪さがある気がするのだ。 出会った時に抱いた得体の知れないものを目にしたような、畏怖にも似たようなあの感覚が陽菜の胸を掠める。
普通に話している分には違和感は全くない。むしろ彼の柔らかい雰囲気に好感すら持てる。
けれど、あの時見た翡翠の光が頭から離れない。
それが陽菜の中で小さなしこりとなり、決断を鈍らせてしまっている。
(あと単純に笑顔が胡散臭くてちょっと不安だ…)
「まぁ急に言われても困るとは思うんだけど…」
表情に出ていたのだろうか、ヒナタが少し困ったように笑って言葉を続けた。
「でもここにいるよりは、絶対に安全だから。せめて街までは、一緒に行けないかな…?」
そしたら帰る方法探せるし…いやでもやっぱり一緒に行くだけなのは多分ダメだよな…なんてボソボソ言っているのが聞こえる。
やはり少しの違和感を覚えはするが、陽菜を気遣う言葉に悪意はない。なによりボソボソ言いながら本気で悩んでる姿が面白くて口元が緩んでしまう。
(それに、元の世界に戻る方法がわかる可能性があるなら…)
「ふふふ、それじゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」
陽菜の言葉にヒナタが顔を上げる。
「へ」
「よろしくお願いします!ヒナタくん!」
「…!も、もちろん!」
そこからは早かった。獣の手当をしている間に、ヒナタがどこからか取ってきたべっこう飴のような色をした蜜がたっぷりの果実を二人で食べ、あちこちに散らばってしまった陽菜の荷物を片付けた。
街をめざして森を歩き始めてからも、見たことのない植物について教えてもらったり、手当てを施された獣がヒナタに噛み付いて、それを必死に剥がそうとするヒナタの姿に腹を抱えて笑ったり。とにかくあっという間に時間が過ぎ去っていった。
「陽菜、大丈夫?」
「うん、まだまだ大丈夫!足腰は強いんだ〜」
「ははっ、あ、ほら見て。街が見えてきた」
眼前に現れた景色に感嘆の声が漏れる。
景色に目を奪われていると、前を行くヒナタがくるりとこちらを振り返った。
「ようこそ陽菜、この世のあらゆる知が集まる魔法の国へ」