たとえ愛しても、次の日に忘れてしまう魔法の薬
「ブライアンも災難だよな。あんな怖い女に執着されてさ。気の毒過ぎて、毎日見てられないよ」
「まあな。これからもこんな日が続くかと思うと、本当に憂鬱になる。逃げ出したくなるよ」
聞こえてきた言葉に、ドクンと心臓が跳ねる。
クレアは、愛するブライアンの為に毎日のように差し入れを届けに行く。
仕事が休みの今日は予定があって来れないと伝えていたが、やっぱり少しでもブライアンの顔が見たくて届けに来てしまった。そしてノックをしようとした部屋から聞こえたのは、信じられないような言葉だった。
これは確実にブライアンの声だ。
クレアがブライアンの声を聞き間違えるはずはない。
「最近は夢にうなされることもあるんだ。もう顔も見たくない、ってのが本音だよ。…面と向かっては言えないけどな」
ブライアンのその言葉に続いて、大きなため息が聞こえた時、たまらずクレアはその場から逃げ出した。
クレアの家系は、祖先を辿れば竜族に属する。竜族といえば、その非凡な才能と共に、番に対する執着の強さで知られている。
クレアもまたエリート職と言われる王宮職員であり、冷静で優秀な者として職場では知られた存在だ。
その激しい気性を表すようなはっきりとした顔立ちの美貌は、皆の羨望の的となっている。
そんなクレアは職場の王宮で、王宮騎士であるブライアンと出逢った。――クレアは番を見つけたのだ。
それはクレアにとって運命的とも言っていいほどの出逢いだった。ただすれ違っただけなのに、一目見ただけで彼に目を奪われた。
最初はただ見ているだけで満足出来ていたが、挨拶を交わしたり、少しずつ会話を重ねる機会を持つうちに、想いがどんどん抑えられなくなっていった。
彼を一目見ようと、彼の鍛錬姿を朝早くから探しに行ってしまう。お昼を一緒に食べたいと、待ち伏せしてしまう。彼と会話をする女を見ると、詰りに行ってしまう。毎日長い長い手紙を送りつけてしまう。
最近では自分でもこのままではマズイと思うのに、自分自身を止められない。少しでも離れると、焦燥感でいても立ってもいられなくなるのだ。
もちろん自分達が番である事は、ブライアンも知っているはずだ。
最初のうちは、ブライアンからも明らかな好意が見られていた。他の女性よりも自分を優先してくれていたし、自分を見つめる目に熱があった。私を見つけると笑顔で声をかけてくれた。
だから期待してしまった。彼も私と同じように私を愛してくれて、私を束縛してくれるほどの愛を見せてくれると。
だけど次第にブライアンに距離を取られるようになった。日を増すごとに迷惑に思われていった事も、実はクレアも薄々感じ取っていた。
お昼の待ち伏せを避けられている。会っても忙しそうにすぐに去っていく。遊びに誘っても断られるばかりだ。手紙の返事はここ2ヶ月ほどもらった事はない。
だけど私達は番だ。この重い想いも、なんだかんだ言いながら受け止めてくれると信じていた。
――いや、信じたかっただけかもしれない。
実際にこうしてクレアはブライアンから迷惑がられている訳だし、扉ごしに聞こえてきた彼の言葉は辛辣だった。
クレアは差し入れを渡すことも出来ず、そのまま家に逃げかえり、ベッドに倒れ込んだ。
途端に溢れ出す涙を止める事が出来ない。先ほど聞いた、ブライアンからの言葉が何度も頭の中を駆け巡る。
『本当に憂鬱になる』『逃げ出したくなる』『夢でうなされる』『もう顔も見たくない』――そして大きなため息。
クレアはいたたまれない思いで、自分自身を消してしまいたいくらいだった。自分がいなくなれば、ブライアンを苦しめる事はない。
