第1章 プロローグ前編
その少女、小鳥遊陽菜は途方に暮れていた。先ほどまで確かに高校生活を謳歌する平凡な女子高生だったはずなのに、なぜこんなことになっているのだろう。
低いツインテールで頭部が緩く編み込まれている亜麻色の髪には所々草がついており、夏の空を映したような瞳はいつもなら輝いているはずなのだが、今この瞬間は曇り模様になってしまっていた。
打ってしまったのか、まだフラフラとする頭を支えると、陽菜はそのまま天を仰いだ。
清々しいほどのいい天気に、見渡す限り木、木、木。
加えて、頭を打った影響なのか知らないが、記憶が混乱していて何が起こったのか上手く思い出せない。状況としては最悪であったが、ここで挫けないのが陽菜である。
状況を整理するためにも、思い出せるところから少しずつ記憶を反芻し始めた。
ーーーーー遡ること一日ーーーーー
「あっついなぁ、、、」
うるさい蝉の声がじんわりと響く。
夏休みが始まって一週間、陽菜は園芸部の活動で学校に来ていた。土汚れ防止で羽織っているジャージを今日だけは脱ぎ捨てていつもの制服で作業をしていた。
学校の所持する決して大きくはないが充実した畑の中には段々と熟してきたプチトマトやきゅうり、なすなどがきれいに植わっている。
タラタラと流れてくる汗を拭いながら陽菜は畑に水をやっていた。冷たい水を浴びている野菜たちが気持ちよさそうで羨ましい。
一通り水を与え終わると、くるくるとホースを巻き取り元にあった場所へと返す。胸ポケットに入れていたスマホを取り出し時間を確認すると、すでに18時近くにまでなってしまっていた。
「わぁ、なかなかいい時間」
陽菜はいそいそと園芸道具を袋にしまうと、それを鞄の中に急いで詰め込んでいく。いつもならこの後は自転車に乗って帰ってしまうのだが、今日は家ではなくこのまま教室へと向かう。と言うのも今現在クラスの文化祭の出し物がどこまで進んでいるか見て帰ろうと昨日から決めていたのだ。
特にやることがあるからとかではなく、次陽菜が制作担当の時に困らないためにもあらかじめ進捗状況を確認しておこうと思っただけだ。というのはちょっとした建前で、実際はただの好奇心である。
昇降口に入ったところで外よりもひんやりとした空気が出迎えてくれた。さっぱりとした空気が暑さで火照った体を冷やしていく。いつもとは違い、誰もいない校内の様子には何故だか心が躍ってしまう。今なら突然歌い出したって許されるんじゃないかな、なんて思いながらルンルンで歩いていると教室にまだ電気がついていることに気がついた。
「あれ、もしかしてまだ誰かいる、、?」
先ほどまでの変な浮かれ方をした自分を誰かにみられていたのでは?と急に不安になる。
まぁみられていたら腹を括るしかない。
そう覚悟すると、軽く呼吸を整えてから恐る恐る覗くように扉を開ける。
「お疲れ様ー、、って誰もいない」
全く拍子抜けである。ふう、と軽く息を吐くとそのままガラガラとドアを開けて教室の中へ入る。最初に目に入ってきたのは教室の後ろを我が物顔で陣取る段ボールの山だった。
「すご、、、」
どうやってこんなにも大量の段ボールを集めてきたのだろうか。思わず小さく拍手を送ってしまう。その気力や、あっぱれ。
ふっと一歩足を動かすと足元に何かがコツンと当たる。
絵の具だ、、、
段ボールに気を取られていて気づかなかったが、足元にはいくつかの絵の具が転がっている。
