予備士官(スペア)
小野井は勉強して行く内に特攻が、繰り返された原因を発見する。それは特攻を初めて日本海軍が成功させた、昭和18年10月にフィリピン沖であげた空母1隻沈没他2隻大破という大戦果にあった。
なまじ良好な戦果をあげてしまったばかりに、味をしめてしまったのだ。それが結果として冷静な判断力を失わせたのだと、小野井は考えるようになった。無論、それだけの理由で4400人もの犠牲者を出した訳では無いが、特攻が1年半続けられた1つの理由には成りうる。
特攻隊員になるには流れがあった様だ。①特攻志願(形だけでほぼ強制)し、②特攻要員となり出撃の機会を待つ。③出撃となった際には、敵部隊に向けて片道燃料で爆弾(魚雷等)を抱えて突入する。
というのが、一連の特攻迄の流れであるが、中には怖くて、近くの島に不時着したように見せかけたり、航空機の機器の不具合を理由に戻って来る機もあった。
人間がやることだから、小野井は無理もない事だと思った。寧ろ、何の迷いもなく敵艦に体当たり出来る人間の方が常軌を逸していたのかもしれない。そのくらい極限まで日本軍は追い込まれていたのだろう。
そんな中で最も犠牲者を出したのが昭和18年入隊の第14期の予備学生であった。予備士官とも言う。訓練期間を大幅に削られ戦場に出た時には特攻作戦が全盛期だったのだから、こればかりは、天命という他はない。
普通、兵隊から士官になるには、どんなに早くても10年はかかる。ところが、当時の大学生は今と違ってエリートと見なされていたため、兵役の猶予があったり、社会の宝だった。だが、学徒動員により、大学生も戦地に赴く事になった。1年程の飛行訓練(体当たり教育)で、直ぐに少尉になった。
その為、予備士官とも呼ばれるのである。航空機による体当たり作戦は成功率はせいぜい15~20%くらいのもので、5機に1機しか成功していない計算になるが、これでも第二次世界大戦末期の日本軍のどんな作戦よりも数字としては良かった。
大戦末期には、もう満足に特攻機を出す事も、その燃料すらもなく、練習機を特攻に出すような有り様だった。
人類の歴史上、ここまで身を犠牲にして戦った兵士は日本軍以外にはいないだろうと、小野井は思った。そして、それは紛れもない真実であった。特攻に限らず日本軍にはあるスローガンがあった。「生きて虜囚の辱しめを受けず」つまりは、敵に捕まるくらいなら、死を選ぶという事だ。
だが、そういった精神論では、もう近代の国家総力戦を戦う事は出来なくなっていた。敵であるアメリカは、様々な兵器を理路整然と並べ日本やドイツといった枢軸国家を倒す為、あの手この手で勝利の為だけに邁進した。