だけど――だけど彼を残して自分だけがいなくなるなんて、そんな事は出来ない。自分がいなくなったあとに、誰かが彼の隣に立つなんて、想像するだけで胸を掻きむしりたいくらい苦しくなるのだ。
勿論自分達は付き合っているわけではない。だけど自分たちは番なのだ。他の者に奪われる事を許せるはずがない。
クレアはただ泣く事しか出来なかった。泣いても泣いても苦しみが薄まる事はなく、数日間泣き続けた。
泣き過ぎてぼんやりした頭の中には、これまで自分のしてきた事が浮かんでは消えていった。
ぼんやりした頭の中で、どこか諦めがついてくる。
確かに私は執着しすぎた。早朝鍛錬姿を見逃すまいと、毎日夜明け前から鍛錬場で待っていた。
話しかける隙を狙って、仕事以外の時間はずっとブライアンを見張っていた。決して目が合わなかったのは、自分と目を合わせたくなかったからだろう。
いつもお昼に通っていたはずの通路は、日毎に歩く通路を変えられた。
休日は遊びに誘おうと、家の様子を伺いに行っていた。その扉が開く事がない意味を知ろうともせず。
毎日何枚にも渡って、溢れる想いを書き殴って手紙として送ってきた。返事がこなかった意味が今ならわかる。
『あぁ…この自分の存在を消すことが出来ないならば、この想いを消すしかない』
たとえ番同士であっても、上手くいかないケースも世間にはある。
竜族の自分と馬族の彼のように、属性の違う番は想いの強さの相違で、悲劇を招くことがあるのだ。
追い詰められた自分が、ブライアンを害してしまう前に、手を打たなければならない。
街の片隅にある怪しい小さな薬屋では、そんな者の為に魔法の薬を扱っていると噂に聞いた事がある。
仕事仲間との飲み会でその話を聞いた時は、酒の席での話として『都市伝説だ』と皆で面白がって笑っていたが、その話に賭けてみよう。
クレアは噂のお店に向かって見ることにした。
その小さなお店は噂通り、街の片隅の誰も通らないような辺鄙な場所にあった。
扉を開けると、怪しげな薬瓶が並んだ棚の奥に、1人の老婆が座っていた。
クレアは祈るような思いで、欲しい魔法の薬を所望する。
愛する番を傷つけてしまう前に彼のことを忘れたい。
自分を消してしまう事も考えたが、彼を残してそんな事は出来ない。
自分達が番だという事実をも消してしまいたい。彼の事も、彼との思い出も、彼に関する全てを忘れて二度と思い出せなくしてほしい。
流れる涙を拭う事もせず、クレアは老婆に懇願した。
「そうかい。そんなに辛いのかい。だったら魔法の薬をやろう。この薬は、飲んだら二度と後には戻れないよ。その男の記憶や、男に関する物を綺麗さっぱり忘れてしまう。…しかし腐っても番だ。想いの強さが違うだけで、その男もあんたを少なからず愛しているはずだ。そんな男の想いを少しも感じられなくなることを、後悔することも出来なくなるんだよ。それでも本当に欲しいというのかい?」
念を押して聞く老婆に、クレアは即答する。
「この選択を私は決して後悔しないわ。…彼には幸せになってほしいの。だけど私が番でいる限り、彼は幸せになんてなれないのよ。例え彼が私の事を番だと認めてくれる日が来ても、私ほどの強い想いは無いわ。これまでだって何も無かったもの。きっとそのうち忘れてしまえるくらいの想いよ」
その事実を語りながら、涙を止める事が出来なかった。
泣き腫らした目で自分に懇願するクレアを、じっと老婆は見つめる。
もう何日も眠ってないかのように、やつれた顔。元々は美人だったろうに、その髪も肌もカサついていて、目は落ち窪んでいる。目だけが異常にギラついていて、見る者の恐怖を誘う表情をする。
――このまま帰しても彼女が幸福になる事はないだろう。
そう判断して魔法の薬を彼女に手渡した。
