三回表:退場
ボテボテとしたゴロが一塁線に沿って、転がっていく。
ファーストがそれを捕って、塁を踏む。
「アウト。スリーアウト、チェンジ」
このイニングも三人で仕留めた。ヒステリックに米倉が叫ぶ声が聞こえる。
「あぁ?」
だが、一軍ベンチで動きがあった。
柚木は目を細める。何のつもりだ? こいつ?
「おい、ちょっと待てっ!」
米倉がバットを持って出てくる。
「俺にも、打たせろ」
素振りをしながら、米倉がバッターボックスへと近付いていく。
小さく舌打ちをして、柚木はマウンドへと戻った。
ここでは野球が上手い奴、監督の覚えがめでたい奴。それがすべてだ。そういう連中が練習試合でも何でも、がっちりと固定され、練習でも優遇される。
逆に、そうでない人間はヒエラルキーの最下層となる。権威主義が支配するせいか、一軍の中には高圧的な態度を取るようになってきた連中も多い。監督の覚えが特に良く、被害を受ける事が少ない赤城や村井はそうでもないが。
そんな、お気に入りの一軍メンバーが、二年半ゴミ扱いしてきた奴に完封されている。これが、米倉にとって面白いわけがない。
だから、その憂さ晴らしか。あるいはここで打っていいところを見せ、活路を切り開こうとしているのか。
柚木は、そう判断した。
思い出す。あれが、いつだったかはもう覚えていない。けれど、教師同士が交流で野球大会をやることになった。そのとき、教師達の練習に野球部が駆り出された。そして、柚木もバッティングピッチャーとして投げることになった。
ただ、何が切っ掛けか、しばらくして球にストライクが投げられなくなった。そして、米倉はブチ切れた。巻き舌で「俺に恥をかかせる気か?」だの「何様だと思ってんだ?」だの「使えねぇ」だの、延々と。
ノックを手伝うときもそうだ。ボールを手渡すとき、各守備からの返球が遅れていて、タイミング悪くボールが足りなくなるときがある。それで、渡すのが遅れると、それをまたこっちのせいにして切れるのだ。弁明など聞きやしない。言い訳もまた男らしくないだの、責任感が足りないだのと言って。
それが、柚木にとっての野球部だった。
大人? 教師? そんなものに対する幻想も期待も、今の柚木からは徹底的に消えている。
握るボールに、思わず力が入る。
いや、ダメだと。柚木は息を吐いた。これでは、こいつを仕留められない。腕に力が入ると、絶対に球は走らない。
三原がミットを構える。インハイ。
柚木は首を横に振った。アウトローへ。今度は頷く。
「ボール」
米倉は見逃す。ボールは一個分、外に外れた。
三原は再びアウトローへと構えた。
今度はコーナーギリギリへ。
米倉がバットを振った。
鈍い音が響き渡る。
ボールは高々と舞い上がった。ライト線上。きゅるきゅると弧を描いて、ネットへと当たった。
「ファールボール」
赤城のときと違い、歓声は沸かなかった。ある意味では当然だ、ある意味では、米倉に近い彼らの方こそ、受けている圧が強いのだから。
柚木は審判から投げられたボールを受け取る。
米倉は大人だけあって、体格も出来上がっている。そして、野球馬鹿だ。年齢は四十過ぎらしいが、がっちりと、体は引き締まっているし。噂ではバッティングセンターにもよく通っているらしい。
だが、赤城よりも恐くはない。不思議と、柚木はそう感じた。理由はよく分からない。強いて言うなら、こいつのスイングは赤城よりも雑だ。単に、力任せな気がする。
三原がインローへと構える。柚木は頷いた。
しかし、ミットは見ない。視線の集中先は三原の右膝だ。狙うのはアウトロー。悪いな。と、柚木は心の中で謝る。
またも、鈍い音が響いた。
ボールが高く舞い上がる。
今度は遠くへは飛ばない。バックネット裏へ。
「ファールボール」
「おうおうどうした? その程度か? 今度は打つぞおいっ!」
米倉が顔を逸らし、下卑た笑みを浮かべてくる。ウザい。
柚木はボールを受け取りながら、米倉の足元を確認した。内心ほくそ笑む。そうだ、これでいい。
柚木は大きく振りかぶる。
米倉はベースに寄っていた。三球続けてアウトコースに投げたことで、自分にはビビってインコースが投げられないと判断したのだろう。
なわけねえだろっ!
左足を真っ直ぐホームベースに向けて踏み込み。腕の振りだけを米倉へと向けた。端から見れば、すっぽ抜けのように見えたかも知れない。
タイミングしか見ていなかったのか、米倉は思いっきり踏み込んでくる。
次の瞬間、バッターボックスに血しぶきが舞った。
実際にはほんの一瞬だったのかも知れないが、妙に長い沈黙に思えた。
力なく、米倉が膝から崩れ落ちる。
「ひっ……びっ!? ぎゃああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!! ああああああああああああああああああああああああっ!!」
絶叫。濁った号泣がグラウンドに響き渡った。
軟球とはいえ、顔面のど真ん中にボールが当たったのだ。鼻は急所だ。潰れて、そりゃあ痛いだろう。
「すみません」
何の感情も込めず、柚木は帽子を取って頭を下げた。心の中では冷笑を浮かべながら。
「ゆ……ぎぃ! でめぇ……おぼえで……ぐぞ……ご……」
地べたに這いつくばる米倉を見下ろすのは、とても心地がいい。
一軍のベンチを含め、野球部の人間は誰も米倉に駆け寄らない。駆け寄って、変に絡まれるのも八つ当たりされるのもご免だと、誰もが分かっている。
これが、米倉という男の人望だった。