それ以外にもよく見れば机はバラバラだし、段ボールの破片になんだかよくわからない工具まで色々出しっぱなしである。
心配になったのでとりあえず絵の具はまとめて端っこに置いておく。というか、工具とか片付けなくていいのだろうか。
(とりあえずなんかこう、一つにまとめておくくらいしとこうかな)
そう考えた陽菜が床に散らばった工具を手に取ろうとした時、
「小鳥遊?」
「ヒャア!!!!!」
突然背後から声をかけられ、つい声を上げてしまった。
心臓がバクバクと音を鳴らす。このまま口から心臓が飛び出してきてしまいそうだ。
「ゆ、湯島くん、、、」
黄丹色の髪をした彼は陽菜のクラスメイトで同じ環境委員会の湯島だった。
頭脳明晰、運動神経抜群で性格も良く、おまけに顔もいいというなんとも絵に描いたような好青年の彼はこのクラスのヒーローだ。彼と同じ委員会になりたいクラスの女子たちのせいで陽菜が中学生の頃から好きで続けてきた環境委員の座を奪われてしまいそうなくらいである。
「びっくりした、、、こんな時間にどうした?なんか忘れ物?」
不思議そうに湯島がそう問いかける。
「えっと、今日部活で学校来てたから、ついでにクラスの様子でも見て帰ろうと思って」
「あーなるほど、どう?結構進んでるっしょ」
そう言いながら湯島は自信満々に笑って見せる。
今日1日でかなり頑張ったのだろう。
「うん、結構びっくりした」
「でしょ」
そう言いながら湯島はブルーシートの上に置かれていたパレットを手に取る。
「今日はこれで終わりなの?」
「いいや?これから片付け」
「え!片付け⁈ってまさかこれ全部?」
「うん。ああ、あの段ボールの山とかはそのままでいいんだけどね」
「この量片付け終わるの?て言うか他の人は?」
「帰ったよ」
「ええ⁈」
サラリと笑顔でとんでもないことを言ってみせるなこの人は。普通他の人たちが帰るってなったら一緒に帰っちゃうか、せめて片付けはさせるんじゃ、、、
そう思い彼を見ると、
(目が、、全く笑ってない!)
「秋山は妹の迎えで幼稚園行かなきゃなんないって言ってたからまぁいいけど、成瀬に関してはデートって、、はぁ、大体成瀬はいつも、、、」
湯島はぶつぶつと文句を言いながらも作業を始める。いやいや終わらないでしょ、この量の片付けを一人でなんて。
最終下校時刻は19時、このままでは生活指導の先生に怒られてしまうかもしれない。こんな状況の中でクラスメイトを置いて帰れるような根性は生憎持ち合わせていなかった。
「湯島くん、私も手伝うよ」
元々少し片付けて帰ろうと思っていたのだ。どうせなら一仕事してから帰ろうではないか。
「え、いいの?」
「もちろん、クラスメイトじゃん」
タイムリミットは30分。
それまでにこの二人でこの教室を片付けなければいけない。
「これ、どこに置けばいい?」
「ああ、それは僕がやるから、そっちの机、なんとなく戻してもらっていい?」
「わかった」
二人でテキパキと片付けを進めていく。元々委員会の仕事で一緒に花壇の手入れなんかしていたからか、なんとなくお互いの間合いを知っているのもあり、作業はスムーズに進んでいった。
「おっとと」
足元に転がっていた段ボールの破片を踏んでしまい危うく転びかける。ヒヤリとした感覚がスッと熱を奪う。
(あ、危なかった〜、、!)