「いいかい?これは確かに効くが、効くまでには時間がかかる。あんたの運命を変えるくらいの強い薬だ。劇薬と言ってもいいだろう。…とても痛くて苦しいぞ。どれだけ苦しくても飲んでしまえば後戻りは出来ない。死をも思い起こさせるような苦しみの覚悟を持って飲みなさい」
老婆の言葉に、クレアは深く頷く。
「今のこの苦しみから解放されるなら、どんな苦しみも痛みも受け入れます。ありがとうございます。…感謝します」
深く老婆に感謝して魔法の薬を受け取り、クレアは宝物を受け取ったかのように、大事にハンカチに包みこんだ。
最後に老婆が話す。
「竜族のあんたは、番への想いが強すぎる。番という認識は消えても、会えばまたその男を好ましく思ってしまうだろう。…勿論どれだけ相手を好ましく思っても、次の日にはサッパリと消えてしまうから安心しなさい。
会ったばかりの1日目では、流石の竜族でもそれほど強い愛になる事はない。少し好ましいなと感じるくらいじゃ。
それに会わない時間が長くなるほど、会っても惹かれることもなくなっていく。薬があんたの番の心を少しずつ消していくからな」
「本当にありがとうございます」
深い感謝を伝えて、クレアは薬屋をあとにした。
その夜。
家に帰り着いた時、玄関前に友人のローザが立っている事に気がついた。クレアが帰ってきた姿を見て、泣きながらローザが駆け寄ってきた。
「クレア!貴女どこへ行ってたの?…心配したのよ。あの男に絶望して早まったことをしたのかと思ったじゃない。…ああ、こんなに酷い顔になって」
「心配をかけてごめんなさい、ローザ。でもあと少しで解決しそうなの」
「……どういう事?ちゃんと説明して」
ローザの叱りつけるような言葉に、クレアは少しだけ笑みをうかべた。
クレアとローザは仕事の同僚で友人だ。
というより、幼馴染として仲の良かったローザと、同じ仕事に就いて同僚になったのだ。
魔法の薬を手に入れた事で少し気持ちに余裕が出たのか、ローザがクレアを心配する声がやっとクレアに届いた。それまでは追い詰められ過ぎて、ローザが何を話しても何も聞こえていなかったからだ。
幼い頃からクレアと共にいたローザは、クレアの事をずっと心配していた。
ブライアンに会うまでは、人に対して淡白な対応を取っていたクレアが、ブライアンに出逢ってから豹変していったのだ。
執着とも言える行動を取るクレアに、ブライアンはずっと厭わしく思っている様子を見せていた。明らかな無視、明らかな嫌悪。
それでも縋り付くクレアに、幼い頃からクレアを見ていたローザは、自分のことのように苦しくなった。そんなクレアを見ていられなかった。
あんなに冷たい態度を取るならば、ブライアンは最初からクレアに優しくしたりしなければ良かったのだ。
竜族の番の執着は有名だ。自分の番がそれだと知った時、興味など見せずに去ればよかっただけなのだ。
頭の良いクレアの事だ。冷静でいられる時ならば、引く事だって出来たはずだ。
中途半端な優しさを見せた後に、怖がって去って行こうとするブライアンが、ローザにとっては憎らしかった。
だからクレアが帰ってきて、老婆から買った魔法の薬の話を聞いた時、何も言わずに賛成した。
仕事は有給を使う手続きをしてやり、昼はクレアの分の仕事も片付けて、夜は薬に苦しむクレアの側に寄り添った。――ローザが側にいる事すら気づく余裕は無かっただろうが。
クレアの薬の苦しみは壮絶だった。
三日三晩、身体中をかきむしり、床を転げ回る様子は見ていられなかった。食べる事も、飲む事も、眠る事も出来ず苦しみ抜いて、やっと薬が効いて落ちついた時には、クレアは別人のような姿になっていた。
