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考える彼女

作者: 如月一月

少女との思い出を回想しながら彼女と再会する話


世の中には『運のいい人間』と、『運の悪い人間』がいるという。どういう人間を『運がいい人間』と思うのかは人によって違うと思うが、僕は自分のことをそれなりに運のいい人間だと思っている。どこが、と聞かれると少し困ってしまうのだけれども。

ちょっとしたことで「運がいい」とか「運が悪い」と人は言う。要はそのどちらを多く感じたかではないかと僕は思う。つまり僕の場合は「運がいい」と感じることのほうが多かったと思っているということだ。これは僕の人生がそれなりに『幸福』であると言い換えることも出来るかもしれない。あるいは楽観主義者と言うことも出来るだろう。世の中を楽しいものと考えた方が精神的に楽だと思うし。


ただしこういうときに僕が彼女に出会うことはほとんどなかった。

僕が彼女に会うときはそのほとんどが、なにか嫌なこと、辛いこと、不幸だと思うようなことがあった時だ。だからそういう時に、僕は彼女のことを思い出す。


あの、美しい彼女のことを思い出す。


やたらと長く思考するそれ。

これこそ、僕の性格の原点。

そして彼女との繋がりだ。



彼女に初めて出会ったのは中学生のころだった。

そのころの僕はいろいろなことがうまくいかない時期だった。「なんとかなるさ」という楽観主義は珍しく息をひそめ、どうしてこうも良くないことばかりがおこるのか、というようなことばかりを考えていた。他人から見れば「そんなことで」と思うようなことでさえ、当時の僕には苦痛だった。


最初の原因はなんだっただろう。定期試験で得意科目の点数が二十点近く落ちたことだろうか。勝手に因縁をつけられて喧嘩を仕掛けられたにもかかわらず、僕だけが教師に怒られたことだっただろうか。それとも体調を崩し部活を休んだら、他の部員にさぼるなと怒鳴られたことか。家族の仲が最悪だったのも確かこのころだった。まあ、今は良いのかというとそうでもないのだけど。

とにかく嫌なことばかりが続いた。そういえば最初の原因ではないが、好きな子が陰で自分のことを、気持ちが悪いと言っていたのを聞いたことも結構なダメージだった。僕の持っていた淡い恋心が音を立てて崩れ去っていった。


人生が思い通りにいかないということを、改めて思い知らされた。日々の生活のすべてが憂鬱だった。


――そんな時に彼女と出会ったのだ。


あの日、あの場所のことを鮮明に思い浮かべることができる。

彼女が何と言ったのかも全て覚えている。



「この、阿呆者」


黄昏時、人影のない四階の図書室。窓を開けて茫然と外を眺めていた僕の前に現れ、初対面であるにも関わらず、ためらうことなく自然に言い放ったその言葉は僕の心を深く突き刺した。罵倒に慣れたつもりであっても受け入れられないそれ。

怒りに満ちて立ち上がっても、彼女はするりと僕の手の届かないところへ動いてしまう。呆気にとられている僕を、尚もからかう彼女の相手をしているうちに、沈んだ心はどこかへと消えてしまった。


それから、僕が苦しんでいる時にはいつの間にやら彼女が現れるようになった。


何年生なのか、この学校の生徒なのか、先輩なのか同級生なのか後輩なのか、どうして僕に話しかけてきたのか、そんなことは全く気にならなかった。名前を聞くことさえしなかった。そんなことは僕にとってどうでもよかった。必要なかった。不意に現れては言いたいことを言うといつのまにか消えてしまう彼女の存在。

その存在だけが重要で、他のことなんてどうでもよかったのだ。

彼女が居るということが、僕の支えだった。


長い黒髪と、あと少しで越えられそうで越えることができない身長差。彼女の外見での特徴はこの二つぐらいのものだった。この僅かな身長差だけが、いつも気になって仕方がなかった。僕が伸びた分だけ、彼女の背丈も伸びているように感じたのだ。その差が、僕と彼女の違いの象徴であるかのように思えた。



「不幸、不幸と言うのは君の勝手だけど、君の不幸なんて他人が気にするようなものは何一つないことをまず理解するといい。同時に他人の不幸が理解できる、という幻想も捨てること」


彼女は小難しい言い回しで話すことを好んだ。難しく感じるような言葉を使って、意味があるのか無いのか当時の僕にはよく分からない話をしては、一人楽しそうにしていた。僕一人だけを生徒にした彼女の『講義』は、一度始まったら僕が理解出来ていようと出来ていなかろうと、途中で中断することは決して無かった。

