野球を終えて
米倉の顔が大きく歪んだ。
続いて、激怒の表情が浮かび上がる。つくづく、単純というか分かりやすい奴だと柚木は思った。
「お前、何言ってんだ? もう一度言ってみろっ!」
米倉は机の上に拳を振り下ろした。職員室に怒声が響き渡る。他の教師の視線が集中するが、どうやらこいつはお構いなしらしい。
「野球部。辞めさせて下さい。受験勉強に集中したいので」
試合の翌日。それを告げに来たのだが。どうやら米倉の神経を大いに逆撫でしたようだ。
「ふ、巫山戯るなあっ!! そんな身勝手な真似。許されると思ってんのか? お前、世の中を舐めてんのかっ! ここまで一緒にやっていた部を最後までレギュラーになれなかったから辞めますってか? 何考えてんだお前はっ!」
思わず、柚木は舌打ちがした。
「そんな腐った根性で、世の中やっていけると思ってるのか? 馬鹿にするのもいい加減にしろっ!」
「いいから、辞めさせて下さいっ!」
「てめえっ!」
米倉が立ち上がる。
そして、腕を振り上げた。
次の瞬間、柚木の左頬に熱い痛みが広がった。思わず顔を背けたせいか、平手打ちにそれほどの痛みでもないが。
「お前なあ。昨日の試合で、俺の顔にボールをぶつけた事を謝りに来たのかと思えば、そんな事を言いに来たのかっ! だいたい、お前はいつもそうだ。先生を馬鹿にしている。腐った目で――」
知るかっ!
柚木は握った拳を米倉の顔面に叩き付けた。
職員室に濁った絶叫が響き渡る。
「ざげんなごらああああああああああぁぁぁっぁぁっ!!」
そこから後は、取っ組み合いだった。慌てて、他の教師が駆けつけて来る。
もっとも、大人には体格で負けるから、柚木がほとんどやられていたようなものだったが。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
騒ぎの数十分後。柚木は校長室にいた。
革張りのソファに座らされる。対面には、校長が座っていた。視線は向けないが。
還暦を迎えようかという白髪頭の校長は、深く溜息を吐いた。グレーのスーツを着て、柚木を静かに見詰めている。
「話は聞かせて貰いました。米倉先生を殴ったそうですね」
柚木は答えない。
「何故、そんな事をしたんですか?」
「あいつが、先に手を出してきたからです」
「なるほど」
校長は頷く。
「俺はもう、夏の大会に出る事はあり得ないわけで。最後まで、レギュラーにはなれなかったし。それなら、受験勉強に専念したいってだけです。少しくらい早く辞めても、別にいいじゃないですか。校則で何か部に入らないといけないというのなら、適当にどこか文化部に入りますよ」
投げやりに吐き捨てる。それでいいじゃないか。教師同士で群れて庇い合っていれば。理解する気、無いんだろ?
柚木は嘆息する。こんな事で、いつまで話をしないといけないんだ。
"野球が嫌いになったんですか?"
その質問に、柚木は肩を震わせた。まさか、そんな事を訊かれるとは思わなかった。二度とこんな真似をするな。さもなくば内申書がどうだこうだと。そんな高圧的な説教が続くものだと思い込んでいたから。
「好きでした。でも、あの野球部で大嫌いになりました。昨日の部内対抗の練習試合で、少しだけまた好きになりましたけど。でも、もう二度と野球はやりません」
あれは、最高の試合だった。だから、寂しい。けれど、あれが最後ならまだ終わりに出来る。最高の試合で、自分の野球を終わりにしたい。
「何があったんですか?」
唇が震える。色々あった。色々と有り過ぎて、言葉にならない。
「私の記憶違いだったらすみません。私は君が一年の時に、君を見掛けた気がします。私が野球部の新入部員に話しかけたとき、新しいグローブを持っていて」
「はい、それ多分俺です」
囁くように、答える。声が思うように出ない。
「あの様子を見たとき、君達はもっと明るい印象を受けていましたが。そうですか」
本当に、何でこんな事になったんだろうな?
自分がもっと積極的に動いていれば? それとも、体格に恵まれていれば? 違ったのか?
柚木の目から熱いものが溢れ出してくる。
嗚咽が漏れた。
「ごめんなさい。俺……何……から――」
「いいんですよ。ゆっくり、話して下さい」
それは、久しぶりに聞く「大人」の声だった。
「はい」
柚木は溜めに溜め込んだ想いをすべて、吐き出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
バックネット裏の最上段の席から、柚木はダイヤモンドを見下ろしていた。
今年もまた、暑い夏が来ていた。刺すような日差し。
地方大会の決勝戦。これで勝ったチームが甲子園の切符を手に入れる。
試合は九回裏。
あの部内対抗の練習試合からは、三年が過ぎていた。
結局、柚木は教育心理上の影響という理由から、退部が認められた。米倉はどんな理由であれ、生徒に手を挙げた事。そして野球部員に対する聞き込み調査から、野球部監督を離れる事になった。
臨時として、その年の夏の大会は野球を全く知らない新任の女教師が監督になったのだが。それでかえって伸び伸びとプレイ出来たのか、野球部は地区大会を優勝した。それよりもう一つ上の大会では、あっさりと負けたけれど。
噂では、米倉もかつて学生時代に野球をやっていた頃があり、そのとき受けた指導があれのままだったようだ。そして、事件から居心地が悪くなったのか、柚木達が卒業してから別の学校に移動したという話もある。
村井は中学で野球を止めた。赤城は眼下で試合をしている強豪校に入って、補欠だ。
須崎はその対戦相手の学校に入学し、四番を任されている。どうも、あの試合から打つ事に自信を持ったらしい。ミート力の徹底指導でもされたのか、空振りもほとんど無い。
三原は須崎と同じ高校に進学した。レギュラーには入っていないが、ベンチ入りはしている。チームの頭脳として活躍しているとか。
柚木は、少し思う。
部を辞めてから、ストレスから解放されたのか、一気に身長が伸びた。今では、中学時代で同じ部にいた人間の中でも上の方だろう。
この身長を手に入れた上で、もう少し野球を続けていたら、どうだったか?
柚木は首を横に振った。そんなこと、考えてももはや意味が無い。
自分は、野球を辞めて進学校へと進学する事を選んだのだ。選んだ進路に悔いは無いし、捨てた可能性に未練も無い。
主審が右手を挙げた。アウト。ゲームセット。
両チームが整列する。
いつまでも野球を続けられる少年は、多くない。いつかは、止める日が来る。
柚木は拍手した。
ここまで彼らは、よく戦った。どっちが勝ったかなんて、どうでもよかった。
―END―
これにて、完結です。
ここまでお付き合い頂いた方々、本当にありがとうございました。
少しでもお楽しみ頂けたなら幸いです。
また何か、別の物語をお読み頂くことがあれば、そのときもまたよろしくお願いします。
それでは、失礼します。