爪は剥がれ、身体中は傷だらけで、髪も艶を失い藁のようにパサパサになっている。ローザの自慢の幼馴染の美貌は消え失せ、まるで老婆のように老け込んだように見えた。
それでも苦しみから抜け出した後は、目に輝きが戻り、スッキリとした顔でローザを見つめた。
「なんだかずっと悪い夢を見ていた気がするの。でも今はスッキリして、すごく気分がいいのよ。
ローザ、とてもお腹がすいちゃった。まるで何日も食事をしていなかったみたいよ。お肉もケーキも食べたいわ」
そう言ってお腹を鳴らして笑うクレアをみて、ローザは泣いてしまった。
「どうしたの?ローザ。何かあったの?」
「何でもないわ、クレア。ただ嬉しいだけなの。さあ、美味しいご飯をたくさん食べて、お風呂に入ってお化粧しましょう。新しい服を買いに行きましょうよ」
「それは良い考えね」
楽しそうにクレアが笑った。
ローザの作ってくれたご飯を食べながら、クレアは何かを忘れているような気がしたが……それも気のせいかもね、とまた口を動かした。
クレアの穏やかな日常は戻ったのだ。
ブライアンは少し後悔していた。
クレアが去ったその時、慌てて走り去る足音で、誰かが扉の外にいたことにブライアンはすぐに気がついた。急いで扉を開けると、遠くにクレアが走り去る姿が見えたのだ。
あれは同僚へのちょっとした愚痴だったし、誰も聞いていないだろうと思って、少し大袈裟に言い過ぎた。
クレアは番だ。決して嫌いなわけではない。
ただクレアの想いが重すぎて、忙しい今は特にそれが鬱陶しく思えてしまっていたのだ。
毎日届く長い手紙は読んでいたが、その想いに応えるだけの手紙は自分には返せない。一度返事を返したら、その倍になって長い手紙が返ってくるかと思うと面倒で返事が書けなかった。
毎日のように届く差し入れも、いつも手の込んだものだった。だが、それに対して返せるものが自分には何も無かった。
お礼にご飯でもと誘えば、もっと大袈裟になって返ってくるのが予想出来たし、それはとても面倒に思えた。クレアの大袈裟なお返しを想像すると、何もする気が起きなかったのだ。
そうは言っても、それはそれで後ろめたくて、顔を合わせないよう、いつもとは違う通路を通ってしまったりした。
そんな自分に同僚が気を利かせて、クレアを見ると違う通路を教えてくれたりするものだから、益々避けてしまうことになっていた。
別にあの同僚に話したほど迷惑に思っていたわけではない。
クレアは美人で、頭もいいし、会話は面白いように弾む。いつでも自分を気にかけてくれて、早朝の鍛錬の応援にもきてくれるし、差し入れもよくしてくれる。
他の同僚にも番がいる者もいるが、クレアほど尽くしてくれる番はいない。自分に余裕がないときは少し鬱陶しく思うが、番である彼女を嫌いになるわけがない。むしろ好ましく思っていた。
だから彼女の走り去る姿を見た時、自分の話した言葉を聞かれてしまった事にかなり動揺した。
すぐに謝りに行かなければいけない事は分かっていたが、気まず過ぎて彼女を訪ねる事も出来なかった。
次に会った時に謝ろう。もう少し彼女に優しくしようと思っていた。
そう思っているうちに1週間が過ぎた。
こんなにも会いに来ないなんて、今もクレアは自分の言葉を気にしているのかもしれない。
ここは自分が折れるべきだろうと思い直した。
ブライアンはクレアの仕事する部屋に会いに行ったが、彼女はあれから休職しているという事だった。
「どこか悪いのか?」
クレアといつも一緒にいる女性に聞いてみたが、冷たい目で見返された。
「もうすぐ復帰するわ。ブライアン様は気にされずとも大丈夫よ」
そう話すと、部屋の奥へ戻ってしまった。
おそらく先日の自分の話を聞いたのだろう。気まずい思いで、クレアの復帰を待つ事にした。