だけど、僕はそんな彼女との時間が、他の誰を相手にした時よりも楽しかった。



――春、花が散る並木の中からふらりと現れた。

「あれもこれも自分に関係している、なんて思うから苦しくなるんだ。もう少し他人に無関心になるといい。それだけで随分生きることが楽になるだろうさ。それだと周りに迷惑にならないかって?逆に聞くが、君のことに関心を持って接してくれるような相手がどれだけいるかを考えてみるといい。きっと片手でお釣りがくるだろうよ」



――夏、青空の下で不敵な笑いを浮かべながら現れた。

「まだそんなことで悩んでいるのか。いい加減学習するといい。君がどんなに悩んだところで、変えることの出来ないことが、どうしようもないことが存在しているということに。それを理解した上で、悩むというなら好きにするといいさ。私には君を止める権利も義務も持っていないのだからね。」



――秋、満月を背景に誰もいない帰り道に現れた。

「君一人が認識できることなんて、大した量ではないの。いえ、君だけでなく私も含めて、人間一人の能力なんて高がしれている。けれども、世の中には凡人よりは少しだけ能力が高い人間が存在する。この人たちは多少私たちよりも力がある、と思われている訳だけど……さて、実際問題としてどの程度の差が存在するのだろうね」



――冬、雪が降るなか群青色の外套を着て現れた。

「あれこれ言ったところで、人間が死んだ後に残るのは肉と骨の塊。もしかしたら、死後の世界とやらが存在しているのかもしれないけれど、生きている人間が見るのはただの塊だけよ。でも、人はそこに何かの意味を持たせようとする。本当の遺志、なんて生者に解る訳ないのに。さて、元々あった死者の想いとやらはどこへ行ってしまうのかしらね。魂や霊なんてものより余程重要だと思うのだけど」


いつしか僕は孤独ではなくなった。


彼女と過ごせるようになったから?

それもある。だけど、大きかったことはそれじゃなかった。

単純な話だ。

環境が問題だったのだから、別の環境に移ったという話。

進級、新しい教師、そして友人。


季節は巡り、僕は高校生になった。

彼女はいつのころからか、言葉遣いを変え、このあたりの学校にはない真っ黒な制服を着るようになり、ただでさえ長かった髪は、腰に届くほど長くなった。だが、以前のようにふらりと僕の前に現れては、言葉だけを残していつのまにか消えてしまう。その関係は変わらなかった。越えられそうで越えられない身長差もそのままだった。


けれど、少しずつ彼女と過ごす時間が減っていった。


その代わりに、勉強をして。部活もやってみたりして。

そしてなにより、友人と遊んで。



高校三年の冬、なんでもない日に、彼女にこう言われた。

「今日だけは素直に祝うわ、おめでとう。これで、私の役目も終わり」


「きっと貴方にとってもう私は必要無くなったのね」


どことなく寂しそうに、けれど嬉しそうに


「また私と会う事を、望まないように日々を過ごすこと」


いつになく強い口調で


「それだけが私の望みよ。忘れないでね。」


そう、いつものように言葉だけを残して彼女は消えた。




以来、彼女が僕の前に現れたことは無い。

けれども、彼女はまた僕の前に現れるだろう。

いつかのように呆れた表情で。

そんな、確信があった。




僕は職を失った。別に大きな失敗をしたという訳ではない。こんなご時勢だ。勤めていた会社が倒産してしまったという、どこにでもあるような話。社長が夜逃げと言えば大事だけど、どうにかしなきゃいけないと思ったところでどうにもできやしない。

だからと言ってとてもじゃないが、前向きには考えることは出来なかった。

次の勤め先も見つからず、多いと言えない貯蓄を考えると、希望を持つことも出来ない。まさにお先真っ暗というやつだ。故郷に帰ろうか、とも考えたが帰ったからといって事態が好転するとは思えなかった。


ゆえにこうして昼間から公園で、既に飲み干した缶ビールを未練がましく持ったまま、煙草を吸いながら日向ぼっこをしているわけだ。だが、それも限界がある。

遊ぶために集まってきた子供たちの怪訝な顔。

通りすがりの大人たちの不審そうな視線。


苦笑しながら、空き缶を捨て、重くなっている足をやっとのおもいで引き摺って公園を後にする。そう時間をかけず、たどり着いた安っぽいアパート。さび付いた階段で3階まで登り、唯一の居場所となった、部屋の鍵を開けて――



「この、阿呆者」


「忘れるな、とあれほど強く言ったのに。馬鹿よ、貴方」


黄昏時、いつかのように夕陽を背景にして

開かれた窓と、たなびくカーテンのこちら側

どことなく悲しそうに、どことなく嬉しそうに

最後に現れた姿のまま、僕に話し掛ける彼女

僕だけが会うことの出来る、僕の唯一の味方



僕の『考える』彼女が其処に居た。


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