それにしても足元に物が散乱しすぎていないだろうか。
「ねえ湯島くん」
「何?」
地面に敷いてあるブルーシートの上にこぼれた絵の具を拭い取りながら湯島は返事をする。
「これ、何作ってたの?すごい、、沢山破片が、、」
「あー、秋山と成瀬が、なんか色々作ってた残骸だよ。捨ててくれて大丈夫」
「はーい」
教室の隅に置いてある大きなゴミ袋を広げてガサガサと段ボールの切れ端を詰めていく。
ぬちょり
「うわぁ!」
段ボールの切れ端に出されていた大量のボンドが親指にべっとりと付着してしまった。
「もう、最悪だよ、、ティッシュティッシュ」
クラスに置いてあるティッシュペーパーでボンドを拭いとる。
ひとまずこの切れ端たちを回収してから、手、洗いに行こう。
「なんかあったの?」
事態をよく把握していない湯島が作業を中断して私のところにやって来た。
「いや、手にボンド着いちゃって、びっくり、、、、」
「あーそういうことか、、どした?」
私はつい彼の顔を凝視してしまった。
「え、なに?僕の顔に何かついてる?」
ついてる。
めっちゃついてる。
赤い絵の具が鼻から頬にかけて一筋綺麗についてる。どうしたらそんなところに絵の具がつくのだろうか、全く理解できない。
じっと眺めているとだんだんと腹の底の方から笑いが込み上げてきた。やばい、笑うな笑うな。怒られる。
ただ堪えたところで全く無駄な努力である。
だってこの優等生が、大抵のことは卒なくこなす完璧人間が、顔に、絵の具をつけているなんて、、、!
「ンフっ」
「は?」
「や、ごめんその、ンッフフ」
「え、ちょっと何笑ってるの?」
「顔に絵の具、赤いのついてる!」
笑わないようにしたくても、つい肩が小刻みに震えてしまう。
だって、面白いんだもん!
普段は絶対そんな姿しないだろうに、彼だからか余計おかしく感じてしまう。
「あはは!」
「ちょっ!笑うなって、どこ?ここ?」
そう言って湯島は自分の顔を拭う。
そうすると、なんということだろうか
「増えた!」
「は?」
顔にでっかい十字が完成して、さながら少年漫画に出てくる剣士のようだ。とはいえそのクオリティは残念なもので、憧れちゃった小学生の悪戯にしか見えない。どんな偶然が重なったらあそこまで綺麗な十字を描けるのだろうか。もしかして狙ってやった?
やばい、結構ツボにハマってきてしまった。脇腹が痛い。
「んっふふ、んん!、、ひぃ、無理、あはは!、、、写真撮っていい?」
「はぁ?」
「だって!なんかすごい、いい感じに跡が、、、だから、ね?いい?」
なんとか笑いを収めたところでスマホを取り出す。
こんなレアな姿、ぜひ保存させてほしい。
「いいわけない!」
「わ!」
湯島が陽菜のスマホに手を伸ばす。その手には真っ赤な絵の具がしっかりと付いていた。
咄嗟にその手を避けたが、もしアレに触れられていたら、スマホが真っ赤になっているところだった。
湯島も自分の手が赤いことが原因だと気づいたのだろう、自分の手を見るとニヤリと笑ってみせる。
正直、嫌な予感しかしない。
「、、、湯島くん。落ち着こう、話せばわかる」
「どうせだったらこのままお揃いにしよっか」
「や!ごめんごめん遠慮します!」
「なんで?そしたら写真撮っていいからさ」
そう言って湯島は陽菜に向かって手を伸ばす。
何か彼の導火線に火をつけてしまったようだ。深緑の瞳の奥で一種の闘争心が燃え始めているのが見て取れる。
まるで自分がこれから駆られる獲物になってしまったかのような気分だ。
とりあえず逃げるしかない。
すっと顔目掛けて手が伸びてくる。
「湯島くん!ちょっと⁈」
「ん〜?」
ん〜?じゃない!
「湯島くんってそんな感じだったっけ?!」
「わりと?」
教室内を逃げ回りながら、そういえば、と思い出す。
委員会活動中一緒に花壇の手入れをしていた時、「なんかいた」とか言いながら唐突にミミズを見せつけてきたことがあった。コガネムシの幼虫とか。
(今まで私、見つけた虫とかをどうしたらいいのかわからなくて聞いてきてるのかと思ってたけど、もしかしてあれって私の反応見るためにやってたりした?!そういえば毎回私が、土に帰して大丈夫だよーとか、害虫だから駆除したほうがいいかもねーとか言うたびにつまらなそうなお顔してましたね!?)