戻ってきたら、またすぐに自分に会いに来るだろう、そう思いながら。
クレアはそれから2週間が過ぎても現れなかった。
最近職場に戻ってきたみたいだが、恒例だった朝の鍛錬の応援にも顔を出さない。待っているかと思い、以前と同じ通路を歩いて食堂に向かうが、クレアの姿はどこにも見られなかった。
『良かったな、番の執着から逃れられたんじゃないか』という同僚の言葉に、素直に頷く事は出来なかった。
決して自分はクレアが嫌いだったわけじゃないからだ。
クレアの友人の冷たい目を思い出し、クレアの仕事部屋に行く事も出来ずに、会える偶然を待つ事にした。
どうせ自分達はこれからの運命を共にする、離れられない番だ。どこか不安を感じつつも、そう自分に言い聞かせていた。
ある休日。
街に買い物に出て、ふと目をやった先にクレアを見つけた。
今流行りのオープンカフェで、クレアは例の友人―確かローザと言った―とお茶を飲んでいた。
『あ』と気づき、クレアをじっと見つめた。
久しぶりに見た彼女は、とても綺麗だった。
最後に見た頃は、いつも思い詰めたような顔で目がギラついて見える時もあり、あまりまともに顔を見ていなかったが……ローザと楽しそうに笑い合う彼女は、通りを歩く者の目を引くほど美しかった。
思わず見惚れていると、クレアが自分の視線に気づき、少し驚いたような顔になった。
「クレア」と呼びかけようとした時――彼女の目が自然に逸らされた。まるで通りを歩く通行人と目が合っただけのように。そのままローザとの会話に戻って、また楽しそうに会話を続けていた。
これは――やはり相当自分は彼女を怒らせてしまったみたいだ。
「………」
やはりクレアにちゃんと謝ろう。あの時は言い過ぎたと。同僚との話に、少し大袈裟に話してしまっただけだと。これからはもっとクレアに向かい合うつもりだと。
立ち尽くしたまま悩んだが、そのままクレアに話しかけに行った。
「クレア」
近づいて名前を呼ぶと、クレアが自分を見て微笑んだ。ブライアンはホッとして、謝罪の言葉をかけようとした、その時。
「私のことをご存知ですか?…すみません。どこかでお会いしましたか?」
クレアが恥ずかしそうに微笑みながらブライアンに話しかけた。…それは嫌味の言葉ではないように見えた。
「クレア、この前はごめん。僕は―」
「クレアはこの前身体を壊した影響で、一部の記憶を無くしたの。貴方の事は全く覚えていないのよ」
冷たい声で、友人のローザが説明した。
「身体を壊した?クレア!大丈夫なのか?どこが悪いんだ?医者は何と言ってるんだ?」
焦って問い詰めるブライアンに驚いた顔を見せたクレアは、ふふと嬉しそうに笑った。
「ご心配していただいてありがとうございます。一部の記憶を失っただけで、どこも悪くないのですよ。生活に支障もないですし、何の問題もないのです。…貴方は私のお知り合いだったようですね。忘れてしまったみたいで申し訳ありません」
にこにこと邪気なく笑う彼女に、ブライアンは呆然とする。クレアの目に、以前は確かにあった自分への熱は全く見られない。
「クレア…クレア、本当に僕を忘れたのか?」
ブライアンの言葉に、困ったような顔になるクレアに、自分の記憶が完全に失われている事に気付かされる。
だがたとえ記憶を失くしてしまったとしても、自分達は番だ。以前の酷い自分の態度も、聞かせてしまった酷い言葉も忘れてくれるなら、もう一度最初からやり直せる。
今度はもっと上手く距離を保ちながら、自分達の関係を作り直せるのだ。
「クレア、手紙を書いてほしい。必ず読むよ。僕は筆無精だけど、君からの手紙は今までもちゃんと読んでいたんだ。もう一度手紙をくれないか?」
そうクレアに話すと、少しびっくりした顔になり、それから恥ずかしそうに頷いた。
「分かりました。私は前にも貴方に手紙を書いていたのですね。必ず手紙を書きますね」
そのいつものクレアの答えに安堵して、ブライアンは優しくクレアに微笑んだ。
ブライアンが去ったあと。
クレアはローザにそっと打ち明ける。
「ねえ、さっきの彼すごく素敵ね。とても優しそうだし、何だかとても惹かれるの。手紙を彼に書いていたなんて、きっと私は以前彼の事が好きだったのね。
ローザも彼を知っているのね。ねえ、手紙を書いたら渡してくれる?」
嬉しそうに笑うクレアを見て、ローザが答える。
「勿論よ。そうね。今日は便箋を買って、明日手紙を書いたらいいんじゃないかしら」
――明日になればどうせ全てを忘れてしまう。
ブライアンへの手紙など、今日書いても無駄になるだけだ。
フンとローザは軽く鼻を鳴らした。
「あの男はいつになったら、クレアの事を聞きにくるのかしらね」
そう小さく呟いた。
クレアからの手紙を待って、1週間が過ぎた。彼女からの手紙はまだ届かない。
やっぱり彼女は自分を覚えていて、前の言葉を怒っているのかもしれない。ブライアンはそう考え出すと落ち着かなくなり、自分から手紙を書くことにした。
クレアにも話した通り、自分は筆無精だ。以前も何度かクレアに手紙を書いた事はあったが、メモ程度の短い文章にしかならなかった。それでも嬉しそうに受け取ってくれて、次には倍以上の長文の手紙が届く。読む事は出来るが、書く事は苦手だと、そこから返事もしなくなってしまっていた。
しかし苦手と言ってばかりもいられないだろう。自分はまだ謝る事さえ出来ていないのだ。
ブライアンは休日一日使って、何度も書き直した手紙をクレア宛に出した。
だが、やはり返事は届かなかった。
――何かがおかしい。
たとえ以前の言葉で怒っていたとしても、もうあれは1ヶ月以上も前の話だ。今までどんな態度をとっても許してくれていたクレアが、そんなに怒り続けるだろうか。それはあまりにも番の行動として違和感があり過ぎる。
ブライアンは、クレアの仕事部屋の近くで、クレアの帰りを待つことにした。
所属の違う場所で待つという事は、こんなにも居心地が悪いものかと気付かされる。
明らかに騎士で、明らかに場違いな場所にいるブライアンに、皆が視線を向ける。
これは以前にクレアが騎士科の部署で自分を待っていた時も同じだっただろう。だからこそ目立っていた彼女を、自分に可哀想だと揶揄う者達が多かったのだ。
美しいクレアが番だという事をやっかむ声でもあったのだろうが。
場違いな場所に立ちながら、自分は本当にクレアを見ていなかったとブライアンは深く反省していた。
「ブライアン様」
自分を呼ぶ声に振り返る。そこにはクレアの友人のローザが立っていた。
「ああ、クレアはいるかな?…彼女は本当に大丈夫なのか?少しおかしい気がする。クレアはどこか悪いんじゃないのか?」
「……ブライアン様、本当に貴方はクレアを蔑ろにしてくれるわね。クレアが薬を飲んだのは、もう1カ月以上も前の事なのに」
呆れたローザの話す言葉の意味が分からない。
「…薬?彼女は薬を飲んでいるのか?どこか―」
「はい。これは以前のクレアからの手紙よ。もしブライアン様が、自分の事を聞く事があった時に渡してくれって言われていたものなの。じゃあ」
「ちょっと待って―」
呼び止める間も無く、ローザはブライアンに手紙を渡すと去って行ってしまった。
ブライアンは手元に残った手紙を見つめる。そこには綺麗ないつものクレアの文字で、『ブライアン様へ』と宛名が書かれていた。
ローザの言葉を思い出す。
『以前のクレアからの手紙』――以前?