今まで気づかなかっただけで小学生みたいな性格してるな、湯島くん。
スイ、と伸びてくる手を一生懸命避けて見せるがもちろん敵う訳がない、陽菜も運動神経はかなりいい方だけれど、湯島の方が確実に出来るのだ。隅に追いやられたところでなんとか伸びてきた彼の手を掴む。
「よーーし!一回冷静になろっか!」
なんとか彼の動きを止めることができた。
よしこのまま水道まで連れていって、、、、
「それで止められると思った?」
「へ?」
そう、完全に失念していたが、私の手よりも湯島の手の方が大きいし、力も強いのだ。
抑えていた拘束の手は簡単に解かれてしまう。
「ぎゃあ!」
「はい、俺の勝ち」
陽菜はそのまま頬を掴まれてしまった。感覚で両頬が赤くなっているであろうことが分かる。
「ああー、、、」
「で、撮んの?」
「、、、撮らない」
なんだか猛烈に悔しい。
「湯島くんって私が思ってたよりもヤンチャみたい、一人称変わっちゃってるし」
「、、さぁ、てかヤンチャなのは小鳥遊も一緒な?」
「そ、そうかなぁ、、、とりあえずさ、これ洗いに行かない?」
「賛成」
廊下にある水道まで何となく両手で頬を隠しながら歩く。
「にしても湯島くんがあんなにムキになるとは思わなかったよ」
「僕も小鳥遊さんがそんなに笑うなんて思わなかったよ」
「あ、僕に戻った」
「いいじゃん、それは」
「まぁね、でも、うーん」
「何?」
「や、なんか、俺の方が好きかな〜と思って」
そう言いながら横に目を向けると、怪訝な顔付きで湯島がこちらを見ている。
(え、なにその顔、私なんか変なこと、、、、あ)
「ふ、深い意味は特にないよ!僕でもいいと思う!ただ、その、なんて言うのかな、俺の方が似合ってるというか、イキイキとしてたと言うか、、ああ、、う〜、ごめん」
自分の発言を大慌てで訂正する。
「、、、そ」
湯島は曖昧な返事をすると私を置いてそそくさと水道までいってしまった。
「あ、ちょっと」
もしかして、照れてる、、、?
「ほら、顔洗うぞ」
「うん、そうだねもう水道だ、、、し、、」
水道の壁についている鏡が見えた瞬間、思わず固まってしまった。
「うわ何この顔、、おかめ納豆みたい」
「プハッ」
音のしたほうを見ると、陽菜の反対側を向いて口を押さえながら肩で笑っている男がいる。
「え、ねぇ、笑ったよね?」
「い、いや」
まるで何事もなかったかのように正面に向き直り蛇口を捻って見せるが、口がひくついている。
(まぁ私もさっきまで湯島くんの顔みて笑ってたんだ、人のこと言えないよね、、、)
「、、、ねぇさ、やっぱり写真撮らない?」
バシャッ
「あぁ、、、、」
(やっぱりさっき撮っておけばよかった)
諦めて水道の蛇口を捻ると夏の暑い気温には心地よい冷水が流れてくる。髪の毛が濡れないように気をつけながら、顔の赤くなってしまっている部分を丁寧に洗っていく。濡れた頬をタオルで拭うとなんとか元の顔に戻ることができた。
一方湯島はというと、髪を耳にかけて、勢いよくじゃぶじゃぶと顔洗っている。なかなかワイルドに顔を洗っているのを見ていると、彼の少々雑なところが見て取れるような気がする。
「ぷはぁ」
「あ、落ちたね」
「そっちも」
ハンカチで顔を拭きながら返事をしてくる。
「んじゃ、頑張って片付けしよっか、、なんでか時間が無くなってきてるからね」
「誰のせいだと、、、」
「よーし頑張るぞー」
ジロリとこちらを見てきた湯島を無視して早足に教室へと戻る。