部屋に帰って手紙を開けてみる。
今では少し懐かしく思えるクレアの文字が目に入る。そして読み進めて行くうちに、ブライアンの顔色が変わっていった。
『愛しいブライアン様へ』
手紙の書き出しはその言葉で始まった。
『 愛しいブライアン様へ
先ほど薬を飲みました。やっと少し気持ちが落ち着いてきていて、今なら手紙を書けそうです。
もう少し経つと苦しみが現れるようですし、今のうちに急いでお別れの言葉を伝えたいと思います。
数日前にブライアン様の本当の気持ちを聞いてしまいました。貴方にそれほどの迷惑をかけていた事と、不快な思いをさせてしまっていた事をお詫びします。
私は貴方を好きになり過ぎてしまいました。
もう少し冷静にならなければ貴方に嫌われてしまうかも、とどこかで思いながらも、自分の行動を止められませんでした。いつでも貴方の姿を見ていたかったし、いつでも貴方の声を聞きたかった。いつも貴方の一番近くにいたいと思ってしまい、その想いが抑えきれなかったのです
夢にうなされるほどに貴方を苦しませた事、本当に申し訳なく思っています。
貴方と遠く離れられればいいのですが、それが出来なくて苦しいのです。このままでは貴方を傷つけてしまうかもしれないと思い、怖くなりました。
先ほど飲んだ薬は、貴方を忘れる魔法の薬です。私達が番である事も、今までの貴方との思い出も全て忘れる事が出来るものです。今までの事も全て忘れてしまうから、今までかけたご迷惑を直接謝れなくてごめんなさい。
私は竜族で番への執着が強いので、薬が完全に効くには時間がかかるようです。これから貴方と顔を合わせる度にまた貴方に惹かれてしまうかもしれません。
でも、もしまた貴方に惹かれても、翌日には忘れるようなので安心してください。会わない時間が長くなるほど、惹かれる事も無くなっていくようです。
少し苦しくなってきました。色々伝えたい事はありますが、ここでお別れしようと思います。
ブライアン様、どうかお幸せに。たとえ忘れてしまっても、貴方の幸せを祈っています。
さようなら。
クレアより 』
ブライアンはその手紙の告げる真実に、呆然とするしかなかった。
『会わない時間が長くなるほどに、惹かれる事も無くなっていくようです』
そしてその意味に気づく。ブライアンの手が震える。
―何日だ。何日経った?
あの酷い言葉を聞いたクレアが薬を飲んでから何日が経っただろう。あのカフェで自分と初対面のように会ってから何日が経っただろう。
自分のもつれそうになる足を叱咤しながら、クレアの家に急ぐ。もう夕食時だが、そんな事には構っていられない。
クレアの家の扉をノックする。
祈るような気持ちで待つブライアンに、扉を開けたクレアが驚いたようにブライアンを見た。
「あの、どちら様ですか?」
その戸惑った掛け声に、ブライアンの目から涙が落ちる。
「クレア、クレア、ごめん。僕が間違ってた。僕だってずっとクレアの事が好きだったんだ」
涙を流すブライアンに、戸惑った声でクレアが声をかける。
「あの…私の知り合いの方ですか?私、以前に身体を壊したようで、その時に忘れてしまった事があるみたいなのです。貴方の事もそうなのかしら…?」
自信のない声で話しかけるクレアの言葉が悲しくブライアンに響く。
「クレア、ごめん。本当にごめん。これからちゃんとクレアに向き合うから。僕を忘れないでほしい」
泣くブライアンを放っておけず、とりあえずクレアはブライアンを家に招き入れた。彼は知らない人だが、自分を騙しているように見えなかったのだ。
―それに何故か何となく彼には好感がもてた。
「――そう。私は貴方を忘れる為に薬を飲んだのね」
ブライアンからの話を聞いて、クレアは納得した。
この、いつも何か大事な事を忘れているような感じがするのは、番だった彼の事なのだろう。それなら突然訪ねてきた、初対面の彼に好感が持てる気持ちに納得がいく。
クレアはしばらく考えたあと、ブライアンに話しかけた。
「あの…私は薬を飲むほどに貴方にご迷惑をおかけしたみたいですし、私の事は忘れていただいて、貴方自身の幸せを見つけてください。きっとそれが以前の私の望みだったと思うのです」
にっこりと優しく微笑むクレアに、以前のようなブライアンへの熱は微塵も感じられない。
それでも――それでもブライアンはクレアを諦められなかった。
クレアは番だ。想いを断ち切る事なんて出来るはずがない。
自分も薬を飲めば、クレアを忘れる事が出来るのかもしれないが、番を忘れる事など出来ない。そんな事は考えただけでも震えてくる。そして、そんな恐ろしい思いを、自分はクレアにさせたのだ。
後悔の思いに呑み込まれそうになるが、震える声でクレアに懇願する。
「クレア、僕は君を忘れたくはない。これからは毎日会いに来るよ。毎日僕を忘れても、毎日僕を好きになってほしい」
そう言って泣くブライアンに、クレアは恥ずかしそうに微笑む。
「そうね。そうしてくれたら嬉しいわ」
それから毎日ブライアンは仕事後にクレアの家に通った。
扉をノックすると、必ず彼女は驚いた顔をする。
「どちら様ですか?」
戸惑いながら尋ねるその言葉で、自分達のその日の関係が始まる。夕食を一緒に食べて別れる頃には、クレアも打ち解けた様子を見せて、笑顔で見送ってくれる。
「また明日ね」
そう笑顔で笑ってくれるクレアを見て一日が終わっていくのだ。
毎日毎日が同じ事の繰り返しだった。
ブライアンは、時たま言いようのないほどの寂しさに襲われる時があったが、それでもクレアの事を諦める事が出来なかった。初対面として顔を合わせても、必ずクレアは自分に好意の色を見せてくれる。
諦める事など出来なかったのだ。
ある日、ブライアンは出張で1ヶ月王都を離れた。
出張前に「明日から1ヶ月も会えないのね。寂しいわ」とクレアは声をかけてくれた。
出張の話はもちろん、自分の事も、かけてくれたクレア自身の言葉も覚えていなくても、それでもお土産を買ってクレアの家に向かう。
クレアの家の扉をノックをすると、クレアが顔を出した。
いつも驚いた顔を見せたあと『どちら様ですか』と戸惑いながら尋ねる言葉がいつもと違った。
自分を見るクレアの表情もいつもと違う。その顔は固くこわばっている。―知らない不審な誰かを見るように。
「家をお間違えではないですか?失礼します」
そのひと言で、冷たく扉が閉じられた。
突然、クレアからの手紙の言葉を思い出す。
『会わない時間が長くなるほど、惹かれる事も無くなっていくようです』
――1ヶ月が経っている。クレアは自分と会わない時間に薬の効果が進んでしまう。背筋に寒いものが走る。自分はクレアに忘れられたくない。
震える手で再びノックをして、一生懸命自分の事を説明する。あまりにも真剣なブライアンの様子に、クレアはやっと警戒を解いてくれた。
ブライアンは安堵と同時に恐怖を感じる。
『決して僕はもうクレアの側を離れる訳にはいかない。必ず側にいよう』そう固く自分に誓う。
こんなにも苦しい思いをするならば、いっそ自分も薬を飲んでしまおうかと、ふと考える時もある。
だが自分が薬を飲めば、全てが終わってしまう。そんな恐怖は耐えられない。自分はクレアを忘れたくなどないのだ。
クレアの友人のローザは、そんなブライアンの様子を毎日聞いていた。クレアとローザは幼馴染で、部屋も隣同士だ。ブライアンが帰ったあと、クレアはローザの部屋にやってくる。
「ねえ、聞いてくれる?今日素敵な人が家を訪ねてきたの」
毎日そんな言葉で始まるクレアの話。
番の存在を忘れる事が出来ても、番への好感は残っている。会うとクレアはブライアンに惹かれてしまうのだ。
幸せそうに話すクレアを、穏やかな顔で見守るローザ。ずっとブライアンの事で苦しむ彼女を見てたローザは、たとえ次の日忘れてしまう思いでも、一日中分だけの好意なら穏やかに見守る事ができた。
どうせ明日には忘れてしまう想いだ。もう狂いそうなくらいの愛に落ちる事はない。
ローザはブライアンを思い出して暗く笑う。
クレアはいつもブライアンを想い苦しんでいた。あの魔法の薬でクレアの心は壊れたも同然だった。ブライアンの言葉がクレアをあそこまで追い詰めたのだ。
番が相手を諦める事はない。ブライアンの苦しみは一生続くだろう。
クレアはブライアンに復讐したかったわけではない。
ブライアンが自分の事を思い出す事などなく、最後の手紙を受け取る事もないだろうと信じていた。
だけど番同士は、想いの重さですれ違う事は確かにあるかもしれないが、すれ違うだけで愛情が無いなんて事はない。
クレアのブライアンの幸せを望む気持ちは、ブライアンへの復讐という形になった。
それは決してクレアが望んだ形ではないが、ローザとしては胸がすく思いだ。私の大事な幼馴染の心を壊したのだ。当然の報いだとローザは思っている。
ブライアンは毎日クレアの元へ通う。
毎日クレアがブライアンを覚えていなくても、クレアの好意が完全に消えてしまわないように。